その日、湖には風がなかった。
霧が水面を包み込み、灯籠の灯りだけがぼんやりと漂っている。
静けさは、耳鳴りがするほど深く、波一つ立たない湖面は、まるで時間そのものを閉ざしているかのようだった。
アキユキは、胎動窟の黒いドームを見上げながら、ひとり呟いた。
「……ナキアミ」
その声は水面に吸い込まれ、夜気の中に溶けていく。
あの日からちょうど十数年、今日だけで何度この名をここで呼んだだろう。
呼んでも応える者はいないと知っているのに、それでも彼は足を運び、名を呼び続けていた。
そのとき、背後の石畳を踏み鳴らす音がした。
微かに感じるヒルコの気配とともに、誰かの足音が近づいてくる。
振り返ると、そこに立っていたのはひとりの青年だった。
褐色の肌に、夜でも光を帯びるような瞳。
顔にはテシク族特有の刺青が刻まれている。
どこか懐かしい気配を纏ったその青年は、アキユキを見つめて小さく眉をひそめた。
「お前、今……あの人の名前を呼んでたな」
低く、少し掠れた声。
少年のようなあどけなさはすでになく、長い歳月が刻んだ強さと静けさを感じさせた。
「君は……?」
「……人に名前を訪ねるときは、先ずは自分からって教わらなかったのか?」
それに対し、”先に声をかけてきたのはそっちだろう……”と、若干の理不尽を覚えながらも、目の前の青年に対し、丁寧に対応する。
「あぁ、ごめん。俺はアキユキ、竹原アキユキだ。むかし彼女……ナキアミには色々と世話になったんだ」
「そうか……あんたが、ナキアミが言ってた……」
俺の名前を聞いた少年は驚きとわずかな戸惑いを覚えていたようだった。
俺のことを知っていたのだろうか?彼とは初対面のはずだが……。
「……あぁ何でもない。さっきは横柄な物言いをして悪かったな」
「オレはヤンゴ。あんたのことはナキアミから聞いてるよ」
ヤンゴは一歩、湖の方へ歩み出た。
夜風に揺れる灯籠の光が、その頬を淡く照らす。
その横顔には、どこかナキアミと過ごした日々の名残のような、やわらかい陰影が浮かんでいた。
「ナキアミは、よくあんたの話をしてた。……たぶん、オレが知ってるのは、その頃のあんただ」
「……そうか」
「オレがまだ、背丈も小さくて、ザムドもどきにすらなりきれない、弱っちいガキの頃だよ」
ヤンゴは短く笑った。その笑みは懐かしさと痛みをないまぜにしたような、不器用な笑顔だった。
アキユキは静かに頷き、二人の間に沈黙が落ちる。
夜は深く、霧は濃い。それでも不思議と、寒くはなかった。
「ナキアミは、オレを……“息子”みたいに思ってくれてた。そして俺も……あの人とずっと一緒にいたいって思ってた」
ヤンゴはゆっくりとドームを見上げた。
その目は強く、けれどどこか幼子のようにまっすぐだった。
「旅の途中、俺にザムドのことを教えてくれた。人の生き方とか、怒りの鎮め方とか……くだらない話もたくさんした。俺の命を、あの人は何度も拾ってくれたんだ」
「……ああ、君は……ナキアミに救われたんだな」
「救われた、なんてもんじゃない。あの人がいなきゃ、オレはとっくに野垂れ死んでた。……だけど」
そこで、ヤンゴはほんの少しだけ声を震わせた。
「結局、オレは何もできなかった。あの人は、一人で、あの深い穴の深奥に行って、世界を背負って、そして……」
言葉が途切れた。
それ以上、声にする必要もなかった。
アキユキもまた、あの日のことを鮮明に覚えている。
ナキアミが“世界を救う”という名のもとに、すべてを捧げた日を。
「……俺はきっと、彼女に“生きてほしかった”んだ」
静かにアキユキが口を開いた。
それは祈りのように、吐息とともに溶けていく声だった。
「神様でも、天女でもなくて……ただの、一人の女の子として」
ヤンゴは目を見開いた。
アキユキの声には、どこか震えるような熱がこもっていた。
それは彼自身の、十数年の時を経てようやく像を結ばせることのできた想いだった。
「君がナキアミと過ごした日々を、俺は知らない。……でも、きっと俺たちは同じことを願ってたんだと思う」
「……同じ?」
「けど、そうはならなかった。あのとき、俺だけが犠牲になっていればよかった。俺だけが世界の命運を背負って、俺だけが石くれに成り果てて、それで収まればよかったのに………」
「現実は違った。いや、それどころか、真逆の結末になってしまった。……俺だけが目覚めて、彼女は未だにこの地で眠っている」
今までずっと思っていたことだった。
石から目覚め、愛する者と共に幸せな日々を送っているときでも、ふとした時に考えてしまう。
