「……ナクセナ?」
思わず零れた声は、喧騒に紛れても不思議と彼女に届いたらしい。
ページを追っていたナクセナの指が、ぴたりと止まる。
ゆっくりと顔を上げたその表情は、一瞬だけ目を見開き――
すぐに、ほんのわずか柔らいだ。
「……竹原様?」
驚いたように目を見開き、次の瞬間、ほっとしたように表情を緩めた。
その反応は自然で、作ったものには見えない。
(……本当に、偶然か)
内心でそう思いつつも、アキユキは苦笑する。
「いやぁ……ビックリだよ。こんなところで会うとは思わなかった」
それは、偽りのない本音だった。
戦闘の余韻を引きずったまま入った喫茶店で、まさか彼女の姿を見ることになるとは。
ナクセナは本を閉じ、胸の前でそっと抱えるようにしてから、小さく頷いた。
「……私もです。聖地の近くとはいえ、市街地で再会するなんて……」
言葉を選ぶように、一度だけ視線を落とす。
「正直、とても驚きました」
そう言ってから、少し照れたように微笑んだ。
その表情を見て、アキユキは内心で小さく息を吐く。
疑念がないわけじゃない。
彼女が何者なのか、まだ何一つ掴めていない。
それでも――
(……やっぱり、似てるなぁ)
満月を思わせる淡い髪。
穏やかな声色。
そして、どこか懐かしさを覚える雰囲気。
記憶の奥に焼き付いている、ナキアミの面影と、どうしても重なってしまう。
けれど、その性質は決定的に違う。
――似ているのに、正反対。
それが、今のアキユキにとっての、彼女の印象だった。
「……あ、えっと」
気まずい沈黙が生まれそうになり、アキユキは咄嗟に言葉を継ぐ。
「もし、よかったらなんだけど」
そう前置きして、彼女の向かいの空席を指差した。
「相席、いいかな。ちょうど座ろうとしてたところでさ」
遠慮がちだが、逃げ腰ではない。
ただ、彼女の反応を確かめるような、素直な申し出だった。
ナクセナは一瞬だけ目を瞬かせ、次の瞬間には、はっきりと頷いた。
「はい。もちろんです」
即答だった。
しかも、その声音には、隠そうともしない明るさが滲んでいる。
「……またお話ができて、嬉しいです」
その言葉に、アキユキは少しだけ目を見開き、すぐに苦笑した。
「そっか。それなら、よかった」
椅子を引き、向かいの席に腰を下ろす。
カップをテーブルに置くと、二人の間に、静かな距離が生まれた。
喫茶店の中は、相変わらず穏やかなざわめきに包まれている。
巡礼者の笑い声、カップが触れ合う音、豆を挽く規則正しいリズム。
そのどれもが、この再会を「日常の延長」に見せていた。
「改めて、こんにちは……だね」
アキユキがそう言うと、ナクセナは小さく笑った。
「はい。改めて、こんにちは」
敵でも、味方でもない。
ただ、十年ぶりに再会した、懐かしさを伴う他人同士として。
静かな挨拶が交わされてから、しばし、穏やかな時間が流れた。
湯気の立つカップを前に、二人ともすぐには口を開かない。
その沈黙は気まずいというより、どこか様子を窺うための間――互いに、無意識のうちに踏み込む距離を測っているようだった。
「……そういえば」
最初に口を開いたのは、ナクセナだった。
声は柔らかいままだが、その視線は、先ほどまでとはわずかに違う。
「竹原様って、不思議ですね」
「不思議?」
アキユキはカップを持ち上げながら、眉を上げる。
「はい。初めてお会いしたときから、ずっと……とても強い“気配”を持っています 」
言葉を選ぶように、一度だけ視線を落とし、そして彼の右腕へと目を向ける。
「とても強い生命の力を感じます。特に右腕を中心として、力が流れているように見えますが……」
その瞬間だった。
アキユキの指先が、ぴくりと止まる。
(………あっ)
遅れて、ようやく思い至る。
彼女は、プラーナを感知できる側の人間だ。
それならば――自分の右腕に宿るヒルコを感じ取れていても、何らおかしくはない。
(……しまった。最近悩み事が多すぎたせいで、完全に失念してた)
小さく息を吐き、苦笑する。
「……気づかれていたんだね。少し不用心だったかな」
ナクセナは首を傾げる。
「不用心……ですか?」
