瓦礫の広場を離れたアキユキは、しばらく無言で歩き続けていた。
戦闘の余韻はまだ身体の奥に残っている。ヒルコの鼓動が、完全には静まりきらない。
だが――
それ以上に、頭から離れないものがあった。
(……あの声)
刺客との死闘の最中、確かに聞こえた。
幻聴で片づけるには、あまりにも生々しく、そして“近すぎた”。
胎動窟。
聖地のさらに奥、魂の流れが集束する禁域。
気づけば、足は自然とその方角を向いていた。
「……あんまり良い予感はしないんだけどな」
自嘲気味に呟きながらも、歩みは止めない。
むしろ、確信に近いものが胸の奥で形を持ち始めていた。
――確かめなければならない。
やがて視界に、巨大な岩壁と、それに埋め込まれるように存在する胎動窟の入口が現れる。
何度訪れても、ここだけは空気が違う。
重く、湿り、どこか“母の子宮”を思わせる圧迫感。
「……ん?」
一歩、足を踏み入れた瞬間だった。
(……流れが、変わっている?)
アキユキは即座に気づいた。
ザムドの感覚を通して、胎動窟を満たす魂の力――プラーナの大河のような流れを捉える。
以前訪れたとき。
大巡礼を目前に控え、胎動窟の内部は異様なほど活発だった。
魂の力は脈打ち、うねり、抑えきれない熱のように外へ滲み出していた。
それは、解放の兆しだった。
扉が開かれる直前の、自然な状態。
しかし――今は違う。
「……間違いなく力は強まっている。でも……」
流れそのものは、確かに強い。
以前よりも、むしろ濃度は高いほどだ。
だが、その力は――
外へ、一切漏れていない。
まるで、巨大な堰で強引にせき止められているかのように。
アキユキは、胎動窟の奥へと視線を向ける。
そこに鎮座する、巨大な扉。
「……閉じたまま、か」
本来なら、この段階に至っていれば――
扉は、もう開いていてもおかしくない。
実際、千年前の大巡礼のときはそうだった。
魂の流れがこの状態になった時点で、胎動窟は完全に解放されていた。
指先が、無意識に強く握られる。
(何かが……この中で、起きている?)
しかもそれは、単なる遅延や異常ではない。
意図的な“抑圧”に近い感触。
魂の力が、外へ出ることを拒まれている。
いや――閉じ込められている。
(ナキアミ……)
確証はない。
だが、あの戦闘中に聞こえた声。
かすれた、悲鳴のような“心の声”。
それが、この場所と無関係だとは、もう思えなかった。
「……嫌な予感、的中してなきゃいいけど」
静寂の中で、魂の流れがざわめく。
――そして。
そのときだった。
背後でも、前方でもない。
すぐ傍から。
「……そこの御方、少しだけよろしいでしょうか?」
か細く、けれど確かに存在する声が――
アキユキを呼び止めた。
アキユキは、即座に声のする方へと視線を送る。
次の瞬間、アキユキの目に信じられないものが映った。
胎動窟の壁際、アキユキが振り返ったその先に――一人の少女が立っていた。
満月を思わせる、透き通った淡黄色の髪。
胎動窟の薄暗がりの中でもなお淡く光を反射し、現実感を失わせる色彩。
そして、その下でこちらを見つめ返す瞳は、夜空を切り取ったかのような深い黒だった。
だが――
問題は、そこではなかった。
「……は?」
思わず、声が漏れる。
少女の両頬には、見覚えのありすぎる刺青が刻まれていた。
線の入り方、模様の配置、角度に至るまで――ナキアミのものと、ほとんど同じ。
髪の癖や揃え方、そして骨格も。
何より、その顔立ち。
(…………なんで)
髪と眼の色を変えただけで、区別がつかなくなる。
そう断言できるほど、彼女はナキアミと瓜二つだった。
「……驚かせてしまいましたか?」
少女は、穏やかな声でそう言った。
口元には、柔らかく整えられた微笑みが貼り付いている。
「俺は……いや、君は……」
言葉を選ぼうとして、失敗する。
