千年後まで御機嫌よう   作:エクシーク

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第1章
第7話:天女 ―鏡の世界―


鏡のように静まり返った海と、夜空のような闇がひとつにつながっている世界。

その境界は曖昧で、どちらが上か下かも分からない。

ただ、全体がゆっくりと呼吸する巨大な洞窟のようにひそやかに脈動していた。

 

そしてその闇夜の隙間からは時折、流星のような淡い光が降っている。

それは星の破片にも、水底で揺らぐ反射にも思えたが、どちらともつかない。

ただ、暗い世界の奥から絶えず湧き上がり、まるで祈りの欠片のように宙と海の境をやわらかく満たしていく。

 

この海は、世界そのものの境界が溶け合った場所だった。

硝子のように薄く透明で、空と溶けてどこまでが水面なのか分からない。

流星が海面へと落ちるたびに、光が細かな波紋となって広がり、夜の静寂がより深みを増していく。

 

その中心で、一人の少女が眠っていた。

 

その呼吸は、悠久の眠りが嘘のように、穏やかで静かだった。

悠久の時間を経てもなお閉ざされたまぶたの奥には、

この漆黒の闇夜とは対照的な、蒼穹のような空色がひそんでいた。

 

果てしない闇が世界を包んでいるはずなのに、怖さはない。

むしろ、長い夜の毛布にふわりと横たわるような、深い安らぎだけがあった。

 

 

 

眠り続ける少女のまわりで、夜の気配がふっと揺れた。

境界のないこの世界では、風も波も存在しないはずなのに、どこかから微かな息遣いのようなゆらぎが忍び寄ることがある。そのたびに、闇の上層と下層のあいだにかすかな綻びが生まれ、そこから流星のような細い灯の筋がこぼれ落ちた。

 

その灯は、落ちてくるのではなく、にじみ出てくるようだった。

まるで、長い時間をかけてゆっくりと沁み出した想いが、形を得ようとしているかのように。

ひとつひとつの光は頼りなく、触れれば崩れてしまいそうな儚さで、透明な海へとゆっくり漂い落ちていく。

 

光は時に、少女の頬のすぐそばをかすめた。

けれど、触れた感触はない。ただ、温もりにも似た淡さが空気ごと震わせ、静かな水面へ落ちると、細波のような輪郭が広がる。

それは祈りが水に落ちた時に生まれる、不可視の波紋のようにも思えた。

 

この世界を満たし続けている光は、どれも同じではなかった。

ひどく淡いものもあれば、一瞬だけ強く輝き、すぐに消えてしまうものもある。

それらの違いがどこから生まれるのか、少女は知らなかった。

ただ、この長い眠りのあいだにも、時折こうして光が降りてきたことだけは、薄ぼんやりと覚えていた。

 

――初めからあったわけではない。

――いつの頃からか、少しずつ、この世界に射し込むようになった。

 

最初の頃は、夜の深さのほうが勝っていた。

世界はもっと硬質で、冷たく、底知れぬ静止に支配されていた。

しかし、永い時間をかけ、少しずつ微かな温かさが降り始め、夜の黒がどこか柔らかにほぐれていった。

 

少女はその理由を知らない。

外界でどんな変化が起きているのかも、自分がどこにいるのかも、理解できてはいない。

けれど――

光が増えるたび、世界は少しずつ呼吸を取り戻していくように感じられた。

 

その光のひとつが、海面に触れた。

触れた瞬間、波紋はほころび、鏡の世界の闇の奥にまで淡い明滅を伝えていく。

 

遠いどこかから、呼ばれている気がした。

 

夜の深層に沈みながらも、その“祈り”だけは、どこかでずっと届いていた気がする。

それは、はっきりとした呼びかけではなく、輪郭を持たない息遣いのようだったが、聞き逃せない柔らかな響きを帯びていた。

 

――まれに、夜の底でなにかが揺れるたび、その祈りはより近く感じられた。

 

少女は夢と眠りの狭間で、ゆっくりと息を吸った。

そのとき、また新しい光が天のどこからか生まれた。

先ほどまでのものよりわずかに強く、ひと筋の軌跡を引きながら、静かに世界へ溶けていく。

 

