竹原医院の裏手に、庭に落ちる陽光が静かに差し込んでいた。
――あれから、ちょうど一年が経つ。
雪のように白いシーツに包まれ、十年もの間眠り続けていた男――垣巣凍二郎が、その瞼を微かに揺らしたのは、そんな昼下がりのことだった。
最初にその変化に気づいたのは、院内でリハビリをしていたナズナだった。
「……っ!?」
息を呑む。
彼の指が――ほんの僅かにだが、かすかに動いたのだ。
「あ、あの、垣巣さん……? 聞こえますか……?」
胸の奥に走ったざわめきは、驚きではなく、むしろ――
願ってしまったことへの戸惑いだった。
寝台の上で、垣巣はゆっくりと目を開ける。
まるで、時の流れに取り残されたかのような、濁りをはらんだ瞳。
何かを確かめるように、天井を見つめ――
「……ここは……」
四つの音に、ナズナの膝がかすかに震えた。
彼女はまだ満足に動かない自身の体に、懸命に鞭を打った。
「りゅ、リュウゾウ先生っ!! 垣巣さんが……っ、目を、覚ましました!!」
荒い息のまま、竹原医院の奥の診察室へと駆け込むナズナ。
リュウゾウは書類に目を通していた手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
たった一瞬で、その目が若き日の光を取り戻す。
「……そうか。やっとか」
――願ってしまったものは、いつだって真っ直ぐに現れる。
それが、希望であれ、咎であれ。
リュウゾウは静かに立ち上がり、白衣の裾を翻すと、病室へと足を向けた。
背中越しに、ナズナが息を飲んでいるのが分かった。
「ありがとう、ナズナ。……あいつは、長ぇ旅から帰ってきたんだ」
竹原医院の玄関ホール前――
磨き上げられた古い木の床に、ハイヒールの音が乾いたリズムで響く。
「……久しぶりね、中佐」
そこに立っていたのは、金髪に軽くウェーブをかけた女性――プロイ・スカッキだった。
かつては秘書官として垣巣を支え続けた彼女。今は彼の空席を埋めるかのように、極東自治区の司令を担っている。
彼女は両腕を組んで軽く睨みつけながらも、口元にはほんのわずかな笑みが滲む。
「まさか、あなたみたいな人間が、寝てただけで10年も生き延びるなんてね。まさか本当に……目を覚ますなんて」
病室から出てきた垣巣は、少し驚いたように目を細めた。
その顔に、かすかな柔らかさが宿る。
「気が付いたら、もう10年か。……どうりで体が重いわけだ」
「重いのはその頭じゃないの? 信じられる?あなたが寝てた間に、私が一人でどれだけ苦労してたか。」
「……そうか。随分と苦労をかけてしまったようだ」
あっさりと、柔らかな声で頭を下げる垣巣。
それを見たスカッキは、思わず噴き出すように息を漏らした。
「だ・か・ら!そういうのが余計、腹立つってのよ!」
言いながら、スカッキは彼の胸を軽くこづく。
その拳には、文句とは裏腹な、ずっと言えなかった「生きててくれて良かった」という想いが滲んでいた。
垣巣は胸元を押さえながら、苦笑する。
「懐かしいな、スカッキ。変わっていない」
「変わったわよ。あなたのせいでね。……でも、それはそれで悪くない」
そう呟いて、スカッキはふいに視線を外す。
頬がわずかに赤くなっているのを見て、垣巣はゆっくりと立ち上がった。
「ありがとう。君が来てくれたのが何よりの薬だよ」
「そういうの、今更やめなさいっての。……バカ」
吐き捨てるように言うが、その声は震えていた。
そして――二人は声を立てて笑った。
かつて背中を預けたときと同じ――
戦火のただ中でも、胸に確かに灯っていた確かな絆をもう一度確かめるように。
竹原医院――
夕暮れの光が差し込み、古びた診察室の壁に長い影を落としている。
二重扉が微かに軋み、スカッキが去ったあとに緊張の空気が静かに流れ込んだ。
