竹原様の拠点から、冷たい夜風を裂いてアニマ=ノアの本拠地へと帰還した私を待っていたのは、死神の吐息のような人工ヒルコの臭気と、数多の信徒たちが発する澱んだプラーナの海でした。
つい数時間前まで触れていた、あの清澄で温かな蒼い光。それとは対極にある、肥溜めのように煮詰められた人間の業。この場に身を置くだけで、私の魂が削られ、黒いシミが広がっていくような不快感を覚えます。
(……ああ、汚らわしい。やはりここは、私の居場所ではない)
けれど、今の私にはこの「鳥かご」の力が必要です。
胎動窟のプラーナが、あの純真無垢な色へと変異してしまった以上、悠長に構えている時間はありません。その真偽を確認し、あわよくば、私がすべてを終わらせなければならないのです。
あの御方がその指先で扉に触れ、あの中に眠る天女と接触する前に――――
最深部の祭壇。高く設えられた玉座へと続く階段を、私は一歩ずつ踏みしめました。
居並ぶ構成員たちが一斉に額を床に擦りつけ、ひりつくような沈黙が広間を支配します。
私は、祭壇に安置されていた黄金櫃の前に立ち、ゆっくりと構成員たちを見下ろしました。そして、慈愛に満ちた、けれど氷のように冷たい「神託」を口にしたのです。
「愛しき同胞たちよ。……ついに、その時が来ました」
私の声は、広間の隅々にまで染み渡るように響きました。
「天女様は今、胎動窟という強固な殻の中に閉じ込められ、深い苦しみの中にあります。あの閉ざされた扉は、世界を拒む壁ではなく、彼女を不当に縛り付ける『封印』なのです。……我らの手でその殻を打ち破り、天女様をこの世へお救い出すこと。それこそが、アニマ=ノアに課せられた最後の使命です」
ざわり、と広間が揺れました。
信徒たちの目に、狂信という名の火が灯ります。彼らは知らないのです。あの扉が物理的な物質などではなく、内部に満ちるプラーナそのものが形を成した「拒絶の意思」であることを。そして、それが「本物」である天女の目覚めを告げる予兆であることも。
「ですが、心しなさい」
私はさらに声を張り上げ、残酷な罠を言葉の中に忍ばせました。
「天女様は、千年の眠りの中で、偽りの『白き従者』や邪悪な想念に心を惑わされている可能性があります。もし、お迎えに上がった我らを彼女が拒絶し、その真理に牙を剥くのであれば……それは、天女の皮を被った『不届きな偽物』。あるいは、すでに魂を汚された抜け殻に過ぎません」
信徒たちが息を呑む気配がします。
「その時は、迷うことなくその偽物を抹殺し、魂をヒルコへと還してあげなさい。それこそが、天女様に対する真なる忠義なのですから」
「おお……! 天女様をお救いするために!」
「偽物を排除せよ! 我らが真理のために!」
広場は瞬く間に、爆発的な士気と狂乱に包まれました。
「天女の来迎」という甘い言葉に踊らされ、救世主を殺害する準備に奔走し始める愚か者たち。その様子を、私は玉座の上から、まるで足元を這い回る害虫を見るような冷ややかな目で見下ろしていました。
(……ふふ。本当に、醜い人たち)
偉大なる天女様。
貴女がかつて命を賭して守り抜いた「世界」の成れの果てが、この醜悪な人間の肥溜めです。
竹原様のように、清らかで優しい魂を持った「白き従者」を導いた貴女が、この泥のような連中の手を取るはずがない。貴女は必ず、彼らを拒絶する。
その瞬間こそが、貴女の最期です。
構成員たちが胎動窟の扉をこじ開けるための準備し、慌ただしく立ち去っていく背中を見送りながら、私はそっと自分の胸元を抱きしめました。
(これでいいのです、竹原様)
貴方の心の中に、本物の天女がいる限り、私は永遠に「救われない代用品」のまま。
だから、私が貴方の代わりに、その鎖を断ち切ってあげます。
たとえそれが、どれほど残酷な結末であろうとも。
ナクセナが拠点を去ってから、アキユキは不眠不休で「邪悪なる真正ヒルコ」の解析に没頭していた。