まるで誰かが、長い時間を経てようやく思い出した祈りを、ここへ投げかけているかのように。

 

光は、少女の閉じた瞼に淡い揺れをつくる。

その影は、まるで洞窟の奥で燭を掲げられたときの、静かな焔のようだった。

どこからともなく、詩の断片のような気配が夜の海面に満ちていく。

 

――青空のような瞳はまだ開かれない。

――けれど、ひざ下へ差し出された燭の温もりだけは、確かに届いていた。

 

光は増えていく。

弱いもの、かすれるもの、遠いもの、それぞれの想いを背負った光が、ひっそりと海面へ吸い込まれていく。

 

少女はまだ眠っている。

しかしその深い眠りの奥で、かつてないほど穏やかな気配が、ゆっくりと胸の内に広がっていた。

 

まるで、永い夜の果てに、かすかな朝を想う者の祈りが集まり始めているように。

 

胸の奥で、凍っていた何かが少しずつ溶け、意識はゆっくり外に向かって開きかけていた。

 

 

 

けれど、その流れを乱すように、別のものが滲んだ。

 

ぞわり、と。

全てを侵すような、禍々しい気配。

 

一見それは、この世界に降る流星群の、その一欠片のようであった。

ひとつの流星の欠片が、夜のどこかから遅れて落ちてきたのだと――

 

だが、その一瞬の擬態は、すぐにほどけた。

 

夜の深層が、そこだけひきつるように歪んだ。

 

周囲の闇がざわめき、触れもしないはずの空気が逆向きに引かれる。

かすかな風も波もない世界で、ただその一点だけ、割れ目のような冷たさが広がった。

 

祈りの灯がもたらす温度とは正反対の、

――底冷えした、汚れた、捻じれた寒さ。

 

(……これは……いや……これは……だめ……)

 

少女の眠る心のすぐ側を、その“何か”が這い過ぎる。

触れもしないのに、触れられたような錯覚だけが、爪痕のように意識へ残った。

 

それは祈りの光ではない。

光の形を借りただけの、まがいものだった。

 

その軌跡の奥では、世界の影がひしゃげるように揺れていた。

反響すべきでない音が鳴り、形を持たないはずの闇が、微かにねじれていた。

 

それはまるで“誰かの憎悪”が、祈りの皮をかぶって落ちてきたようだった。

 

冷たく、ざらつき、

どこかの時代の怨嗟が凝り固まってひとかたまりになったものが、

祈りの群れに紛れ込み、少女のそばを通り抜けた。

 

そして――

 

――ぽたり。

 

その瞬間、夜の鏡の底で何かが蠢いた。

透明な鏡の世界を曇らせるようにして、その黒いしずくはじわりと広がり、やがて影として形をとり始めた。

 

それは、影と呼ぶにはあまりにも禍々しかった。

 

細く、痙攣するようにうねり、ところどころが裂け、ひび割れた暗黒の骨を露出させるように複雑に折れ曲がっている。

輪郭は常に崩れ、再構築され、まるでこの世界に存在すること自体が“禁じられている”かのように不安定だった。

 

そして――その影は、音もなく動いた。

海面を裂くように、ぬるりと這い出てくる。

細く長い体躯は、毒蛇のように水を切り、少女の方へとゆっくり近づいていった。

 

(――こないで)

 

“それ”が近づくたびに、夜の呼吸が乱れる。

 

清らかな流星たちが放つ光が、わずかに震え、かき消されそうになる。

眠りの縁にいる少女の心に、鋭い冷たさが突き刺さった。

 

理由の分からない恐怖――

いや、理由など必要なかった。

 

“それ”は、この世界のすべてとは真逆に位置するものだった。

 

祈りから生まれる光はやわらかく、穏やかで、静かに胸に触れる。

だが、この影はまるで祈りを喰らうような、忌まわしく軋んだ存在だった。

 

