そんな彼女を、まだ愛している。   作:ぶーく・ぶくぶく

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月光の醒めた復讐

 

 

/*/ 冥神薬品工業・地下実験棟 第零研究室 /*/

 

 

蛍光灯の光が、白すぎるほどに明るい。

消毒薬と焦げたオゾンの匂いが鼻を刺す。

視界が霞み、瞼の裏で何度も光が明滅した。

 

――目が覚めた。

 

乾いた喉を鳴らし、俺はゆっくりと息を吸い込む。

肺が、痛い。いや、痛いのではない……冷たい。

血の代わりに氷のような液体が流れている感覚。

 

「……ここは……」

掠れた声が自分のものとは思えなかった。

 

「くひひ、目が覚めましたか?」

 

耳に馴染んだ、あの歪んだ笑い。

白衣の袖を翻して、伊郷瑠(いごうる)が俺の前に立っていた。

濁った片眼鏡の奥で、彼の瞳だけが異様に光っている。

 

「……伊郷瑠、俺は?」

 

「ええ、社長。おめでとうございます。あなたは――」

伊郷瑠は、満面の笑みで、銀の手鏡を差し出した。

 

そこに映っていたのは、血色を失った顔。

目の下に黒い血管が走り、瞳孔は縦に裂け、

皮膚の下では機械仕掛けの何かが微かに脈動している。

 

「人間の死を、超えましたよ。冥神薬品工業初の成功体――

 “ヘルミオラ・プロジェクト:試験体2号”」

 

伊郷瑠の声が、遠くで反響していた。

 

慶子……

お前の手の温もりを感じたのは――幻だったのか。

 

冷たい光が実験室を満たす。

その中で、俺――兵藤勇は、ゆっくりと拳を握りしめた。

 

「……死なせては、くれなかったのか」

 

唇の端が、不意に笑みに歪む。

氷のような静けさの中で、再び地獄の実験が始まろうとしていた。

 

──冥神薬品工業、第零研究再開。

 

 

/*/ 冥神薬品工業・地下実験棟 第零研究室 /*/

 

 

蛍光灯の白が冷たく顔を洗うように当たる。兵藤勇は鏡に映る自分の顔を見つめながら、言葉を反芻するように小さく呟いた。

 

「玲花も死んだ……いや、俺が――殺したようなものか」

 

記憶の断片が針のように刺さる。慶子の笑顔、玲花の叫び、そしてあの夜の鉄と硝煙。復讐は終わったのか、終わらせたのか。胸の中で答えがせり上がるたび、氷のように冷たいものが広がった。

 

「復讐は止めるんだ……いや、俺が言うべきセリフではないな」

 

声は自分でさえ信用できない雑音に変わる。だが、判断は躊躇なく戻ってくる。策略と情報――それが今の彼に残された唯一の武器だ。

 

「ユニオンのリストは本社の第三書類倉庫だ。社長である俺ならば、問題なく持ち出せる」

 

金属の手首に触れ、冷たい感触を確かめる。皮膚の下で微かに動く機械音が、鼓動と錯綜する。指先に力を込めると、決意が音を立てて固まった。

 

兵藤は立ち上がり、実験室の端に設置された端末に手を伸ばす。画面のログが流れ、彼の権限であることを示す証明書が無言で頭を下げる。社長の名は扉を開き、数字とパスワードは道具のように従った。

 

「監視ログを一時改竄。夜間保守のメンテナンス予定に差し替え。倉庫扉の外側監視は二十分だけループさせる……よし」

 

伊郷瑠が背後で静かに拍手する。白衣の影が蛍光に溶ける。

 

「さすが社長ですね。必要なら、私が同行しても構いませんよ。再生技術と解除プロトコルは私の担当ですから。」

 

兵藤は振り返らずに、冷たい笑みを浮かべる。

 

「同行は要らん。これは俺個人の仕事だ。だが、君の技術は使わせてもらう。アクセスキーを作っておけ」

 

指示は短く、無駄がない。感情は道具として整理され、優先順位がつけられていく。復讐の炎か、救済か――名前を付ける暇はない。ただ進むべき道が在る。

 

