私の記憶の始まりは、どこまでも白く、凍てつくような北の空でした。
生まれたときから、私には「自分」というものがありませんでした。どこの誰とも知れぬ孤児。拾われた先の部族でも、私はただの「異物」でしかありませんでした。周囲の大人たちの冷たい視線、子供たちの無邪気な悪意。それらを跳ね返す術を持たなかった幼い私は、ただ、ひたすらに泣くことしかできませんでした。
「泣かすな。鬱陶しい」
義父となった族長が、疎ましげに周囲へ放っていたその言葉。それは私を慈しむためのものではなく、騒々しい鳴き声を止めろという、周囲への命令に過ぎませんでした。
「ナカスナ」……その響きがいつしか歪み、名前を持たなかった私の名になりました。
ナクセナ。それが、私という空っぽの容器に与えられた、最初の呪いでした。
そんな私の人生が決定的に壊れたのは、アニマ=ノアの先代教祖と出会ったときです。
天女を「太陽」と仰ぐあの人は、私の満月のような淡い髪と、夜空のような瞳を見た瞬間、歓喜に震えていました。
「ようやく見つけた。我らの夜を照らす、真実の月を」
あの人は、私が生まれ持っていた「視える力」に気づいていました。
人々の内側に流れるプラーナの輝き。澱んだり、濁ったり、時に激しく燃え上がる魂の気配。私にとってそれは当たり前の景色でしたが、あの人たちにとっては「天女の再来」を証明する、何よりの証左だったのです。
「お前は天女になるのだ。我らアニマ=ノアの象徴として」
そうして、私は北の空から連れ去られました。
それからの日々は、教育という名の洗脳でした。人工ヒルコの製法、アニマ=ノアの教義。魂を真理へと還すことが唯一の救いであると、毎日、毎日、頭の中に流し込まれました。
けれど、私の心は、冷え切ったままでした。
自分が「天女を迎え入れるための、使い捨ての容器」に過ぎないことを、私は子供ながらに理解していました。教団の人間が私を見る目は、崇拝ではなく、便利な道具への執着でした。
そんなある日のことです。
儀式の準備のために連れ出された市街地で、私は義父とはぐれ、独りぼっちになりました。
十年前の、あの日のこと。
見知らぬ人混み、暴力的なまでの喧騒。
私は路地裏で蹲り、また、あの日と同じように泣いていました。
視界に入るのは、行き交う人々の、濁って歪んだプラーナの残像ばかり。誰も私を助けない。誰も私を必要としていない。
「……どうしたの、お嬢ちゃん。迷子かな?」
その声が聞こえたとき、私は自分の目を疑いました。
顔を上げた私の前に立っていた青年。
そこから溢れ出していたのは、今まで見てきたどんな光とも違う、澄み切った蒼い輝きでした。
深く、穏やかで、それでいて太陽よりも強く真っ直ぐな、底知れないほど強大なヒルコの鼓動。
私を連れ去ったアニマ=ノアの「汚泥のような人工の光」とは、正反対の……本物の光。
青年は――竹原様は、優しく微笑んで、私の小さな手を握ってくれました。
その手の温かさが、どれほど救いだったか。
「大丈夫。俺が安全なところまで送ってあげるからね」
その時、私は直感したのです。
教団の書庫で何度も読み、唯一の救いだと信じ込んでいた古い伝承。『白き従者と天女の福音』。
(ああ、この人だ……)
物語の中で、囚われた天女を暗闇から連れ出してくれる、白き従者。
絶望の淵にいた私に手を差し伸べたこの人こそが、私にとっての「白き従者」なのだと。
竹原様に導かれ、宿の前まで送り届けてもらったあの数分間。
私の空っぽだった心は、人生で初めて、純粋な優しさという熱で満たされました。
あの人は、私の「月のような髪」を気味悪がりませんでした。
私の「泣き声」を、疎ましがりませんでした。
(いつか……いつか、また。この光に救われたい)
それが、私の唯一の存在意義になりました。
アニマ=ノアの教祖という、仮初めの、そして最後には捨てられる定めの玉座に座りながら、私は十年、あの日あの場所で見た「蒼い光」のことだけを考えて生きてきたのです。
