結局その日、ヒカルは緒方とは打たなかった。
あかりの指導碁が終わって早々、三人はすぐさまヒカルの背後に回りその様子をうかがっていた。途中からとはいえ形成されている盤面は、かなりsaiに追いすがっていたヒカル。そのすごさをいまいち理解できていないあかりは、アキラと緒方の反応を見てそれを判断することにした。
結果、何かよくわからないけど、分からないなりにとんでもないということだけは判った。
『これだけ定石を無視して、saiを翻弄してる……? 馬鹿な、意味がわからないッ』
『いえ緒方さん、違います。これは……しいて言えばsaiの定石を先回りして潰してる。saiの視点で見ると、ピンポイントで先回りして要石を置く前から、数手先でそれが殺されている……!』
二人ともよくわからないが、とても焦っていた。緒方という白スーツのメガネの格好良い人は口を半開きにして、ちょっとお間抜けな感じだ。それに対して塔矢くんは、どこか悔しそうに盤面と、鋭い目で笑ってるヒカルを見てる。
あかりから見たヒカルは楽しそうで、しかし同時に少し怖い印象の表情だ。
数年前に休み時間のドッジボールで、けがをしたあかりを集中的に狙った子たちがいた。足をもつれさせて転んで、泣きべそをかいた彼女にぶつけて大笑いした彼ら。そんな彼らと戦うときのヒカルの表情は、明らかに怒っていてそれはそれで嬉しかったのだが。
ヒカルは相手の長考が終わり次第、ほぼノータイムで打っている。緒方とアキラの会話から、早碁打ちの場合は相手の考えてる時間に次の手を読み切ってすぐに打つタイプの打ち手もいるらしい。
そして、終局。コミを含めて1目半差での負け。緒方の反応からして、かなり驚くべき状態であるようだ。
『去年の、最初に打ったsaiにはまだ隙があった。だがアマチュア碁に揉まれ、時にプロなど高段者とも対局して洗練された今のsaiを相手に、ここまで読み切っただと……?』
『…………、ヒカル?』
『えっ、ちょっとヒカル!』
そして、ヒカルは何故か涙を流していた。チャット欄を閉じて、対戦終了と同時に相手のアカウントは姿を消している。
それを前に、ヒカルは泣いていた。どこか嬉しそうで、どこか悲しそうで、これもまた見たことのない表情であった。
あかりは思わずヒカルに駆け寄り、抱きしめる。
椅子の高さは緒方に合わせてあるので、そのまま抱き込めばちょうど自分の胸元にヒカルの鼻先が来る。
『だいじょうぶ、ヒカル、大丈夫だよ』
『────────ッ』
声にならないうめき声。悔しかったんだろうか。でも、どこか楽しそうで、どこか辛そうで、一言で言い表せないような感じで。そんなヒカルを見ているのは、あかりはつらかった。
だけど。
『大丈夫、大丈夫』
それでも、あかりはヒカルを見ていることにした。だってヒカルは、ちゃんと時々自分のことを見てくれているのだから。ちゃんと自分を気にして、塔矢アキラとだって二人で打ってた方が楽しいだろうにわざわざ自分を連れてきてくれているのだから。
それだけ、あかりが言った言葉を、あかりの希望を、真剣に受け止めてくれているのだから。
アキラもまたヒカルとは違うが、どこか辛そうな表情で。緒方はバツが悪そうに奥で漫画を読んでいる女性の方を見て。なお、彼女は「青春?」とよくわかってなさそうだったが、その反応に緒方はため息をついた。
そしてある程度落ち着いてから、saiとの対戦の棋譜を共有するのを条件に対局はしないで良いと言われたヒカル。その頃にはある程度回復していたのか、若干目元が赤いが緒方をからかう余裕があった。……元の年齢が年齢とはいえ、からかわれる側からすれば小学生なので大人げなくキレる緒方は平常運転である。
『駄目だよ緒方さんさあ、多分あれでしょ? 彼女さんに教えてる時も違うところ打ったりよくわかんなかったりしたとき「早くやれよ」とか「常識だろ常識」とか「どうしてこれくらいわからないんだ!」とか「これだから素人は」とか「才能ない」とかボロクソ言いながらでしょ絶対。そりゃやる気なくなっちゃうって、いくらなんでもねぇ? 緒方さんには興味あっても碁に対する興味はそこまでって時だったならそこはちゃんと育てないと』