やがて扉がわずかに軋んで開かれる。入ってきたのはアキユキだった。
「垣巣さん。……それに、オヤジ」
顎までかかった前髪を持ち上げるように乱雑にかき上げながら、アキユキが足を踏み入れる。
垣巣はゆっくりと顔を上げる――軍人だった頃の気配をほんのりと残した、淡々とした目。
「ああ、久しぶりだな、アキユキ君」
垣巣が穏やかに言う。
その声が、アキユキの癪に障った。
「『久しぶり』って、アンタ……。一体、どの面下げて……」
ほんの数歩の距離に座った父と元将校。
しかし、その間には小さくない歳月の壁と、割り切れない過去が横たわっていた。
リュウゾウはただ、静かにそれを受け止めた。
垣巣もまた、ゆっくりと瞼を閉じ、開いた。
「……まずは、座らないか。話はそれからだ」
アキユキは無言のまま、椅子を引き、どすんと腰を落とす。
その動作にも怒気がじわりと滲んでいた。
「で、何の用だよ。俺を呼び出して」
リュウゾウと垣巣は顔を見合わせた。
気まずい空気が、部屋全体をゆっくりと這い巡るように広がる。
「いや、なに。お互い言いたいこともあるだろうし……。垣巣はまだ目が覚めたばかりだが、かといって、あんまり長引かせてもと思ってな……」
「言いたいこと?……あぁ、もちろんあるよ」
俯いたまま声を発したアキユキは、熱を失った空気を背負っていた。
まだ色褪せぬ怒りも、言葉にしきれぬ思いも、すべてその佇まいに宿っている。
「……俺、考えてた。ずっと。ザムドのこと、南北の対立のこと、それに……ヒトガタ兵器の件についても」
「ずっと思ってたよ。やっぱり――この世界、間違ってるんじゃないかって」
声が震えはじめる。握った拳がわなわなと震動する。
「垣巣さん……アンタがやろうとしていたこと、俺も一部は分かる。家族のため、故郷のため……」
「アキユキ君……」
「けど――」
「誰かの命を弄んでたことを……許せるわけないだろうが」
アキユキが強く睨みつけた。
その目は、人を傷つける鋭さではなく、何度も何度も裏切られて、ようやく残った“何か”の色をしていた。
アキユキは、乱暴にも椅子を蹴り、机に両手を叩きつけた。
「ふざけんなよ……ッ!」
今までずっと必死に抑えようとしてきたが、限界だった。アキユキの内側で膨らみ続けていたものが、爆発した。
「南も北も、どいつもこいつも、戦争だの、ヒトガタ兵器だの、そんなに命っていうのは軽いのかよ!?人の命を兵器に変えて、その兵器でまた命を奪って、一体何が楽しいんだよ!!」
リュウゾウは黙ったまま――拒まず、諫めず、その全てを聞き入れていた。
垣巣も眼差しを逸らさなかった。ただ、彼の手は膝の上で強く握られていた。
「サンノオバとかいうヤツも、一体何なんだよ……!ヒルケン皇帝を鎮めたくて?そのためにはザムドが必要で?……ゴチャゴチャうるせぇんだよ!!」
「元はと言えば、アンタらの不始末だろうが!!それなのに、なんで俺たちが巻き込まれなきゃならないんだ!!!」
「そして!クソオヤジ、あんたもだ!後悔してる?それで済むかよ!?あんなおもちゃが原動力の世界のどこに正義があるって言うんだよ!!」
息を荒げたアキユキは、壁に拳を打ち付ける。
「何でナズナがずっと苦しまなくちゃいけないんだッ!」
「何でミドリちゃんが兵器にされなきゃいけなかったんだッ!」
「なんで…………何でフルイチが死なきゃいけなかったんだッ!」
言葉が止まらなかった。これまでアキユキが辿ってきた旅路の全て。波のように押し寄せる怒り。
「ふざけんじゃねぇよっ……!どいつもこいつも……、どいつもこいつもっ……!!」
再び――静寂。
アキユキは息を荒立てながら、怒りの余韻を引きずりつつも、ただしんと目を閉じていた。
