聖地近郊に位置する廃墟群。その崩れかけた尖塔の地下にあるアニマ=ノアの深奥。
「――ただいま戻りました。お待たせしてしまい、申し訳ありません」
石造りの冷たい廊下に、規則正しい足音が響く。
「……いえ、滅相もございません。おかえりなさいませ、教祖様」
最深部の広間に足を踏み入れたその影を、居並ぶ黒衣の構成員たちが一斉に膝を突いて迎えた。
揺らめく蝋燭の火に照らされたその姿は、いつも通りの儀礼服に身を包んでいる。しかし、頭を垂れる構成員たちの間には、言葉にならない戸惑いが走った。
その足取りが、あまりにも軽やかだったからだ。
「……教祖様?」
側近の一人が、恐るおそる顔を上げた。
視線の先にいる教祖は、これまで誰も見たことのないような晴れやかな表情を浮かべていた。常に貼り付けられていた”慈愛の仮面”ではなく、内側から溢れ出す熱を抑えきれないような、生身の歓喜。
「……何か、佳きことでもおありだったのでしょうか。失礼ながら、これほどまでに満ち足りた教祖様のお顔を拝見するのは、初めてにございます」
構成員の問いに、教祖はふっと視線を遠くへやった。
「ええ……。ようやく、”我が”悲願が叶いそうなのです」
鈴を転がすような、けれどどこか夢見心地な声。
"悲願"という言葉を聞いた瞬間、構成員たちの間に戦慄にも似た歓喜が広がった。
「悲願……! では、ついに!」
「救世の時が、我らが箱舟による世界浄化が始まるのですね!」
構成員たちは、それを自分たちが奉じる「真理」の成就であると、一片の疑いもなく解釈した。
一人が叫ぶと、それは瞬く間に広間全体に伝播し、狂信的な熱狂となって渦巻いた。
教祖は、その熱狂を冷めた目で見下ろしながら、静かに右手を挙げた。
一瞬で静まり返る広間。
「時が来ました。大巡礼に向けて、天女をお迎えする準備を……本格的に始めなさい。これからは、立ち止まることは許されません」
「御心のままに!」
「天女の来迎を!世界に魂の安息を!」
士気は最大限に高まり、構成員たちは次々と持ち場へと散っていった。残されたのは、静寂を取り戻した広間と、玉座に深く腰掛けた教祖だけだった。
彼女は、胸元に抱えたままの古い書物『白き従者と天女の福音』を、愛おしそうに指先でなとなぞる。
「……天女の来迎、ですか」
独り言のように呟いたその口調には、構成員たちが抱くような熱意は微塵も含まれていなかった。
そもそも、彼女は天女そのものにも、胎動窟がなぜ閉じられたままなのかという異常事態にも、本質的な関心など抱いていない。
教義も、真理も、世界の浄化も。
そんなものは、自分の中に空いた巨大な「空虚」を埋めるための道具でしかなかった。
「胎動窟が未だに閉じられたままなのは不可解ですが……。まあ、それはそれで結構」
彼女が期待しているのは、世界が救われることではない。
ましてや胎動の深奥に眠るとされている、本物の天女が目覚めることでもない。
ただ、世界を救い、天女を救った伝説の存在がどのように自分を救わんとするのか。
「……お待ちしております、白き従者様」
誰もいない広間で、彼女はふっと、貼り付けた笑みを消した。
そこにあるのは、迷える子羊のような、それでいて全てを焼き尽くさんとするほどに純粋な、狂おしいまでの期待。
「ようやく……ようやく、この心の虚無が満たされる」
静かに目を閉じる。
深い闇の奥で、自分という空虚な存在を照らしてくれたあの一筋の光が、彼女のすべてを支配していた。
ナクセナと喫茶店で別れた翌日、アキユキは自室の椅子に深く沈み込んだまま、半日以上も身動きが取れずにいた。
窓の外を流れる雲を目で追いながら、思考は同じ場所を何度も巡る。解決すべき謎は山積みだった。胎動窟の異変、アニマ=ノアの目的、そして――。