なぜ彼女だけが犠牲にならなければいけなかったのか。
なぜ彼女が眠っているのを尻目に、俺は目覚めているのか。
なぜこんなにも多くの者が、彼女の帰りを待たなければならないのか。
「俺はしくじってしまった。俺がもっと上手くやれていれば………。俺がもっと………」
「………おい」
————パァン
言い終わる前に、頬が弾けた。
何かを叩いたような、高い音が鳴り響いたことを認識した刹那、視界がぐらりと揺れた。
乾いた音が空気を裂いたあと、鈍い痛みがじわじわと広がってくる。
唇の端に指をやると、かすかに血の味がした。
「………一体何を……」
「何を言い出したかと思えば、舐めたことばっか言いやがって……自分が今どれだけ、あの人の意思を踏みにじるようなことを言ったのか分かってんのか?えぇ?」
「ナキアミはな、あんたに守られるだけの存在なんかじゃなかった!ナキアミが選んだ。ナキアミ自身があんたと運命を共にすることを選んだ!あんただけが“選んだ”んじゃない。あの人もまた、選んだんだよ、自分の道を! 」
「それにな……」とヤンゴは続ける。
「あんたは何もしくじってなんかいない。あんたは成し遂げた。あのとき……ただ泣き喚くことしかできなかったオレなんかとは違う。あんたとナキアミの2人が、世界を救った。どちらか一方でも欠けていたら、きっとダメだった」
ヤンゴは拳を握りしめ、唇を強く噛みしめた。
彼もナキアミとずっと一緒にいたいと願っていたのだろう。だけど、彼女は歩いて行った。救済のために、たった一人で。
「……オレも、ずっと思ってたよ。あんたがナキアミに生きていてほしかったように、俺もこれからもずっと、あの人と共に歩んでいきたかった。ナキアミの存在が俺の世界のすべてだった。でも……それでも、あの人の意志を否定することだけは、絶対に許すわけにはいかない」
その言葉に、アキユキは初めて、真正面からヤンゴの瞳を見た。
そこには、怒りだけでなく、ナキアミというひとりの女性に対する深い敬意と、彼女と共に歩んだ者の誇りが宿っていた。
長い沈黙が二人の間を満たした。夜気が凍りつくような冷たさのなかで、胎動窟の奥から低い唸り声のような音が響いた気がした。まるで地の底からナキアミの記憶が呼びかけてくるかのように――。
「……まぁでも、あんたが背負いたかった気持ちも分かるよ」
「もしオレがあんたの立場だったなら、きっと同じこと考えてたと思うから」
長い沈黙が続いた。
風が少し吹き、霧がわずかに揺れた。
灯籠の灯りが湖面を流れ、二人の影を揺らす。
「じゃ、オレはそろそろ行くよ。腹も減ってきたし。それに————」
「あんたとは、またどこかで会えそうだ」
やがて、ヤンゴはふっと息を吐き、小さく笑った。
それは、友人に巡り合えたかのような、やさしい笑顔だった。
「……そうだな。俺も、そんな予感がするよ」
「じゃあな」
「ああ、またどこかで」
それから数年おきに、彼とこの地で巡り合うようになっていった。
彼と会うたびに、身の回りに起きた、他愛のない話をしたりした。————互いにナキアミのことを想いながら。
そして、彼と初めて会ってから数十年が経ったある日————
「なぁ、アキユキ……あんた、何年経っても、全然変わんねぇな」
不意に向けられたその言葉に、アキユキは苦笑した。
「……そう見える?」
「見えるよ。ほら、オレは、もう……」
その声には、すでに抗いがたい歳月の匂いがあった。
かつて青年だった者の顔には皺が刻まれ、髪には白いものが混じり始めていた。
あれから時が経ち——アキユキは変わらず若いままなのに、ヤンゴだけが時を刻んでいた。
「あんたと会う度に、なんとなく感じてはいたけど ……結局あんたしかいないみたいだ、あの人のことを頼めるのは」
「……ナキアミのこと、どうか頼むよ」
そう言って、ヤンゴは最後に湖へ一礼し、背を向けた。
その背中は少し小さくなっていたが、不思議と穏やかだった。
それが、二人の最後の邂逅になった。
霧の向こうに消えていくヤンゴの背を見送りながら、アキユキは静かに目を閉じた。
彼が遺した言葉は、伊舟のそれと重なっていた。
千年という歳月を越えて、みんなが同じ想いを託していた。
——ナキアミを、救ってほしい。
——彼女の結末を、どうか見届けてほしい。
湖の底から、静かに水音が響く。
胎動窟はただ黙して、夜を見下ろしていた。
その黒いドームの奥に、彼女がいるかどうかは誰にも分からない。
だが、アキユキの心の奥では、悠久の時を経てもなお、変わらない灯が燃え続けていた。