頭の中で、整理が追いつかない。
「初めまして……では、ありません」
少女は一歩、こちらへ近づいた。
その動きに、敵意はない。
それどころか、どこか懐かしさすら滲んでいる。
「私の名は、ナクセナと申します」
その名を聞いた瞬間、アキユキの胸の奥で、何かが微かに鳴った。
「……ナクセナ?」
初めて聞く名前だ。
しかし、同時にどこか懐かしさを感じる響きでもあった。
「覚えておられませんか? ずいぶん昔のことですけれど……」
ナクセナは少し首を傾げ、貼り付けたような笑みを崩さないまま続けた。
「北部に位置するあの街で、迷子になっていた私を……貴方が、安全な場所まで連れて行ってくださいました」
その言葉に、記憶の底がわずかに揺れる。
埃を被った古い情景。
――泣きじゃくる小さな子ども。
――夜空に浮かぶ満月のような見た目。
――手を引いて、宿の前まで送った、名も知らぬ少女。
「ああ……」
思い出した。
確かに、そんなことがあった。
「……あの時の子、か」
「はい」
ナクセナは、小さく頷いた。
大きくなったな……と、懐かしさと同時に、胸の奥に別の感情が芽生える。
疑問。
違和感。
そして、拭いきれない不安。
「……あのさ、少し聞きたいことがあるんだけど……いいかな」
「……?はい、何でしょう?」
アキユキは、慎重に言葉を選んだ。
「その名前についてだけど……その……『ナクセナ』って名づけられた由来」
そして、視線を彼女の頬へと移す。
「それに、その刺青について。差し支えなければ、理由を聞かせてほしい」
ナクセナは、一瞬だけ瞬きをした。
それは、人形が“考える”ために与えられた、最小限の間のようだった。
「……ええ。構いません」
彼女は、静かに語り始める。
「私は、元々孤児でした。名前も、家族もなく……ただ泣いてばかりの子どもだったそうです」
淡々とした口調。
感情の起伏は、ほとんど感じられない。
「そんな私を、ある部族の長が引き取ってくださいました。ですが……私は本当によく泣く子で」
ナクセナは、少しだけ目を伏せた。
「義父である長は、周囲にいつもこう言っていたそうです。『泣かすな』と」
その言葉を、何度も、何度も。
「やがて……名前を持たなかった私は、その言葉で呼ばれるようになりました。
『泣かすな』が訛り、転じて――『ナクセナ』に」
アキユキは、言葉を失う。
「……そっか」
短く、そう返すのが精一杯だった。
そしてアキユキの口が、わずかに開いたまま、閉じなくなる。
言葉の続きが、出てこなかった。
(……有り得ない)
胸の奥で、何かが軋む。
ナキアミの幼いころの話を、育て親の伊舟から聞いたときのことを思い出す。
幼き彼女はいつも涙を止めることができず、周囲から「泣き止め」「泣き止め」と言われ続けていたこと。
それが、いつしか名前として定着したということ。
(……名前の、由来まで)
あれから千年の月日が経った今、ナキアミの生前を知るものは存在しているはずがない。
――自分を除いて。
しかし、あまりにも、似すぎている。
故に、ただの偶然としか考えられないが、とても偶然とは思えない。
そんなパラドックスめいた事象に、アキユキは頭がおかしくなりそうになった。
「…………っ」
アキユキは、喉の奥がひどく乾くのを感じながら、ナクセナを見つめた。
彼女は、そんなアキユキの動揺に気づいているのかいないのか、相変わらず貼り付けたような微笑みを浮かべている。
「どうかなさいましたか?」
その問いかけに、すぐには答えられなかった。
「……えっ……い、いや、何でもないよ。じゃあ、その……刺青については?」
ナクセナは、再び顔を上げる。
その貼り付けた笑みを、ほんのわずかに強めて。
「それは、信仰の証です」
「信仰……?」
「はい」
彼女は、懐から一冊の古い本を取り出した。
