ただのモブ(大嘘)がTSした原作主人公の代わりに逆転世界で頑張る話 ―女性特効ラスボスは俺が倒す― 作:つくもいつき
春シーズン第四週の四日目、午前。
ギルド訓練所の会議室で、俺とアリス、マリーは長机を挟んでシルヴェットと向き合っていた。
中央広場から、スタンピードの終息を喜ぶ歓声が届く。
……カナメとリオラは、まだ戻らない。
俺たちは救助クエストの発行を求めてここへ来た。ルールルーの姿はない。彼女には先んじて別行動に移ってもらっている。
シルヴェットも俺たちも戦闘装束のままだ。
シルヴェットの背後に立つ細身のシリルだけが、チュニックとズボンの普段着で後ろ手を組んでいる。
生還祭の実行役を示す赤い腕章が、俺の目を引いた。
シルヴェットの右目は包帯で覆われ、頬には汚れが残っていた。
ヌシを短時間で倒すために無理をしたと聞く。他の攻撃班も、まだ医務室だ。
シルヴェットたち攻撃班も、命を懸けて村を守ってくれた。
俺は急かしかけた言葉を飲み込む。シルヴェットは残る片目で俺たちを見渡した。
「……北の防衛線では、蜘蛛糸に捕まった前衛を助け、防衛班が立て直す時間を稼いでくれたそうだね。着火による蜘蛛のせん滅は結果的に正解。防衛線を抜けた蜘蛛も討ち取ってくれた。川辺では、アリスさんのメイド隊がスライムの迎撃に加わってくれたと聞いてる。君たちのおかげで、犠牲は最小限で済んだ。感謝するよ」
「どういたしまして」
アリスが応じる。
俺とマリーもまた、同様に首を縦に振った。
「マリーさんも、先ほどまで救護活動をありがとう。〈小回復〉の使い手は多いけれど、レベル3水属性魔法の〈治癒の水〉ともなると少なくてね。おかげでエッタも一命を取り留めた。他の軽症者もずいぶん助けられたよ」
マリーは軽く頭を下げた。青いシスターヴェールの端が肩の前へ滑り、その下で波がかった水色の髪が揺れる。
「いえ。女神教のシスターとして、当然のことです。礼には及びません」
「そう言ってもらえるとありがたい。──モブも、よくやってくれてたみたいだね。スライムの位置を洗い出してくれたおかげで、村内の被害を抑えられたと聞いてる」
サポーターとして、という言葉をシルヴェットは使わなかった。
俺は素直にうなずく。
「ありがとうございます。村のみんなの活躍が大きかったです。彼らにも感謝を」
「そうだね。とにかく、スタンピードは無事に終わってよかった。本来なら、学外クエストは終わったから、ゆっくりして行ってくれと言いたいところだけども」
「──はい。私たちは、仲間のカナメを探します。救助クエストの発行をお願いします」
「……だよね」
アリスの要請を聞いて、シルヴェットは漆黒のポニーテールの根元をひとかきした。
手元の魔力紙に手をかざすと、灰色の魔力光がきらめき、黒文字が浮かび上がった。
腰の携帯袋から判子を取り、紙の右下に押す。羽とペンを模した赤い魔法陣が刻まれた。
シルヴェットが紙をこちらに向ける。
即興で作られた【クエスト票】には〈リヴィエ地下迷宮行方不明者救助〉と書かれていた。
「シ、シルヴェットさん!?」
シルヴェットの背後から、シリルが身を乗り出した。
淡緑の目が、クエスト票と彼女の顔をせわしなく往復する。
「シリル、これは冒険者ギルドの、身内の問題だ。行方不明の仲間を探す許可を出すだけ。村は関係ない。ヴェルディル家の意向通り、スタンピード終結宣言を出して構わないよ。生還祭の準備を続けるといい」
「そ、それは……」
「救助途中で、デルヴァン家の娘を見つけることも、あるだろうけどね?」
シルヴェットが俺に笑いかける。
生還祭とシルヴェットに言われて、隣のシリルが身じろいだ気がした。
