そんな彼女を、まだ愛している。   作:ぶーく・ぶくぶく

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第四の火が灯る夜

/*/ 冥神薬品工業 本社 社長室 /*/

 

 夜のガラスに、街の灯りが反射している。

 

 高層ビルの上層階。

 さっきまで経営会議の声音で満ちていたフロアは静まり返り、

 今は残業組のキーボード音だけが、かすかなノイズになっていた。

 

 社長室のドアが閉まり、重いロックが噛み合う。

 

 兵藤勇は、ようやく背もたれに身体を預けた。

 

 スーツの上着を少し緩め、ネクタイを指で引き下げる。

 胸の奥で、不自然な冷たさが微かに渦を巻いた。

 

(……冷却液の流量、上げすぎたか)

 

 冥神薬品工業 社長の顔である以上、

 「人間の体温」から外れすぎるわけにはいかない。

 

 だが、今日の会議は少しばかり長すぎた。

 

 

 

『阿摩鬼常務の件については、世間的には“突発性心筋梗塞”で押し通す』

 

『家族への補償と社内向けの弔慰は、規定の二段階上。

 “会社のNo.2”を派手に悼んでおくことで、

 ユニオン側の“実質的ポスト”を空席にしたままにできる』

 

『警察には全面協力のポーズだけ。

 あくまで被害者として、だ』

 

 

 

 さっきまで、自分の口からそう言葉が出ていた。

 

 慣れた調子で。

 慣れた表情で。

 

 「社長」として、当たり前の顔で。

 

 

 

(……阿摩鬼、か)

 

 男の顔を思い出す。

 

 冥神グループの数字と裏社会の帳簿を、同じノートにまとめていた男。

 ローゼンクロイツの窓口として動きながらも、

 会社への忠誠だけは、本物だった部下。

 

 だが同時に――小心者で、冷酷になり切れない男でもあった。

 

 十五年前の冬。冥神一家を焼いた夜。

 現場にいたのは、勇と、選ばれた少数の“汚れ役”だけだ。

 

 阿摩鬼勲の名前は、そのリストに入っていなかった。

 

 命じられたとしても、最後の一線では引くだろうと、

 上も、勇も、そう判断していたからだ。

 

 結果として、その夜の功績はすべて勇のものになり、

 阿摩鬼は「裏は知っているが、手は汚していない男」として、

 微妙に出世のタイミングを外し続けた。

 

 それでも、阿摩鬼は会社に残った。

 出世の遅れを、帳簿と交渉の腕で少しずつ埋め合わせていき、

 気づけば冥神薬品工業のナンバー2に座っていた。

 

(……あいつは、冥神家殺しには加担しなかった。

 それで出世が遅れたくせに、それでも俺についてきた)

 

 窓の外の光が、ガラス越しに瞳に映る。

 

 あの夜、あのフロアで燃えたのが自分ではなく阿摩鬼だったことを、

 勇は「偶然」の一言で片付けるつもりはなかった。

 

 あれは、どこかの誰かが、

 あるいは「何か」が、

 ひとつ駒を摘んで見せたということだ。

 

(……最初の一人が必要だった、とはいえ)

 

 指先を見れば、爪の下の色は健康的なピンクだ。

 皮膚も、血色も、社長として会議に臨むには申し分ない。

 

 ただ、その奥の骨格と筋肉と神経は、

 とうの昔に「人間の標準」からは外れている。

 

 ヘルミオラ・プロジェクト 試験体2号。

 冥神薬品工業 初の“成功例”。

 

 死を超えた、という表現が正確かどうかは疑わしいが――

 少なくとも、「死なせてはもらえなかった」身であることだけは確かだった。

 

 

 

 デスクの端に置かれた社内電話が光る。

 

 内線番号は“00”。

 社長室から、さらに下へ降りるための番号だ。

 

 勇は一度、軽く息を吐いてから受話器を取った。

 

「兵藤だ」

 

『実験棟、第零研究室。準備は整っております、社長』

 

 歪んだ笑い声が、線の向こうで柔らかく震えた。

 

『……くひひ。阿摩鬼常務の件、お疲れ様でした』

 

「まだ“死体”の後始末が残っている。

 そっちはそっちで、仕事を進めておけ」

 

『ええ、もちろん』

 

 線が切れる。

 

 勇は立ち上がり、窓に映る「社長」の顔を一瞬だけ見つめた。

 

 

 

「……留守を頼むよ、兵藤社長」

 

 ガラス越しにそう呟き、笑う。

 

 挨拶を終えると、デスク脇の棚を押した。

 

 分厚い木製の棚が、音もなくスライドする。

 その奥に、カードキー認証と掌静脈認証を兼ねたプレートが光っていた。

 

 手を当てる。

 微かに冷たい感触の後、足元の床が沈んだ。

 

 エレベーターが静かに下降を始める。

 

 

 

