廃墟の広場に降り積もる沈黙は、先刻までの暴力を洗い流すように冷ややかだった。
散った影の残滓が夜風に解け、月に照らされた石畳には、ただ二人の「迷い子」だけが残されている。
アキユキは、目の前の少女を見つめていた。
漆黒のベールを脱ぎ捨て、月光の下に晒されたその容姿。かつて世界を救った少女の面影をなぞり、けれど色彩を反転させたかのような、淡黄の髪と黒い瞳。
昨日、喫茶店で「救い」を請うた少女が、世界をヒトガタの毒で侵す教団の首魁であったという衝撃。しかし、アキユキの胸に湧き上がったのは、煮えくり返るような怒りではなかった。
(あのアニマ=ノアの首謀者……の様にはとても見えないな)
彼女から立ち昇るのは、狂信者の傲慢でも、首謀者の野心でもない。
それは、凍てつく北の空に浮かぶ孤月のように、あまりにも透き通り、そしてあまりにも深い孤独の匂いだった。
アキユキは肩の力を抜き、ただ静かに、その華奢な肩を見つめて問うた。
「……何故君は、そんな恰好をしている?……何故君は、この場所に立っているんだ?」
その声に含まれた微かな憐れみを、ナクセナの鋭敏な感覚が逃すはずはなかった。
彼女の内心で、冷たい愉悦が跳ねる。
彼女はゆっくりと、折れてしまいそうな指先で黄金櫃を抱き直した。貼り付けた微笑みをあえて微かに震わせ、潤んだ黒い瞳をアキユキへと向ける。
「……聴いて、いただけますか。この、空虚な私の生について」
少女の唇から零れ落ちたのは、神話でも教義でもない、血を流すような独白だった。
「先日もお話ししたとは思いますが……、私には最初から居場所なんてありませんでした。北方の凍てつく空の下、どこの誰とも知れぬ孤児として拾われ、ただ周囲の忌み嫌う視線に晒されるだけの毎日。泣きじゃくる私に、義父は慈しみではなく、疎ましさを込めて言いました。『泣かすな』……と。それが訛り、私の名になった。ナクセナ。愛されるためではなく、拒絶されるために与えられた名です」
彼女の声は、夜風に震える鈴の音のように儚い。
彼女が語る背景は真実だった。けれど、その「語り口」は、アキユキという慈悲深い観測者の心を抉るための、精巧な舞台装置でもあった。
「そんな私に目を付け、教祖に仕立て上げたアニマ=ノアの先代もまた、私自身を求めたのではありませんでした。彼らが求めたのは、天女を迎えるための、使い捨ての『器』。この髪の色も、頬の刺青も、結局はいつか目覚める『本物の天女』のために用意された、仮初の衣装に過ぎないのです」
ナクセナは一歩、アキユキへと歩み寄る。
月光に縁取られたその姿は、あまりにも無力で、残酷な運命に翻弄される「悲劇のヒロイン」そのものだった。
「大巡礼が終わり、本物の天女が目覚めれば、偽物である私は消される運命にあります。教団の者たちは私を神格化しますが、その瞳の奥にあるのは崇拝ではなく、生贄を見るための冷ややかな目。……竹原様、私はただ、普通に生きていたかった。何者でもない、ただの一人の少女として、誰かに見つけてほしかっただけなのに」
彼女の黒い瞳から、一筋の涙が頬の刺青を伝って落ちる。
それは、教義のために命を奪う首魁の顔ではなく、十年前、路地裏で途方に暮れていた幼子の顔だった。
「この鳥かごの中に、私の味方は一人もいません。この黄金櫃に詰め込まれた憎悪も、私が作らされた毒も、すべてが私を縛り付ける鎖なのです」
ナクセナは、縋るようにアキユキを見つめた。
自らを極限の悲劇の中に置き、アキユキの持つ「救済者」としての本能を、逃げ場のないほどに揺さぶる。
彼女にとって、世界がどうなろうと構わない。
ただ、この『白き従者』に、自分のすべてを抱きしめさせ、運命を上書きさせること。その目的のためだけに、彼女は今、自らの過去を最高のスパイスとして、甘美な絶望を語り終えたのだった。
ナクセナの独白が、夜の冷気に溶けていく。
アキユキは、彼女が抱える黄金櫃から漏れ出る不浄な気配を肌で感じながらも、その瞳に宿る絶望を無視することはできなかった。千年の孤独を知る彼にとって、誰かの「代用品」として生きる苦痛は、想像に難くないものだったからだ。