擦り切れ、何度も読み返されたことが一目で分かる装丁。
『白き従者と天女の福音』
その表紙を見た瞬間、アキユキの背筋に冷たいものが走る。
「私は……この物語を信じています。天女に、敬意と……憧れを」
だからこそ、刺青を刻んだのだと。
天女と同じ印を、自らの身に。
ナクセナの話を聞き終えたアキユキは、しばらく沈黙したまま、彼女を見つめていた。
(……落ち着け)
頭の中で、自分に言い聞かせる。
彼女の名前や生い立ち。
刺青に髪型。
そして顔立ち。
どれを取っても、ナキアミの生き写しだ。
だが――
(違う)
決定的に、違う。
日輪のような赤い髪。
青空を思わせる瞳。
ぶっきらぼうで、不器用で、それでも時折見せる自然な優しい笑顔。
それが、ナキアミだ。
対して。
満月のように淡い白髪。
闇夜の底を覗かせる黒い瞳。
そして――常に浮かべられた、人工的な笑み。
本性を隠すための仮面のような、それ。
(……同じ姿をしていても)
その性質は、まるで正反対だ。
言葉にできない感覚に囚われながら、ナクセナと名乗った少女を見据え続けていた。
それは嫌悪でも、恐怖でもない。
ただ――アキユキの胸の奥は、ひどくざわついていた。
しばしの沈黙が、胎動窟に落ちた。
魂の流れが、低く、重く唸っている。
まるで二人の間に漂う空気そのものが、何かを測っているかのようだった。
やがて――
ナクセナが、ふと首を傾げた。
「……今度は、私からも。いくつか、よろしいでしょうか」
貼り付けたような微笑みは、そのまま。
だが、その瞳だけが、わずかに鋭さを帯びていた。
「うん、もちろん構わないよ」
アキユキは、短く頷く。
「ではまず……」
ナクセナは、淡々と問いを投げる。
「貴方のことを、もっと知りたいのです」
「貴方のお名前と……それから、普段何をなさっているのか、教えていただけませんか」
その質問は、あまりにも素朴だった。
しかし、だからこそ、探る意図を感じさせない。
「あれ、あの時はまだ教えてなかったか。――俺の名前は、アキユキ。竹原アキユキだ」
少しだけ間を置き、アキユキは正直に答える。
「普段は医者をしてるよ。外科と薬学が専門。怪我人や病人を診て、治す。それが仕事だ」
嘘ではない。
隠してもいない。
「まぁ……お医者さまでしたか」
貼り付けた微笑みはそのままだが、声の温度が、わずかに上がる。
「それは……これまで多くの方を救ってこられたのでしょうね」
「……はは、そんな大したものじゃないさ」
疑う様子はない。
探る気配もない。
ただ、事実をそのまま受け取り、納得している。
だが、すぐに次の問いが続く。
「では、次に……」
ナクセナの視線が、アキユキの顔をじっと捉えた。
「十年ほど前……あの街でお会いした頃と比べて、貴方はほとんど変わっていません」
言外に含まれた意味は、明白だった。
「年を重ねているはずなのに……なぜ、そのように見えるのでしょう?」
来たか、と心の中で呟く。
(まぁ、気になって当然ではあるな)
真なるザムドの力――
その一端が、肉体の老化を極端に遅らせている。
だが、それをそのまま語るわけにはいかない。
「医者だからね」
軽く肩をすくめて、はぐらかす。
「肉体を若く、健やかに保つ術にも、それなりに精通してる。そう見えるだけさ」
ナクセナは、じっと彼を見つめていた。
嘘を見抜こうとしている……わけではない。
ただ、事実をそのまま受け取るかのような視線。
「……そう、なのですね」
そう言って、彼女は微笑んだ。
貼り付けたままの、その笑みで。
結局、彼女はそれ以上踏み込まなかった。
「では……最後に」
ナクセナは、胎動窟の奥――
閉ざされた巨大な扉へと、視線を向ける。
「貴方は――なぜ、大巡礼に?」
この問いだけは、明確に違った。
「この地を訪れる方の多くは、私のように信仰が目的です。ですが……貴方からは、それとは少し違う雰囲気がするのです」
