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三月の第二週。
区立葉瀬野小学校・卒業式。
九十代まで
……ついこの間までドッジボールをぶつけあっていた彼らもお洋服をおめかししてるが、大体がそのまま近隣の葉瀬中へと進学するのが確定している。葉瀬第三中に一部学区の関係で行く子もいないではないが、そういう子はそういう子で涙を流していたりするものの、全体としてはそこまで緊張はなかったりした。
「じゃあ、またな~!」
「おぅ~!」
普通にクラスメイトだったり、男友達だったりと手を振る。そう、本当に特に何もなく一緒に進学するので、「また休み明けにな!」くらいの適当なノリなのである。
基本、学校にいるときはドッジボールをしているヒカルなので、このあたりの繋がりは
仮に打ったとしても途切れ途切れになるし、全員が全員棋譜を覚えていられるわけでもない。
ある時期、自分の子供たちに碁を教えている時に子供が全然自分が前に打った棋譜を覚えていないのを何度も何度も目の当たりにしているヒカル。あかりから「みんなふざけてるとかじゃないから怒らないで、
「なんっつーかなぁ……。こう、気が付いたら中学の入学式やってたような記憶があるから、頭がどうにかなりそうだぜ…………」
特に
……なんならアキラが訪ねてきた日と中学への入学式の日が記憶の中でミックスされてそうなのだが、指摘出来る存在は誰もいないので野暮な話だった。むしろ、覚えていることを褒めるべきかもしれない。
「ま、まずは一つ一つどうするかだなぁ……。今回は二年とかで、外来にするかな? 夏の海王中の大会は全体の棋力的に間に合いそうにねーし、冬が勝負として、三谷もどうすっか。……外来だと
……そういやこの間はアキラ来てなかったな。そろそろ名人もイベント慣れさせっかなーって思ってたけど。何か用あったのか? 今度囲碁サロンで聞いてみるかな……」
「ヒカル~!」
「ん、何? お母さん」
ブツブツつぶやくヒカルは、卒業証書の入ったケースに目を落とす。と、そんな彼に両親が声をかける。写真撮影のためにどうだこうだと言われているのにあーでもないこうでもないと焦れてるヒカルである。
そんな進藤家の様子を見てる、女子グループ。……具体的に言うと、あかりが混じってるグループだ。
卒業式でもとにかく隙さえあればヒカルばかりを見ていたあかりを取り囲んで、きゃーきゃーからかっている。
「も、も~う、止めてったら久美子ってば」
「で、で、で? 実際どういうカンジになってるの? 何か、男子が夫婦ネタとかヨメネタとかでからかっても、進藤全然動揺しなくなってるじゃん?」「
「うぅ~……」
なんならすでにプロポーズかまされてるところまで話が進んでるとか、この後両親含め両家で一緒に昼食予定だとか、当然のようにそこまで想定はされていない。されていてたまるかという話だが、あかりとしては絶対からかいのネタにされるのがわかりきってるので、口に出すことが出来ないでいた。
ただ、ヒカルの振る舞いに関しては確かに変わった。以前二人で登校して教室に入れば「おっ今日もフーフなかよくだな~」とか言われてたのに「ちげーよ!」とか言ってたのだが、最近は「おぅ」くらいの雑な応じ方になっている。暗に否定していないところに隣のあかりの方が顔を赤くしてるくらいだが、ヒカルが完全にナチュラル対応なのでむしろ冗談ととられてるかもしれない。
…………まあそもそも、あかりに関しては以前の否定の時だってちょっと顔を赤くしていたので、そのあたりの差があまりないのも気づかれない理由だったりはするのだが。
「でも進藤って、何かジジクサイのやってるじゃん?」
「じ、じじ?」
「そそ、
「あっ! でもお母さん好きだよ、ずっと4しかできなくってなかなか3と4にならないけど」
それ五目並べじゃないかな、とツッコミを入れつつ、あかりはヒカルの方を見る。
ふああ、とあくびをしたヒカルの表情は気が抜けていて……、碁を打ってる時の張りつめたような顔も格好良いけど、こっちの方が落ち着くなと微笑んだ。
先日のジュニア囲碁交流会。あかりは途中、午後の部でヒカルと一緒に、こども名人の磯部の碁を見ていた。こども本因坊の大会の予選だったかはちょっと記憶が怪しいが、何故かヒカルが気にしてるようだったので理由を聞いてみた。
『ありゃ……、まあ、アキラがちょっとやっちまったからな。不幸な事故みたいなもんだぜ』
『塔矢くん?』
聞けばそれこそ、アキラと対局して自信を無くして自分の碁を見失っていたのが気にかかったらしい。決して同年代として見れば弱いわけではない(少なくとも加賀よりは下だが)が、ここで折れるのも勿体ないと感じさせるセンスをヒカルは感じていた。
