昼食時間。
別室でマグネット碁盤を出して一回戦の相手だった岩名中の大将(鏑木といったか)と検討をしているヒカルであったが、その隣には珍しくアキラの姿はない。基本、ヒカルの打つ碁なら興味津々ですぐ近くによって一緒に色々と感想を言い合っていそうな彼であったが、今日ばかりはそれを止めざるをえなかった。
なぜなら、こう……。
「ヒカル、あーん!」
「あー、ん。……で、ここは白番の方でコスミに打つ方がむしろ効果としては味が悪くないっつーか、こう…………って、どうした? 三谷はともかく夏目まで」
「いやお前、状況ちったー考えろ進藤!?」
そう、あーん♡ である。
あかりがヒカルの隣で、検討に集中して食べるのをおろそかにしているのを見て、思わず弁当箱に箸を伸ばして食べさせていたのだ。全員分の弁当を作ってきたあかりだが、それを食べるより対局を優先させるヒカルに文句すらつけずにお世話に邁進していた。
アキラはアキラでもっと幼少期、父・行洋に母・明子が似たようなことをやっているのを思い出してか、頬を赤らめながら後方で苦笑い。なんとなく邪魔するのも忍びない、といった感情か。
……そしてそこまで色々と
対戦相手だった鏑木は呆けた表情でヒカルたちの様子を見てるし、ざわざわとしてる室内は「番外戦術か!?」と何やらズレた意見も聞こえる。ちなみに身内も筒井は困惑、夏目は諦観、三谷は赤面ともはやどうしようもない。それくらいには、ヒカルの隣であかりは幸せオーラを振りまき大層魅力的な笑顔を浮かべているのだった。
やはりざわざわとしている室内。ヒカルに集まる視線も様々な色味を帯びてはいるが……。
「……ま、
「ヒカル?」
「何でもねーよ」
脳裏に過るのは当時本因坊だった緒方精次。アキラがとった名人タイトルへの挑戦を前に、後ろから突き上げてくるように改めて対面したヒカルを見据える、その人を殺しかねない眼光を。むろん、ヒカルもヒカルでその思い入れも意気込みも人一倍────
なお結果としてだが、その時のことを比較対象とすれば、有象無象の視線など大したことはない。結果としてストーカー被害にも問題が出てくるまで気づかない弊害も出たりして、対策としてあかりが住み込みでチェックしたりサポートしたりという流れにはなったりしていた。……あかりに関しては大学院卒業後。株価の数字をニュースでよく見るようになり、誰もが安全な職を求めていた時代────要するに
付き合い自体は中学の頃よりは薄くなっていたものの、時折あかりが顔出しに来たり、初詣はヒカルの母親が気を利かせて一緒に行かせたりといったことが何度かあったのも影響はしていそうだ。つまりは、つながりが完全には切れなかったということ。
閑話休題。そういった経験からくる
教職員も同様に控室で食事をとっていたりするが、別にヒカルとあかりもこの場においては
ともあれこの状況、ツッコミを入れた三谷が矢面に立って色々ぶつくさいう流れになってしまっているのも仕方ないと言える。
「全く何でオレたちだけこんな変な気分にさせられてんだ……」
「ん? いや別に、
「これがフツーとかお前……」
「どうせここにいるのだって、部活外で
そんなヒカルの発言に、びくりと震える人数が何人か。
少しはアキラのように「えっ?」とニコニコしながら困惑している姿を見習え。
「ま、中学生だしな……、って、それよか美味いなこの
「よかった! 私、手作りだから」
「味玉は結構簡単に作れるのは知ってるからアレだけど、焼豚もちゃっかり煮豚タイプだし、いやフツーにスゲーわ」
「えへへ~、えっへん!」
挙措が子供じみている。子供じみているが精神年齢が低いというわけではなく、わざとなのはヒカルにはなんとなくわかる。二人きりで部屋で話したり碁を打ってる時よりも子供らしい言動なので、おそらく公然とヒカルとイチャついて
そんな必要ないだろと思わなくもないが……、将来的に(?)三十代で子供二人の前でもこの調子でイチャイチャしてくるよりはまだ年齢相応という言い訳が立つので、ここは好きにさせておくことにするヒカル。
「っていうか何でチャーシューと味玉なんだよ、こっちシナチクじゃねーか!?」
「何でって……、俺がラーメン好きだからじゃねーの? 筒井さんも夏目も三谷も、美味いだろ。あかりの手作りだし、ありがたがっといてくれよ~」
「えっへん!」
「もう何っつーか、何からツッコミ入れたら良いかわからん!」
うあ~! と頭を抱える三谷と肩をぽんと叩く夏目。ごちそうさま、と苦笑いしながら如才なく微笑む筒井も目元をよく見ると視線が泳いでおり。
「というかそんなことより検討だ検討、定石定石! で、どのあたりがわからないんだ?」
「え、えっと……」
「何だよ? ……あー、別に番外戦術仕掛けてる訳じゃねーんだから落ち着けって」
「いや、うん、そうだけど…………」
「ちなみにさっき打ってたところだと────」
「えぇ? 本気で続けるのか……。ああ、じゃあここは星から────」
そんな状況で、何か打ち合わせをしていたらしい日高と岸本がそろって戻ってきて「何事!?」となるのも、無理からぬ話であった。
どちらかと言えばここまで極まった囲碁馬鹿の方が珍しいのと、なまじあかりの容姿が良かったので仕方ない……。
※ ※ ※
『塔矢がいなくなった後の体制の話? ……意外ね、てっきりもう囲碁なんてどうでも良いのかって思ってたけど』
別棟と本校舎の渡り廊下。大会が開かれている会議室のある別棟からほどほど離れた場所で、岸本薫は日高由梨と話していた。
背中の側に手をやり、上目遣い。からかうようにニヤニヤする日高に、岸本はメガネを抑えて表情を険しくする。決して向上心を失ったわけでもないのにそういうからかわれ方をするのは心外だ、という意思表示だ。そんな彼に日高は姿勢を戻して腕を組みなおした。
『だって、以前のあなたなら部室で一局打ってたと思うもの。美和くんですら対局した後、アドバイスされたり色々やったら、久野くん抜いちゃって男子の方の副将じゃない?
