聖地の外縁、切り立った岩壁の狭間にひっそりと佇む古い石造りの小屋。
かつては巡礼者たちが雨風を凌ぐための休息所だった場所だが、今はアキユキが設けた複数の仮拠点のひとつとなっていた。
室内を照らすのは、古びた作業灯の淡い光と、顕微鏡のレンズが反射する微かな輝きのみ。
アキユキは白衣を羽織り、天女から受け取った「変異薬」の小瓶を試験管へと移していた。
(この拠点が襲撃されるリスクが無いとは言えないけど……)
アキユキは、背後の影に視線を向けた。
入り口近くの椅子に腰掛け、満月のような淡黄色の髪を揺らしながら、ナクセナがじっと彼の手元を見つめている。彼女を招き入れたのは、情報の信憑性を測るためでもあったが、何より彼女が持つ「プラーナの感知能力」が必要だったからだ。
「……竹原様、それはお役に立ちそうですか?」
ナクセナが貼り付けたような微笑のまま、小声で呟く。
アキユキの傍らには、リュウゾウの遺した記録を元に自作した、特殊な遠心分離器とプラーナ抽出器が並んでいた。
「ああ。この黒い物質がどれほどの毒なのか。この目で見極めさせてもらうよ」
アキユキは慎重に、抽出作業を開始した。
注射器一本分に満たない薬液を装置にかけ、回転数を上げていく。
装置が低く唸りを上げ、内部でプラーナの結節点が強制的に剥離されていく音が響く。
数分後。
分離された液体は、二層に分かれていた。
「……なるほど。大部分を占めるこの緑の液体は、俺の予想通りだ」
アキユキはスポイトで上澄みの緑色の層を掬い取り、反応試薬を垂らす。
瞬時に起きた反応を見て、彼は確信を深める。
「これは、俺たちがよく知る『人工ヒルコ』と同質のものだ。軍がかつて作っていたものより洗練されているけど、性質の根底は変わらない。……問題は、この沈殿している『黒』だ」
試験管の底に、沈殿物として残った一滴。
それは液体というよりは、光を吸い込む「孔(あな)」のように見えた。
アキユキは神経を研ぎ澄ませ、その黒い極小の粒へと手を伸ばす。
その瞬間、室内の空気が「凍りついた」。
(っ……なんだ、この圧迫感は……!)
わずか一滴。
希釈され、抽出された、目視するのも難しいほどの微量。
にもかかわらず、その黒い物質から漏れ出す「気配」は、アキユキの知るあらゆる生命の法則を拒絶していた。
それは、死者の想いを温かく紡ぐ本来のヒルコではない。
積年の怨嗟、絶望、そして人を人でなくそうとする原初の悪意。
それらが極限まで圧縮され、神性を伴ったまま腐敗したような――まさに『邪悪なる真正ヒルコ』。
「……想像以上だ。こんなものが、現実に存在するなんて」
アキユキの手が、無意識に震えた。
これまでに倒してきた刺客たちの「黒い影」。
あのおぞましい変異を引き起こしていたのは、この黒い粒子の、さらに万分の一以下の濃度でしかなかったのだ。
もし、この黒い物質が濃縮されたまま、あるいは櫃の中にある「原液」が世に放たれれば。
それはもはや爆破事件などという言葉では片付かない。世界そのものが、言葉も心も持たない「虚無の影」へと塗り潰されるだろう。
「……竹原様、大丈夫ですか?お顔の色が優れないようですが……」
ナクセナがゆっくりと立ち上がり、アキユキの背後へと忍び寄る。
彼女の黒い瞳は、試験管の底で蠢く黒を、まるで恋人を見つめるような冷たい熱を帯びて見つめていた。
「……言ったでしょう。それは、アニマ=ノアが積み上げてきた『業』そのもの。私という器でさえ、あの黄金櫃の封印を解いたらどうなるか……想像もつきません」
「……君は、毎日こんなものを所持していたのか」
アキユキの問いに、ナクセナは答えなかった。
ただ、彼女の肩が微かに揺れ、夜の静寂の中に、どこか壊れたオルゴールのような笑い声が静かに響いた。
アキユキは、試験管の封印を確認すると、一度深く椅子に背を預けた。
こめかみを指先で押さえ、乱れた呼吸を整える。目の前の一滴に宿る「悪意」に、精神を直接削られたような疲労感が全身を包んでいた。
「……竹原様。その一滴の正体、より深く知りたくはありませんか?」
ナクセナが、背後から囁くように声をかけた。
彼女の細い指が、一束の古い羊皮紙と、現代的なデータチップが綴じられたファイルを取り出し、作業台の上に置く。
アキユキは目を開け、その資料を見つめた。
「今回は……あの黄金櫃は持ってこられませんでした。あれは封印されていても、周囲のプラーナを汚染し、狂わせるほどに強力です。運び出すこと自体が、アニマ=ノアに居場所を教えるようなものですから」