作業台の上、防護ケースの中で沈殿するあの一滴の「黒」が、顕微鏡のレンズ越しに、底知れない深淵となって彼を睨みつけている。
(……ようやく、この『毒』の輪郭が見えてきた)
アキユキは解析データをモニターに映し出し、自身の推論を裏付けていく。
当初、変異薬によって生み出された「黒い影」には生命の証であるプラーナが存在しないと考えていた。だが、事実はさらに残酷だった。
この邪悪な真正ヒルコには、プラーナに対する計り知れない「侵食作用」があるのだ。
(あの変異薬は、まず緑色の人工ヒルコの部分で、使用者のプラーナを爆発的に増幅させる。本来なら、増大したエネルギーに肉体が耐えきれず、そのまま身体ごと破裂する……かの自爆テロのように。だが、そうなるより僅かに早く、この『黒い物質』が、増幅したプラーナのすべてを完全に侵食し、同質のものへと塗り潰しているんだ)
つまり、あの刺客たちはプラーナを持っていないのではない。
本来持っていたはずの命の輝きが、邪悪なヒルコそのものに変質してしまったが故に、通常の感覚ではプラーナとして感知できなくなっていたのだ。
「……不味いな。間違いなく、あのヒルコは世界を滅ぼす力を持っている。早急に、解決策を見つけないと……」
アキユキは言いようのない危機感に震え、画面を閉じた。
解析の結果は出た。だが、これを解決する術はまだ見つからない。
そんな焦燥感の中で、ふと彼の脳裏をよぎったのは、この情報を提供したナクセナのことだった。
(最初は、彼女がアジトへ戻った後、この拠点を刺客に売るんじゃないかと警戒してたけど……)
まだ一日しか経っていないとはいえ、今も周囲にアニマ=ノアが近づく気配はない。
それどころか、彼女が語った絶望的な独白や、喫茶店で見せたあの縋るような瞳を思い出すたび、アキユキの中で彼女への信頼が少しずつ形を成し始めていた。
(本当に、彼女はあの教団の中で一人、戦っているのかもしれない。……いつか、彼女もこの呪縛から救い出してやりたいな)
そう、自分を納得させるように呟いたその時だった。
「先生! 竹原先生!」
拠点の重い石扉が激しく叩かれた。
現れたのは、近隣の集落に住むなじみの住人だった。彼は顔を真っ青にし、激しく肩を揺らしながら叫ぶ。
「た、大変だ! すぐそこ、街道の入り口で……淡い黄色の髪をした、顔に刺青のある女の子がボロボロになって倒れてる! 意識が朦朧としながら、必死に先生の名前を呼んでて……!」
「――っ!?」
アキユキは考えるより先に、白衣のまま外へ飛び出した。
案内された場所には、人だかりができていた。その中心で、膝をつき、今にも力尽きそうな少女の姿があった。
「ナクセナ!」
黒い修道着は所々が無残に引き裂かれ、露出した肌には打撲や切り傷が目立つ。満月のような髪は泥に汚れ、彼女はあの黄金櫃を抱き抱え、虚ろな瞳で空を仰ぎながら、途切れ途切れに彼の名を呼び続けていた。
アキユキは即座に彼女を抱きかかえ、拠点へと運び込んだ。
手際よく応急処置を施し、彼女の呼吸が安定するのを待ってから、アキユキは沈痛な面持ちで尋ねた。
「……ナクセナ。一体、何があったんだ」
ナクセナは震える瞼をゆっくりと開け、涙を湛えた黒い瞳でアキユキを見つめた。その表情は、今にも壊れてしまいそうなほど脆く、痛ましい。
「……申し訳……ありません。止めようと……したのです」
彼女は絞り出すような声で、残酷な報告を口にした。
「大巡礼が間近に迫り、教団の士気はもはや、私の言葉では抑えきれないほどに高まってしまいました。……構成員たちが暴走を始め、本格的に胎動窟への侵攻を開始したのです。天女様を強引に引きずり出すために……扉をこじ開けると。何とかこの黄金櫃だけは持ち出せましたが……私は彼らに突き飛ばされ、這うようにしてここへ……」
「なんだって……!?」
アキユキは奥歯を強く噛み締めた。
