アニマ=ノアという名を耳にしてから、アキユキの生活には、もはや「平穏」という言葉は存在しなくなった。
あの尋問の夜以来、彼の胸の奥では、得体の知れぬ警鐘が鳴り続けている。
――このままでは、再びあの惨劇が繰り返される。
ヒトガタ。
かつてリュウゾウと共に、その存在を憐れみ、そして理解しようと試みた忌まわしき存在。
だが今や、その名は再び世に現れ、しかも人工のヒルコによって量産されようとしている。
「……もし、このままヒトガタの発生が拡大すれば……次の大巡礼を前に、世界は確実に崩壊する」
独り言のように呟いたアキユキの視線は、机の上に並べられた古い資料に向けられていた。
そこには、かつてリュウゾウが手掛けた“対ヒトガタ用ワクチン”の研究レポートが残されていた。
その薬が、ミドリをヒトガタから元の姿へと戻した唯一の成功例であることを、彼はよく覚えている。
冷たい声が研究室に響く。
アニマ=ノアの目的が「人類すべてをヒトガタ化させる」ことであるとするなら、これから起こるのは終わりなき変異と破滅の連鎖だ。
もはや“待っている”時間はない。
彼は古びたキャビネットの中から、一冊の茶色く焼け焦げたファイルを取り出した。
かつて、あのリュウゾウがヒトガタを人の姿に戻すために開発したワクチン――その研究レポートだ。
アキユキはその文字を見つめながら、僅かに口元を歪めた。
懐かしさと、どうしようもない焦燥が混ざった微笑だった。
「……あの太っちょゴリラめ。さも当然のことみたいに書きやがって」
ウツツダネの純度、調合比率、血清濃度――それらすべてを常人離れした精密さで管理する。
あのナキアミでさえ、何年かけても辿り着けなかった領域に、たった数ヶ月でリュウゾウは到達した。
間近で見てきたから分かる――
普段はこじんまりとした医院をひっそり経営しているのみであるが、医師としてのリュウゾウの手腕は間違いなく本物だ。超一流と言っていい。
「高純度のウツツダネを素材に、オヤジが作ったあのワクチンを再現する――それが、今の俺が為すべきことだ」
机の引き出しを開けると、奥底には古びた小瓶がひとつ眠っていた。
瓶の中には、かつて“迎現種(ウツツダネ)”と呼ばれた植物の種子が、まだ幾つ残っていた。
それは、長年の時を経てもなお、命の名残のように微かに脈動していた。
アキユキは静かにその瓶を持ち上げ、光にかざす。
白い光が頬を照らす。
だがその輝きは、希望ではなく、覚悟の色を帯びていた。
「……オヤジ、あんたが残したものを、俺が継ぐ。だからもう一度、俺に力を貸してくれよ」
決意の言葉を小さく呟くと、アキユキは作業台に手を置いた。
静まり返った部屋に、わずかに軋む椅子の音が響く。
彼は、再び“人の魂”と“ヒルコ”の境界に踏み込むことを、恐れなかった。
むしろ、それこそが、自分という存在がまだこの世界に生きている証であるとすら感じていた。
「……終わった。……詰みです、これ」
ヒトガタの救済を決意したのも束の間、彼はパソコンのモニターを前に、頭から突っ伏していた。
その背中には、かつて記憶喪失になったとき以上の哀愁が漂っていた。
――遡ること小一時間前
机の上でパソコンの冷却ファンが唸っている。
アキユキはモニター越しに、見慣れた検索サイトの入力欄へと指を滑らせた。
「――“ウツツダネ 販売 入手方法”」
エンターキーを押す。
……静寂。
スクリーンには、まるで砂漠のような検索結果。
「該当なし」「もしかして:ウツボカズラ?」
「……いや、食虫植物じゃないんですけど?」
まぁ、ヒトガタを食らうって意味ではあながち間違いではない……のか……?
次に、「”ウツツダネ オンゴロ”」「”ウツツダネ 自然物”」「”ウツツダネ 神話”」
何を入れてもヒットするのは占い師のブログか、胡散臭いスピリチュアル通販だけ。
ゴンッ――!
