垣巣凍二郎が竹原医院を発ってから、まだ一月ほどしか経っていなかった。
彼の体は完全には戻っていなかった。深い昏睡から目覚めたあの日から、まだ日も浅い。歩くことさえままならず、細くなった脚はまるで己の命すら運ぶことを拒むかのように重かった。それでも――彼は向かっていた。実母が暮らす「アマウの原」へと。
その名の通り、アマウの原は穏やかで暖かな風土を持ち、戦火に晒されてきた外の世界とはまるで別の時間が流れているかのようだった。そこでは人々が衣食住を等しく分け合い、誰もが平等に扱われるという風土が生きていた。
垣巣が小舟を降り、乾いた土を踏みしめると――そこにいた。長い年月を経てなお、柔らかな光をその瞳に宿し、静かに車椅子へ腰掛けていた彼の母、須磨子が。
「……凍二郎なのね?」
その声は、変わらぬ温かさを孕んでいた。垣巣の頬を風が撫でる。わずかに揺れた心が、喉の奥を震わせる。
「……ただいま帰還いたしました、お母様」
垣巣は膝をつき、老いた母の手を取った。その瞬間、二人の瞳からは、もはや湧き出すように涙がこぼれた。
「お帰りなさい、凍二郎……。本当に、よく、帰ってきたわね……」
須磨子は垣巣の頭に手を伸ばし、優しく触れた。ほつれた金糸のような髪を梳きながら、まるで幼子のように息子を撫で、抱きしめる。
――許されるはずなどない。だが、抱きしめられる度に、垣巣は思ってしまう。ああ、自分はこの胸の温もりから、どれほど遠くへ来てしまったのだろうか、と。
やがて垣巣は、立て続けに息を吸い込み、母の車椅子の傍らに静かに腰を下ろした。
「……懺悔せねばなければならないことがあります、お母様」
須磨子は何も言わず、ただ息子の顔を見つめ続けた。あの日から止まってしまった時間が、再び静かに動き始めるかのように。
「かつて私は……己が軍属に就いたのは、故郷を取り戻すためだと信じていた。お母様の生まれた尖端島を取り戻すためだと。だが――」
苦しげに喉が上下する。垣巣の手は、自分の膝にかけた布を強く握り締めた。
「17年前のバラドール戦記で、私は敵軍に命を救われました。それによって、私は何か大事なものを失ってしまったのです。そう、己を形成していた、何か大事なものを――」
言葉はひどく静かなものだった。だが、そのひとつひとつが血の色をしていた。
「――それから私は、人であることを捨てました。守るべきはずの無垢な命を踏みにじり、士へ、兵器へと変え……そして、その無辜の者たちにさえ、その尊厳を奪い尽くしました」
垣巣は語った。支配と兵器、命の手段化。そして、ジバシリの少年にした所業――
須磨子はただ、そのすべてを黙って聞き続けた。その目は、驚きでも怒りでもなく――ただ、深い悲しみと慈しみに揺れていた。
「……そう、だったのね。あなたが……そこまでの闇と対峙していたなんて」
垣巣は震えていた。
「お母様。……私は、本当に、取り返しのつかないことをしてきました。もう、何をどうしても償えないことです。なのに、今さら……おめおめと……」
拳を握りしめ、自分を責めるように唇を噛み締める垣巣に――須磨子は、そっと手を置いた。
「……ここでしばらく、過ごしてみたらどうかしら?」
穏やかな声に、垣巣は顔を上げる。
「アマウの原はね、外の世界とは違うの。……知ってるでしょう?戦争も、宗教の争いも、差別も、ここには届かない。誰もが旅人として生き、誰もが等しく迎え入れられる。……あなたの体がまだ癒えていないこともあるけれど、それ以上に――」
そして、静かに続けた。
「もう一度、自分を見つめ直してほしいのよ、凍二郎」
「……私を?」
「そう。あなたはきっと、自分自身からも逃げてしまっていた。でもね、憎しみや過ちと向き合えるのは、あなた自身だけなのよ。ここは、そのための場所でもあるの」
