遠い宇宙のバトンリレー   作:黒兎可

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心の穴から零れ出た

 

 

 

 

 

 いいか、あかり? ただ置物みたいに見てるんじゃなくて、俺の一手一手に(意志)の流れを感じるんだ────。

 別に特別なナニカに目覚めたりとかは必要ない、ただ盤面にどういう意志()があるかを出来る限りわかるように────。

 

 藤崎あかりはある時、ヒカルからそう言われた。付き合うようになってからちょっとしたワガママとして、ヒカルに背後から抱きしめたまま打って欲しいと懇願したときのこと。その日はちょうどヒカルの家で、二人そろってゆるく対局まがいのことをしていたのだが、その時にヒカルがそう言った。

 あかりとしてはヒカルのその発言より、自分の背中にかかるヒカルの吐息やら体温やら、腰に回され鳩尾より少し上のあたりで組まれた手のことで意識がいっぱいで色々と余裕はなかったが。さも()()()()()()()()()()語るヒカルの声音はよく覚えている。

 

 とても楽しそうで、とても寂しそうな声音を。

  

 その印象深さに引きずられてか、ヒカルが並べた棋譜については今までで一番よく覚えられていたことを驚かれて。それから時々、囲碁部の部室こと理科室でもこうして抱きしめて打ってくれるようになったりして、それはそれで()()()()()嬉しくはあったのだが。

 だからこそ今までに見たこともないような表情をして石を置いていくヒカルの姿が、あかりにはとても切なく見えた。自分の知らないヒカルが、自分の知らない碁を打っているような疎外感を感じて。

 あれだけお昼、頑張ってヒカルの好みに合わせても。その上でいかにしてヒカルにバランスよくお野菜とかも食べさせられるかと色々考えていても、こんなに気にかけていても、それでもヒカルの碁はどこか寂しいらしい。

 

 それが歯がゆく、もどかしく、あかりはそれをどうしたら良いかの答えをまだ見つけていない。

 

「………………」

 

 扇子を出すときのヒカルはきまって集中が強く、外部の音も声も何も聞こえていないし、見えていないんじゃないかという時すらある。そんな風に盤面を見下ろしたヒカルは、穏やかに微笑んでいた。背筋だっていつになくまっすぐ伸びていて、時々扇子を開いて自分の口元を隠したりもするけど、その所作は不思議と様になっていて。

 ただ、様にはなっているがどこか飾っているというか、()()()()()()()()()()()()だけは抜けきらなくて。

 

「……悔しいな、どうしてヒカルはボクにこの打ち方をしてくれないんだろう」

「塔矢くん?」

 

 と、いつの間にかやってきていた塔矢アキラは、あかりの隣に立って盤面を見下ろしている。ベストポジションというか、ヒカルの碁をこれでもかと見れる位置に立っているアキラに()()()()()()()()()()()を感じるものの。名前を呼んだ時にちらりと自分を見て、優しそうに微笑まれるとそう文句も言えない。多分だけどいつもみたいに、盤面について教えてくれるつもりなのだろうというのもわかってしまう。……というか、アキラに関しては明確に自分のことをヒカルの彼女(かそれ以上)として扱ってくれているのが分かってしまうのだ。

 

「えっと……、女の子たちの方はもう良いの?」

「うん。最後は男子にかかりきりで女子の部の方はみれなかったら、様子見って感じだったし。そこは日高先輩がいろいろがんばってくれたみたいで、ちょっと申し訳ないな……。

 えっと、あの髪の短い先輩」

「うん。………………えっと、また教えてくれる? ヒカルの碁」

「いいよ! ボクも、ヒカルの打ち方は改めて勉強になるし!」

 

 ただ、それでもちょっと不満があるわけで。あえて小声で、明示的にアキラに解説を求めたあかり。……尊重してくれるのはそれはそうとして、その割にこの初恋に浮かれる女の子みたいなキラキラした目は、ちょっとどうかと思ってしまうあかりであったのだ。

 

「岸本部長の棋力は、下位の級、下位の段とはいえちゃんと院生だ。少なくとも小さいころにボクが打った院生の子よりは高い」

「その比較のしかた、ちょっとよくわかんない」

「えっと……、とにかく決して弱い訳じゃないってことだよ」

 

