千年後まで御機嫌よう   作:エクシーク

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第20話:救済 ―白翼の禊―

鏡の海は、いまや一人の名もなき幼子の震える心そのものだった。

 

天蓋を埋め尽くした漆黒の軍勢は、空を侵し、流星を消し去り、たった一つ残された救いの光――蒼き一等星を、泥のような絶望で覆い隠そうとしていた。

 

一等星から放たれるシリウスの光は、影に触れるたびに弱まり、少女の足元までどす黒い闇が這い寄る。

 

(……ああ……そんな……。おほしさまが、きえてしまう……)

 

少女は細い腕をきつく抱きしめ、祈るように空を仰いだ。

その視線の端には、不気味に微笑むかのような満月が星のすぐ隣に居座り、時折その光を独占しようと縋り付いている。

 

けれど、少女の瞳が捉えたのは、星に群がる無垢な影たちの姿だった。

それはただのおぞましい怪物ではなく、どこか救いを求めて泣いている、自分と同じ「迷い子」たちの悲鳴に見えた。

 

(……あのかげたち、かなしいの……? あんなにかなしそうに、おほしさまをもとめているの……?)

 

自分を恐怖させる闇の軍勢。けれど、その奥底から漏れ聞こえる魂の乾き。

少女の心のなかで、理屈を超えた純粋な想いが溢れ出した。

 

それは、かつて名前さえ持たなかった屠女の子が、戦場で泣く赤子を見た時に抱いた、あの危ういほどの献身。

 

(……たすけて。おほしさま……あのかげたちを、すくってあげて)

 

その無垢な「願い」が鏡の海を震わせ、蒼き一等星へと真っ直ぐに届いた、その刹那――。

 

空が、真っ白に弾けた。

 

影に呑まれかけていた一等星が、世界を再定義するほどの咆哮を上げ、姿を変えたのだ。

それは、これまで少女が見てきたどんな光よりも清澄で、峻厳で、そして温かい――「白き導手」としての真実の姿。

 

シリウスの光は、もはや影を焼くだけの拒絶ではなかった。

海も、空も、そして群がっていた数多の影たちをも等しく包み込み、その魂の欠落を埋めていくかのような、圧倒的な慈悲の白熱。

 

白き光は、鏡の世界の端から端までを貫き、少女の意識の奥深くに眠っていた「重い扉」を無理やりこじ開けた。

 

まばゆい閃光のなかで、断片的な記憶が、鮮烈な色彩を伴って少女の魂を駆け巡る。

 

 

――『生きたいのならそう願え!』

一心不乱に暴れ続ける怪物に、面と向かって問いかける、赤い髪の少女――

 

――『考えろ、アキユキ!』

その声に導かれ、全ての迷いを振り払った彼が、光の繭を破って天へと飛翔し、黒き皇帝へと立ち向かっていく、あの白き背中――

 

 

(……なに……? いまのは………?)

 

それは、自分にとって何よりも大切な、決して失ってはならなかった約束の記憶。

けれど、それは一瞬の閃光のように脳裏を掠めただけで、すぐに泡となって消えていった。

 

光の残響が引き、少女が再び顔を上げたとき。

空を覆っていた影の津波は、跡形もなく消え去っていた。

凪いだ空には、より一層の神々しさを湛えて輝く一等星と、それに接近してくる満月。

 

静寂が戻った世界に、どこからともなく、深く、切ない囁きが沁み渡った。

 

彼女は、鏡のような水面に映る自分を見つめました。

やせ細り、震え、何者でもない自分に迷い続けていた幼子の姿。

けれど、先ほどの「白き光」を浴びたその胸には、微かな、けれど確かな変化の予兆が芽吹いていた。

 

(……おほしさまは、わたしをしっている………わたしも、おほしさまをしっている……?)

 

少女は立ち上がり、遠く輝く白き星へと、おずおずと指先を伸ばした。

 

閉ざされた鏡の世界の殻が、彼女の心の微かな揺らぎに応えるように、初めて内側から小さく軋んだ。

 

 

 

 

 

白き光が広場を埋め尽くし、爆風が収まった中心に、その「導き手」は立っていた。

 

1000年前、戦場となった尖端島で、あるいは胎動窟の遥か上空で目撃された伝説の姿。純白の外殻、峻厳な意思を宿した蒼きヒルコ、そして背後で揺らめく、プラーナが結晶化したような六つの光の翼。

 

その姿を目にした瞬間、アニマ=ノアの構成員たちの間に、異様な戦慄が走った。

 

