かつてナキアミも乗船していた国際郵便船ザンバニ号の船長――紅皮伊舟の声が、記憶の奥から静かに蘇る。
今でも鮮明に覚えている。彼女と最後に出会った、あの日のこと――
あのときの港の潮風は、今と変わらず穏やかだった。
アキユキが尖端島の港で伊舟と再会したのは、再び目覚めてから、さらに二十年ほどの月日が流れたある日のこと。
きっかけはザンバニ号の古株、アクシバが数年ぶりに尖端島に降り立ったときだった。最後に会ってから三十年の時が経ち、アクシバのあの特徴的なドレッドヘアには白髪が混じり、目尻には深い皺が刻まれていた。それでも、あのどこか軽薄な面影はあの頃と変わっていなかった。
彼が港で郵便物の受け渡しをしているとき、背後からアキユキは彼に声をかけた。仕事中に声をかけられた彼は、若干の不満を抱きながらも、こちらへと振り返った。
次の瞬間、彼は目を大きく見開き、まさに”ありえない”という表情をした。
無理もない。何せ、三十年前に石に成り果てたはずの、かつてナキアミと共に巣立っていった少年が、あの頃とほとんど変わらぬ姿のまま、そこに立っていたのだから。
「……まさか、お前……アキユキ、か?」
驚きに目を見開いた彼は、思わず声を上げた。
アキユキはゆっくりと頷く。
言葉が続かないアクシバの戸惑いに、アキユキは苦笑いを返した。
「久しぶりだね、アクシバ」
その声に、アクシバは唖然とした表情をしていた。
懐かしさと、狐につままれたという感じが入り混じった、酷く間の抜けた顔だった。
――それから少しして。
アキユキは、再びあの船の甲板に立っていた。
国際郵便船ザンバニ号。
あの頃と同じ鋼の匂いと、かすかに混じる油の臭いが鼻をかすめる。
船体の一部は改修されていたが、甲板の錆びた手すりや、風にきしむ音は、何一つ変わっていなかった。
ただ、そこにいる人々は違っていた。
クルーの半数以上は新顔で、アキユキのことを知らない。
だが、古参の何人かは――アキユキの姿を目にした途端、息を呑み、言葉を失っていた。
あのとき石と化した少年が、三十年の歳月を経ても姿を変えず、ここに立っているのだ。
誰もが、夢でも見ているような顔をしていた。
そして――その中に、彼女がいた。
「……アンタ、本当に……」
低く、しかしよく通る声だった。
振り向いた先、操舵室から現れたのは、かつてのザンバニ号の船長、紅皮伊舟。
額に刻まれた皺と、白髪交じりの髪が歳月を物語っていた。
だが、その眼光だけは昔とまるで変わらない。鋭く、まっすぐにこちらを射抜いていた。
「……よく生きてたねぇ、まったく」
大きく息を吐きながら、伊舟は肩をすくめた。
口調はいつも通り豪快で、どこか乱暴に聞こえる。だが、その声の奥に、言葉にしない安堵が滲んでいるのをアキユキは感じた。
「伊舟さん……」
「まったく……。アンタ、ちっとも変わってないね。あれから三十年だよ、三十年」
「あなたが、変わっただけですよ」
その言葉に、伊舟は一瞬だけ目を見開き、そして豪快に笑った。
甲板に響き渡るような笑い声だった。
「はっ! そうかい、そうかもね!……人生何があるか分からないもんだね、ホント」
だが、次の瞬間、彼女の視線がふと柔らいだ。
昔のままの瞳で、アキユキを見つめる。
「……アンタと話したのは、あの時以来だね。あの子と一緒に船を降りたとき以来さ」
「ええ」
二人の間に、短い沈黙が流れた。
海風が吹き抜け、マストがきしむ音が響く。
それは懐かしい音だった。まるで、時間が巻き戻っていくような錯覚すら覚える。
やがて伊舟は、背もたれのパイプに腰を預けながら、ぽつりと呟いた。
「……あの子のこと、聞いたんだろ?」
あの子――ナキアミ。
アキユキは黙って頷いた。
胎動窟の最深部で、彼女はいまだ眠り続けている――かつて闇に包まれた世界を救済した“天女”として。
伊舟は大きく息を吐き、片手で頭をかいた。
「まったく、あの子は昔から意地っ張りでね。自分の信じた道すら分からないくせに、勝手に歩いていっちまう。……でも、まあ、それがナキアミだ」
その声には、怒りでも呆れでもない、ただ深い――優しさが滲んでいた。
彼女は誰よりもナキアミと衝突していた。それはアキユキも何度も目にしている。
だが、同時に誰よりもナキアミのことを気にかけ、守ろうとしていたのも彼女だった。
「……あの子は、アタシらの手の届かないとこまで行っちまった。でもね」
伊舟はゆっくりと立ち上がり、アキユキの目を真っ直ぐに見た。
「もしアンタの気が向いたんなら――挨拶にでも行ってやりな」
それは、彼女にしては珍しく、静かな声だった。
けれど、その裏にある想いは痛いほど伝わった。
――ナキアミのことを、どうか頼む。
それは永遠の時を生きる、自分にしかできないこと。
言葉にしなくても、アキユキには分かった。
「……もちろん。わかってますよ」
アキユキがそう応えると、伊舟は少しだけ目を細め、かつての勝ち気な笑みを浮かべた。
「そういえば、さっきアクシバから聞きましたよ。ナキアミの部屋、まだ残してるんですって?」
「アイツ……余計なことを。……そうさ、その通りだよ。あの子がいつ帰ってきてもいいように、あの部屋だけはそのままにしてあるのさ」
「けど………もういい加減、アタシも子離れしないとだね」
豪快な彼女からしては珍しく、夜風に消え入るような声だった。
その言葉の真意は、現実を受け入れたが故か、それとも己の叶わぬ夢をアキユキに託せたが故か――
その夜、甲板の空は晴れ渡っていた。
星の瞬きの下で、二人は長い時間を語り合った。
翌朝、アキユキは静かに船を降りた。
そしてあの時以降、再びザンバニ号のクルーと会うことはなかった。
だが、伊舟の声は今も心の奥に残っている。
――”気が向いたんなら、挨拶にでも行ってやりな”
その言葉は、彼を再び胎動窟へと導く、小さな灯火となった。