生還祭は、生きて戻った者の無事を祝い、村を守った者たちをねぎらうための祭りだ。同時に、失われた者を弔い、残された家族を慰める場でもある。
生き残った者たちで、これからも暮らしを続けていく。そのために、村全体で戦いに区切りをつける。
外から、また歓声が届いた。
村はとっくに、戻らない者の救助よりも、残った者たちと祝うほうへ動き始めている。
──村が動かなくても、俺たちが探しに行けばいい。
俺は深くうなずいた。
「それで、参加者とパーティリーダーは? サポーターは必要?」
シルヴェットの指が、クエスト票の空欄をたどる。
アリスはこともなげに答えた。
「参加者はモブ、アリス、マリー、ルールルー。パーティリーダーは、モブで申請します」
思わずアリスへ顔を向けた。救助の申請は打ち合わせたが、俺をリーダーにする話は聞いていない。
アリスはこちらを向く。長い金髪が肩を滑り、褐色の頬の脇に鷲紋のピアスがのぞいた。不敵に笑い、「問題ない」とアリスは指先を左右に振った。
「なるほど。あなたたちは、それでいいんだね?」
「ええ。シルバーランク以上が要件なので、問題ないでしょう。ならば、より相応しい人間がリーダーとなるべきです」
「私も異論ございません」
アリスとマリーが口々に答える。
俺を後ろへ置くつもりは、ふたりともないらしい。
そのことが嬉しくて、出かけた抗議は引っ込んだ。俺もシルヴェットにうなずく。
シルヴェットは口の端を緩め、弾んだ声音を返す。
「なら、サポーター枠は不要だね」
灰色の魔力光が指先でまたたき、クエスト票に正式な記載が黒く刻まれる。
その行為を見て、シリルが声を張り上げた。
「シ、シルヴェットさん! 男性がリーダーなんて! そ、それにそいつはサポーターとしてこの村に来たんですよ!? 規則違反だ!!」
「──シリル。救助クエストは原則シルバーランク以上。男性がリーダーでも、要件を満たしていればギルドは受理する。これは特別扱いでも、規則違反でもない」
彼女の指が、リーダー欄の俺の名を押さえた。
「今回は、
シルヴェットの視線が俺たち三人を撫でる。
代表して、アリスがはにかんで答える。
「ええ。依頼をお受けします」
「成立だね。モブはシルバーランクの冒険者として参加できる。シリル、私の決定が不服かな?」
シルヴェットがシリルへ顔を向ける。
シリルは言葉を詰まらせながら、悪あがきを続ける。
「そ、その、であれば村の冒険者たちにも機会を……」
「もちろん。あとでクエストボードに貼っておくよ。宴を抜けてまで、よそから来た冒険者の救助に加わろうという奇特な人がいるといいね?」
「……っ」
「よろしい。では、モブ、アリスさん、マリーさん。緊急救助クエストの申請を受理します。……モブ」
そう言って、シルヴェットがハンドサインを送る。とん、とん。机に指先を二回。
俺はうなずき、彼女に向かって密かに親指を立てた。
「あなたたちの、成功を祈ります」
差し出されたクエスト票を、俺が受け取った。
リーダー欄に刻まれた自分の名を確かめる。これで、仲間を連れ戻しに行ける。
シルヴェットに頭を下げ、俺たちは出入口へ向かった。
先頭を行くアリスが腰のレイピアの鞘を軽く押さえ、長机の端を回る。赤い外套の裾が流れ、その下の黒いチュニックと細身のパンツがのぞいた。
扉を出てすぐに、シルヴェットから通信が入る。
俺は首元に指を触れ、応答する。
【──モブ。本当にリヴィエ地下迷宮でよかったのかい? 私たちが潜っていた時には、報告のあった『闇の華』の痕跡らしきものはなかった】
【大丈夫です。デルヴァン家にできた大穴からルールルーに追跡してもらってます。すでに調べはつきました。リヴィエ地下迷宮で間違いないです】
【相変わらず、抜け目ないね】