否定でも肯定でもない、曖昧な言い回し。
だが、それで十分だったらしい。ナクセナはそれ以上踏み込まず、ただ静かに続きを待っている。
アキユキは少し考えた後、観念したように肩を竦めた。
「ホントはあんまり知られたくはなかったんだけどね。……まあ、気づかれてるなら仕方ないか」
そう言って、ゆっくりと右腕の袖口をまくり上げた。
淡く蒼い光を帯びたヒルコが、静かに脈打っている。
人工物にはない、澄んだ色。
それだけで、異質さと同時に、奇妙な美しさを放っていた。
「これ、ヒルコっていうんだけどさ」
ナクセナの息が、わずかに止まる。
「……」
言葉を失ったまま、彼女はそっと指先を伸ばした。
触れていいか迷うような、慎重な動き。
それでも、ためらいながらも蒼い表面に触れる。
「……冷たい。でも……」
指先でなぞりながら、食い入るように見つめる。
「きれい……」
ぽつりと、零れ落ちるような声だった。
その時、彼女の顔から、あの不気味なほど完璧だった「貼り付けた笑み」が消えていた。
黒い瞳は純粋な驚きと、どこか深い孤独を癒やすような慈しみに満ち、ただ目の前にある蒼い光を食い入るように見つめている。
アキユキは、その横顔を見つめながら、少しだけ目を細める。
「先日さ。俺がどうして若いままなのかって、聞いただろ」
ナクセナは、はっとして顔を上げる。
「えっ、あっ……はい」
アキユキはナクセナの黒い瞳を真っ直ぐに見つめ、言葉を慎重に選ぶ。
「あまり人には言えない事情があってね。これがあるから、俺の肉体は普通の人間とは違う時間の流れの中にいる。……詳しいことは話せないけど、嘘をついていたことは謝らせてほしい」
それだけで、十分だった。
ナクセナは、ゆっくりと頷く。
「そんな、謝らなくても……」
そう言いながらも、どこか安心したような表情を浮かべる。
ヒルコから手を離し、ふと、彼女はアキユキの袖口に目を留めた。
「……あの」
「ん?」
「……竹原様。ここ、汚れています。灰と……何かの焦げた跡でしょうか」
言われて、アキユキは自分の腕を見下ろす。
確かに、乾ききらない血と煤の跡が残っていた。
「ああ……」
苦笑して、軽く肩をすくめる。
「ここに来る前、医者として例の爆破事件の現場に立ち寄っていたんだ。その後始末でね」
その言葉が出た瞬間。
ナクセナは一見、先ほどまでの穏やかな表情を取り戻したように見えた。
しかし、1000年の時を生き、数多の人間を観察してきたアキユキの目は、彼女の肩が、ほんの一瞬だけ――痙攣するように小さく震えたのを見逃さなかった。
「……人工ヒルコ、って知ってるかい」
あえて、声の調子を変えずに続ける。
「本来のヒルコは、死者の魂の集合体なんだけどね。人工のものは、その……純度が低い代用品みたいなものだ。力も不安定で、暴走しやすい」
専門的な部分は、意図的に省いた。
言うべきでない名前も、技法も、伏せたまま。
「で、その人工ヒルコが原因じゃないかって言われてるのが、あの爆破事件だ」
ナクセナの顔を、正面から見る。
「……ナクセナ。どうやら君はヒルコの気配を感じ取れるみたいだけど……。あの爆破事件について、何か感じたことはないかな?」
一瞬の沈黙。
「何も、知りません」
即答だった。
間を挟む余地もないほど、はっきりと。
「いや、本当に何でもいいんだ。何か少しでも気付いたことがあr―― 」
「いえ、貴方が知っている以上のことは、何も」
ナクセナは、アキユキが言葉を言い切る前に、鋭くそれを遮った。
その黒い瞳には、先ほどの感嘆の色は微塵も残っていない。
「お役に立てず、申し訳ありません」
その声には、拒絶があった。
柔らかいが、踏み込ませない壁。
「……そっか」
アキユキは、言葉を飲み込む。
ナクセナは、ふっと視線を逸らし、少しだけ声の調子を変えた。
「竹原様の立場上、その件についての手がかりを得ようとする姿勢は理解できます。ですが……別のお話がしたいのです。もっと、お互いのことについてのお話を―― 」
それは、会話を終わらせるための言葉だった。
同時に、これ以上触れてほしくないという、明確な意思表示。