アキユキ、机に顔面から落下。
「……詰んだ。入手経路とか、それ以前の問題だった……」
机に額を押し当てたまま、昔リュウゾウが言っていた言葉をふと思い出す。
――「知識ってのはな、失われる時は一瞬だが、取り戻すには百年かかる」
「……百年で済みますかね、これ」
このときのアキユキの目は、確実に光を失っていた。
あの後も、しばらく机に突っ伏したままブツブツと愚痴を吐き続けていたアキユキ。
「……このまま嘆いててもしょうがない」
「こうなった以上、まずはウツツダネの情報を集めるところからだな……」
古い資料フォルダを開き、保存しておいたウツツダネの写真データを引っ張り出す。
淡い緑に光る種子の拡大写真――
彼は専門家向けの掲示板に書き込みをした。
「この種子について情報を求む。
形状は楕円形、微弱な発光を確認。
古文書では“ウツツダネ”と呼称されていたものに酷似」
投稿してから数時間。
どうせ誰も見向きもしないだろうと思っていたが――
翌朝、ひとつだけ返信が届いていた。
「それは“北部環域”の高山帯で、まれに観測される“発光種子”の一種に似ています。
現地では“ツチホタル”と呼ばれており、冬の終わりから春先にかけて、
ごく限られた条件でしか採取できません。
……採集に成功した報告は過去十数年で数件のみ」
「ツチホタル、ね……。名前は違えど、間違いない」
アキユキは返信を読み終えると、無意識に頬をかいた。
北部環域――つまり、氷原地帯。
奇しくも、ここはかつてテシクの里があった地域だった。
「よりによって、あんなところでしか取れないとは……」
「……ていうかこれ、もし仮に市場に出回ったとして、一粒いくらすんの……」
グチグチと言いながら、コーヒーを啜る。
その味は苦く、どこか懐かしい。
「……まぁ、とりあえず今ある手持ちのウツツダネで、試作から始めるかぁ」
画面を閉じ、深呼吸。
彼の視線の先には、机の上でかすかに光を放つ小瓶があった。
光は弱いが、まだ“生きている”。
「お前が、道を繋いでくれるといいんだけど……」
そう呟いた声には、ほんの少しだけ――
リュウゾウの面影を追うような優しさがあった。
研究室と呼ぶには手狭で、倉庫と呼ぶには几帳面すぎた。
温度計がずれた古い恒温槽と、手入れの行き届いたガラス器具たち。
その真ん中で、アキユキは白衣の袖をまくりながら、息を殺していた。
机の上に並ぶのは、低純度のウツツダネからとある成分を抽出したもの。
本来なら、それら一つ一つが微かな光を放つ――はずだった。
だが、今目の前で光っているものは、ゼロ。
他は、すべてただの“薄緑色のゴミ”になりかけている。
「……よし、今度こそ。温度、0.02度誤差以内。比率もよし。
血清濃度……完璧。これで失敗したら、もうウツツダネの方が悪い」
緊張した指先で、ゆっくりと成分を抽出する。
液体がゆっくりと試験管の中に入り――
――すぅ、と。
さっきまで淡く光っていた液体が、まるでため息をつくようにふっと光を失った。
「……はァ?」
アキユキは目を瞬かせる。
慌てて計器を確認し、温度計を叩き、時計を見て、深く頭を抱えた。
「いや待て、0.02度以上もズレたか……? ていうか0.02度って何だよ。空気の機嫌か?」
ノートに書き足す。
《試行二十一回目/失敗:光の減衰速度、前回比1.3倍/考察:意味不明》
鉛筆の先を噛みながら、アキユキは天井を仰いだ。
「あのゴリラなら、こういうとき“数値の問題じゃない、呼吸だ”とか言うんだろうな……」
そう言って苦笑し、もう一度机に向き直る。
