聖地の外れに広がる都市は、まだ新しい傷を抱えていた。つい先日、夜空を震わせた爆発の痕跡が、建物の壁に焦げの線を残し、風が吹くたびに黒い粉塵をさらっていく。
市街地は正常を取り戻しつつあるように見えるが、その奥底には、誰にも言い当てられない不穏なざわつきが沈殿していた。
アキユキは、そのざわつきの中心へと歩いていく。
肩に掛けたリュックがかすかに揺れ、淡緑色の光をひそかに宿していた。数えきれない失敗と、長い時間をかけて栽培したウツツダネ。その種を煮詰め、品種を選び、繰り返し試し、100年以上かけてようやくたどり着いたワクチンがその中に入っている。
「失われた知識は取り戻すのに100年かかるっていうけど……まさかホントに100年以上かかるとはね」
「……あの太っちょゴリラとかナズナだったら、もっと完璧に仕上げてたんだろうけど」
自分に医学者としての才能はない。
ゆえに100年以上かけてもなお、リュウゾウが製造したワクチンの劣化品のようなものしか作れなかった。
だが、何もせずに立ち尽くしていたよりは、はるかにマシだったはずだ。
たとえ確率が低くても、まだ“完全に呑まれていない”者なら、戻せる可能性がある。
そのために作った。
「……さてと」
広場へ続く路地の空気が、急に重たく沈んだ。
右腕のヒルコが反応しはじめ、共鳴していく――ヒトガタが近い証だ。
ぞくりとするほどはっきりとした反応。まるで“注意を向けられた”みたいに鋭い。
路地を抜けた先で、遠巻きに何人かの市民たちが、中央の空白をおそるおそる見つめていた。
「そこの人たち、ここは危ないから離れて」
「えっ…………い、いや、でもアンタは……」
「いいから」
こちらの忠告を聞き、互いに顔を見合わせた彼らは、戸惑いながらも指示通りに現場を去ってくれた。
アキユキはそれを見届けた後、ヒトガタ目撃のタレコミがあった広場へと辿り着いた。
その中心に、三体のヒトガタがいた。
目玉のようなヒトガタ特有の文様を持ち、その両腕は人間のものと比べて、遥かに大きく膨れ上がっていた。
辛うじて下半身に衣服の残骸を残してはいたが、人だった頃の名残は、もはや感じ取れなかった。
それでも――
アキユキが一歩踏み込んだ瞬間、ヒトガタたちの反応は明確だった。
ぎらり。
光でも声でもない、“気配”が跳ねた。
彼の内側のヒルコが呼応し、空気がわずかに揺らぐ。
次の瞬間、
ヒトガタたちは、迷わず襲いかかってきた。
「……だよな。やっぱり、そう来るよな」
半ば諦めたように呟き、体をひねってその爪を避ける。
理性なんて微塵も感じられない。
ただ本能だけが、アキユキのヒルコの“光”を捕え、獲物を見つけた動物のように一直線で迫ってくる。
一体が横滑りするように距離を詰めた。
その影が地面を走るより速く、文様がゆらりと震える。
アキユキは短く息を吐き、注射器を一本取り出した。
その針先には淡緑色のワクチンが満ち、光を受けてやわらかく揺れていた。
「大丈夫。怖くない――って言ってみたけど……届いてる気がしないんだよね、いつも」
ヒトガタの体表へ触れた指先が、小さな波紋を広げる。
触れるよりも先に、ヒトガタの身体が“獲物を見つけた”ように震えた。
膜の内側で脈動が荒くなり、獣のような気配がむき出しになる。
アキユキは反射的に腕を掴み、そのまま針を打ち込んだ。
薬液が入った瞬間、ヒトガタの全身がびくりと大きく痙攣する。
その目が、一瞬だけ――
本当に、一滴だけ――
“人”の光を取り戻したように見えた。