【それほどでも。……それと、後でミドリーが、クエストを受けに来るかもしれません】
ミドリーはまだ、リアやエステルさんたちとエッタの看病に回っているはずだ。
ただここに来る前、俺たちはデルヴァン家のエステルさんにカナメとリオラを探しに行くと告げている。ミドリーの耳に入っていてもおかしくない。
【今回のカナメとリオラの連れ去りは異様です。村の中で、わざわざカナメのいた客室が襲われている。……他の魔物と違って、何らかの意図があるのかもしれません。どんな能力を持つかもまだわからない。ミドリーが来たら、その危険を説明して、救助は俺たちに任せるよう説得してもらえませんか?】
【わかった。依頼の名目はカナメさんの救出だからね。そのうえで、エッタのそばにいてあげてほしいと話そう】
【お願いします】
【……モブ。正直なところ、私は偵察だけでいいと思っている。何が起きたのか、どんな相手なのか。それを確かめて、情報を持ち帰ってきてほしい。……救助対象者は、もう助けられないことだってある。引き返すべき時は、迷わないでくれ】
【はい。心得てます。……それでは】
通信を終える。
俺は少し先で待つふたりに歩み寄り、足を止めた。
「行こう。ルーと早く合流しないとな。カナメを狙ってさらったってんなら、相手には意思があるのかもしれない。正直、何をしてくるかわからない相手だ。……ルーには深追いするなと言ったけど、心配だ」
「意思のある魔物……。まるで伝説の淫魔族のようね」
淫魔族。その言葉に、マリーの肩がぴくりと動いた。
何かを言いかけた唇が結ばれる。俺が尋ねる前に、アリスが続けた。
「優先事項はカナメの探索と救助。次に正体不明の魔物の調査。デルヴァン家の子は、ついで。──それで合ってる?」
「アリス様、それはあまりにも」
アリスが片手を上げ、マリーに手のひらを向けた。
マリーは唇を引き結んだが、眉を寄せたままアリスを見つめている。
その視線を受けながら、アリスは手を下ろし、淡々と言葉を継いだ。
「現場は、女神教の教えと違う。──人命は安いわ。仮に救えなかったとしても、失われたとしても、引きずる必要はないし、引きずらせないように家族を慰めるのが周囲の役割よ。この村の運用とも一致しているじゃない。この村でまだ、あの子を諦めきれていないのは母親のミドリーだけよ」
「……それは、男神教的な考えですわ。あの子は、天界へ昇るにはまだ若すぎます」
マリーの指が胸の前で組まれる。女神教の祈りの構え。
アリスはその手元から、俺へと目を移した。
「ええ。別に彼らの信徒というわけではないけども、その合理性は評価しているわ。それで、モブ。あなたの考えは?」
胸の前で指を組んだマリーが、俺を見上げる。水色の瞳は、不安げに揺れていた。
その目を見返し、俺は一度、息を吸う。
仲間を危険に連れていく。その判断を任されたのは俺だ。
「──カナメ、リオラの探索と救助優先。次に正体不明の魔物の調査で行く」
「モブ様……!」
マリーの組んだ指がほどけた。
アリスは短く息を吐く。
「……そう」
「アリスの考えのほうが正しいよ。けど、俺はまだリオラの救助を諦めちゃいない。やることをやっておきたいんだ。……それに」
「それに?」
「エッタに代わって、村のみんなを守るって。──そう、あいつに約束したからな。取りこぼしはしたくない」
アリスは目を丸くする。
すぐに微笑みをにじませた。
「ふふっ。……
「ありがとう。ただ、急ぎたい。リオラがダンジョンの養分にされているなら、いつまで生きていられるかわからない」
ダンジョンの養分──。男神がダンジョンを造った目的のひとつ、人口抑制を補助する機構。
スタンピードで捕らえられた人間は、魔素や聖素を吸い上げられ、迷宮を維持する糧にされる。そして最後には、命まで奪われた。