(『……私を、救い出してくれますか?』)
ナクセナが別れ際に見せた、あの縋るような瞳と、震える声。貼り付けた笑みが剥がれ落ちた瞬間に露呈した、底知れない虚無感。その言葉が、毒のようにアキユキの胸の奥深くに突き刺さって離れない。
"救い"という言葉の重さを知るアキユキにとって、彼女の問いを単なる少女の感傷として片付けることはできなかった。
「……ダメだな。このままじゃ、思考が腐る」
夕闇が部屋の隅々を侵食し始めた頃、アキユキは重い腰を上げた。澱んだ空気を振り払うように外へと踏み出す。
街はすでに夜の帳に包まれ始めていた。思索に耽りながら、当てもなく歩き続ける。
ナクセナという少女の不可解な存在。だが、それ以上に今の彼を突き動かしているのは、魂の根源から湧き上がる焦燥感だった。
今、彼が抱えている疑問は二つ。
一つは、本来なら解放の刻を迎え、溢れ出しているはずの胎動窟の魂の力が、なぜ今になって強引に内部へ閉じ込められているのか。
そしてもう一つは、あのアニマ=ノアの刺客との死闘の最中、確かに耳にした悲鳴にも近い声の正体。
決して空耳などではない。間違いなく、あのとき胎動窟の方から自分の元へ声が届いた。
まるで、誰かの心の声が自分のプラーナを辿って送られてきたかのように。
これらの事象について、アキユキにはどうにも無関係ではないような予感がしていた。
「あれ……いつの間にか、こんな所まで来てたのか」
気が付けば、あの重苦しい気圧が肌を刺した。
顔を上げ辺りを見渡すと、遠くに湖畔の中央で顔を出していた胎動窟が目に映った。
アキユキは息を吐き、空を仰いだ。日は完全に落ち、夜空には輪郭のくっきりとした、冷ややかに輝く満月がその姿を現していた。昨日再会した少女の髪を思わせる、静かな光だ。
アキユキの住処からは相当な距離がある。それほど長い時間、我を忘れて考え込んでいたということだ。
だが、これも何かの導きかもしれない。
アキユキは、現在抱えている二つの大きな疑問――「解放されるべき胎動窟が閉じられたままの理由」と「戦闘中に聞こえた謎の声」の正体。それらの関連性を探るべく、再び聖域の中央へと足を踏み入れた。
夜空に浮かぶ満月が少し高く昇った頃、アキユキは再び胎動窟の扉の前に立っていた。
周囲に人の気配はない。ただ、巨大な岩壁の奥から漏れ出る、行き場を失ったプラーナの呻きだけが、大気を微かに震わせている。
胎動窟の巨大な扉の前に立ち、アキユキは静かに目を閉じる。
右腕のヒルコを微かに共鳴させ、内部に充満するプラーナの流れに意識を集中させた。
先日ここを訪れた際は、ナクセナという存在があまりに衝撃的で、その観察に気を取られて、精密な感知ができずに終わってしまった。だが今、静寂の中で改めてその「流れ」に触れた瞬間、アキユキの全身に電撃のような震えが走った。
(……この、プラーナは……まさか……)
扉の奥で渦巻いているプラーナの「質」。
それは、アキユキがこの千年の間、片時も忘れたことのない色を帯びていた。
ナキアミのプラーナ。
天女と呼ばれ、神格化された存在。けれど、その内実はどこまでも不器用で、ひたむきな、ただの一人の人間としての輝き。
それは、涼やかな風や澄み渡った青空を思わせる、ひどく純粋で優しい、透き通った質。
アキユキがプラーナという不可視の力を感知できるようになったのは、かつての大巡礼の際、ナキアミの命がけの導きによって「真なるザムド」へと至った瞬間だった。
そしてあの時、彼女と対峙していたアキユキは、彼女の持つ純真無垢な気配をその身に刻み込んだのだ。
(……ナキアミ、君は本当に……今も、そこにいてくれているのか?)