 ヒカルの対面にいる岸本というらしいメガネの人。顔も良くて声も格好良くて、ただ印象としては緒方ってプロの人よりは薄いというか、そんな感じの人。()()()()()()、というと緒方の方をけなしているように聞こえなくもないが、上手い表現が思いつかないあかり。しいて言えばそう、あそこまで()()()()()()()()()()()()()()という感じだろうか。

 今腕を組んで、とても苦い顔をしながら盤面を見下ろす彼の姿を見ても、それは感じてしまう。間違いなく全身全霊で、今もてるだけの力でヒカルに挑んでいるのはわかる。ヒカルに対してそう言ってたし、だからこそヒカルだって扇子を出して本気で臨んでいるのだ。

 ただそれでも、どうしても感じてしまう薄さだけは、どうしようもない。

 

 目の前の塔矢アキラに存在する何かが、岸本薫には存在しないのだ。

 

「定石…………、いや、外すしかないか」

 

 ぱちり、と。長考からの一手を繰り出す岸本。表情は相変わらず苦く、とても真剣だ。

 対するヒカルは何も言わず、数秒考えて扇子を一気に閉じる。

 相変わらず微笑んだまま、ヒカルは一手繰り出した。

 

 悪手とも良手とも言い難い一手。意図が分からないその手に、岸本は再び長考し、また一手。

 

 ぱちり、ぱちりと、白と黒の手番が行ったり来たり。

 かしゃり、と押される時計の音が遠くなるような感覚を、あかりは味わった。

 

「盤面としては黒が優勢のまま。岸本部長の起こりにブツケるような打ち方が多いね。例えばヒカルから見て右下の方の打ち方とか。

 でも、だとしたらどういうことだ? そこで11の九……? それじゃあんまりに、いや、何かあるのか?」

「…………」

 

 いつものように表情が変わるわけではなく。それこそ以前()()()とか言ってたダメなプロと打ってた時のように、一定の感情のまま打ち続けるヒカル。

 あかりはヒカルのいつもの言い回しを思い出しながら、盤面を見下ろすように見た────星がある碁盤は宇宙みたいなものだというヒカルの言葉を思い出しながら。さながら、夜空を見上げるように。あるいは、水面に移る夜空を見下ろすように。

 

 そして、気づいた。

 

 手順も何もあったものではないが、ヒカルの石が、意思が、何を見据えているのかを。

 

「真ん中」

「えっ?」

 

 あかりがそう言った瞬間から、それこそ1秒もかからず。ヒカルの黒は天元に向かい、一手。

 ぱちりと響いたそれを見て、岸本は息をのんだ。

 

「そうか……、いやでも、ここから繋げられるのか? 本当に?

 よく気づいたね藤崎さん」

「えへへ…………、なんとなくといえば何となくなんだけど。ほら、何だろう、太陽みたいじゃない? あの真ん中のあたり」

「太陽、か」

 

 ヒカルの打ち方の癖、というか。以前、加賀を相手に打っていた時もそうだったのだが、どうにも天元を起点とした中央に対して、打っている時も打っていないときも盤面の中心を起点に全体がぐるぐると回っているような風にあかりには見えていた。

 石運びそのもの1つ1つをとらえきれないからこそ、ある意味で盤面を俯瞰するしかないからこそ気づけたかもしれないそれは。

 

「ちょっと妬けるな……」

 

 宇宙流の布石では決してない。ヒカルの布石は基本的に秀策流のものだ。

 だというのに、そういった絵図を外から見て気づいたのだとすれば。描けたのだとすれば。誰よりヒカルが自分の碁を見せていたのが藤崎あかりであるからで。

 

 ……そしてアキラのその発言に「えっ?」と、ハイライトを消した目を大きく見開いて微笑んでみつめてくるあかりに、思わずよくわからずたじろいだアキラだった。

 高段の棋士相手でも味わったことのない謎のプレッシャーがアキラの心臓を襲う……! 