「ん?これは……もしかしたらいけたか……?」
刹那、ワクチンを打ち込んだヒトガタの身体がはじけ飛び、中から妙齢の女性の体が姿を現した。
血肉ではなく光の膜が弾け飛んだだけだというのに、破裂音は妙に生々しく響いた。
爆ぜたヒトガタの中心から、糸を引くように膜がほどけ、その内側から倒れ込むように女性の身体が現れる。
アキユキは思わず息を呑む。
「よし、戻せた……! ちょっと、待ってて――」
女性の身体を抱きとめながら、着用していたコートの裾を片手で広げ、彼女が寒気に晒されぬよう包み込む。
脈は弱いがある。
呼吸もかすかに震えている。
間に合った――そう確信しかけた瞬間、背後の空気が鋭く揺れた。
残りの二体が、こちらを狙って跳び込んでくる。
「っ……!」
女性を抱えたまま、両足をザムド化させて後方へ跳ぶ。
ヒトガタの腕が地面を抉り、石畳を砕いた破片が雨のように散った。
「少しくらい待ってくれてもいいだろうに……」
もちろん、届くはずのない愚痴だった。
ヒトガタたちは、もう“餌”しか見えていない。
アキユキのヒルコが呼ぶ光に、飢えた獣のように飛びかかってくる。
女性を寝かせられる安全な場所は――と周囲を素早く見回し、瓦礫の陰へ身体を運ぶ。
そこならば角度的に狙われにくい。
コートをかぶせ、念のため鉄片でバリケードを作り、ようやく体勢を整える。
「……よし。少しだけ待ってて」
振り返った瞬間、ヒトガタの爪が目前に迫っていた。
アキユキは右腕のヒルコを起動し、両足をザムド化させて、地面を踏み砕きながら横へ滑る。
空気が逆巻き、ヒルコの白い光が筋となって背後に流れた。
二体目との距離を詰め、手の甲にワクチンを突き立てる。
「……頼む。元に戻ってくれ」
薬液が注がれると同時、ヒトガタは悲鳴を上げることもなく、先ほどと同様にその体躯ははじけ飛んだ。
しかし――肝心の人間の身体と思わしきものは、その中からは出てこなかった。
どうやらすでに、ヒルコとの同化が進行しすぎてしまっていたようだ。
「……ダメだったか」
悔しさが喉を掠めたが、もう一体が時間をくれない。
すでに光を追って突進してくる。
アキユキは短く息を吸い、腕を滑り込ませて針を突き立てた。
「これで……どうだっ!」
三本目のワクチンが流れ込む。
ヒトガタはたまらず後ずさり、体表の光が不規則に点滅する。
輪郭がぶれ、膜が剥がれかけ――
だが、その中心から出てくるべき“人”の姿はなかった。
代わりに、内側で黒い塊が膨張し、風船のように破裂する。
残されたのは、乾いた光の粉だけ。
「……結局元に戻せたのは、最初の1人だけ……か」
胸の奥が締めつけられた。
来るのが遅かった。
(もっと早く動けていれば……)
だが、自責を続ける暇はない。
瓦礫の陰で女性が微かに震えていた。
「ごめん、待たせた。もう大丈夫」
アキユキは急いで女性の元へ戻り、身体を包んだコートごと抱き寄せる。
体温は低い。
けれど確かに“人”の体の温度があった。
右腕のヒルコを抑え、暴走を防ぎつつ、彼女の髪をそっと避けて脈を測る。
「……生きてる。ちゃんと戻ってこれたよ」
周囲に敵影がないことを確認しながら、彼はコートで包んだ女性の身体を慎重に支える。
呼吸は安定してはいないが、確かに繋がっている。
「よかった……本当に……」
声が少し震えた。
この場に残った“命”は、彼女ひとりだけだった。
その重みが、両の手にひしひしと伝わってくる。
「絶対に……助けるから」
アキユキは女性を抱え上げ、崩れた建物の陰を抜け、応急処置ができる場所へと歩き出した。