彼らが「不届きな異端者」と罵ってきた男が今、自分たちが数百年かけて崇め、挿絵の一筆に至るまでなぞり続けてきた『白き従者と天女の福音』の中の「白き従者」そのものの姿へと変貌したのだ。

 

「……バカナ。アレハ、我ラガ福音ノ……」

「伝説の……白き、従者……?」

 

狂信という名の盾が、真実という名の矛に貫かれた瞬間でした。黒い影となった刺客たちでさえ、その魂の根源に刻まれた神話への畏怖からか、一瞬その動きを止め、不気味なノイズを漏らして後ずさった。

 

しかし、アキユキにとって、その衝撃に浸る猶予は無かった。

悠久の時を跨いだ完全体としての覚醒。そこには手に入れた力が強大すぎるがゆえ、制御しきれるかという大きな懸念があった。

 

「……っ……ハァッ!」

 

アキユキは一歩踏み出そうとしたが、全身を駆け巡るプラーナの奔流が筋肉の制御を乱し、地面に深くクレーターを刻んでしまう。動作の一つ一つの出力が大きすぎる。1000年という時を経た身体は、この究極の力を完全に制御しきれずにいた。

 

襲いくる黒い影の触手が、四方八方から死角を突いてアキユキに殺到する。

最初の一撃を左腕で受け流したものの、続く数本の触手が背中を掠めた。ヒトガタたちの生命電流砲が空を焼き、アキユキの白き装甲を僅かに削り取った。

 

(制御しろ……。思い出せ、あの時の感覚を……!)

 

アキユキの脳裏で、思考が音速を超えて加速し始めた。

 

アキユキザムドの真髄は、暴力的な力ではない。戦場という不確定な環境において、常に最適解を選択し、肉体を再構築し続ける圧倒的な「適応力」にある。

 

――死角があるなら、無くせばいい。

 

アキユキの思考が肉体の深淵に届いた瞬間、発達した後頭部の側面に新たな光の節が生まれた。360度、全方位の光景を視覚として捉えるための、感覚器官の超進化。背後から迫る影の刃が、まるでスローモーションのようにアキユキの意識に投影される。

 

――腕が二本では足りないなら、増やせばいい。

 

次の瞬間、彼の肩口から、背中の光翼と連動するように、細く強靭な「白い触手」のような腕が数本、一斉に生え変わった。それは生き物のように蠢き、アキユキの手元にあったウツツダネの容器から、その種子を掴み取っていく。

 

「……待っていろ……いま、在るべき場所へ還してやる」

 

アキユキの姿が、光となって消えた。

適応を終えたアキユキの動きに、もはや予備動作なるものは無い。

 

空中でアクロバティックに回転しながら、全方位から伸びる黒い触手を紙一重でいなし、その挙動の合間に、新しく生えた白い腕たちがヒトガタ兵器の急所へとウツツダネを突き立てていく。

 

一体、また一体。

 

アキユキが通り過ぎた後には、かつての激戦で投下された分離型ヒトガタたちが、断末魔ではなく、安堵の溜息のような光の粒となって霧散していった。

 

影たちの連携は無意味だった。アキユキは彼らが攻撃を繰り出すよりも早く、その軌道を第三の目で予見し、反撃に転じていた。まさに、戦場そのものと同化し、進化し続ける神話の使徒。

 

「…………ッ!」

 

最後のヒトガタが、アキユキの放った「救済」を受け、その身体を塵へと変えた。

その魂が浄化され、夜空へと昇っていく。

 

広場を埋め尽くしていた無数の「遺物」は、いまや一体も残っていなかった。

 

静寂が戻りつつある広場。

アキユキは、自身の数本の腕が、役目を終えて元の二本の腕に戻っていくのを感じていた。

 

彼は、自分の掌に残った最後の空っぽの容器を見つめた。

ウツツダネを使い果たし、役目を終えた年季の入ったガラス瓶。

 

1000年前から彼とリュウゾウ、そしてナキアミを繋ぎ止めていた、悲しき救済の道具。

 

(……これが、最後であってほしい)

 

アキユキは静かに、けれど強い決意を込めて、その容器を握り潰した。

クシャリと潰れたガラスの音が、夜の空気に冷たく響く。

 

「これがこの世界で、最後の解体であることを……切に願うよ。オヤジ、ナズナ……そして、ナキアミ」

 

――どうか、もう二度と同じ過ちを犯す人間が現れませんように。

――どうか、もう二度とこの忌まわしい歴史が繰り返されることがありませんように。

 

砕かれた容器の破片が指の間から零れ落ちる様を見ながら、アキユキは、胸の奥に残っていた重みの一つが、静かに夜へ溶けていくのを感じていた。

 