/*/ 冥神薬品工業・地下実験棟 第零研究室 /*/

 

 扉が横に開くと、鋭い消毒薬の匂いと、冷却液の匂いが混ざった空気が流れ込んできた。

 

 蛍光灯の白が、産業用ステンレスの壁を無機質に照らす。

 配管とケーブルの束が天井を這い、その中心にいくつものターミナルと水槽が並んでいた。

 

「おかえりなさいませ、社長」

 

 白衣の陰から、伊郷瑠が現れた。

 

 濁った片眼鏡の奥で、瞳だけが異様な光を宿している。

 

 

 

「……室長」

 

「くひひ、社長の方が役職は上ですよ?」

 

「お前の方が、この階では古株だろう」

 

 軽口を交わしながらも、勇の視線はすでに部屋の奥――

 壁一面を埋め尽くすモニター群へと向いていた。

 

 世界地図。

 そこに重ねられた、赤と青と、わずかな黒のピン。

 

 

 

「進捗は」

 

「“華”の方からいきますか、“月光”の方からいきますか?」

 

「……慶子からだ」

 

 伊郷瑠が、指先で画面の一枚を切り替えた。

 

 複数の都市名と、日付と、死亡報告。

 どれもが、「事故」や「心疾患」や「自殺」といった凡庸なラベルで隠されている。

 

「こちらが、《復讐の華》――お嬢様ルートです」

 

 画面の右端に、小さく元のユニオン・リストが表示されていた。

 あいうえお順に並べられた名前の列。

 そのいくつかに、黒い斜線が引かれている。

 

 

 

「リストの“あ”行は、ほぼ終わり。

 “か”行に入りかけたところで、こちらから一旦ブレーキをかけました」

 

「やりすぎると、パターンが見える」

 

「ええ。お嬢様は美しいですが、手口が正直すぎますからね。

 “気に入らない名前から焼いていく”というのは、復讐者としては正しいけれど、

 情報屋としては危なっかしい」

 

 

 

 勇は画面を眺めながら、小さく息を吐いた。

 

 名簿を渡した夜のことを思い出す。

 旧冥神邸の、「時間が止まった部屋」で。

 

 白いワンピースと、黒い髪と、黒い涙。

 

(……あれから、どれだけ“人間”が削れたんだろうな)

 

 問いは口には出さない。

 

 

 

「公安は」

 

「こちらが、《醒めた月光》――公安ルートです」

 

 別の画面が立ち上がる。

 

 “極秘特別捜査”“国際テロ組織関連”といったタグが付いた、

 内閣情報調査室と警察庁公安部の書類が並んでいた。

 

「社長から渡された“抜粋版リスト”のおかげで、

 日本国内のローゼンクロイツ系ラインは、

 見事なくらい“テロ資金疑惑”に塗り替えられました」

 

「……あくまで、“疑惑”か」

 

「はい。“事実”になってしまうと、

 冥神薬品工業の過去ログも掘られますからね」

 

 伊郷瑠は肩をすくめた。

 

「公安の連中は、有能ですが律儀です。

 “こいつらは危険だ”という“ヒント”だけ与えておけば、

 法律と手続きに従って、じわじわと絞ってくれる」

 

 

 

「米軍は」

 

「こちらが、米軍特殊作戦群ルート」

 

 衛星写真と、英語の作戦ログ。

 

「中東と東欧経由で流した“別バージョン”のリスト、

 しっかりと齧りついてくれてますよ。

 

 “国際テロ支援組織の金融部門”というラベルで――

 ローゼンクロイツの一部セルが、

 見事なまでに“爆撃可能な目標”になりました」

 

 

 

 勇は黙って画面を見つめた。

 

 赤いピン。青いピン。黒くなったピン。

 

 あの夜、冥神邸で出された紅茶の温度と同じくらい、

 今表示されている“死”の数は、どこか現実感が薄い。

 

 だが、そのひとつひとつが、

 戦時中から始まった「実験」の延長線上にあることだけは、

 骨の髄まで理解していた。

 

 

 

「……阿摩鬼のピンは、どの色だ?」

 

 問いに、伊郷瑠が少しだけ目を細めた。

 

「お嬢様のルートにも、公安ルートにも、米軍ルートにも該当しません。

 “第四の色”ですね」

 

「第四の色」

 

「ええ。

 “誰のシナリオにも載っていない火”で焼かれた、ということになります」

 

 

 

 勇は顎に手を当てた。

 

(……ローゼンクロイツ側の“自浄作用”か、宇田川優か、

 あるいは、まったく別の何かか)

 

 可能性はいくつか並べられる。

 

 どれも、根拠が薄い。

 だからこそ、どれも切り捨てられない。

 

 そして何より――

 阿摩鬼勲は、本来なら一番“殺しやすい側”の人間ではなかった。

 