須磨子の声は、波のように柔らかく、ひどく真っ直ぐだった。
垣巣は、目を閉じた。涙が溢れる。だがそれは、ただ後悔や怒りだけではなく――かすかに射し込む救いへの渇望と、希望の色を帯びていた。
「……お母様。私は、この場所で……もう一度、自分をやり直せるでしょうか」
「ええ。きっと。どんな罪も、消えるわけじゃない。だけど、その重みと生きていく未来をえらぶのは、あなただけよ」
須磨子は息子の手を握りしめた。そこに、赦しや慰めという薄っぺらさはない。
ただ、母としての愛と、生命を育む土地としての静かな包容力があった。
「しばらくここにいなさい。凍二郎。あなたのためだけでなく――あなたを傷つけてしまった人たちのためにも」
垣巣は、母の手を握り返した。流れ込んでくる熱に、涙が止まらなかった。
この場所で――自分を見つめ直す。
すべてを奪ってきた己を、赦しはせず、しかし生涯背負って、次へ繋ぐ道を探す。
「ありがとうございます。……お母様」
風がアマウの原を渡っていく。遠くで地を耕す声がしていた。平和で、穏やかな午後だった。
その日、垣巣凍二郎は――
初めて人としての「再生」を許されたのだ。
――アマウの原の風は、いつも穏やかだった。
どの季節も、どの時間も、まるで世界が深呼吸しているかのように、草木がゆるやかに揺れていた。
大地の香り、風の音、鳥の声。
竹原医院での無機質な日々とはまるで違う。
朝は陽が昇るとともに目を覚まし、杖を手に小さな畑を歩く。
昼は須磨子が淹れる麦茶をすすりながら、村の子らの遊ぶ声に耳を傾ける。
夜は、遠くの焚火の明かりが揺れる中、過ぎ去った日々の残響を見つめる。
――それは、贖罪の時間であると同時に、再生の時間でもあった。
垣巣は、やがて少しずつ村人たちと心を通わせていった。
ある日、背に火傷の痕を持つ男が彼に声をかけた。
「……あんた、元軍人だろ?」
「……わかるか」
「わかるさ。俺もそうだった。北政府軍の整備兵でね。家族が南にいたってだけで捕まって、気づきゃここに流れ着いた。」
男は笑いながら土を掘り返した。
その隣で垣巣も腰を下ろし、無言で手伝い始める。
敵と味方という枠を越え、二人の間には不思議な静けさが生まれた。
別の日には、顔に特徴的な刺青を入れた青年が、手編みの籠を持って訪れた。
その籠の中には、干した魚と草薬が入っていた。
「これは、貴方のお母様の分。それと……」
優しい声とともに、目の前の若者の手が伸びる。
彼はテシク族の青年で、かつて北のヒトガタ兵器開発工場で働かされていたという。
それでも、今はこの地で、南出身の漁師の娘と夫婦になり、仲睦まじく暮らしている。
垣巣は、その姿を見て、ふと胸の奥が温かくなるのを感じた。
彼にとって“南と北”とは、憎しみと裏切り、報復と欺瞞の象徴だった。
だが、ここでは違った。
アマウの原の人々は、互いの出自を気にも留めず、助け合って生きていた。
朝になれば共に畑を耕し、夜には囲炉裏を囲んで、笑い合う。
そこにあるのは、ただの“人”としての暮らし――垣巣が長年、忘れていた光景だった。
ある晩、須磨子が縁側に出てきた。
車椅子に腰を掛け、夜空を仰ぐその姿は、まるでこの土地の一部のように静謐だった。
「……凍二郎。風がね、今日は優しいでしょう」
「ええ。まるで、母の掌みたいです」
「ふふ……そんなことを言うようになったのね、あなたも」
須磨子は微笑んだ。
その顔には、息子が生きて戻ってきたという事実だけで十分だという慈しみが滲んでいた。
「凍二郎。……あなたは、これから何をしたいの?」
「それはまだ分かりません。ですが――」