 

 

  

   ※  ※  ※

 

 

 

 岸本薫のコンディションは、間違いなくこの時最高潮だった。

 今まで続けてきた碁。一度は折れかかった碁。それでも打ちたいという衝動には勝てなかった碁。自分のこれまでを否定したくない思いと、今まで繋がってきた一局一局と。あまりに多くのものが頭を過り、そして()()()()()今の彼の頭は、最高にクリアだった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()に……、これまでのすべてを出し切りたいという想いを乗せた特別な一局に、彼の胸は高鳴っていた。

 高鳴っていたはず、だったのに────。

 

(何も、みえない…………)

 

 盤面の先が、何も見えなかった。

 

 石運びだけで言えば、序盤から黒優勢のまま。白石の動きを全方位盤石に封じるように打つヒカルの読みと意図を、とらえきることが出来ないでいる岸本。かつて子供名人だった磯部がヒカル相手に感じた五里霧中の、その先。

 

 強いことはわかっていた。当然、今の自分ですら追いすがれる気はしなかった。塔矢アキラ相手にすら2局ほど打たせてもらっても負け越した今の自分で、どこまで追いつけるかと言えばタカが知れていただろう。ただそれでも、本因坊秀策()()()相手でも自分の全力をぶつけたいのだと。それをして初めて諦められる、自分の青春は終われるのだと。

 その意気込みですら、ヒカルの碁には届かない。

 

(塔矢の家で、秀策ごっこと謙遜していたな。これが秀策ごっこ……? そんな生易しいものじゃない。本当に、ここまで付け入るスキがないのか?)

 

 意図が読めない手は()()()()()。読みに自信があったかつての自分ならそう言ってのけたろうが。上位の打ち手の一局一局を見るにしたがって磨かれた岸本の目は、ヒカルの一手一手の先を読み切れない。

 さながらブラックホールの観測限界域(イベント・ホライゾン)の先へと押しやるように、自分の(意思)の向かう先すら不鮮明に落とされる。

 盤面だけで言えば、あまりに基本に忠実な秀策流の布石から始まる打ち方だというのに、すべての石がさながら自然法則めいて連関し、力点の弱い個所を作らない。

 

(視野の広さが、そもそも違うんだろうな。……和谷がたまに言ってたな、十三路盤が狭く感じたから十九路盤で打ちたかった。だから囲碁の世界(こっち)に来たのだと)

 

 対戦相手の表情すら伺う余裕がない。今、盤面という宇宙を通して()()()()()()進藤ヒカルと自分以外は、何一つ存在しない。

 それほどまでに集中してもなお、ヒカルが打つ()()()()()()()外側からの一手一手には。

 

(────追い付け、ない)

 

 

 

「岸本さん、さ。自分を見失っちゃ駄目だよ」

 

 

 

 と。そんな彼の耳に、声が聞こえた。

 ふと暗黒の渦に引き寄せられていたような錯覚すら覚えていた彼の意識は、碁笥から石を取ろうとして、いくつか落としてしまった自分の身体に戻る。

 震える自分の右手を見て、彼はとても不可思議そうにしていた。

 

 進藤ヒカルは、そんな岸本に続けて声を言葉をかける。

 

「意気込みも、すごくわかる。この一局にどれだけの意気込みで臨んでたかなんて、打っててわかる。でもさ、ちょっと違うっていうか、最後の最後が何かこう、違うんだよ」

「…………違う、とはどういうことだ?」

「終わりじゃないってこと」

 

 岸本はここで、ようやくヒカルの表情を見る余裕を取り戻した。

 進藤ヒカルは苦笑いしていた。それこそ()()()()()()()()()()()()()()()()、はるか高みから見下ろすような────見守るような、そんな目で。

 おそらく今までの棋力差からくる錯覚かもしれないが、岸本には彼の視線がそう見えた。

 

 目を閉じ、ヒカルは黒石を手に。

 親指と人差し指で側面をつかみ、自分の顔に並べて。

 

「負けて終わりだから、負けられないからっていうのでさ。前にアキラと打ってたのを見た時の良さというか、岸本さんらしさが全然出てない」

「…………そんなつもりはないんだが」

「本当に微妙なところだとは思うけどさ。だから()()()()()()

 

 ぱちりと目を開いたヒカルは、不敵に微笑んで。

 

「俺と、俺が今まで打ってきたものは盤面にしかないけど。それでも俺は、あんたの目の前にいるんだぜ? 今は少しでいいけど、自分の中からもう少しこっちを見てくれよ」

 

 何よりそっちの方が()()()()、と。

 それだけ言って、ヒカルは石を持ちかえて運ぶ。

 

 ぱちり。

 打たれた石の音が、やけに大きく岸本には感じられた。

 

 改めて盤面を見下ろせば……、そこには闇はなかった。

 

 ただ、いくつもの黒と白の星が輝いているだけだった。

 

「…………」

 