その背後では、消えたヒトガタの光が風に乗り、静かに散っていった。
瓦礫の陰に寝かせた女性は、まだ意識を取り戻さなかった。
皮膚は青白く、呼吸は細い。
ヒルコの侵食が浅い段階で止まっていたのは幸運だったが、それでも身体は限界に近い。
アキユキは持参したリュックのポケットから、小さな金属容器を取り出す。
中には――自分で煎じて作った、奇魂湯が入っている。
「……味は保証しないけど、効くからガマンして」
女性の唇をそっと開き、少しずつ流し込む。
胃へ落ちていく音はしないが、喉がかすかに動いたのを確認して息をつく。
その瞬間だった。
右腕のヒルコが、
ぎしり、と骨をきしませるように疼いた。
(……チッ、こんな時に……)
遠くから迫る“禍々しさ”は、ヒトガタのものより濃い。
人の姿をしているくせに、祈りの皮をかぶった何かが歩いてくるとき特有の、異様なざらつき。
おそらくアニマ=ノアからの刺客――それも、かなり本気で獲物を仕留めに来るときの“気配”だ。
「すぐ戻るから、少しだけ待ってて」
女性を人気のない、建物へと運び、その中にあったソファに寝かせた。
意識のない彼女は抵抗も動きもしない。
その指先の冷たさが、妙に胸へ刺さった。
アキユキは立ち上がり、静かに深呼吸をひとつ。
その背後から――祈りの抑揚を真似た歪な声が近づいてきた。
「……探しましたよ。崇高なる真理に背き、再び世を穢さんとする異端者よ」
足元の砂利を踏む音すら、儀式の一部みたいだった。
現れたのは白灰色の儀礼服をまとった男。
その両脇には、見覚えのあるリングが首に食い込んだ、巨大なヒトガタが二体。
どうやら、かつて北政府がヒトガタを兵器として運用する際に利用していたリングと同様の物のようだ。
(あのリング……なぜアニマ=ノアが持っている?……どこかで北政府軍の研究資料でも手に入れたのか?)
男は聖典を読むような口調で続ける。
「我らが教祖様は言われました。――あの異端者を排しなさい。その身に宿る“歪み”は、光の行く手を阻むと。」
「相変わらず、一方的だね。そっちこそ、勝手に真理だの何だのって決めつけて……好き勝手に人間をヒトガt……異形に変えてるだけじゃないか」
男はゆっくりと顔を上げる。
その表情は、怒りとも笑みともつかない。
ただひとつ、“確信”だけが宿っていた。
「それが救いなのです。あなたのような“拒絶の徒”には、一生理解できぬでしょうが」
背後のヒトガタが、リングを通じて震え、濁った祈りのような低音を漏らす。
男はその声を恍惚とした表情で聞きながら、一歩、アキユキへ踏み込んだ。
「今日こそあなたを“正しき場所”へ還します。抵抗は、無意味です」
「……そろそろ本音見せてもいいんじゃないの?」
わずかな挑発。
男の目は、待ち望んだ瞬間に触れた狂信者のそれへ変わった。
「いいだろう。……我らが
その瞬間、男の内側で何かが軋み、
ヒルコのようなものが瞳の奥で蠢いた。
同時に、アキユキの耳へ――
……たす……けて……――
どこか遠くで、
どこにもない場所で、
それでも確かに聞いたことのある、かすれた呼びかけ。
(……何だ、今のは……?何かが聞こえたような……胎動窟の方から?)
一瞬の困惑。
しかし男は、そんなアキユキの戸惑いをよそに、腕を広げ高らかに宣言した。
「さぁ、真理の箱舟へ導かれしときが来ました――」
ヒトガタたちの文様が一斉に爛々と光を噴き、
その体躯がアキユキへと向けられる。
まさに、戦いの幕が上がろうとしていた。