「……君を縛り付ける鎖、か」
アキユキの声は、微かに揺れていた。
その隙を逃さず、ナクセナはさらに身を寄せ、切実な提案を口にする。
「組織の者たちにとって、わたしはただの『飾り』です。彼らが崇めているのはわたしという個ではなく、わたしが演じる『偽りの天女』でしかない。この鳥かごが壊れない限り、生の始めに暗かった私は永遠に、死の終わりにさえ冥いまま……」
二人は教団の追手を警戒し、廃墟の影へと移動した。そこで交わされたのは、聖域の闇を暴くための密約だった。
「これは、以前あなたが調べていた……あの影へと変異させる薬のサンプルです」
ナクセナは、懐から一本の小瓶を取り出し、アキユキへと差し出した。
アキユキはそれを受け取り、月光にかざす。緑と黒が混ざり合う、どろりとした液体。
「これは、サンプルのひとつです。医者である貴方なら、この毒を解く術を見つけられるかもしれません。……そして、教団の構造、アジトの配置、これまでの活動記録。わたしの知るすべてを貴方に捧げます」
淡々と、けれど裏切りという罪悪感を一切感じさせない口調で、ナクセナは情報を供述していく。アキユキはそのあまりの潔さに、彼女が抱える闇の深さを改めて思い知らされる。
だが、情報の奔流の中で、アキユキの思考を凍りつかせる一言が放たれた。それは、彼が先ほどから気にしていた黄金櫃の正体について尋ねたときのことだった。
「……これは、アニマ=ノアが積み上げてきた業の結晶。この封印を解く方法は私しか知らず、私にしか開けることは叶いません。……これまで貴方が見てきた変異薬は、この中に封じられたモノの希釈液に過ぎないのです」
彼女はそこで一呼吸置き、静かに、けれど決定的な言葉を紡いだ。
「――この中にあるのは、穢れに染まった……いわば『真正なるヒルコ』です」
その言葉が耳に届いた瞬間、アキユキの思考が凍りついた。
(……今、なんて言った? 真正ヒルコ……だって?)
世界には二種類のヒルコが存在する。
一つは、かつて軍部がザムドの力を模倣して作り上げた「人工ヒルコ」。現代のアニマ=ノアが量産しているのも、その系譜にある。
そしてもう一つは、サンノオバの秘術によってのみ生成される、純然たる魂の結晶――「真正ヒルコ」。ザムドという生命の種となる、神性すら宿した本物の命だ。
アニマ=ノアの一般構成員たちが、自分たちの持つ人工物を「真理(真正)」と呼び、狂信的に信じ込むのは理解できる。だが、プラーナの質を正確に感知できるナクセナが、その定義を混同するはずがない。
彼女がそう呼んだということは、その黄金櫃に収められているのは、紛うことなき「本物」であることを意味していた。
背筋を、冷たい震えが駆け抜ける。
ナクセナという、ナキアミに瓜二つの少女が存在していること。それは天文学的な確率の偶然として、かろうじて理解の範疇に収めることができた。
しかし、真正ヒルコの存在だけは、理論上、絶対に有り得ないことだった。
(そんなことがあっていいはずがない。真正ヒルコの秘術は、千年前、サンノオバの継承が途絶えた瞬間に失われたはず……!)
かつて、南北の軍部も、優れたタマヨビたちも、その再現に全力を注いだ歴史がある。けれど、誰一人として本物の結晶を産み出すことはできなかった。真正ヒルコとは、偶然や模倣によって生まれるものではない。それは、失われた神話の遺物なのだ。
ましてや――。
目の前の櫃から溢れ出しているのは、かつての真正ヒルコが持っていた清浄な輝きとは正反対の、この世の邪悪を煮詰め、凝縮したかのような禍々しい波動。
(一体何が起こっているんだ……)
あれほどの惨劇を引き起こしてきた影の軍勢が、ただの「薄まった残滓」に過ぎなかったという事実。ならば、この封印が解かれたとき、世界をどれほどの闇が覆い尽くすのか。
「……竹原様、お願いです。この呪われた連鎖を……終わらせてください」
ナクセナは縋るように、密約の手を差し伸べた。
その瞳の奥では、組織の崩壊をアキユキへの供物として捧げようとする、狂おしいまでの執着が、冷たく、静かに燃え盛っていた。