そんな彼女を、まだ愛している。   作:ぶーく・ぶくぶく

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誰の火でも、かまわない

 

 

*/ 旧冥神邸 止まった部屋 /*/

 

 

 時計の振り子だけが、ゆっくりと時間を刻んでいた。

 

 西洋甲冑と油絵と、十五年前の空気を閉じ込めたカーテン。

 冥神家・令嬢の部屋は、あの冬の日から一秒も進んでいないかのように見える。

 

 ――ただ一つ、机の上の紙束だけが違っていた。

 

 白い指が、その束を一枚ずつめくっていく。

 

 ユニオン・ローゼンクロイツ 日本国内構成員名簿。

 

 あいうえお順に並んだ名前の列。

 いくつかの行には、黒いインクで斜線が引かれていた。

 

 冥神 慶子は、その黒い線を一本なぞった。

 

(阿摩鬼 勲……)

 

 テレビモニターには、昼間のワイドショーの録画が無音で流れている。

 テロップは「大企業No.2 突然の心臓発作」「社内外に衝撃」。

 アナウンサーが眉をひそめ、コメンテーターがもっともらしく口を開いてみせる。

 

 音がないおかげで、そのすべてが舞台装置のようにしか見えなかった。

 

「……心筋梗塞、ね」

 

 慶子は、小さく笑った。

 

 あの夜、自分が手を下したわけではない。

 本来なら、この名前に線を引く資格は、彼女にはないのかもしれない。

 

 けれど――結果として、彼はもう「こちら側」に数えられる人間ではなくなった。

 

 復讐の華を一輪、捧げる価値はある。

 

 ペン先が、ゆっくりと阿摩鬼の名を横切る。

 まだ癖の抜けない、学童の書き方をそのまま伸ばしたような、素直な線だった。

 

「お嬢様」

 

 背後から、伊郷瑠の声がした。

 

 振り返ると、白衣と片眼鏡が、ランプの光に切り取られている。

 

「阿摩鬼 勲については……よろしいのですか。

 あなたの手による“処理”ではありませんが」

 

「ええ」

 

 慶子は頷いた。

 

「彼は、あの夜に来なかった人」

 

 十五年前の火の色が、一瞬だけ視界の端に蘇る。

 

 オイルの匂い。

 焦げたカーテン。

 炎の壁の向こうで、笑っていた顔の列。

 

 その中に、阿摩鬼 勲の顔はなかった。

 

「お父様とお母様と、私を焼きに来なかった人」

 

 そこで、慶子は小さく息を吐く。

 

「……助けてくれたわけじゃない。

 小心者で、“最後の一線”を怖くて越えられなかっただけ」

 

 だから、と言葉を継ぐ。

 

「本来なら、ユニオンの出世レースからは落ちるはずの人。

 “向こう側”の人間にはなりきれないくせに、こっちにも戻って来ない中途半端な人」

 

 ペン先が、机を軽く叩いた。

 

「そういう人を、“便利だから”って長くそばに置いたのは――勇さんでしょう」

 

 伊郷瑠が、くひひ、と喉の奥で笑った。

 

「相変わらず、よく見ておられる」

 

「だから、これは二人分の線よ」

 

 慶子は阿摩鬼の名を挟むように、もう一本だけ細い線を引いた。

 誰のものとも知れない、その二本目の線は、すぐに他のインクと紛れて見えなくなる。

 

 名簿を一枚めくる。

 

 “あ”行の大半には、すでに黒い斜線が走っていた。

 事故、突然死、自殺、暴発――表向きの理由はさまざまだが、

 「本人が最後に見たもの」が何であったかを知っているのは、

 この部屋にいる三人と一匹だけだ。

 

「“い”の一部と、“う”の真ん中が抜けているわね」

 

 慶子は指で、空白の行を軽く叩いた。

 

「最初に見たリストでは、もう少し名前が詰まっていた気がするけど」

 

「気のせいかもしれませんねぇ」

 

 伊郷瑠は、とぼけたように肩を竦めた。

 

「諜報各部からも、似たような資料が複数上がってきていますから。

 統合の過程で、誤差が出たのかもしれません」

 

「ふうん」

 

 慶子はそれ以上、問い詰めなかった。

 

 勇が「何もしない」わけがないことくらい、十五年も関わっていれば分かる。

 リストを渡した時点で、あの男は必ず別の盤面を描いている。

 

