第15話:鏡面 ―名もなき幼子と一等星―
鏡のように静まり返った海は、いまや一色のプラーナに染め上げられている。
それは、少女が吐き出す溜息の色。
それは、少女の心臓が刻む、微かな鼓動の残響。
外界と己を繋ぐ細い糸を自ら断ち切り、少女は自らが一部となった、「胎動窟」という名の鏡の世界の殻の中で、深い深い眠りの檻に閉じこもっていた。
彼女の心が震えれば、大気は青白く波打ち、
彼女が恐怖に身をすくめれば、石の扉はより一層の硬度を増して、千年の沈黙を強いる。
ここは、彼女の心象そのものが世界となる場所。
かつて降り注いだ純真な祈りの流星群は、いまや遠い記憶の彼方へ去り、空にはただ、外界の真実を映し出す冷厳な天体だけが浮遊していた。
少女の閉ざされた瞼の裏に届くのは、ひとつの強烈な光。
――シリウス。
常闇の空に唯一、永劫の灯をともす蒼き一等星。
かつて彼女の魂を呼び覚まそうとしたあの福音の声は、いまや無言の、けれど揺るぎない輝きとなって、この凍りついた海を照らし続けている。
けれど、その光を汚そうとする「影」が、後を絶たない。
空の裂け目から染み出す、泥のような、あるいは怨嗟が凝り固まったような黒い揺らめき。
それは祈りの皮を被った「まがいもの」。
数多の群れをなして一等星へと這い寄り、その輝きを食い潰そうと、飢えた獣のように纏わりつく。
だがそのたび、一等星は激しい白光を放ち、影たちを灰の欠片へと変えて焼き尽くしていく。
(……くらい……くるしい……)
少女は夢の淵で、胸を締め付けられるような不快感に身をよじった。
あの影が一等星に這い寄るたびに、この鏡の海には鋭い痛みが走り、波紋となって広がる。
守られている安堵と、あの輝きを侵さんとする外界への恐怖。
相反する感情が、少女のプラーナを濁らせ、胎動窟をより深く、強固な封印へと導いてしまう。
そして、その一等星の傍らに、いつからか奇妙な影が浮かんでいた。
それは、淡く、けれどどこか禍々しい気配を放つ「満月」。
太陽の光を借りて輝く月ではなく、自らが不浄な熱を持って発光しているかのような、歪な月。
それは冷ややかに、けれど執拗に一等星へと近づいていく。
時に寄り添うように、時にその光を独占しようと縋りつくように、軌道を乱しながら付き従う。
(……なに……? あの、つきは……)
少女は、その月に言い知れぬ不安を覚える。
自分に似ていて、けれど自分ではない何か。
純粋な祈りの欠片ではなく、底知れない「空虚」が形を成したような、吸い込まれるような黒い瞳を持った月。
月が星に触れようとするたび、鏡の海にはざらついた悪意が滴り落ちる。
星を焼き尽くそうとする黒い影とは違う、もっと根源的な、魂を絡め取るような「執着」。
光を奪い合おうとする影。
光に縋りつこうとする月。
そして、その光の中心で、誰かのために迷い、傷つきながら歩みを止めない、あの蒼き一等星。
「……おほしさま……」
少女の唇が、音もなく動いた。
その瞬間、鏡の世界の空が大きく歪み、一等星から一際強い光の筋が降り注ぐ。
けれど、再び襲いくる黒い影の気配に、少女は怯えるようにして意識を闇の底へと沈めていった。
世界はまだ、開かない。
彼女がその瞳を開き、星を覆う影と、自分を模した月の正体を見極めるまで。
胎動窟は、彼女の心の在り様を映す「静かなる拒絶」として、外界との接続を拒み続けていた。
鏡の海は、いまや一人の少女の吐息そのものとなっていた。
凪いだ水面が淡い青に染まるたび、世界の天蓋もまた、微かな脈動を繰り返す。
けれど、その静謐を汚そうとする無数の「欠落」が、空の彼方から這い出してきた。
かつては淡い光を放つ満月の周りで蠢いていたに過ぎなかった「影」たちは、いつしかその輪郭を肥大化させ、数多の黒い手となって一等星へ――あの蒼白きシリウスの輝きへ――と殺到する。
それは、祈りの形を借りながらも内側が腐り落ちた、どす黒い澱み。
影が星に触れるたび、鏡の世界には凍りつくような不快感が走り、空を支配していた透明な青が、濁った灰色に塗り潰されていく。
(ああ、おほしさまが……くらい……あのひかりが、みえなくなる……)
少女は夢の淵で身をすくめた。
世界を繋ぎ止めていた唯一の導標が、おぞましい影の波に呑まれ、いまにも掻き消されようとしている。
星がその輝きを翳らせ、闇がすべてを支配しようとした、その刹那。
一等星が、世界を震撼させるほどの咆哮を上げた。
それは、これまでに降ったどんな想いよりも鮮烈で、眩い白熱。
シリウスから解き放たれた光は、天を、海を、そして少女の意識の隅々までを、一切の容赦なく白一色に染め上げる。
その輝きは、あまりにも強く、あまりにも純粋な「拒絶」の力。
少女は思わず腕で顔を覆い、きつく目を瞑った。
瞼の裏側までもが青白く焼かれ、光の渦が影という影を無へと還していく。
その熱は、冷たいはずの海の底に、かつて魂の深淵で触れ合った誰かの「静かなる怒り」を伝えていた。
やがて、荒れ狂った光の余韻がゆっくりと引いていく。
少女が恐るおそる指の隙間から覗き込んだとき、空を汚していた黒い影は、塵のひとつも残さず消滅していた。
凪いだ空に残されたのは、より一層研ぎ澄まされた蒼き一等星。
そして、その傍らに――まるで運命を分かつまいと、あるいはその光に救われることを切望しているかのように――静かに寄り添う、あの満月の姿だけだった。
静寂が戻った世界に、どこからともなく、祈りにも似た呟きが沁み渡る。
『……ごめん、ナキアミ。また、君に叱られるところだった』
その響きは、幾重もの時を裂き、少女の心の奥底へと届いた。
少女は、その言葉に含まれた懐かしい痛みと慈しみに、戸惑うように胸を押さえる。
その響きには、自分を呼ぶための鍵が含まれているような気がした。
けれど、いまの彼女にその扉を開く力はない。
(……ナキアミ……?)
少女は、不思議そうにその名を唇の上で転がした。
どこかで、誰かにそう呼ばれていた記憶がある。
けれど、いまの自分にとってその名は、自分をどこか遠くの居場所へ連れ去ってしまう、知らない異国の言葉のようだった。
(ナキアミって……なに……? だれかの……なまえ……?)
ふと、少女の視線が、鏡のような水面に落ちる。
そこに映っていたのは、かつて大巡礼の果てに成熟した姿となった巫女の姿ではなかった。
浮き出た鎖骨、細すぎる手足、汚れに塗れた素朴な衣。
それは、遥か昔、風の吹くままに彷徨い、亡き者たちの静かな欠片を拾い集めていた頃の――
自らの存在意義に迷い、己が何者であるかも分からぬまま、ただ「従者」として存在していた頃の――
鏡の世界は、彼女の心の在り様をどこまでも残酷に、そして忠実に映し出す。
それは、誰かに拾われ、名を与えられるよりも前の、ひどく痩せ細った、名もなき幼子の姿だった。