だが、手は止まってしまった。
低純度ゆえの限界は、誰よりも分かっている。
どんなに精密にやっても、材料そのものが“足りない”のだ。
「……素材が悪けりゃ、どんな料理人でも焦げる。いや、焦げはしないか。……味が薄くなる、か」
苦い冗談を呟きながら、瓶の中で沈黙する種を見つめる。
部屋の隅の蛍光灯がチカチカと瞬いた。
その光が、ほんの一瞬、ウツツダネの表面を照らす。
ほんのわずかに、灰色の粒が光を返したように見えた。
「……お前、まだやれるのか?」
誰にともなくつぶやき、アキユキは静かに指で瓶を撫でた。
「なぁ、オヤジならこういうときどうする? ナズナ……君は、笑うんだろうな、きっと」
返事はない。
けれど、部屋の静けさの中で、遠い日の笑い声が確かに聞こえた気がした。
混ざり合わない液体を見つめていたその時――
ふと、記憶の底で、遠い日の光景が揺らいだ。
――あの日も、こんなふうに机の上で、頭を抱えていたっけか。
かすかに漂う薬品の匂い。
ガラスの器具に映る三人の影。
その中心で、年季の入った白衣を着たリュウゾウが、例の調子で豪快に笑っていた。
「アキユキ、細かいこと気にすんな。数値がズレたら、まずは自分の呼吸を疑え。
調合ってのはな、呼吸でやるんだよ」
「いや、オヤジ。ホントに呼吸で濃度変わんの……?」
「変わるさ。お前の呼吸が乱れりゃ、ウツツダネも怯える」
「怯えとかいう概念あんの?それ」
横でナズナが、真剣な顔でノートを取りながらうなずく。
「確かに……。先生、ウツツダネって、生きてるんですよね?だったら、呼吸のリズムも大事かもしれませんね」
「おいナズナ、信じるなよ!」
「いえ、理屈の上ではあり得ます」
「あり得るのかよ!」
その場に笑いが広がる。
リュウゾウは、嬉しそうに鼻を鳴らして顎をさすった。
「ナズナ、いいぞ。そういう柔らかい頭が医者には要る。
アキユキ、お前はまだ堅い。数値の向こうに“生きてるもの”を見ないとダメだ」
「……そんな抽象的なこと言われても、ねぇ?」
「だからダメなんだ」
どん、と机を叩くリュウゾウ。
薬液が少し跳ねて、アキユキの袖を濡らす。
「うわっ、ちょっ……オヤジ!」
「いいか、医者ってのはな、命と数字の間にある“呼吸”を感じ取る仕事だ。
そこを外したら、ただの薬屋と変わらん」
その言葉に、当時のアキユキは理解が追いつかなかった。
だが今となっては――
あれが、彼の“哲学”だったのだと痛いほどわかる。
ナズナがその横で、静かに実験用のフラスコを拭きながら微笑んだ。
「でも先生。私、まだ“呼吸”が聞こえません」
「なら、まずは自分の鼓動を聞け。お前の中にも“光”はある」
リュウゾウの手が、ナズナの頭にそっと置かれた。
彼女は少し照れたように俯き、唇の端を上げた。
――ああ、そうだ。
あの瞬間、確かに三人の間には“温度”があった。
命を扱う仕事の中で、数字でも理屈でもない、
“人の温かさ”があの場所の空気を満たしていた。
記憶が静かに遠のく。
気づけば、今はもうひとりだ。
アキユキは、机の上の灰色のウツツダネを見下ろす。
「……オヤジ、あんたの言葉、今なら少しわかる気がする」
淡く光を失いかけた種子のひとつを、そっと掌に乗せる。
呼吸を整え、耳を澄ませる。
――かすかに、音がしたような気がした。
「……なんだ、まだ息してるじゃないの」
そう呟くと、口元にゆるい笑みが浮かんだ。
「第……二十二回目。いこうか。ご指摘どおり、次は“呼吸”とやらも入れてやるよ」
顕微鏡のライトが再び灯る。
そのわずかな光の下で、アキユキの闘いはまだ続いていた。