だからこそ大画面で分割されて表示されるこどもたちの対局の一つ一つを見渡して、途中でその磯部の一局から詰碁の問題を出されてあたふたしたり(例によってマグネット碁盤で)と、これはこれで悪くはない。
午前の部で何人かと打って、十九路盤で勝てたのは一勝だけ。けれども、それでも初めて勝てて、そして楽しかったのだ。
その話をヒカルに昼食の時にしこたまして……、ヒカルが「新しくできた友達!」と連れてきた和谷
『やっぱ試行錯誤して初めて勝ったときって、何か違うよな~』『だな。和谷もそういうのあるか?』『そりゃ進藤お前、しょっちゅうしょっちゅう! うち、森下先生の勉強会だってみんなプロだし、検討で何度もへこんでら』『ははは! あかり、全然まだその境地までは行ってないだろうけど、楽しかったろ?』
ヒカルに聞かれて、うんと、素直にうなずくことが出来た。
今までヒカルに教えてもらってきたものや、間近で見ていたヒカルの碁。それだけじゃなくアキラも含めてアドバイスしてもらったりしたりといった経験が、ほんのわずかな糸と糸とにつながったと、打ってて素直にそう思えた。
頭の中で、見えなかった何かが見え始めたような気がした────不思議と、その感覚が嫌いじゃない自分に気づけたのだ。ああ、だからヒカルは碁が好きなんだろうなあと。……ヒカルに対する理解が深まったような気がしてそっちもそっちで嬉しかったりした。
最初はヒカルとあかりがイチャイチャしているのを「お、ぉう……」とか「本当にコイツと仲良くなれるか、俺……」とか何とも言えない顔で気まずそうに見ていた和谷だったが、彼も彼であかりが碁を楽しめるようになってきたという話を聞いて態度が一変。ヒカルに対してもそうだが、気やすい兄貴分といった感じで色々面白く話してくれて、わからないなりにあかりも楽しめていた。
初の交流会としてはこの段階でだいぶ成功というか、ヒカル関係なしに楽しめている自分をあかりは意外に思っていたりもしたが。
『まあ、こーゆー所は売り込み的にやってても不思議じゃないと思ってたけどなぁ……』
『ヒカル?』
どこかあきらめたような目で、会場の一点を見つめるヒカル。自然とあかりもその視線につられる。販売スペース、主に親子連れ向けに足つきの碁盤など販売している場所のようだ。
その一角、カヤの碁盤のエリアが安いものでは5万から40万までの幅で売られており、金額のけたを数えてあかりは目をまわす。
とはいえ碁盤自体がとても綺麗なのは見た目でわかるので、高いのはそれなりの理由があるってことなんだろうと思ったのだが。
『
やはりよくわからないことを言うヒカルは、あかりに少し待っていろと言う。
碁盤を打っているところに顔を出して、ちょうど十数万の碁盤を買いそうになっている親子に声をかけていた。……何を言っているかは聞こえなかったが、業者さんなのかちょっとぽっちゃりしたオジサン相手にしばらく何か話してるヒカル。
ちょうどそんなタイミングで、午前中対局していたメガネに三つ編みの子が「ほうほう、何やらありましたかな?」と楽し気に声をかけてきて、ちょっとどきりとしたり。主にヒカルの方をじっと見つめてるのをからかいにきたようだったが、話しているヒカルと業者の姿を見てメガネをくいっと持ち上げる。
『何やら雲行きが怪しいご様子……、ほほう御器曽七段ですな』
『えっ?』
名前を言われても誰が誰なのか、子ども新聞とかに取り上げられてるようなのじゃないとよくわからないあかり。磯部についてもそう、子ども新聞で名前が挙げられていたから覚えているので、その
あと、三つ編みのこの子の喋り方が何か変だ。こんな話し方だったっけ? と少し首をかしげるあかりだった。
しばらく親子を横にして、ヒカルと業者とその御器曽とかいう悪そう(?)な顔したプロっぽい人と話していると、場所を移すことになったらしい。午後の交流スペースに向かうヒカルの後を、あかりと三つ編みの子は一緒に追いかけた。
『離れて見てろと言われたと?』
『う、うん。ちょっと行ってくるからって』
『正解ですな。私も
『ち、ちちうえ……?』
『あのプロの方は少々、悪いうわさがおありとのこと。……それはそうと、だいぶ場慣れしてるような』
小馬鹿にしたような御器曽に相対するヒカルは「そういや名前、桑原のじーさんと一緒なんですね。からかわれたりしません? 緒方さん相手にあれだけ煽るし」とか飄々と雑談をふる始末。自分のことを知ってる子供だったせいか、態度は悪いながらも御器曽もやや上機嫌に「若いころは番外戦術で散々揉まれたとも……、いや彼がたまにクソじじいとこぼすのも判る」などと、ヒカルとともにまあまあ楽しそうに話しているように見える。
だが、あかりには分かる。談笑してはいるが、ヒカルの目はずっと
お願いしますと頭を下げるヒカルに、軽く会釈する程度の御器曽。
その手合いは……、あかりにはよく意味が分からなかった。
扇子を取り出したヒカルが