「どれだけ生きていられるかは、本人のレベルや囚われた階層によって違う」──ギルド訓練所ではそう教わった。
リオラはレベル1の、まだ二歳の子だ。
『闇の華』がどう扱っているかもわからない。明日まで無事でいると、決めつけることはできなかった。
「今日、連れ戻そう。まだ助けられるなら、その機会を逃したくない」
アリスとマリーがそれぞれうなずく。
廊下の壁際の長椅子はどれも空で、その上の外套掛けにも上着は残っていなかった。窓から差す朝日はまだ低く、椅子の脚の影を床板の上に長く伸ばしている。
俺たちは長椅子の脇を足早に通り過ぎた。
すれ違う者もなく、三人分の靴音が廊下に響く。
外の広場から、乾杯を呼びかける声が聞こえた。応じる声も、そのあとの笑い声も、やけにはっきりと俺の耳に届いた。
玄関の取っ手に手を伸ばしかけたところで、扉が外から押し開けられた。
白い陽光が床に広がり、人の影が俺の足元まで伸びた。
俺は息を止めた。
深緑の外套から伸ばしかけた手を宙に残したまま、陰になったその顔を見下ろす。
戸口に立っていたのは、革鎧をまとったミドリーだった。
□
ミドリーは扉に片手をつき、小柄な体を前屈みにして息を弾ませていた。青黒のボブの毛先が、汗ばんだ頬に貼りついている。
金縁眼鏡越しに俺を見上げ、背後のふたりにも目を向けた。あどけなさの残る顔から、少しだけこわばりが抜ける。
「よ、よかった。間に合った……」
俺が半歩
後ろ手に扉を引き寄せ、閉める。戸口から差していた光が消え、祭りの声が少し遠のいた。
ミドリーは閉じた扉を背に、ずれた眼鏡を指で押し上げた。
まだ弾む息を整えてから、俺の背後にいるアリスへ呼びかける。
「あ、アリスさん。迷宮へ行くって言ってましたよね。私も同行させてください。お願いします!」
ミドリーは深く頭を下げたまま、返事を待っていた。
娘を助けに行くためなら、何度でもこうして頼むつもりなのだろう。
俺の背後で、ブーツが床板を踏む音がした。
赤い外套の裾が視界の端をかすめ、アリスが俺の右隣に並ぶ。
アリスはミドリーに一度目を落とす。冷ややかな表情のまま、こちらへ顔を向けた。
俺が視線を返すと、アリスは小さくうなずく。
「今回の責任者はモブよ。決めるのは彼」
「え──」
ミドリーが勢いよく上体を起こし、青黒の髪が跳ねた。
金縁眼鏡越しに俺とアリスを見比べる。
俺と目が合うと、ミドリーは言いかけた口を閉じた。太ももから離れた手が、身体の脇で所在なさげに握られた。
「ご、ごめん、モブ
シルヴェットに説得を頼んでおいたが、その前にミドリーと鉢合わせてしまった。
いま、返事を求められているのは俺だ。
同行を認められないことを、この怯えた顔に伝えなければならない。
俺は短く息を吐いた。
ミドリーから目を逸らさずにいると、彼女は息を吸い直し、もう一度、頭を下げかけた。
「モブ兄。お願い、あたしも──」
「時間がないから、手短に言うぞ。……同行は認めない」
ミドリーの動きが止まった。
半端に傾けた上体をゆっくり起こし、俺を見る。唇がわずかに開いたが、言葉は出てこなかった。
俺の視界の端で、青い僧衣の袖が動いた。
ちらと左手に目をやる。マリーが胸元の布を握り締め、痛ましげにしているのを見つける。
俺はすぐに視線を戻す。
改めてミドリーを見下ろし、通る声で告げた。
「リオラとカナメをさらった相手の正体も分かってない。迷宮はいま、何があるかわからない、危険な場所になってる。俺たちが組んで潜っていた時と違うんだ、ミドリー。……連れていくことはできない」
「前みたいに、モブ兄の指示に従うから……! あたしだって、まだ戦える──」