で、逆に久野くんは塔矢と打つのから逃げたからそのまま落ちちゃって、青木くんから慰められてる。こんな状況で、塔矢と打たないあなたなんてどう評価したら良いのかしら?』
『勘違いするなよ。打ちはした。…………対局中に1段飛ばしで進化する相手と打つというのも、中々得難い体験だ』
『……? どこで?』
『塔矢の家で』
『はァ!? えっそれって、塔矢プロの家ってことじゃない? 何で呼ばないのよ!』
何それうらやましい、と思わず詰め寄り首をがくんがくん揺らす。葉瀬中の対戦カードが出てきた時点で、女子側のリーグにあちらが参戦しないことがわかってから、アキラは露骨に男子側の方に注力するようになった。いわく「万全を期すならこれが定石です」とのこと。
おかげで指導(?)が中途半端な日高は少々プリプリしている。ただいら立ってはいるものの、アキラの言うことが真実であればその言い分が正しいことはわかっているため、そこまで強くは言えないのだった。
そしてたまった鬱憤をこうして岸本にぶつけている訳だが。
苦笑いして、岸本はメガネを抑える。
『大会に出るなら、だれが実力者かというのを思い知らせる必要もある。だが今の塔矢は外部顧問のような立場だ、いたずらに部内の士気をしっちゃかめっちゃかにする必要はない』
『なーにがしっちゃかめっちゃかよ。どうせ打ったって言っても毎週は打ててる訳ないじゃない。参戦メンバーで一番、塔矢と打ってないのなんてあなたでしょ?
それこそ、美和くんが一番打ってたわけだし……、大丈夫なの?』
いぶかし気な彼女に、岸本は苦笑いが深くなる。こういう少女なのだ、彼女は。言葉は飾らず棘があるものの、何だかんだと気になった相手のことをしっかりと見る。塔矢アキラと最初に打とうと部室で言い出したのも、後輩の女子生徒たちが
思えば二年の中頃、院生を辞めて囲碁部に再入部した自分もこうして気にかけられた一人だ。そもそも早々に首位になりそうだった伊角はともかく(対局すら出来なかった)、気安く接してくれていた和谷を相手にもロクに打てた試しはない。
そのことを自覚しているからこそ、岸本は
『意外と、塔矢はいい刺激になってくれた。だからそうだな……、俺はここまで積み上げてきた俺で、一区切りしたい。次に進むか、それとも止まるか含めて』
『…………前にも言ったと思うけど、私、昔の岸本くんは好きよ? どんなに力が足りなくても、前に進もうってところが』
『そう言われたな』
『でも今の岸本くんは、嫌いよ。空々しいのよ、言ってることが』
『………………』
『一回戦で私と対戦した子もすぐ投了しちゃったし、そうだったけど。やっぱりどこか諦めてるのよ。
院生での挫折から立ち直ろうと頑張ってた時の岸本君と、立ち直った後に空っぽになっちゃった岸本くんじゃ、言葉の重みが違う』
そう言われてもな、と苦笑いする岸本。
事実じゃない、と視線を逸らす日高。
『部長の職責と大将の職責は、こなしてるつもりだが』
『
あのころの岸本くんはどこに行っちゃったのかしら、と。
少し寂しそうに微笑んで、日高は踵を返し。……本題が何一つ進んでいないが話続けられるテンションではなさそうだと、岸本はため息をついて後を追った。
まあその直後、進藤ヒカルと
昼休憩も終わり、並ぶ各校の2回戦出場者。
三将戦────海王中・青木 対 葉瀬中・筒井。
副将戦────海王中・美和 対 葉瀬中・三谷。
大将戦────海王中・岸本 対 葉瀬中・進藤。
それぞれ対面する中、横並びになった各人が開戦前にやや雑談。筒井という部長の彼は、三将ながらも
隣の美和が縛った後ろ髪をさらに締めなおして、一瞬自分に視線をふった後に目の前の三谷というらしい子を見やる。こちらもやはり煽り効果かギラギラした視線を向けてきており、それに対して美和も楽しそうだ。
そして岸本は岸本で、対面する進藤ヒカルを見やる。
「…………」