「祈りではなく……まるで観察者のような」
胎動窟の魂の流れが、かすかにざわめく。
「……医学者として、だよ」
アキユキは、慎重に言葉を選ぶ。
「魂の流転という教義を持つ、ルイコン教最大の行事だ。研究者として……興味があったんだ」
嘘ではない。
だが、真実でもない。
ナクセナはしばらく黙っていた。
貼り付けた笑みを浮かべたまま、何かを量るかのように。
――そして。
ほんの一瞬。
その笑みが、消えた。
彼女の表情から、貼り付けた笑みが、ほんの一瞬だけ剥がれ落ちた。
そこにあったのは、感情の温度を失った、ひどく冷えた真顔だった。
――ゾクッ
それは刹那の出来事だった。
だが――アキユキは、確かに見た。
「……」
心臓が、わずかに跳ねる。
(なんだ、今のは……)
思わず、息が詰まる。
だが次の瞬間、ナクセナは何事もなかったかのように、再び微笑んでいた。
「……なるほど」
声も、元通り。
だが、ほんのわずかに、空気が変わった。
ナクセナは、胎動窟の奥――閉ざされた扉へと視線を移した。
そして、まるで話題を切り替えるように、静かに口を開く。
「ですが……不思議ですね」
彼女の視線は、再び胎動窟へ。
「この胎動窟の持つ力のような流れが……以前とは、明らかに違っています」
その言葉に、アキユキの心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
「以前、私がここを訪れたときは……」
ナクセナは、目を閉じる。
「この力の流れが、熱のように溢れていました。抑えきれず、外へ外へと滲み出して……とても、静かに立ってはいられないほどに」
「けれど、今は……完全に、閉じ込められているように思えます」
(……まさか)
ヒルコがもつ魂の力。
胎動窟のプラーナの流れ。
(――感知、している……のか?)
アキユキは再び、言葉を失った。
ヒルコ。
プラーナの流れ。
それを“感じ取れる”のは――
ザムドを除けば――ナキアミをはじめとした、ヒルコの扱いに長けたタマヨビの特性。
しかし、その存在は、現代では完全に失われていたはずだった。
(詳しく聞く必要があることだ……。けど――)
胸の奥で、警鐘が鳴る。
(少なくとも、今ここでは……聞いてはいけないような気がする)
彼女は、確かにプラーナを感知している。
にもかかわらず。
“知っているはずのことを、語らない”。
偶然か。
話の流れか。
それとも――
アキユキは、その疑念を、口にしなかった。
「……そうか」
代わりに、静かにそう返す。
ナクセナは、少し残念そうに微笑んだ。
「胎動窟の力の流れから……もうじき、中に入って――」
その声は、どこか夢見るようで。
「天女様に、逢えると思っていたのですが……」
そう言ってから、彼女は一歩、後ずさる。
「今日は……ここまで、ですね」
踵を返しながら、最後に振り返った。
「では……また逢いましょう」
その言葉を残して。
ナクセナは、胎動窟の闇へと、静かに溶け込んでいった。
アキユキは、その背を見送りながら、動けずにいた。
(……一体、何者だったんだ)
狐につままれたような感覚。
現実感の欠如。
そして、胸に残る、説明のつかない違和感。
そう、彼女はヒルコやプラーナを感知できるにもかかわらず――
最近、何度も起きているアニマ=ノアの人工ヒルコによる爆破事件について、彼女は一切触れようとしなかった。
偶然か。
話の流れか。
それとも――
(……意図的、か)
アキユキは、閉ざされた胎動窟の扉を見つめながら、先ほど感じた違和感を、何度も反芻し始めていた。
――彼女との邂逅は、きっと偶然ではない。
――そして、この大巡礼は……想像していた以上に、歪んでいるのかもしれない。
この邂逅は、始まりに過ぎなかった。