ミドリーが背筋を伸ばす。
俺の返事を待ちきれず、半歩こちらへ踏み出した。
隣で、アリスが首元に指を添えたのが見えた。黒手袋の指先に、黄色の魔力光が走る。
それだけで、俺は誰を呼んでいるのか察しがついた。
やがてアリスは手を下ろす。俺、いやミドリーに向かって彼女は告げた。
「──シルヴェットさんを呼んだわ」
ミドリーの目が、俺の肩越しに廊下の奥へ走った。
すぐに俺を見上げ、左袖を掴む。指が布をたぐり寄せ、肘のあたりが引きつれた。
「待って、モブ兄。エッタがあんなことになって、リオラまで……。ふたりとも、あたしが守らなきゃいけないのに。あたしが助けに行かなきゃ、誰があの子を……!」
声が裏返った。
涙が頬を伝っても、拭おうとしない。袖を掴む手にもう片方の手まで重ね、俺が口を開く前に、さらに言葉を継ごうとする。
だが、息が続かなかった。浅く吸い込む音の合間に、お願い、とかすれた声が漏れた。
エステルさんたちにも、諦めろとたしなめられたのだろう。ひとりで来たことがいい証拠であると、俺は目を細めた。
それでもミドリーは母親として、家庭を守るものとして、責任を果たそうとしている。
俺の袖を握る両手が震えている。
その手に、最後まで盾を握っていたエッタの姿が重なった。
(ミドリー、エッタ……)
村が生還祭に湧くなか、ミドリーとエッタだけ取り残されている。
そのつらさを思うと、胸の奥が痛んだ。
俺はかぶりを振る。袖にすがる手を、振り払った。
「どいてくれ。俺たちがリオラを助ける。お前はここで待ってろ──」
「お願い、モブ兄。お願いだから……」
俺が扉へ向かおうとすると、ミドリーは一歩退いた。
閉じた扉に背中を預け、両手のひらを扉に押し当てる。
俺は足を止めた。
ミドリーは濡れた目で俺を見上げ、何度も首を横に振った。
「どけ!!」
俺の怒号に、ミドリーの肩がびくりと跳ねた。
それでも、扉から離れようとはしない。背中を押しつけ、震える唇で、いや、と繰り返す。
もはやミドリーは目的を見失っている。これ以上、ここで足止めされているわけにはいかない──。
俺は奥歯をぎりと噛み締めながら、前に出た。右手を上げかける。
ミドリーが息を呑んだ。俺を見上げたまま動かない。濡れたまつ毛の下で目が揺れ、唇がまた、お願い、と動く。
──エッタと三人で迷宮に潜り、俺の指示に応じて大剣を振るっていたミドリー。
その姿が不意によぎる。俺の上げかけた手が、止まった。
その一瞬に、アリスが横から踏み込む。
ブーツが床を鳴らし、赤い外套が翻る。
乾いた音が、玄関に響いた。
平手を受けたミドリーの顔が横を向いた。
息が途切れ、扉に押し当てていたミドリーの手が、力なく落ちる。
「え……」
ミドリーは顔を横に向けたまま、目を見開いていた。
頬を押さえることもせず、薄く開いた唇だけが動く。だが、その先の言葉は出てこなかった。
俺にもアリスにも視線を戻せず、その場に立ち尽くしている。
「もう諦めなさい。あなたの同行は認めない。もう決まったことよ」
アリスが手を下ろした。
声を荒らげることもなく、ミドリーを冷酷に見ている。
俺も上げかけた手を下ろす。手袋の中で、いつの間にか、指先がこわばっていた。
「ミドリー様……」
マリーが進み出て、ミドリーの肩を支え、壁際の床に座らせた。
ミドリーは背を壁に預け、頬を押さえたまま俯く。小さく、また娘の名を呼んだ。
玄関の前が空いた。
俺は取っ手へ目を向けたが、まだ手を伸ばせなかった。
俺の袖には、握られた皺が残っている。
腕はもう自由なのに、布を引かれていた感触が消えない。
会議室のほうから、足早な靴音が近づいてきた。
振り返ると、右目を包帯で覆ったシルヴェットが、鴉羽マントを揺らしてこちらへ向かってくる。