冷たい夜風が、彼の指先を撫でていく。

砕けた欠片はやがて闇に紛れ、どこへ落ちたのかも分からなくなる。

 

まるで――

この世界から、ヒトガタという名の罪そのものが、静かに消え去っていくかのように。

 

 

 

 

 

肺が焼けるようでした。

 

喉の奥は鉄の味がし、足の指先は石畳を叩くたびに麻痺したような痛みを訴えていました。けれど、腕に抱いた黄金櫃の重みさえ、今の私には羽毛のように軽く感じられました。

 

拠点を飛び出し、夜の闇を狂ったように駆け抜ける私の視界を、突如として「世界そのものが裏返る」ような白光が塗り潰しました。

 

「っ……ああ……ああああ……っ!」

 

声にならない叫びが漏れました。

胎動窟の広場に辿り着いた瞬間、私の目に飛び込んできたのは、世界を統べる王の如き、けれどあまりにも美しく峻厳な「白き救世主」の姿でした。

 

竹原様。

いいえ、私の、私の『白き従者』様。

 

そこに立っていたのは、福音の伝承の中で、私が指先で幾度となぞり、夢にまで見たあの挿絵そのものの姿でした。純白の外殻、夜空の深淵を切り取ったような蒼いヒルコ。そして、背後で傲然と羽ばたく六つの光翼。

 

アニマ=ノアの構成員たちが、恐怖に顔を歪め、膝を折って震えているのが「視え」ました。彼らが「異端」と蔑んでいた存在が、自らが奉ずる神話そのものであるという矛盾に、彼らの歪んだプラーナが悲鳴を上げている。

 

(……ああ、なんて……なんて神々しい……!これが、あの御方の真の姿……!)

 

私は肩で激しく息を吐きながら、広場の片隅でその光景を食い入るように見つめました。

 

竹原様――白き従者は、その圧倒的な速さで戦場を舞っていました。彼の肩口から生え出た幾本もの白い腕が、生き物のように蠢き、迫りくる生物兵器たちに次々と「何か」を突き立てていく。

 

そのたび、あの生物兵器たちは石へと還る死の理を無視し、淡い光の粒となって夜空へ霧散していきました。

 

(……あら?石にならない?……なぜ、消えてしまうの?)

 

アニマ=ノアの教義において、救済とは魂をヒルコという名の結晶に閉じ込めること。霧となって消えるその行為は、私の知る「救い」とは正反対の、存在そのものの消滅に見えました。

けれど、そんな理屈はどうでもよかった。

 

彼が腕を振るうたび。

彼が光の尾を引きながら空を駆けるたび。

私の心臓は、病的なまでの熱を帯びて跳ね、目からは止めどなく涙が溢れ出しました。

 

「……あ、あはっ……素敵……なんて、素敵なの……」

 

恍惚。その一言では足りないほどの、魂の震え。

 

彼の一挙手一投足が、私の空っぽな内側を暴力的なまでの歓喜で満たしていきます。彼があの生物兵器を浄化しているであろう理由も、その優しさも、私には理解できません。

 

けれど、彼がこの世の不浄を「なかったこと」にしていくその姿は、私という「代用品」の汚れさえも、すべて洗い流してくれる救済そのものに見えたのです。

 

やがて、広場からすべての異形が消え去りました。

静寂が降り積もる中、竹原様が何やら手元の容器を握り潰す音が聞こえました。

 

遠くから微かに聞こえた、バキッという硬質な音。

それは何だか、彼が過去という名の鎖を、自らの手で断ち切った合図のようにも聞こえました。

 

傷だらけの足取りも、泥に汚れた修道服も、今の私にとっては白き従者に捧げるための最高の装飾。

 

頬に貼り付いた微笑みは、もはや仮面ではありませんでした。

内側から溢れ出す狂気と執着が形を成した、真実の貌。

 

(見てください。貴方の『天女』が、今馳せ参じました)

 

私は、彼がかつて愛した女を、心の奥底で冷たく嘲笑いながら、月の光を浴びる白き背中を追いました。

 

扉の向こうに眠る「本物」など、もう必要ない。

今、この神話の顕現を目撃し、その光に最も近くで焼かれている私こそが、貴方に救われるべき唯一の存在。

 

「……竹原様。……いいえ、私の白き従者様」

 

広場の中央で、私は至福の表情を浮かべながら、その神聖なる背中に向けて、熱を帯びた声を放ちました。

 

物語の幕は、今、最高潮の熱狂と共に開かれようとしていたのです。

 

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