『お前は! 俺の! 何を知ってるって言うんだ進藤!』
『あーだからアイアンクローはスポーツマンシップで禁止!』
あまりに痛いせいか発言が色々怪しいヒカルであるが。なおこの発言、緒方的にはかなり図星だったのか奥の女性もまた目を真ん丸にしてヒカルの方を見ていた。
『一応、歩み寄る気があるんなら、本当に初歩の初歩からでもいいから少しずつやっていけば? 俺だってあかりに教えるのは、けっこう気を遣ってたし』
『そんな暇があるなら道策の棋譜でも並べるさ』
『緒方さんはそれでも良いかもしれないけど、理解されてないと子供に碁を教えようとしてケンカになってしばらく実家に帰らせて頂きますとかされちゃうでしょそこはさぁ~』
『何を小学生がわかったようなことを』
てい、とデコピンに留める緒方だが、表情は色々とテレビでお出しできない有様である。
ヒカルとしてはアドバイスできるだけのことはしたので、後は本人たち次第だと割り切った。……女性の方は緒方と異なり、ヒカルの言葉に神妙な表情で頷いていたが。
さてその週の金曜日。
「ってわけで、娘さんの将来を俺にください。…………気は早いけど先回りして挨拶っつーことで。予約?」
「ちょっと早くないっ!?」「何だとゥ!」「うわぁ、進藤クン大胆ね……」
あかりの自宅、藤崎家にて。進藤家同様に一般的な一軒家住宅で、進藤家からも距離はそう離れてはいない。流石に
そんなヒカルは夕方に帰宅早々、すぐさま藤崎家へと向かってあげてもらっていた。あかりが隣に座って楽しそうにしており、二人でマグネット碁盤をいじって詰碁をやっていた。
母親は「あら、進展でもしたかしら?」とほほえましそうに見守り、あかりの姉の現在高校1年生なあかねも「えっあかりに(彼氏)先越されそう? マジで?」とひそかに戦慄しているようだったが。
勤め人の父親が帰宅して早々のこの発言に、家族三人は一斉に度肝を抜かれた。
なお、あかりはヒカルの隣でデレデレなので、そういう意味では父親が一番ダメージを食らっていたかもしれない。胃に。
大体どういうことだとてんやわんやしているあかりの父を見て、腕を組んでうんうんと目を細めて頷くヒカル。所作がじじくさいが、このあたりはヒカルとしてもかつての自分の鏡を見ている心境だ。つまり、娘さんをくださいと挨拶に来た男の前に立った自分を。
人生の比重が家族
なおその際に「無茶が過ぎるだろうヒカル! その様じゃ一生独身になってしまうだろう!」と何処からか聞きつけて現れツッコミを入れたアキラであったが、そのアキラとて後年に自分の孫娘とヒカルの孫がガミガミしながらも碁をともに打ち甘い雰囲気を漂わせてるケンカップル化してるような様を見て食って掛かりそうになっていたので、同じ穴の狢と言える。
話を現代に戻して。
「まあまあ(あかりの)お
「誰がお
「あかりのでしょ。って、それは置いておいて。一応、幼馴染でいつもお世話になってます。けどそれはそれとして、あかりについてはちょっと本気なんで、まだ小学生だけど誠意は見せないといけないかなって」
「…………」
ちらりと妻を見るあかりの父。なお、あかりの母はヒカルが持ってきた菓子折りを見せてきた。お値段的にはどれくらいかは分からないが、小学生が普通にそこまで気をまわしている姿に、何とも言えない表情になる。
進藤家の方では話が通ってるのかとか色々考えが渦巻くが、ヒカルはヒカルでどう説得するかは相手の反応を見てのアドリブであった。
ヒカルが何故いきなりこんな判断が早すぎる行動に走ったかと言えば、二つの出来事があったからだ。
一つはsaiとの対局。もう一つは……緒方の
saiとの対局は進藤ヒカルの過去から「逆行するまでの」現在に至るまで、そのことごとくを出し切った一局であった。それでも追いすがり切れていないあたり、いくつもの未来の定石や布石を前提としてすら佐為に読み勝てていないというのを思い知り、色々とない交ぜの感情がいまだに胸にこびりついている。