アキユキは黙って頷いた。先ほど抽出したわずかな分量であれほどの圧迫感だ。その根源である櫃を持ち歩く危険性は、言われるまでもなく理解している。
「代わりに、これを持参しました。あの櫃の中に封じられた……あのヒルコの製造記録。アニマ=ノアの歴代教祖だけが閲覧を許された、禁断のレポートです」
アキユキは、重苦しい予感を抱きながらファイルを開いた。
そこに記されていた内容は、医者としての彼の倫理観を根本から打ち砕くものだった。
「……なんだ、これは」
ページをめくる手が止まる。
かつて天女やシロザから聞いた、サンノオバの秘術。それは死者の魂を安らかに導き、純粋なエネルギーとして昇華させる、祈りにも似た神聖な技法だったはずだ。
しかし、このレポートに記された手法は、それとは対極にあった。
「真正……? いや、こんなもの、真正ヒルコの名を借りただけの、別のモノだ……」
レポートによれば、その黒いヒルコは秘術によって「産み出された」ものではなかった。
それは二、三百年という膨大な時間をかけて、アニマ=ノアの歪みきった思想によって精神を堕落させ、変質しきった構成員たちの「魂」を、人為的に結集させ、凝縮させることで完成した――完全なる『偶然の産物』だった。
「歪み切った魂によって作らんとした人工ヒルコ……その失敗した残骸の集積。……それが長い年月、閉じ込められた魂同士で食らい合い、煮詰められた結果、この邪悪な結晶になったというのか?」
「ええ」
ナクセナは、感情の読めない瞳でアキユキを見下ろす。
「彼らにとって、死は真理への回帰。けれど、その精神が憎悪や妄執に染まっていれば、還るべき真理もまた濁り、腐り果てます。アニマ=ノアは、その堕ちた魂たちを『方舟』と称するこの櫃に詰め込み、逃げ場を失った怨嗟を、さらに長い時間をかけて凝縮させていったのです」
アキユキは、資料の一節を指でなぞった。
そこには、構成員の精神をいかに効率よく「堕落」させ、ヒルコの触媒として適した状態にするか、という凄惨な実験データが延々と記されていた。
「……純粋なプラーナが川の流れだとするなら、これは、何百年もせき止められ、腐り果てた泥沼の底に溜まる毒だ。それを……アニマ=ノアは、自分たちの『真理』として崇めてきたのか」
「ええ。本来、真正ヒルコとは神聖なる『流転』の果てに生まれる、命の種。ですが、この報告書にあるものは違います。それは秘術でも神の恩寵でもなく二、三百年にわたる『偶然』と『業』が産み落とした、完全なる不具合なのです」
報告書によれば、その黒いヒルコは、歴代のアニマ=ノア構成員たちの魂を執拗に結集させることで形作られていった。
彼らは教義の名の下に、自らの魂を「真理」へと捧げるという名目で、一つの器に注ぎ込み続けた。しかし、その魂は、組織の歪み切った思想によって堕落し、変質しきった「汚れ」そのものだった。
「死者の温かな想いではなく、生への執着、死への恐怖、そして他者を自分と同じ異形に変えたいという醜悪な願望……。それら数多の堕ちた魂が、膨大な時間をかけて、たった一箇所に閉じ込められた。その密度があまりに高まりすぎたために、物理的な『ヒルコ』としての形を成してしまった……それが、あの黄金櫃の中身です」
「……汚れた水も、煮詰めれば猛毒になるっていうことか」
アキユキは胃の奥がせり上がるのを感じた。
サンノオバの秘術が「光」の結晶なら、これは人間の心の底に溜まった「泥」の結晶だ。時間をかけて濃縮された分、その邪悪さは本来の真正ヒルコを凌駕するほどに鋭利で、禍々しい。
「竹原様、ご存知ですか?」
ナクセナがアキユキの隣に並び、報告書の一節を指差した。
「『アニマ=ノア』という言葉。今でこそ組織の名として知られていますが、本来は違いました」
「……というと?」
「はい。古い言葉で『アニマ』は魂、『ノア』は箱舟。本来は、あの黄金櫃の中にある『邪悪なヒルコ』そのものを指す呼称だったのです。堕落した魂をどこまでも詰め込み、逃がさない箱。……やがてその象徴たる毒が、組織そのものの名として呼ばれるようになったのです」
ナクセナの黒い瞳が、報告書の上に落ちる影と重なる。
「彼らは組織を崇めているのではありません。『アニマ=ノア』と呼ばれる箱舟の中にある『終わりなき虚無』に、ただ寄り縋っているだけなのです」
アキユキは報告書を閉じた。
手に残る紙の重みが、先ほど見た黒い一滴の数万倍、数億倍の絶望となってのしかかる。
アニマ=ノア。
魂の箱舟。
その正体は、救済などとは程遠い、人間の悪意が生み出した「神への反逆」そのものだった。
竹原様が報告書を閉じる音が、狭い室内に重く響きました。