兵藤は手首の金属をもう一度見つめた。そこに刻まれた小さな傷跡を指でなぞると、過去の自分と今の自分が一瞬すれ違うように感じられた。

 

「しばらく待て、だが──準備は早く整えよ。誰にも悟らせるな。第三書類倉庫からリストを取り出したら、次の一手を決める」

 

蛍光灯が微かにちらつく。部屋の静けさが引き締まる。

 

外では、ユニオンの歯車がまだ回っている。だが今、地下にいる一人の男は、既にその歯車に小さな欠片を噛ませる準備をしていた。

 

──兵藤勇は動き始める。計画は冷たく、確実に。

 

 

/*/ 旧冥神邸 夜 /*/

 

 

静まり返った夜。白い月光が、荒れた庭と蔦の絡まる屋敷を青く照らしている。

十五年の時を経ても、ここだけは時間が止まっていた。

 

車のドアが閉まる音が響く。

兵藤勇は手に持った封筒を握りしめ、ゆっくりと門をくぐった。

足元で枯葉が音を立てるたび、心臓が鈍く疼く。

 

玄関の扉を開けると、懐かしい香りが鼻を掠めた。

白いランプの光の下――そこには、十五年前と変わらぬ美しさを宿した慶子が立っていた。

黒髪は艶を失わず、肌は雪のように白い。

その傍らで、伊郷瑠と愛犬ジェイソンが静かに見守っている。

 

「勇さん……来てくれたのね」

 

兵藤は答えず、封筒を開いてテーブルに名簿の束を置いた。

「これが――ユニオンのリストだ。全員分だ」

 

慶子の瞳がわずかに揺れた。

それは、決意の光だった。

 

「これで……すべて終わらせられるわ」

 

低く呟くその声に、兵藤は眉を寄せた。

「慶子……本気なのか?」

 

「ええ。彼らが奪ったものを、取り戻すために」

月のように冷たい光が、慶子の瞳に宿る。

 

兵藤は、苦い息を吐いた。

「過去を追っても、何も戻らない。

 これ以上、誰かが死んでも――お前の心は救われない」

 

慶子はゆっくりと首を横に振った。

「違うの。救われたいなんて思っていないのよ。

 ただ、終わらせたいだけ」

 

その声は、壊れかけた鐘の音のように静かだった。

 

兵藤は一歩踏み出した。

「慶子、やめよう。こんなもの全部燃やして、俺と一緒にどこか遠くへ行こう。

 海の見える場所で、何もかも忘れて生きよう」

 

慶子の指が震え、テーブルの縁を掴む。

長い沈黙。やがて、小さな微笑みが浮かんだ。

 

「……あなたは、優しい人ね。

 でも、私が戻る場所はもうないの」

 

その瞬間、伊郷瑠が口を開く。

「社長。彼女はもう止まりません。十五年かけて、この日のために生きてきたんです」

 

兵藤は慶子の肩を掴んだ。

「慶子! 俺はもう失いたくない。君まで失うくらいなら、世界を敵に回す!」

 

慶子はその手をそっと外し、穏やかに笑った。

「だから、あなたには生きていてほしいの。

 私の分まで、普通の世界で」

 

外の風が窓を叩き、カーテンを揺らす。

燃えるような決意と、消えかけた愛情が交錯する。

 

兵藤は声を失い、ただその場に立ち尽くした。

慶子は名簿を手に取り、伊郷瑠と視線を交わす。

「行くわ。これが、私の最後の仕事よ」

 

ジェイソンが短く吠え、扉の外へ駆け出す。

慶子の白いワンピースが月光を受けてきらめき、夜の中へ消えていった。

 

残された兵藤は、握りしめた拳から血を滴らせながら呟いた。

 

「……慶子。もう十分だ。

 戻ってこい。どんな姿でも……」

 

返事はなく、夜風だけが廊下を吹き抜けていった。

 

──復讐の炎は、愛を焼き尽くすほど冷たかった。

 

 

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