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一九九五年十月二十二日 冥神館 記録室
私は見てしまった。
人が愛の名のもとに、どこまで地獄を美しく装えるのかということを。
慶子様と勇が、再び向かい合った夜。
硝子の灯がかすかに揺れ、酸の匂いが漂いはじめた。
私はすでに理解していた。お嬢様の人工皮膚《TYPE-Λ》は、感情が高ぶると化学的暴走を起こす。
皮下に封じた中和剤が消えると、表層が自らを溶かし、硫酸性の涙となって滴る。
それは防御機構であり、同時に彼女の「情念」を映す鏡だ。
そして今夜、彼女はその涙で愛した男を包もうとしていた。
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二十三時四十五分
勇はまだ人間だった。
血も、呼吸も、温もりもあった。
しかし心の奥底で、彼もすでに悟っていたのだろう。
この再会が、終わりであり始まりであることを。
「慶子……君は、もう……」
彼の声は震えていたが、恐怖ではなかった。
十五年前に焼け落ちた家族の亡骸、その記憶の中で彼女を許せず、
それでも彼女を愛してしまった男の声だった。
慶子様は静かに彼の頬を撫でた。
皮膚がわずかに音を立てて剥がれ、白い蒸気が立つ。
その匂いは、かつての火災の夜の匂いと同じだった。
「勇さん。……あの時と同じ匂いね」
勇は笑った。
その笑みには諦めではなく、受容があった。
愛されることが、滅びを意味するなら、それでいい――そんな眼をしていた。
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二十三時五十一分 接吻
唇が触れた瞬間、静寂が降りた。
彼女の頬から流れ落ちる透明な雫が、勇の首筋に触れる。
じゅう……と音がした。
皮膚が焼け、白煙が上がる。
それでも彼は身じろぎしなかった。
むしろその痛みを、彼女の存在として受け入れるように、さらに唇を重ねた。
「慶子……痛い……けど、あたたかい」
「そう……勇さん。これは、私の愛の温度なの」
彼女の声は震えていた。
興奮と悲哀が混ざり、皮膚の温度が急上昇する。
融点を超えた表層が、液化し、硫酸を含んだ透明な膜となって流れ落ちた。
それは涙であり、呪いであり、愛そのものだった。
勇の肩が、頬が、指先が、次第に崩れていく。
服地が煙を上げ、肉が泡立つ。
だがその全てを、彼は恍惚とした眼で見つめていた。
痛みが極まった瞬間、彼の中で何かが解けたのだろう。
「……ありがとう、慶子。やっと……一緒になれた……」
その声とともに、彼の体から力が抜けた。
抱きしめた腕の中で、音もなく崩れていく。
だが不思議なことに、彼の脳波は消えなかった。
痛覚の断末魔の中で、わずかに脳電位が生きていた。
――意識は、まだそこにあった。
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二十四時〇八分
慶子様は膝をつき、溶けゆく勇の胸に顔を埋めた。
煙と血と硫酸の匂いが混ざり、甘い香のように部屋を満たす。
彼女の髪が煙に焼かれ、光を反射して銀色に染まっていく。
「死なないで……でも、死んで……」
その矛盾した言葉を繰り返しながら、彼女は泣いていた。
私にはそれが、祈りに聞こえた。
やがて、彼女は私に顔を上げて命じた。
「伊郷瑠……彼の脳を……救って。体はもういらないの。
脳だけが、私を覚えていてくれればいい」
私は震えながら頷いた。
冷却槽を起動し、勇の頭部を慎重に分離する。
骨格の奥でまだ微弱に光る神経が、青白く瞬いた。
酸にも焼かれず、最後まで守られた脳。
それは奇跡だった。あるいは――彼女の愛の形だった。
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翌日 午前二時一〇分
勇の体は灰と液体に変わり、残ったのは冷却槽の中で揺れる脳だけだ。
私は記す。
彼は生きたまま、愛によって溶かされた。
そして死後もなお、愛によって保存された。
慶子様は私の肩に手を置き、囁いた。
「これでいいの。彼は私の中で、生き続ける。
この硫酸は、罰じゃないわ――愛の証なの」
その笑みを見た時、私はようやく理解した。
人間の心は、神よりも残酷で、神よりも慈悲深い。
愛は救いではなく、創造であり破壊であり、永遠の循環だ。
彼女は“勇”を殺したのではない。彼を愛し尽くして、溶かし尽くしたのだ。
今、勇の脳は無菌培養槽の中で鼓動している。
その電位の波形は、まるで彼女の名を呼ぶように、緩やかに震えている。
慶子様はそのガラス越しに唇を寄せ、囁いた。
「また、キスをしましょう……今度は、痛くないわ」
私は筆を置く。
この世に神がいるなら、今夜、神は確かに微笑んでいた。
愛と硫酸の匂いの中で。
伊郷瑠 記。