例え、この身が偽りの天女を演じるための人柱に過ぎなかったとしても。
いつか「白き従者」が、この虚無から私を連れ出してくれる。
その歪んだ、けれど唯一の希望だけを、私は胸の奥で、ひっそりと守り続けていたのでした。
胎動窟(たいどうくつ)の入り口に近づくにつれ、空気は粘り気を帯び、重く湿った沈黙が私を包み込みました。
教団の者たちが「聖域」と崇めるこの場所は、今の私にとっては、出口のない巨大な墓標のようにしか思えません。
けれど、その重苦しい気圧の合間に、私は「それ」を見つけました。
澄み切っていて、どこまでも深く、圧倒的な熱量を孕んだ蒼い輝き。
十年前、路地裏で泣いていた私の手を引いてくれた、あの温かな手の主の気配。
(……ああ、やっぱり。貴方はここに来てくれた)
岩陰に身を潜めながら、私は彼――竹原様の背中を見つめていました。
私の胸の奥、アニマ=ノアの冷たい教義で塗り潰されたはずの場所が、トクンと跳ねました。
私は一度、深く呼吸をし、自分でも驚くほど自然に「貼り付けた微笑み」を顔に固定しました。
「……そこの御方、少しだけよろしいでしょうか?」
声をかけると、彼は弾かれたように振り返りました。
その瞳に映ったのは、満月のような私の髪と、夜空のような瞳。そして、彼の記憶にある「誰か」と重なる、私の頬の刺青。
竹原様の顔に、隠しきれない動揺が走るのが分かりました。
「は?」と漏らしたその声も、整理のつかない思考も、すべてが愛おしく感じられました。
私はこの日のために、自分を「天女」に似せて作り上げたのです。
髪型を真似、刺青を刻み、彼女の伝説をなぞるように。
そうすれば、伝説の通りに、貴方が私を救い出してくれると信じていたから。
「初めまして……では、ありません」
一歩、彼に近づきます。
私の内側の感覚が、彼の右腕に宿る強大なプラーナを捉えていました。
澱み一つない、奇跡のような命の奔流。
アニマ=ノアが作り出す、あの吐き気のするような人工ヒルコとは、次元が違う力。
(貴方こそが、私の唯一の居場所。この壊れそうな籠(かご)から、私を連れ出してくれる人)
会話が進む中で、私は「ナクセナ」という名前の由来や、刺青の意味を語りました。
「泣かすな」が転じた呪いのような名前。信仰の証だと偽った、執着の印。
彼は「そっか」と短く返し、悲しげな、あるいは戸惑うような眼差しを私に向けました。
彼が「竹原アキユキ」と名乗り、十年前と変わらぬ姿でここに立っている理由をはぐらかしたとき、私は可笑しくて仕方がありませんでした。
貴方が何者であるか、私には「視えて」いるのです。
その右腕に宿る、神々しいまでの光。
けれど、それをひた隠しにして「医者だ」と笑う貴方の不器用さが、私の空っぽな心にさらなる熱を灯しました。
「貴方は――なぜ、大巡礼に?」
私は彼を試すように問いかけました。
彼は「医学者としての興味だ」と、また嘘をつきました。
その瞬間、私の顔から「仮面」が剥がれ落ちそうになりました。
私は「救われる側」でありたい。
けれど、救う側である貴方が、もしもただの「観察者」でしかないのだとしたら。
冷えた真顔が、一瞬だけ表に出てしまった。
彼の心臓が跳ねる音が聞こえました。
「……なるほど」
私はすぐに微笑みを戻しました。
まだ、その時ではない。
私は話題を胎動窟の異変へと切り替えました。
せき止められ、内部で呻き声を上げている力の奔流。
彼は驚いていました。私がそれを「感知」していることに。
(貴方は気づいているのでしょうか? 胎動窟に流れているモノ自体が、完全に別のものに変異していることに)
けれど、私はあえてそのことには触れませんでした。
アニマ=ノアが裏で引き起こしている爆破事件についても。
私にとって、教団の計画も天女の目覚めも、どうでもいいことなのです。
私の関心は、ただ一つ。
大巡礼が終われば、用済みとして消される運命にある私を、貴方が「一人の少女」として見つけてくれるかどうか。