淡い期待が、アキユキの中で膨らんでいった。
以前、大巡礼の準備が進む中で訪れた際、胎動窟を満たしていたのは、膨大だが無機質な「魂の集合体」としての流れだった。しかし今、この扉の奥を支配しているのは、間違いなく千年前に運命を共にしたあの少女の「息遣い」そのものだ。
そしてアキユキは思い至る。
もしかしたら、あの黒い影との戦闘中に悲鳴のような声が届いたあの瞬間――。
それと時を同じくして、今にも溢れんばかりに活性化し始めていた胎動窟の力が何らかの理由でその声に呼応して、その性質がナキアミのプラーナに酷似したそれへと変化した。
(だとしたら、あの時聞こえた声は……)
その事実は、アキユキの心に猛烈な勢いで波紋を広げた。
ナキアミはまだ、胎動窟の内部で「存在」している。その可能性が、単なる希望的観測から、動かしがたい確信へと変わっていく。
「……ナキアミ」
閉ざされた石の扉に、アキユキはそっと手を触れた。
千年の旅路の果てに、ようやく辿り着いた確かな希望。
今度こそ、彼女を”天女”などという肩書から解き放ち、”一人の少女”としてこの世界に連れ戻したい。その宿願が、ついに叶えられるかもしれないという期待が、アキユキの胸を激しく叩く。
しかし同時に、冷徹な危機感がその熱を冷ます。
もし、あの声がナキアミのものだったのなら。
かつて自らの意志で胎動窟へと入り、世界を救うために眠りについたはずの彼女が、今になって悲鳴を上げているのだとしたら。
今、この巨大な扉の向こう側で、彼女の身に一体何が起きているのか。
(待っててくれ、ナキアミ……今度こそ、必ず……!)
膨らむ期待と、張り詰めたような恐怖。
その板挟みの中で、アキユキは閉ざされたままの扉を、ただ無言で見つめ続けていた。
その時だった。
背後の暗闇から、石畳を踏む複数の足音が、静寂を切り裂いて近づいてきた。
アキユキの感覚に、刺すような「異物」が突き刺さった。
(……っ!)
背筋を凍らせるような、粘りつく不快感。
それは、ついさっきまで扉の奥に感じていたナキアミの純真なプラーナとは、対極に位置するものだった。濁り、捩じれ、祈りの皮を被りながらも内側で腐敗しているような、禍々しい気配。
それも、一つではない。複数。
ナキアミの存在に触れ、ようやく希望の熱を帯び始めた思考に、頭から冷や水を浴びせられたような感覚だった。高鳴っていた鼓動が、一瞬で氷のように冷めていく。
「はぁ、本当に。空気の読めない連中だ……」
吐き捨てるような声と共に、アキユキは即座に扉から手を離した。
おそらく、散策に気を取られているときにでも補足されてしまっていたんだろう。とんでもない失態だ。
この神聖な場所を、あの不浄な連中の毒気に晒したくない。何より、万が一にも戦いの余波で扉に傷をつけるようなことがあってはならない。
アキユキは足にプラーナを込め、一息に地面を蹴った。
湖畔の静寂を切り裂き、胎動窟から大きく距離を取る。月明かりの下、岩場を跳ね、かつての巡礼者が使っていたと思われる開けた広場へと誘い込んだ。
足を止めたのは、胎動窟から数百メートル離れた石畳の広場だ。
直後、空気を切り裂く音が重なり、アキユキを包囲するように複数の影が舞い降りた。
「……しつこいな、アンタたち。いい加減諦めたら?」
アキユキは右腕のヒルコを微かに疼かせながら、周囲を睨み据えた。
現れたのは、これまでの白灰色の儀礼服を纏った者たちが五人。
これまでの接触は、刺客一人がヒトガタを連れてくる、あるいは変異個体が単独で現れるといった程度だった。だが、今回は違う。
(一人一人の気配も、これまでの刺客より重い……)
構成員たちは、無言のまま祈りの印を結び、一斉にアキユキへとその濁った視線を向けた。
その瞳の奥には、個としての意思など既に存在せず、ただ盲目的な「真理」への熱狂だけが爛々と輝いている。
アキユキは腰を落とし、警戒を最大限にまで引き上げた。
おそらく、全員があの例の液体を所持している。これまでの戦い方では通用しない可能性が高い。
「俺は、『天女』って呼び名も……アンタらの勝手な理屈も、心底気に入らないんだ」
月光が照らし出す廃墟の中で、アキユキの蒼いヒルコが、静かに、そして激しく脈動し始める。
ナキアミがそこにいる。その確信を得た今、彼は一歩たりとも引くつもりはなかった。