「……そうだね」
アキユキは、それ以上追及しなかった。
拒絶の色を滲ませたナクセナを前に、アキユキは手元のカップをそっと揺らした。
気まずい沈黙を埋めるように、窓の外では夕暮れ間近の光が石畳をオレンジ色に染め始めている。
話題を変えなければならない。それも、彼女の「拒絶」に触れないような、別の場所へ。
アキユキの視線が、ナクセナの手元にある古い書物に止まった。
「……その本。伝承、『白き従者と天女の福音』だったね」
アキユキの問いに、ナクセナの肩の力がわずかに抜けた。
「君がどうして、そこまで強くその物語を信じているのか……少し気になったんだ。その刺青を自分に刻むくらいに」
ナクセナは本の表紙を愛おしむように撫でた。
「……私は、どこにも居場所のない子供でしたから」
その声は、遠い記憶をなぞるように淡々としていた。
「拾われた先でも、名付けられた名の中でも、私は常に”異物”でした。何者でもなく、誰にも望まれない。そんな空っぽだった私に、物語だけが”意味”をくれたのです。……特に、天女を救い出すために現れる『白き従者』の存在が」
彼女が天女について語るとき、その口調はどこか義務的な、模倣者のそれだった。しかし「白き従者」の名を口にした瞬間、彼女の黒い瞳の奥に、貼り付けた笑いではない切実な熱が灯るのをアキユキは見逃さなかった。
ナクセナはしばらく言葉を飲み込むように沈黙した。
そして、何か重い覚悟を決めたかのように、アキユキを真っ直ぐに見つめた。その顔から、いつもの完璧な笑みが剥がれ落ちていく。
「……竹原様」
震える声が、アキユキの鼓膜を震わせた。
「もし……もしも私が、何者でもない空虚な存在だとしたら。取り返しのつかない過ちを犯した、救いようのない人間で……ただの誰かの代用品に過ぎないのだとしたら」
彼女の瞳は、夜空のように暗く、それでいて溺れる者が藁を掴むような必死さに満ちていた。
「そんな私であっても……貴方は、あの物語の『白き従者』のように、私を救い出してくれますか?」
その問いの真意を、アキユキは正確には理解できなかった。
彼女がどんな「過ち」を指しているのか。誰の「代用品」だと言っているのか。
だが、目の前の少女が今、1000年という時を孤独に彷徨ってきた自分と同じ、あるいはそれ以上の深い絶望の淵に立っていることだけは、肌で感じるほどに伝わってきた。
アキユキは呼吸を整え、彼女の瞳から目を逸らさずに言葉を紡いだ。
「君がこれまで何をしてきたのか、本当は何者なのか、俺はまだよく知らない」
ナクセナがわずかに身を引こうとする。だが、アキユキの言葉は続いた。
「けれど、もし君が本当に助けを求めているのなら。……たとえ世界中が君を拒んだとしても、俺は何があろうと必ず、君を救い出してみせる。それが、俺がここへ来た理由の一つでもあるから」
ナクセナの息が止まった。
彼女は驚いたように目を見開き、やがてアキユキの言葉を一つひとつ飲み込むように、ゆっくりと顔を伏せた。
「……私を……救ってくれる……」
小さな呟き。
彼女はアキユキの返答を、まるで祈りの言葉を反芻するように何度も、何度も繰り返していた。膝の上で握りしめられた白衣の指先が、微かに震えている。
やがて、数分が経っただろうか。
彼女が再び顔を上げたとき、そこにはいつもの「穏やかな、貼り付けたような微笑」が戻っていた。
「……ありがとうございます、竹原様」
その声は、先ほどまでの温度を失い、また整えられた仮面の内側に隠されてしまっていた。
「本当は……もっとお話ししていたかったのですが。本当に残念ながら、これからやらないといけないことがあるのです」
ナクセナは静かに席を立った。
本を大事そうに抱え、彼女は一度だけアキユキを振り返る。
「約束ですよ。……”私の白き従者様”」
冗談めかした、けれどどこか呪縛のような響きを残して。
淡黄色の髪を夕風に揺らしながら、ナクセナは喫茶店の雑踏の中へと、静かに、そして足早に消えていった。
残されたアキユキは、冷めきったコーヒーを見つめながら、彼女が去った扉の先をいつまでもじっと見つめていた。