近づけば近づくほど、海面の鏡は暗く曇り、世界がゆがむ。

影の先端が少女の眠る場所へとゆっくり、確実に伸びていく。

 

――触れられる。

 

そう思った瞬間、胸の奥底から、耐えがたいほどの恐怖が溢れた。

 

影の気配は、過去に見た悪夢よりも深く、形容しがたいほど歪んでいた。

言葉も姿も持たないのに、“邪悪”という概念だけが凝縮されて、目の前に迫ってくる。

 

(――たす……けて)

 

少女の閉ざされた意識が微かに震えた。

その震えは、祈りの光に絆されつつあった心を、一瞬で凍えさせるほどに強烈だった。

 

影の先端が、眠る少女の胸許へ触れようとした——。

 

 

 

その瞬間だった。

 

夜空が裂けるようにして、一筋の白光が落ちた。

 

音はない。

だが、世界そのものが震えた。

闇の海は一斉にたわみ、光の軌跡に触れた影が眩い焔に包まれた。

 

焼かれる、というより——

“存在を許されなかったものが、元の無へ引き戻される”ような、冷たい消滅の仕方だった。

 

影は絶叫すら上げられない。

その黒は光に触れた瞬間、ひび割れた陶器が砕けるように崩れ、音もなく霧散した。

残ったのは、静かな余韻だけだった。

 

少女の眠る場所の上に、なお光は残っていた。

それは流星などではない。

この鏡の世界で、途切れることなく輝き続けてきた——

 

蒼白いシリウスの光を宿す、あの一等星。

 

常闇の空に唯一、永劫の灯をともす星。

過去も未来も忘れたこの世界において、そのすべてを通して変わらずに彼女を照らしてきた輝き。

 

(……あ……あの光は………)

 

心の声は、夢の底で震えていた。

言葉になりきらないまま、胸の奥に淡い熱となって滲み出る。

 

その星からは、ときおり光が降ってくる。

他の流星のような灯とは違い、

澄みきった呼び声を帯びていた。

 

胸の奥に触れると、凍っていた意識の水面に、微かなさざ波が立つ。

どれほど深く眠っていても、その光にだけは応えてしまう。

手足の先がぴくりと動くこともあった。

まぶたが震えることもあった。

 

(……知ってる……この感じ……ずっと……)

 

遥か昔から、幾度も受け取ってきた光。

それが降るたびに、闇の底で眠る自分は確かに“呼ばれて”いた。

そのおかげで、自分は世界の完全な停滞ではなく、

かすかな“生”の揺らぎを保ち続けられたのだと——薄く、思い出した。

 

光はやわらかく彼女の頬を照らし、夜をやさしく揺らす。

 

少女の意識は安堵にふっと緩んだ。

そのぬくもりは、祈りにも似て、遠い遠い過去に触れた手の温度を思わせた。

けれど——

 

あのシリウスの光を放つ一等星が焼き払ったはずの闇の痕跡が、まだ胸の奥から離れてくれなかった。

 

さっきまで這い寄ってきた影の気配。

そのざらついた悪意。

祈りを塗りつぶすような濁った絶望。

 

(……あの影が……また……くる……)

 

少女の心は、再び震える。

どれほど光に照らされても、その恐怖だけは消えてくれなかった。

 

一等星の光は確かに彼女を見守っている。

それを疑う理由はどこにもない。

 

——なのに。

 

安堵のあとに、またゆっくりと扉が閉じていった。

意識の芽吹きかけた隙間はふさがり、鏡の世界の湛える静寂が、再び彼女を包み込む。

 

(……もう……だめ………)

 

祈りに近いものは光に引かれ、

恐怖に近いものは闇へ引かれる。

 

その狭間で揺れながら、少女はそっと自らを閉じた。

 

その瞬間、開きかけていた何処かの扉がふっと閉じてしまった。

海が一瞬だけ凍り、降っていた光が細くなる。

 

世界はまた静かに沈む。

ただ、遠い空の一等星だけが、

途切れることなく、彼女の眠る場所を照らし続けていた。

 

――まるで、長い夜の終わりをいつか告げようとする者のように。

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