自分の手のひらを見つめて、ぐっと握るヒカル。と、不意に彼は自分を見て「この間はスンマセン」と軽く謝ってきた。
「……いや、流石にどうこうは言わないよ。芦原プロや緒方プロ相手に多面打ちを強要されてては、流石に気が引けた」
「いやそれ含めてっス。だから、一回戦の子にも聞いたんですけど、こっちも聞きます。
その言葉に、岸本は迷わず答えた。
「挑戦コースとやらで」
「……えっと、言っといてアレなんですけど良いんスか?」
「手加減はしない…………、もしかしたら俺が分からないような手加減はするかもしれないが、それでもそちらの方が、より高みに立った打ち方なんだろう」
何だか変な言い方するな、とぼそりとつぶやくヒカルに、岸本はメガネを拭きながら苦笑い。何だか最近ずっと苦笑いしてる気がするが、これも年上の性かと苦笑いがさらに深まる岸本だ。……なお、その調子だとほうれい線深くなりそうだなとか目の前のヒカルに思われてたりするが、さておき。
「他の学校ではたまにあるんだが、三年になっても受験はさておき冬の大会に出る生徒もいるんだ。棋力に自信がある人は、受験勉強位で落ちると思っていないだろうからな」
「あー、まあ、そうっスね」
「そして多くはその上で、以前は勝てていた他校の子たちにやすやすと敗北する」
「…………」
「わかるかな。例えどう今後動くにしても、嫌が応なく一度はここで足止めを食らうことになる。わかるかな、進藤ヒカル。
始めてください、と教員から声をかけられ、じゃらじゃらと石をニギる中。
いまだに小声ながら会話を続けてる二人に、海王と葉瀬それぞれ四人の視線が集まる……、四人と言いつつ三谷とヒカルの背後にはもう一人ずついるわけだが。
「俺の青春の、今まで続いてきた歩みは、全身全霊の一手は今、この時をおいて他にないんだ」
岸本の打ち筋は比較的、受けの碁だ。カウンタータイプというには烏滸がましいが、相手の打ち筋をもとに癖や弱点を分析して打つのを基本としている。そういった相手の打ち筋に対するヨミの深さならだれにも負けないと、院生になる前は自負があったくらいだ。
だからこそわかってしまう。
若さによって生じる粗削りさや勢い。
経験が足りないがゆえに生じる読めていない部分や弱点。
そういったものが、進藤ヒカルには
岸本は思う。芦原プロと打ったのを横から見ていても、ひそかに戦慄したくらいだ。戦慄して絶句して、その場で言葉を続けられなかった。
塔矢アキラですら、好む打ち筋や研究中ゆえに手順の間違えが生じるときもあるのを、打っていて理解した。その上で完璧に自分でフォローして盤面を支配するのは、なるほど流石囲碁界のホープだろうと思いながら打っていたのすら、忘れてしまいかねないほどに。
頭の中に秀策がいる、というような例え方をしていたのも、決して誇張でも何でもないだろう。
「だから、今日は特別な一局を打ちたいと。そう願っている」
だからこそ、岸本薫は
この、一度は折れて再起した自分が、当時の棋力をさらに伸ばしてもプロには指先すら届かない自分が。それでも今、限界まで進んだ自分の碁を、目の前の進藤ヒカルとの一局に持っていきたかった。
大将として背負った重圧。部長として引き継いだ責任。一介の碁打ちとしてのプライド。折られた敗北からの反発。そっと、かつて背中を押してくれた日高の笑顔。美和をはじめ、友人や部のメンバー、後輩たちの期待の視線────。
様々なものが脳裏を過り。さながら
相手が強大であればあるからこそ、そうでなくてはと。絶対に勝ちをもぎ取ってやるという、諦観からは程遠い
果たして、言われたヒカルは。
黒番が確定したのを確認してから、足元から扇子を取り出し、ばさりと一度開いてから閉じた。
目を閉じ両腕をやや広げ。
まるで広がった和服の裾でも直すように、ばさりと前にそろえるように伸ばし、膝の上に置き。
「──────お願いします」
どこか愁いを帯びたような……、
何故か岸本は、思わず碁笥の蓋を取り落とした。