 けれど――それが自分の復讐の邪魔になるかどうかは、まだ判断できない。

 

(少なくとも、“阿摩鬼”の線を引くのを止めはしなかった)

 

 それなら、今はいい。

 

「次は、“か”行の、これ」

 

 小さな爪先で、とある名前の上に触れる。

 

 国内金融セクション。

 ローゼンクロイツの日本法人を、裏から支えていた男の名だ。

 

「港区のホテルのスイート。

 毎週水曜の夜、同じ女を呼んで、同じボトルを開ける」

 

 慶子の声は、読み上げるというより、なぞるようだった。

 

 十五年分の監視データ。

 ユニオンから流れてきた内部情報。

 それらはすべて、今の彼女にとって「教科書」だった。

 

「ボトルの中身を、少しだけ変えてあげるだけでいい。

 ねえ、ジェイソン」

 

 ベッドの下から、黒い毛並みの大型犬が顔を出した。

 

 かつて冥神家の庭を駆けていた犬と、同じ姿のままで。

 

 ――飼い主が十五年も歳を取らないのだから、犬だけが歳を取るわけにもいかない。

 

 中身は、少しばかり“改造”されている。

 

 ジェイソンは喉を鳴らすと、慶子の膝に顎を乗せた。

 その目は、どこまでも従順で、どこまでも無垢だ。

 

「行ってきます」

 

 慶子は立ち上がる。

 

 白いワンピースではなく、今日はスーツケースに入れた黒のドレスと、

 TYPE-Λ用の冷却ジェルが、玄関脇で彼女を待っていた。

 

 

/*/ 港区・高級ホテル ペントハウスフロア /*/

 

 

 廊下の絨毯は、靴音をすべて飲み込んでいく。

 

 エレベーターの扉が閉じる音さえ、ここでは妙に遠くに感じられた。

 

 慶子は、大理石の壁に映る自分の姿を一瞥する。

 

 黒いドレス。

 肩と背中のラインを大胆に見せた、夜会向けのシルエット。

 

 TYPE-Λの人工皮膚は、今夜はよく馴染んでいた。

 首筋から鎖骨にかけて、ほんの微かな光沢が走る。

 

(……熱は、まだ大丈夫)

 

 感情の高ぶりとともに溶け出す硫酸の皮膚。

 それは、自分自身への戒めでもある。

 

 このまま何十人も焼き続ければ、そのうち自分の中身も空になるだろう。

 それでいい――と、どこかで決めていた。

 

 ドアの前に立ち、インターホンに指を伸ばす。

 

「どちら様で?」

 

「部屋を間違えたみたいです。

 ……ごめんなさい」

 

 かすかな会話。

 

 だが中の男は、もうわかっている。

 毎週同じ時間に、同じ種類の“間違い電話”があることを。

 

 チェーンの外れる音がした。

 

 ドアが開きかけた、そのとき――

 

 廊下の角、見えない位置で、低い破裂音がした。

 

 空気が一瞬だけ震える。

 

 慶子の耳が、その震動だけを拾い上げていた。

 

(……今のは)

 

 次の瞬間、ドアの内側の空間で、何かがはじけ飛んだ。

 

 鈍い音とともに、男の身体が横に倒れ込む。

 額の中央に、硬貨ほどの穴。

 絨毯に、じわりと黒いシミが広がっていく。

 

 サイレンサー付きの狙撃か、近接での小口径か。

 どちらにせよ、“こちら”の仕事ではなかった。

 

 慶子は一歩も動かずに、その光景を見ていた。

 

 名簿の“か”行の一文字が、頭の中で音もなく黒く塗りつぶされる。

 

 ドアは途中で止まり、男の脚がつっかえ棒のようになっている。

 彼女はそっと手を伸ばし、ドアを閉めてやった。

 

 廊下に、再び静寂が戻る。

 

(先に、殺された)

 

 さっき、あの止まった部屋で指先を置いたばかりの名前。

 

 胸の奥で、何かが少しだけ泡立つ感覚がした。

 

 怒りではない。

 悔しさでもない。

 

 ただ――自分の復讐の道筋に、別の誰かの足跡が重なったことへの、

 妙な違和感だけが残った。

 

 廊下の奥。

 非常階段の方角に、一瞬だけ赤外線スコープの残光のようなものが揺れた気がした。

 