「今日は……ここまで、ですね」
私は名残惜しさを押し殺して、彼に背を向けました。
胎動窟の闇へと溶け込みながら、私は確信していました。
竹原アキユキ。
貴方は、私の物語を終わらせに来てくれた人。
次に会うときは、もっと深い場所で。
(では……また逢いましょう。私の、白き従者様)
闇の中で、私の貼り付けた笑みは、狂おしいほどの期待に歪んでいました。
胎動窟での再会から数日。私は聖地近郊の小さな喫茶店で、あの日からずっと胸の内で反芻していた「蒼い光」の余韻に浸っていました。
手元には、もう何度読み返したか分からない『白き従者と天女の福音』。ページをめくる指先が微かに震えるのは、冷房のせいでも、物語の結末を知らないからでもありません。ただ、この街のどこかにあの人が――私の「白き従者」がいるという事実が、私の空っぽな世界に耐えがたいほどの色彩を与えていたからです。
「……ナクセナ?」
不意に名前を呼ばれ、心臓が跳ねました。
顔を上げると、そこにはあの日と同じ、穏やかで、けれどどこか迷いを含んだ瞳。
竹原様。
私は、内側から溢れ出しそうになる歓喜を、いつもの「貼り付けた笑顔」の裏側に押し込みました。驚いたふりをして、少しだけ顔を綻ばせる。それは教団で仕込まれたどんな演技よりも、ずっと自然にできた気がします。
相席を申し込まれたとき、断る理由なんて一つもありませんでした。
むしろ、この瞬間をずっと待っていた。
「竹原様って、不思議ですね」
私はあえて、彼の核心に触れる問いを投げました。
私の目は、彼の右腕に渦巻く、圧倒的で清浄なプラーナの奔流を捉えていました。アニマ=ノアが心血を注いで作り出す、あの泥のように淀んだ人工ヒルコとは比較にならない、奇跡のような命の輝き。
竹原様は観念したように笑い、捲り上げた袖の下から、その「蒼い光」を見せてくれました。
「……きれいだ」
指先で触れたその表面は、ひどく冷たく、けれど私の魂を芯から震わせるほどに熱いものでした。
気づけば、頬の筋肉が強張る感覚が消えていました。貼り付けた笑顔が剥がれ落ち、そこにあったのは、ただ一人の「救いを求める少女」としての素顔だったはずです。
「詳しいことは話せないけど、嘘をついていたことは謝らせてほしい」
そう言って真っ直ぐに私を見つめる彼の誠実さが、私の胸を締め付けました。
私はアニマ=ノアの教祖として、彼に嘘をつき続け、彼が守ろうとしている世界を壊している。その罪悪感が、彼の袖口に見えた「煤の跡」によって、鋭い刃となって私を刺しました。
爆破事件の現場にいた、という彼の言葉。
その原因を作っているのは、他でもない私なのに。
「……何も、知りません」
私は、自分の声が拒絶の色を帯びるのを止められませんでした。
彼が語る「人工ヒルコ」の醜さ。それは、私がこれまでの人生を費やして作り上げてきた、「教祖としての私」そのものの否定でした。
彼に嫌われたくない。けれど、私はもう、この血に塗れた道を引き返すことはできない。
だから、私は縋るように話題を変えました。
一番大切にしている、あの福音の話へ。
「私は、どこにも居場所のない子供でしたから」
私は、自分の過去を切り売りするように語りました。
疎まれ、名前を呪いとして与えられ、ただの「代用品」として育てられた日々。
私が頬に刺青を入れ、髪型を模倣しているのは、天女になりたいからではありません。
天女の姿をしていれば――あの福音の中の天女と同じ姿をしていれば、白き従者である貴方が、私を見つけて救い出してくれると信じたかったからです。
(……ああ、今言わなければ、私は二度と救われない)
私は、貼り付けた笑顔をかなぐり捨て、心の底に溜まった泥のような叫びを、言葉に変えて彼にぶつけました。
「もし……もしも私が、何者でもない空虚な存在だとしたら。取り返しのつかない過ちを犯した、救いようのない人間で……ただの誰かの代用品に過ぎないのだとしたら」
貴方は、私を救ってくれますか?