リュウゾウも垣巣も、彼が発したひとつひとつの言葉を、まるで自らの手で受け止めるように、じっと胸に刻んでいる。
しばらくして――
「……その通りだ」
垣巣が低い声で呟いた。
彼の顔は歳相応に皺が刻まれていたが、その表情には明らかにこれまでとは違う「老い」が浮かんでいた。
「私は……守るべき命を、手段に変えてしまった」
ぽつりと、絞り出すような声。
その隣で、垣巣が静かに目を伏せる。
「かつて私が夢見たのは、故郷を守ることだった。母の安らぎを、そして、母の故郷である尖端島を奪還し、無辜の人々の生活を取り戻す……ただ、それだけのはずだったのに……」
垣巣の声音は、軍人特有の抑揚をなくした淡々としたものだった。
だが、その言葉の一つひとつには、紛れもなく後悔が色濃くにじんでいた。
「だが……気がつけば私は、何もかもが歪んでいた。人であるはずの者たちを兵器に変え、尊厳をも消し去っていた。忌み嫌っていたはずの、ヒトガタ兵器に手を染めてしまっていた……だから——」
そこにあったのは、一切飾らない弱さ、誇りの帳尻では隠し切れない、痛みだった。
「言葉にしてくれて、ありがとう」
「……はァ? 何言って……」
「君の……君たちのその怒りは、最もだ。君たちのうちの、誰かが言わなければいけなかった。誰かが怒らなければいけなかった。そして、私たちは……その怒りからずっと目を逸らし続けてしまっていた」
「君たちのような若者に、この狂った世界を引き継がせてしまった……」
垣巣は拳を膝の上で握り、視線を上げずに続けたそれは、決して偽りではなかった。
ただ、途中でーー行く先が変わってしまった。
夢を遂げようとした結果、無数の夢を、命を、踏みにじってしまったのだ。
沈黙。
重く、鋭利な沈黙が、言葉を失った部屋に広がった。
リュウゾウがゆっくり立ち上がり、アキユキの肩にそっと手を置いた。
その手は震えていたが、そこには確かな温度と、赦しを乞う気持ちが込められていた。
「……すまない、アキユキ。謝って許されることじゃないが……何百回でも、何千回でも、いくらでも謝る。……愚かだな、俺は。息子が事件に巻き込まれて、今までの行いの罰が下って、ようやく過ちに気が付くなんて……」
「だが――倒れたままでは何も戻らない。償いは“行動”でしかできないことを、嫌ほど思い知らされた」
垣巣も、再びゆっくりと顔を上げた。
視線は、真正面に座るアキユキへ——
かつて敵としてその力を求め、利用しようとしていたその少年に向けられた。
「私がこれから先何をすべきなのか、何ができるのか、それはまだ分からない」
「けど、自分が犯した全ての罪を償いたい。たとえ私にその資格が無かったとして、それでも、何かをしたい。君たちの未来のために」
アキユキは、父親と、かつての敵が……
本当に悔いていることを、皮膚で感じていた。
怒りは消えない。許しはすぐには下せない。
だが、確かにそこに、偽りのない問いと向き合う二人の姿があった。
やがて、アキユキはふっと息を吐いた。
「…………おい、クソオヤジ」
「だったら、おれに医術を教えてくれよ。今までのこと、本当に償う気があるなら……アンタの知識、俺にも引き継がせろよ」
「アキユキ…………」
「…………それと、垣巣さん」
「アンタも、もし罪を償う気があるなら、一度家族の元にでも戻ったら?初心に帰れば何か掴めるかもしれないし。……それに、色々と心配もかけてるだろうしさ」
「………あぁ、そうだな」
毒づくように言いながらも、その表情に先ほどの激情はなかった。
ただ、呆れにも似た、静かな諦観。そして――微かな希望が宿っていた。
垣巣もリュウゾウも何も言わなかった。
ただ、小さく頷き、深く息を吐いた。
それは、次の世代へ向けた……
ようやく踏み出した償いの一歩目だった。