 小心で、腰が引けていて、冥神一家殺しにも加担しなかった男。

 勇が引けば、一緒に引いてくる種類の部下だ。

 

(それでも結局、“最初の死体”にしたのは、こっちの都合だ)

 

 胸の奥で、冷たいものが一瞬だけ重くなった。

 

 

 

「社長」

 

 伊郷瑠が、珍しく真面目な声音で言った。

 

「あなたのシナリオでは、阿摩鬼勲は――どういう位置づけでしたか?」

 

「“最初の被害者”だよ」

 

 即答だった。

 

「誰かがここを殴りに来るとしたら、

 表向き“会社のNo.2”で、裏も知っている阿摩鬼の首を取る。

 

 それは、どの勢力から見ても分かりやすいメッセージになる」

 

 

 

「では、社長は“阿摩鬼を殺させた”と?」

 

「違う。

 “阿摩鬼が殺されるような状況をあえて放置した”だけだ」

 

 

 

 言い直しながらも、自分で苦笑する。

 

 言葉の上では、微妙な違い。

 本人にとっては、何の慰めにもならない。

 

(あいつは冥神家を焼かなかった。それで出世が遅れた。

 それでも、最後の最後まで俺のNo.2でいようとした。

 ……それを“最初の死体”に並べて、放置したのは俺だ)

 

 

 

「……死んだ駒は、もう戻らない。

 問題は、あれで“本物”が動き始めたかどうかだ」

 

「“本物”?」

 

「ローゼンクロイツの、戦争の方の連中だよ」

 

 

 

 世界地図の隅に、小さなマークが光った。

 

 極東の、とある山間部。

 そこに、新しい暗号通信のノードが立ち上がっていた。

 

 

 

「数時間前から、こちらの観測網に“古い型のノイズ”が混じり始めました」

 

 伊郷瑠が、モニターの一角を拡大する。

 

「第二次大戦期の軍用暗号をベースにした、

 ローゼンクロイツの“戦時プロトコル”です。

 

……くひひ。妙ですね。

 

 

 これ、普通は“封印扱い”のはずですが」

 

 

 

(……起きたか、老いぼれ)

 

 心の中だけで、勇は呟いた。

 

 神宮司大佐。

 戦中の人体実験部隊の生き残り――今年で一三〇歳になるはずの男。

 

 ユニオン・ローゼンクロイツ極東監察官。

 兵藤勇を「使える器」として拾い上げ、

 冥神薬品工業の社長椅子へと送り込んだ老鬼。

 

 

 

「神宮司大佐が動き出した、と?」

 

「断定はできませんが」

 

 伊郷瑠は、片眼鏡を指で持ち上げた。

 

「少なくとも、“誰か”が、

 ユニオンをただのマフィア連合ではなく、

 “戦争の続き”として扱い始めたのは確かでしょうね」

 

 

 

「……予定より、少し早いかもしれないな」

 

 勇は、ゆっくりと息を吐いた。

 

 胸の奥で、冷却液が一瞬だけ熱を帯びる。

 

 

 

「社長?」

 

「いや。何でもない」

 

 勇は画面から視線を外した。

 

 

 

(――これで、盤面の駒はだいたい揃った)

 

 復讐に燃える女。

 法と秩序を信じる官僚。

 国家の暴力装置。

 そして、戦争を終わらせる気のない老人。

 

 その真ん中で、冥神薬品工業の社長として座っているのが、

 よりにもよって「メタルKの世界に転がり込んだ俺」だというのだから、

 世の中は悪趣味にできている。

 

 

 

「伊郷瑠」

 

「はい、社長」

 

「次のリストだ。

 公安には“表の顔で危険なのを”。

 米軍には“爆撃しても誰も文句を言わないのを”。

 

 ……そして、慶子には――」

 

「“あいうえお順”の続きを?」

 

「いや。しばらくは、“わざと順番を飛ばしたリスト”だ」

 

 

 

 伊郷瑠が、口元だけで笑った。

 

「くひひ。“復讐の手触り”を変えるおつもりで?」

 

「そうしないと、あいつは本当に“行きたいところから順番に”焼いていく」

 

 勇は目を閉じ、ふっと短く笑った。

 

「復讐は、止めるんだ。

 ……いや、それを俺が言う資格はないか」

 

 

 

 天井の蛍光灯が、わずかにちらつく。

 

 世界のどこかで、またひとつピンが黒くなる。

 それが自分の仕掛けた罠か、誰か別の罠かを、

 勇は一つ一つ確認していくつもりだった。

 

 少なくとも――

 自分が愛した女と、自分を拾った老鬼が、

 正面からぶつかるその瞬間までは。

 

 

 

(そのとき俺が、どっちの肩を持つのか)

 

 答えはまだ、胸のどこにも見つからない。

 

 ただひとつだけ確かなのは――

 どちらの側に立っても、その先に残るのは「人間」ではない、ということだけだった。

 

 

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