その問いは、私の命そのものの叫びでした。
大巡礼の果てに、天女を呼び戻すための人柱として消える運命。そんな未来を、貴方なら変えてくれるのではないか。
竹原様は、しばらく沈黙した後、逃げ場のないほど強い意志を込めた瞳で、私に応えてくれました。
「……たとえ世界中が君を拒んだとしても、俺は何があろうと必ず、君を救い出してみせる」
その瞬間、私の世界から音が消えました。
ああ、この言葉を待っていた。この言葉のためだけに、私はあの暗い地下で、死んだような目をしながら人工ヒルコを捏ね続けてきたのだ。
「……救い出して……くれる……」
何度も、何度も、その言葉を反芻しました。
温かい。あまりにも温かくて、泣き出しそうでした。
けれど、私は再び、仮面を顔に張り付けました。
(……ごめんなさい、竹原様)
私には、まだ「やらなければならないこと」があります。
貴方が「白き従者」として私を救い出すためには、私が完璧な「救われるべき天女」として、この残酷な儀式を完成させなければならない。
「……約束ですよ。私の白き従者様」
冗談めかした別れの言葉。
けれど、それは私の魂に刻んだ、最後にして最大の契約でした。
喫茶店を出て、夕風に髪をなびかせながら、私はアニマ=ノアのアジトへと足を早めました。
胸の奥に灯った「必ず救う」という光を、絶やさないように抱きしめて。
広場に立ち込めていた黒い霧が、月光に溶けるようにして消えていきました。
私の作り上げた、最愛の「人形」たちが、あの人の蒼い閃光によって一瞬で塵に還される。その光景を、私は黄金櫃を抱えたまま、瞬きもせずに見つめていました。
(……ああ。やっぱり、貴方は凄まじい)
絶望など感じませんでした。
恐怖でさえ、どこか遠い国の出来事のように思えました。
ただ、私の魂が震えていたのです。
「福音」の中に描かれた、あらゆる障害をなぎ倒し、天女を救い出す白き従者。その神話が、今、目の前で現実として再現されている。その事実が、私の乾ききった心を狂おしいほどの熱で満たしていました。
けれど、一つだけ。
私の予想を超えて、胸を鋭く切り裂いたものがありました。
それは、竹原様の「怒り」です。
私の部下たちが、天女を「旗印」にすると口にした瞬間、あの人の纏う空気が一変しました。
凍り付くような沈黙のあとに爆発した、あの圧倒的な破壊の力。
それは、私たち教団に向けられた正義感などではなく、ただ一人の少女――きっと、あの伝承に描かれている、あの日輪のような髪を持つ少女への、深く、純粋な愛情から来るものなのでしょう。
(……妬ましい)
暗い感情が、私の内で渦巻きました。
貴方がそこまで怒れるのは、彼女が「本物」だからですか?
仮初の姿で、仮初の名前を騙り、貴方の前に現れた私では、その怒りにすら値しないのでしょうか。
貴方のその凄まじい光で、私を焼き尽くしてほしい。
あるいは、その手で、私という空虚を、すべて奪い去ってほしい。
最後の一人が竹原様に組み伏せられ、広場に静寂が戻りました。
竹原様が、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきます。
その足音のひとつひとつが、私の運命を確定させる宣告のように響きました。
「……はじめまして、じゃないよね」
静かな、けれど逃げ場のない声。
ベールの奥にある私の視線と、彼の射抜くような瞳が重なりました。
彼は気づいている。
昨日、喫茶店でコーヒーを飲みながら、震える手で救いを求めたあの少女が、今、不浄な櫃を抱えて立っている自分と同じ人間だと。
「……“君”なんだろう?」
その問いかけは、ひどく優しく、そして絶望的に残酷でした。
竹原様、貴方はまだ、私を「救うべき対象」として見てくれているのですか?
アニマ=ノアという、貴方が千年かけて守り抜いてきた平穏を脅かす、呪われた教団の主だと知っても。
私は、ゆっくりと、自分を覆っていた漆黒のベールに指をかけました。
もう、隠す必要はありません。
貴方の前に、私のすべてを晒すべき時が来たのです。
「……改めまして」
ベールを脱ぎ捨てた私の顔を、冷たい月光が照らし出しました。
満月を思わせる淡黄色の髪が夜風になびき、夜空の底のような黒い瞳が、まっすぐに貴方を捉えます。
頬に刻んだ刺青は、貴方が愛したあの少女を模した、偽りの証。
「私はアニマ=ノア最高司祭、ナクセナと申します」
私は、昨日と同じ「貼り付けた微笑み」を浮かべました。
けれど、その内側では、心臓が今にも弾けそうなほど激しく脈打っていました。
(さあ、約束ですよ……竹原様)
私は貴方の敵。貴方の愛する天女を奪おうとする、組織の首魁。
これ以上ないほど「救いようのない、過ちを犯した人間」として、私は今、貴方の前に立っています。
(たとえ世界中が私を拒んでも、救い出してくれると、貴方は言いました)
その言葉が嘘でなかったと、証明してください。
この黄金櫃に詰め込まれた憎悪も、私という空虚な存在も、すべてを連れ去って。
貴方の蒼い光で、私をこの鳥かごから解き放って。
物語は、ここから始まるのです。
私たちだけの、血と絶望に塗れた、けれど唯一無二の救済の物語が。