 追うこともできただろう。

 TYPE-Λの脚部なら、人間の限界を軽く超えた加速も可能だ。

 

 けれど慶子は、踵を返さなかった。

 

「ジェイソン」

 

 離れたエレベーターホールで、犬の足音が一度だけ鳴った。

 それが“了解”の合図だ。

 

「戻るわよ」

 

 エレベーターが静かに下がっていく。

 

 ガラス越しに見える夜景の中で、

 一つの部屋の明かりだけが、ゆっくりと暗くなっていった。

 

 

/*/ 帰路の車内 /*/

 

 

 黒塗りの車の中。

 助手席にはジェイソンが丸くなり、運転席には伊郷瑠が座っている。

 

「……お嬢様の手を汚すまでもなかった、という解釈でよろしいでしょうか」

 

「そうね」

 

 慶子は、窓の外の街の灯りをぼんやりと眺めながら答えた。

 

「名簿の名前が一つ消えた。

 それなら、それでいい」

 

「怒りは、感じませんか?」

 

「どうして?」

 

 慶子は、首を傾げる。

 

「誰かが、私の代わりに“燃やして”くれるってことでしょう?

 むしろ、助かるわ。

 私の皮膚も、あまり長くはもたないもの」

 

 片眼鏡の奥で、伊郷瑠の瞳が細くなる。

 

「その“誰か”が、社長と同じ盤上にいる可能性については?」

 

「考えているわ」

 

 慶子はあっさりと言った。

 

「勇さんなら、きっとそうする。

 私にリストを渡した時点で、あの人はもう“次の手”を考えてる」

 

 車窓に映る自分の顔は、驚くほど静かだった。

 

 十五年前の、火災の夜の自分とは違う。

 “復讐”という言葉だけで、感情が溢れ出していた少女とは。

 

(今の私は、もう少女じゃない)

 

 硫酸の涙で愛した男を溶かし、

 その男の“残り”と一緒に世界の終わり方を考えている女だ。

 

「ねえ、伊郷瑠」

 

「はい」

 

「勇さんは、“止めてほしい”のかしら。

 それとも、“上手く終わらせたい”だけなのかしら」

 

 問いの形をしていたが、答えを期待していない声音だった。

 

 伊郷瑠は、わざとらしく肩を竦める。

 

「さあ。

 ただ一つ言えるのは――あの方は“あなたの復讐”を、

 決して“茶番”にはしないということです」

 

「……そうね」

 

 慶子は、ほんの少しだけ微笑んだ。

 

 車は旧冥神邸への坂道を登り始める。

 遠くで、街の灯りがゆっくりと背後に沈んでいった。

 

 

/*/ 旧冥神邸 止まった部屋・再び /*/

 

 

 机の上の名簿だけが、そこだけ時間を進めて待っていた。

 

 慶子はコートを脱ぎ、靴を揃えると、その紙束の前に座る。

 

 “か”行の男の名前の横に、小さく×印を付けた。

 その線は、阿摩鬼のときよりもずっと細く、色も薄い。

 

「――誰の火でも、構わない」

 

 紙の上で、小さく呟く。

 

「私が見たいのは、“燃え尽きた後”だから」

 

 ペン先が、次の名前の上に止まる。

 

 そのとき、机の隅の小さな端末が震えた。

 地下実験棟からの、暗号化された短いメッセージ。

 

 画面には、勇の送ったたった一行が浮かんでいた。

 

 ――順番を変えた。次は、ここから始めてくれ

 

 添付されているのは、名簿の“さ”行から抜き出された数名分のリスト。

 あいうえお順を、わざと歪めたような並び方。

 

 慶子はしばらく、その行を黙って見つめていた。

 

 怒りも、戸惑いも、不思議と湧いてこない。

 

(やっぱり、手を入れてきた)

 

 ペンを取り上げる。

 

「……いいわ」

 

 そう呟いて、送られてきた中の一つの名前に、そっと指を置いた。

 

「順番なんて、どうでもいいもの。

 私が終わらせたいのは、“名簿の最後の一人”じゃない」

 

 ペン先が、紙に触れる。

 

「――十五年前の夜に、あそこにいた“世界”の方だから」

 

 黒いインクが、静かに紙を染めていく。

 

 復讐の華は、ゆっくりと、しかし確実に開き続けていた。

 

 

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