「ここでは、朝と夕方とで人の顔つきが変わっていました。昼は皆、畑を耕し、子供らは泥だらけになって笑い合う。だが夜になると、焚き火を囲み、どこか遠い昔を思い出すように、誰もが黙り込む時間がある。南の訛り、北の言葉、民族の祈りの歌――それらが混じり合って、まるで一つの旋律のように聞こえました。驚くことに、彼らの間には憎しみや諍いなどが無いのです」
垣巣はその胸中を明かしながら、胸の奥で何かが静かに溶けていくのを感じた。
過去を悔い、罪を償いたいと願うほど、自分の内側に“南”と“北”の境界線を作っていた。
だが、ここにはそれがなかった。
「きっと、私が戦場で見てきた南の人々も、北の人々も、その誰もが誰かの大切な人だったのでしょう。国や言葉が違っても、人が人であることに変わりはない」
「えぇ、そうね……」
須磨子は小さく目を細めた。
そしてふと、窓の外――星の降る夜空を見つめながら呟く。
「この地の人たちは、不思議でしょう?どんな過去があっても、誰かの手を握るのを恐れないの。北も南も、関係ない。皆“アマウの風”の下で生きてる」
垣巣は頷きながら、胸の奥で何かが静かに溶けていくのを感じた。
過去を悔い、罪を償いたいと願うほど、自分の内側に“南”と“北”の境界線を作っていた。
だが、ここにはそれがなかった。
――誰もが、同じ空の下で呼吸をしている。
その夜、垣巣は眠れなかった。
満天の星空の下、彼はゆっくりと立ち上がり、母の家の裏手に広がる草原を歩いた。
夜露に濡れた草の匂いが鼻をくすぐる。
風が吹くたび、アマウの原全体が小さく鳴いたような気がした。
「……南と北を、ひとつに」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
ただ、空に、風に、そして自分自身に誓った言葉だった。
翌朝、垣巣は母の前で静かに告げた。
「お母様。……私はもう一度、あの場所へ戻ります」
須磨子は微笑みながら、両手で息子の頬を包んだ。
「行きなさい。今度こそ、本当のあなたを取り戻すために」
垣巣は深く頭を下げ、アマウの原を後にした。
背に受けた風は、あの日と同じく、柔らかく、優しかった。
数日後――
アマウの原を離れる垣巣の背中には、もはや十年前の影はなかった。
代わりに宿っていたのは、清らかな決意と静かな光。
彼は再び南大陸軍へ復帰した。
その日から、彼は軍内部の改革に着手した。
“ヒトガタ兵器の生産・利用の全面禁止”、
“ウツツダネによるヒトガタの救済と再生の義務化”、
“出身や血統、宗派による差別の廃絶”。
そして何よりも――「対話による南北統一」。
戦場で負傷した敵兵を治療し、捕虜となった者には帰郷の支援を与えた。
ヒトガタ兵器となった者を“人”に戻す努力を惜しまなかった。
その背後には、常にスカッキの姿があった。
時に厳しく、時に茶化しながら、彼を支え続けた。
「……ほんと、あなたって人は。十年前にその顔してれば、もう少し早く世界が変わってかもしれなかったのに」
「十七年の時を経て、そこからさらに十年眠って……ようやく元に戻れた。だが……今からでも、決して遅くはないさ」
スカッキはため息をつき、けれど微笑んだ。
年月が流れ、彼はやがて南大陸軍の頂点に立った。
しかし、その眼差しはもはや権力を求めるものではない。
彼の行動は一貫して「対話」と「和解」を掲げ、北との衝突を最小限に抑え続けた。
傷ついた北の兵士を抱え上げ、自らの手で手当てをする垣巣。
それを見た兵たちは、次第に口を閉じ、やがて――その背を「将」と呼んで慕った
彼の歩みは、静かだが確かだった。
南北の完全な統一は彼の生前には果たされなかった。
だがその思想、その意志は、アキユキらの世代に受け継がれた。
彼らがやがて成し遂げた南北の融和は、垣巣の蒔いた“種”の結実だった。
――垣巣凍二郎、その名は戦の終焉ではなく、
“和解の始まり”として記録された。