いくつかヒカルから教わった定石が見ては取れたが、何がどうなってこういう打ち方になっているのか、全く予想できないことが何度も何度も。
三つ編みの子も「これ新手ではありませぬかなァ!?」とか小声で驚いたり「あじゃぱー!」とかよくわからない声を上げたりしながら、ヒカルの打ち方を見て。
『さっき番外戦術って言ってたけど、桑原のじーさんって秀策とか詳しいのかな』
『ん? いや、そういう訳でもないんじゃ────』
『御器曽さんは詳しいよね。前に週刊碁で書いてあったサインみたけど、わざわざ
『………………、いや、そこまで子供じゃないぞ。というより、盤面に集中しろっ』
どうしてか、慌てた声を上げる御器曽。
ヒカルは微笑みながらも、やっぱり目だけはずっと据わったままで。
『……………………』
『最後の最後、
そして、最後の最後でまさかの逆転だった。
途中までは互角のように見えた打ち方だったのだが、ヨセの段階だったはずなのにヒカルはいきなり猛烈な牙を向いた。あわや、突然四方ともに地がコウになったり囲われたりといったことが
当たり前のような顔をして、ヒカルはその御器曽とかいうプロに勝っていた。
以前からアキラがあれだけヒカルのことに
隣の三つ編みの子が、メガネを何度もつけたり外したりしながら、盤面とヒカルとを見て絶句しているのだから。
『……秀策、詳しいみたいだな。よく並べたりするのか?』
『詳しいよ、秀策。
片付けながら、ヒカルは御器曽と目を合わせず。今度こそ、その表情から笑顔を消していた。
……いつか
一度とある事情からそれを糾弾する立場に立ったヒカルと佐為。その過去が、佐為が消えてから改めて彼のことを
ただ、そうは言えど…………、二十代の本因坊戦の少し前、改めて過去の棋士たちの棋譜の勉強をする際に和谷や倉田たちが持ってきた棋譜の中に、それは存在した。御器曽
それを見て、むしろヒカルは衝撃を受けたくらいだ────棋力もそうだが、当たり前のように秀策流の布石を使って、上の段にいる棋士を相手に読み勝ち、先手有利の盤面を最後まで維持してのし上がっていったその棋譜。なんなら順当に、本因坊秀策リスペクトと言われそうなその棋譜がヒカルにもたらした感想は、とても苦いものだった。
『俺、昔のあなたの棋譜、嫌いじゃないよ。森下八段に負けてから伸び悩んだみたいだけど、それまでのやつはどれも、ものすごく中盤の読みが鋭くて』
『………………』
『もう若かったころの碁は打てないって、中山さんとの対談で笑って言ってたけどさ。あんたのその碁は、俺がつなげていくよ。未来に。バトン渡すみたいに。
だから……もっと
『……生意気言いやがって、フン』
そう言いながら、メモにさらさらと何かを書いてヒカルに渡し。御器曽は目を覆って、少しだけ肩を震わせていた。
席を離れるヒカルは、もうそんな御器曽のことを振り返らなかった。
「……あかり、もしかして本当に進藤と何かあった?」
「…………ふぇ!? な、何が?」
「いやだって、今、すーごいただならぬ? 感じだったし?」
茶化すように言う友人の言葉に、あかりは表情を上手く作れない。
あの後、御器曽からもらったメモを見せて、あかりに碁盤を格安で買ってくれたヒカルだったが(※足つきで三千円前後)。父の車にそれを詰め込んで送ってもらう帰りに、車中でぼそりと教えてくれたのだ。
『これ、カヤって言って売ってたけど違うやつ。だからちょっと賭けしたんだ。俺が勝ったら適正な値段で売れって』
『あ、だから値段張り替えてたんだ……、でも何であの、悪い人みたいなプロさんと?』
『あのプロが黒幕……と言うか共犯だから? 詐欺の』
『ダメじゃん!』
『ダメだよ。けど、アマの言葉取り合ってくれる人がどれくらいいるかわからなかったし、一部は本物っぽかったから多分、ちょっと間違えたとか言って言い逃れする気マンマンだったし。
けど、少しはああいうこと止めて、ちゃんと打ってればなぁ…………』
行き詰ったなら限界を超えるために自分に出来るあらゆることを探すくらいはしろってんだよな、少なくとも
ヒカルにも、あかりが知らないだけで何か悩みがあったのだろうと、伺わせるだけの暗い響き。怒りとかではなく、ただとてつもなく遠くを見つめているような……、何かを悼むような、そんな声音のヒカルに、その時のあかりはそっと手を重ねて握った。
そんな交流会帰りを思い出して、あかりは一度深呼吸。
「……もっと、ヒカルが見てるものが知りたい。私、ヒカルのことは誰よりも見ていたいから」
「ん? えっと……あかり?」
「ごめん、久美子。みんなも、もう私行くね?」
じゃあまた今度遊びにいこうね~! と言いながら、あかりは笑顔で手を振ってヒカルの方へと駆けていく。
そんな姿を見て、彼女とそれなりに仲の良い久美子はぼそりと「オトナっぽくなったなー」と、少し不思議そうに、感慨深そうにつぶやいた。