彼女は壁際のミドリーに目を留め、それから俺へ小さくうなずいた。
俺もうなずき返し、声を落として告げる。
「……ミドリーをお願いします」
「わかった。こちらは引き受ける。君たちは行きなさい」
シルヴェットがミドリーの傍らに膝をつき、マリーに代わって肩を抱いた。
その腕に支えられても、ミドリーの目は俺から離れなかった。
頬を押さえる指の隙間に、涙が伝っている。
俺は、その目を見て答えた。
「俺を信じろ、ミドリー。リオラは必ず救い出す」
返事はなかった。
ミドリーはシルヴェットの腕に指を掛けた。何かを言おうと息を吸い、そのまま俯く。肩を抱く腕の下で、彼女の背が小さく震えた。
マリーが戻ってくるのを待ち、俺は玄関の扉を開けた。
足元に、再び白い陽光が広がる。
敷居を越えると、生還を祝う歓声が一段近くなった。
建物を離れ、俺たちは浮遊帆船が停泊する船着場へ足を向けた。
生還祭の歓声と笑い声が、通りにあふれている。
隣を歩くアリスが、黒革の首輪のすぐ上に指を添えた。
黒手袋の指先に黄色の魔力光がまたたき、首輪の金環を淡く照らす。彼女から通信が入った。
俺も首元に指を当て、応じる。
【──本来なら、さっきのはあなたの役目よ?】
俺はうなずく。扉を塞いだミドリーの頬を、アリスが叩いた件のことである。
俺が上げかけた手を止めた一瞬に、彼女が代わって動いた。
【……わかってる。助かっ──いや、悪かった。先にやらせて】
【手を出そうとしたところは及第点。あなたの母親なら、即座に黙らせたでしょうね】
母さんからの拒否なら、ミドリーも同行を認めさせようと食い下がらなかっただろう。
俺は唇を引き結んだ。左腕を振るたび、よれた袖が肘に触れる。
【だろうな……返す言葉もないよ】
【リーダーなら、もっとしゃんとすることね。あなたならできるわ、モブ。あなたはただの男じゃないでしょう?】
【わかってるよ。……いろいろありがとう、アリス】
【ふふっ、どういたしまして。……カミラたちはいつでも出れるって言ってたから、急ぎましょ?】
アリスが首元から指を離し、通信を切った。
俺も手を下ろし、船着場へ足を速める。
喧騒を抜けたところで小走りになると、アリスも隣で歩調を合わせた。
すぐ後ろから、マリーの靴音が続く。
──あたしが守らなきゃいけないのに。
ミドリーの言葉が、耳から離れない。
〈女神の呪い〉で男が力を得にくい分、この世界では女が家族を守る責任を負う。
そのためにミドリーは、夫が傷ついたことも、娘をさらわれたことも、自分が守れなかったせいだと受け止めていた。
家族を守れと求めておいて、奪われたら今度は諦めろと言う。
そんなふうに割り切れるなら、あんな顔で俺にすがったりはしないだろう。
今度は村に着いた日の、エッタとリオラの姿が浮かぶ。
──モブ兄さんがいるなら心強いよ!
──モフ! モフ!
桟橋で、リオラはエッタの腕の中から手を伸ばし、俺の外套を引っ掴んできたのを思い出す。顔を近づけた俺に、リオラは手をばたつかせながら、幼子らしい声をあげていた。
リオラはまだ、十分に生きちゃいない。
だから、やれることは全部やっておきたかった。
俺は手袋を破かんほどに、拳を握る力を強める──。
行き先はリヴィエ地下迷宮で間違いない。
だが、カナメとリオラがどこに囚われているのか、生きているのかは、まだわからない。
どうか無事でいてくれ。そう願うほどに、拳に力がこもった。
(『闇の華』──。見つけ次第、ぶっ殺してやる……)
追跡しているルールルーの横顔を俺は思い浮かべる。彼女の無事と成功を強く祈る。
握り締めていた手を緩め、俺は短く息を吐いた。
背後で祭りの歓声が遠ざかり、俺たち三人の靴音が道に響いた。