とはいえヒカルの自我において、saiといたのはほんの二、三年────ヒカルの人生を変えるだけの出会いではあるが、その後の膨大な九十年近い経験を踏まえた人格において、死に物狂いで追い求めるのも何か違う、という落ち着きは見せていた。
もちろん彼が今誰に憑いているのかは気になるし、知れるなら知りたいが。かつての緒方のようにその氏素性、対面での対局まで追い求めるのは何か違うと、思っていた。
それにsaiは言ったのだ。また対局をしようと。今現在、ヒカルの自宅にパソコンがないことくらい佐為なら知っていて当然である。対話に自分のような年齢を感じなかったことから、彼はおそらく
なんなら緒方の恋人(?)の自宅から帰って数日後、平日の夜中にアキラから「saiと対局した……! なぜボクは、しかし、嗚呼、どうしてあんなに勝てる気がしないんだろう……!」と悔し涙ながらに語られていたし、別にヒカルとの対局で佐為が成仏するわけでもなさそうだ。
とするなら、
そしてもう一つの理由としては────。
「エロいことしたいとか、そういう話じゃないです。あかりの家……、藤崎の家に対する誠意っていうか、礼儀っていうか? その、あと、あかりの気持ちにしっかり応えようと考えると、俺の将来の進路的に生半可なことが出来ないっていうか。
俺、碁のプロになりたいんですよ。そのために勉強してるし、プロの人とかからも十分強いってお墨付きはもらってるし。これって現実的な進路だって思ってます」
ここまで赤裸々に語っているのは、緒方たちの関係がああ見えてそこそこ長いように見えたからである。……つまるところ、何も変わらずぬるま湯のままお互いアクションしないでいると、自分も囲碁馬鹿の自覚があるヒカルとしては
かつての自分すら、あかりのスイッチが入るまで「そういう」思考回路が止まっていたのだから、今回もそうならないとは言い難い。少なくとも、あかりを気にかけるのは
鉄は熱いうちに打て。
検討は熱が冷めないうちに並べろ。
結果として電撃作戦をまず自分の両親に敢行し、なんならあかりも連れて挨拶をして、2日ほどかけて自分の両親の説得をまず行ったのだ。
……小学生の時点で婚約、というのはあまりにも雑な三文小説のようでもあるが、人格が老齢を経由している今のヒカルとしては特に違和感がない。なんならあかりもあかりで、少女漫画のヒロインか何かに自分を重ねているように両手を頬にあてて笑顔で身もだえしていた。
なお、あかねが白目向いてポニーテールを振り乱しガラ○の仮面めいたショッキングポーズを決めていたりするが、さておき。
当然、両親視点からするといきなり情報量が多くて処理が追い付かないが、こればかりは最低ライン、相手が欲してる情報をゆっくりと、必要な分だけでも繰り返して教えて、納得してもらうしかないだろうと考えているヒカル。
流石に現時点で年収への直の話をしても説得力は薄いが、将来的にどの程度のマージンが見込めるか、現在の自分の相当棋力(アキラを基準に修正)やら何やら。
「しかし、大学どころか高校も卒業していない段階でそんなことが……。いやでも、大学は出とかないと潰しが利かないだろう、ヒカル君」
「逆に中学生のうちにプロに挑戦した方が潰し効きますよ。最悪大検受けて入るって手段も若ければ若いほどまだ取れますけど、一度社会人目前になってからだと社会人のスタートダッシュがかなりずれ込むし、本当に人生かかるんで。その分気迫とかみんな違いますけど、潰しの利き方ならやっぱ若いうちにやった方が良いって思ってます」
意外と理路整然と語られて面食らうあかりの父だった。ヒカルの目にも表情にも遊びがないこと、ヒカルを見つめるあかりが浮かれた様子ではなく優し気に微笑んでいるだけなこと、ついでに自らの妻が感心しきりなことなどが頭の中で渦巻く。