防護ケースに封印されたあの一滴の「毒」が、まるで意思を持っているかのように微かな振動を伝えてきます。
けれど、今の私にとって、その毒の正体など些細なことでした。
古びた石造りの小屋。隙間風が入り込み、薬品の匂いと湿った埃の香りが混ざり合うこの場所は、お世辞にも快適とは言えません。竹原様が用意したというこの「仮拠点」は、生きるための最小限の道具だけが置かれた、何とも味気ない空間です。
(……ああ。けれど、ここはなんて温かいのでしょう)
アニマ=ノアの本拠地――あの、狂信者たちの熱狂とドロドロとした人工ヒルコの不浄な気配が渦巻く「鳥かご」に比べれば、ここは私にとっての理想郷でした。
私はアニマ=ノアの首魁。教団を束ね、大巡礼を完遂させるための「生ける偶像」。竹原様という、教団にとっての最大の怨敵とこうして二人きりで過ごす時間は、本来ならば万死に値する背徳。
だからこそ、このつかの間のひとときは、日照りに雨を得るが如く、私の魂を潤してくれました。
作業台に向かう竹原様の横顔を、私はじっと見つめます。
顕微鏡を覗き込み、眉間に皺を寄せ、難しい顔をしながら「毒」と向き合うその背中。
わたしたち教団が神話の中の『白き従者』として崇め、同時に排除しようとしてきたその男が、今、私の目の前で生身の人間として呼吸をしている。
(もっと、お話ししたい。もっと、この蒼いプラーナを浴びていたい……)
竹原様と同じ空気を吸っているという事実だけで、私の心は甘露を飲むような陶酔に満たされていました。私という空っぽな容器が、彼の存在によって少しずつ「意味」で満たされていく。そんな錯覚さえ抱いてしまうほどに。
けれど――。
その幸福な時間は、唐突に、鋭い痛みとなって遮られました。
「……」
竹原様の手が、ふと止まりました。
彼は窓の外――夜の闇の向こう側にそびえる、あの巨大な岩壁の方角へと視線を投げたのです。
胎動窟。
本物の天女――天女が眠るとされる、呪われた聖域。
彼の瞳が、微かに揺れました。
そこにあるのは、目の前の解析に向けられた冷静な光ではなく、千年前からずっと彼の心に根を張っている、一人の少女への「思慕」の色。
彼がその方角を見つめるたび、私の知らない記憶が、彼のプラーナを穏やかに、けれど激しく震わせるのが「視えて」しまうのです。
(……また、だ)
胃の底が、焼け付くように熱くなりました。
喉元に、飲み込みきれない苦い砂がせり上がってきます。
胎動窟の魂の力が純真無垢なものに変化し、外界との接続を拒むようになった。それが天女の意思である可能性を、彼は真剣に危惧し、そして希望を抱いている。
そんなものは、私にとってはどうでもいい。むしろ、実在するなど信じたくもない。
けれど、竹原様が彼女を想うたびに、わたしの心臓は黒いヒルコに締め付けられるような激しい嫉妬に狂いそうになるのです。
(貴方が見つめるべきなのは、本物の『天女』という死んだ伝説ではありません。……今、貴方の隣で貴方を求めている、この私ではないのですか?)
私は、頬の筋肉を無理やり引き上げ、いつもの貼り付けた微笑みを維持しました。
けれど、指先が微かに震えるのを止めることはできません。
私がこれほどまでに彼女を模倣し、彼女の顔を、彼女の名を、彼女の刺青を纏って、貴方の前に立っているというのに。
貴方の瞳の奥に映っているのは、いつだって「ここにはいない少女」の残像。
(……消えてしまえばいい)
ふと、自分の中から生まれた声に、私自身が驚きました。
それは、アニマ=ノアの教義よりも、黄金櫃の中の業よりも、ずっと純粋で凶暴な「殺意」。
天女。
千年前の救世主。
竹原様が愛し、導かれた、太陽のような少女。
(貴女が死んでいるのなら、それでいい。けれど、もしあの中でまだ生きているというのなら……)
私は、そっと自分の胸元を触れました。
そこには黄金櫃はありませんが、私の魂には、あの邪悪なヒルコと繋がる呪いが刻まれています。
(私が、終わらせてあげます。竹原様の心から、貴方の影を完全に拭い去るために)
「……竹原様。あまり根を詰めすぎないでくださいね。休息も必要ですよ」
私は、優しく、慈愛に満ちた声で囁きました。
貼り付けた笑顔の裏側で、暗い殺意を、甘い蜜で塗りつぶしながら。
竹原様がこちらを振り向き、不器用に笑う。
その笑顔を独占するためなら、私は、かつて世界を救った天女の喉を、喜んでこの手で切り裂くでしょう。
私の「白き従者」を、誰にも、本物の天女にさえも、奪わせたりはしない。
窓の外で冷たく光る孤月が、わたしの内なる歪みを嘲笑うように照らしていました。