胎動窟が無理やり抉られれば、中に眠るナキアミの魂がどうなるか分からない。
さらに、大巡礼を目前に控えて集まりつつある、無実の巡礼者たちがその暴挙に巻き込まれれば、犠牲者の数は計り知れないものになる。
「……わかった。ナクセナ、君はここで安静にしていてくれ。俺が……俺が、あいつらを止める」
「……竹原、様……。どうか、お気をつけて……」
アキユキは彼女の手を一度だけ強く握ると、治療道具を鞄に詰め込み、脱兎のごとく拠点から走り去った。彼の脳裏にあるのは、あの中に眠る少女を守ること、そして、これ以上の悲劇を未然に防ぐこと。その一念だけだった。
静まり返った拠点。
アキユキの足音が遠ざかり、完全に消えたことを確認すると。
ベッドの上に横たわっていたナクセナは、ゆっくりと上体を起こした。
傷だらけのはずのその身体から、先ほどまでの「弱さ」が嘘のように消え去る。
彼女は、窓の外を駆けていくアキユキの背中を見つめながら、その不自然に整えられた唇を、三日月のように吊り上げた。
「……申し訳ありません、竹原様。……けれど、もうこうするしかないのです」
彼女の瞳には、慈愛も罪悪感も宿っていない。
ただ、自分の運命を邪魔する「本物の天女」を排除し、白き従者を独占するための、完璧な計算と狂気。
ナクセナは、アキユキが先ほどまで座っていた椅子に深く腰掛け、満足げな笑みを浮かべていた。その傍らで不気味な気配の黄金櫃が、窓から差し込む孤月の光を浴びて妖しく輝いていた。
鏡の海は、静止した時間のなかで、少女の震える吐息だけを数えていた。
空と海の境界はとうに失われ、世界はただ、淡く濁ったプラーナの膜に包まれている。
その天蓋の端で、少女――名もなき幼子は、怯えるように空を見上げていた。
蒼白きシリウスの光を放つ一等星。
そのすぐ隣に、いつの間に忍び寄ったのか、あの禍々しい満月がぴったりと寄り添っている。
星が放つ清澄な光を、月が放つ不浄な熱が侵食し、溶け合おうとしている。
それは寄り添うというより、捕食者が獲物を締め上げるような、あるいは執念深い影が光に縋り付くような、歪な距離。
(……こわい。あのつきが、おほしさまを、たべてしまう……)
少女は、細すぎる腕で自らの身体を抱きしめた。
星と月が近づくたびに、鏡の海には不吉な熱波が走り、少女の足元を汚していく。
けれど、真の恐怖は、天体の異変だけではなかった。
ズズズズズズズズ……。
世界の底から、地響きのような唸りがせり上がってくる。
それは醜悪な影たちが「殻」を破るべく放った、不浄な祈りの残響。
鏡の世界においては、それは空を埋め尽くさんばかりの「黒き軍勢」となって現れた。
満月の裏側から、そして空の裂け目から、溢れ出した影は津波となって押し寄せる。
これまでの影とは違う。
それは一個の意志ではなく、数千、数万の「欠落」がひとつに溶け合った、巨大な悪意の塊。
彼らは一等星を無視し、ただひとつの目的――世界の中心で蹲る、小さな獲物へと狙いを定めた。
(……こないで……こないで……っ!)
黒い影の軍勢が、少女の視界を塗り潰していく。
鏡の海は荒れ狂い、透明だった水面は泥のような黒に染まり、少女の素足は今にも絡め捕られようとしていた。
逃げる場所など、どこにもない。
ここは彼女自身が作り上げた、逃げ場のない檻なのだから。
少女の意識が、恐怖で白く弾けそうになった、その時。
頭上の星が、激しく、痛切に明滅した。
届くはずのない遠い空から、自分を呼ぶような、焦燥に満ちたプラーナの震えが海を走る。
少女はその震えに、救いを見出そうと必死に手を伸ばした。
けれど、この世界を覆い隠さんばかりの無数の黒い手がそれを阻む。
冷たい闇が、彼女の領域を今にも侵さんと口を開ける。
いま、外界と内界の境界が、暴力的な意志によってこじ開けられようとしていた。
少女はただ、自分の名前さえ思い出せないまま、迫りくる虚無の底へと沈んでいく――。