少なくとも進路についても軽はずみなことではないのは理解している。あかりが碁を打つようになってから、娘可愛さに自分も打ち始め、一度ヒカルが調子に乗ってそうに見えたので懲らしめてやろうと何局か打ったのだ。
結果はボロボロの惨敗で、最後は明確に素人にも判るレベルの指導碁を打たれる始末。
囲碁はとにかく本因坊秀策の棋譜を頭に叩き込んだりして勉強してると、そう聞いた。
スポーツ少年だったヒカルも、そういえばかつてテレビで一瞬流れた野球選手の投球モーションを妙に細かいところまでトレースしていたなとあかりの父は思い出す。
もとより記憶力が良かったりするのだろう、それに加えてスポーツをしていた分のタフネスもあるはずだ。
しっかり娘のことを考えてくれていて、この年齢だというのに振る舞いに全くの躊躇がない。年齢で侮るべからず、すでに
そんな光景を見てる姉のあかねも、精神ダメージで真っ白に燃え尽きそうな勢いだ。
結果。
「………………まだ君は小学生、そろそろ中学生といえど小学生だ。その言葉は忘れないし、
……それはそうと高校に行かないにしても、卒業資格はとるように」
「ありがとうございます」
そのような形でいったん決着。
結論の先送り……というよりは「本当に本気かどうか見定めさせてもらう」ということだ。気持ちがふらついているのならその間に他の女の子の方へ行って「それ見たことか!」と指さして笑ってやるつもりである。
当然
高校卒業相当の資格の勉強と囲碁の勉強とどちらを取るか……、緒方に言えば「碁」即答だろうが、悩むくらいにはヒカルも微妙に困ったらしかった。
…………なおあかりは「どうしたの、お姉ちゃん」と、床に倒れてダイイングメッセージのように指で「まけた」と書いてヨダレ垂らしてる白目の姉の姿を見て、不思議そうな顔をしていた。
※ ※ ※
窓に吹き付ける風はまだ冬の寒さが強い北風。
自室で暖房をかけながら、その少年はコンピューターのディスプレイをじっと睨むように見ていた。
「こいつ……、やっぱあの時、
跳ねた髪をいじりながら、少年、和谷義高は考える。
インターネット囲碁の世界規模のサイトで、現在自分が対局している相手。ハンドルネームは「Hikaru・5」
強いと言えば強い。対戦成績の勝率は、いまのところ90パーセント越え。
その強さから、以前saiと打っていた「奇妙な碁」を打つHIKARUという打ち手がハンドルネームを変えたかと思ったのだが、実際対局して違うのではと思い始めていた。
ただそれはそうと、戦局が怪しい。気もそぞろだったのは否定しないが、それにしたって責め立て方が
狙ってやってるのか、それとも天然か。判断が付きづらい相手に、和谷はため息。
「これ以上打ってたら今度、
もっとまじめに読めば打開策も浮かぶかもしれないが、現状は不利に違いないので、おとなしく投了を選ぶ和谷。このあたりは勝った負けたがシビアな棋院でもまれていることもあってか、院生としてはドライに割り切っていた。
割り切っていたのだが…………。
「……あン? えっと…………、おれ、つよいよ、な、か? あーもう、チャット欄がカタカナも出ないし、早く機能つけろよこのサイトさぁ~。
────ってフザけんな! こっちは院生だぞ、お前何だよ!?」
思わず画面に食って掛かった和谷は、その勢いで今言った発言をほぼそのまま打ち込む。
……相手も
やっぱりこれどうにかして欲しいよな、とぶつぶつ文句を言う和谷。
ようやく表示された返信は────。
「えっと、……『すごい! もし今度のジュニア囲碁交流会に手伝いとかでいるなら、会わないか』だって?
…………えっ、もしかしてコイツ、俺より年下?」
と、急に冷や水かけられたように少し冷静になった和谷だが。
イベントの手伝いは森下九段から言われているので行くのは確定しているのだが、なんとなくバツが悪く、自分が出るかどうか明言は避けながらチャットを終えた。
なおこのせいで、その
※ヒカルはアキラの部屋でパソコンを借してもらって、本登録して打ってます