 改めて盤面を読もうとすれば、さきほどまでは見えてなかったものが見えてくる。ヒカルの打ち方の癖のようなものというか、好みというか。

 深呼吸をして、岸本は制服のボタンを外す。

 

「……済まない。どうやら気負いすぎていたらしい」

「いいって。気負うなって方が無理でしょ?」

「そうだな。…………嗚呼、もっと打ちたいな」

 

 吐露した本音が、岸本の手を動かす。

 もう、震えはなかった。

 

 形勢判断は難しい。さきほど圧倒的に不利に見えていた盤面は、まだ巻き返せるように見える。だがヒカルの今までの流れからして、圧倒的な不利には違いないだろう。それが分かるだけの棋力が岸本には存在したが。

 

「もっと打ちたかったなあ」

 

 少しだけ視界が滲んで。

 まぶたの下側が熱を持って。

 それでも気にせず、ヒカルの応手に石を運ぶ。

 

 院生時代の出来事が、脳裏を過る。「思ったほどではないな」と、果たして対面で言ったのは誰か。失望したという感情すら自分に向けられなかった、その絶望を、断絶を、何と言ったら良いか。

 逃げるように学校へ舞い戻って、それでも未練がましく部活動へ参加して。叩かれた陰口に、それでも抗う様にただ愚直に対局して。相手を見て、院生時代では決して通じなかったそれでもまだ使えるのだと、喜んで。

 先代の部長から後を託され、重荷ではあったが、それでも自分の碁を救ってくれたこの場所を守りたいと、あまり好きではなかったが引き受けて────。

 

「打てば良いじゃん」

 

 受験生を相手に軽く言うようなヒカル。

 ぱちりと、自分の(意思)の前に立ちはだかる()()()(意思)

 

「そんなに簡単なことじゃないんだ」

 

 どこまで自分のこの不甲斐なさが、もどかしさが、未練が────()()()()()()()()()()()()()()()、プロを目指したかった、ただ抜け落ちたはずの心が。胸の穴からこぼれ、目に滲み、頬を伝う。

 

 岸本の心を知ってか知らずか。一手一手、相対するように打たれる黒石。

 その壁を、どんな壁でも超えてやると、食らいつくように置かれる白石。

 

「それでも俺たちは打つしかないじゃん」

 

 それでも、岸本が意図しなかった場所に置かれた黒石は。

 

「だってそれが、俺たちでしょ?」

 

 嗚呼。

 続けられたヒカルの言葉に、岸本は深く息を吸って、吐いた。

 

 

 

「……ありません」

 

 

 

 その表情は……、いっそ日高すら見たことがないほどに、晴れやかなものだった。

 

「…………よく打ったね、岸本君」

「……(ユン)、先生」

 

 岸本の肩を叩くのは、海王中の顧問たる尹。

 そこでようやく、決勝でもないのに人だかりができているのに気づいた岸本。……だからヒカルの背後に立つアキラはいったいどの陣営なんだというツッコミは野暮かもしれないが。あちらも顧問らしいメガネの女教師が、腕を組んで岸本とヒカルを見てうんうんと頷いていた。

 

「君が院生を辞めた時、何かを失ったと言っていた。……取り戻せたかな?」

「…………わかり、ません。だけど────」

「この一局はきっと君を強くしてくれる。だから負けたとしても、今は誇りなさい」

「ハイ……、…………ッ! でも、それでも────」

 

 それでもせめて終局までは行きたかったと。

 もっと食らいつきたかったと────この胸の、焦がれるような感情のままずっと、打っていたかったと。

 

 言葉にならない言葉に心揺らされながら、そのまま岸本はその場で涙を流した。

 

 

 

 ………………なお、とはいえ空気ぶち壊しにはなるのだが。ヒカルの後ろで、そんな岸本を見ながらバツが悪そうな三谷と筒井。困ったように微笑むアキラやニヤニヤと筒井を見つめる日高はさておき。

 団体戦としては葉瀬中の1勝2敗。塔矢アキラの効果がしっかり出たため、ヒカルたちの敗退が確定しており。

 

 これからどんな顔をして次も打てば良いのかと、微笑みながらも少し八つ当たり気味にヒカルは文句を言われ。岸本の感情を思えば、ヒカルとて流石に苦笑いを浮かべる他なかった。予想通りうまく運ばないのも人生である。

 

 

 

 

 

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