千年後まで御機嫌よう   作:エクシーク

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第22話:再誕 ー雲を切る女ー

鏡の海は、いまや荒れ狂う嵐のただ中にあった。

 

かつて静止した時を刻んでいた凪いだ水面は、眼前から放たれる巨大な衝撃波に逆巻き、漆黒の飛沫を上げて少女の足元を濡らしている。

 

視界の全てを塗り潰さんとする無数の影と、その猛攻を一身に受け止める蒼き一等星。衝突のたびに世界は白く焼け、轟音のようなプラーナの呻きが鏡の世界の隅々にまで反響していた。

 

少女は、細すぎる腕で自らの身体を抱きしめた。

 

けれど、不思議なことがあった。あれほど少女を震え上がらせていた黒い軍勢への恐怖が、いまや静かな憐憫へと変わっていたのだ。

 

星に群がる影たちの叫び。それは一等星を破壊するための怒号ではなく、光に触れたいと願う者たちの、絶望的なまでの渇望。

 

かつて名前さえ持たなかった少女が、戦火の跡でヒルコを拾い集めていた頃に聞いた、あの行き場のない魂たちの啜り泣きと同じ音がした。

 

(あのかげたちも……きっと、わたしとおなじ……。どこにいけばいいか、わからなくて……)

 

少女は、影たちに哀切の眼差しを向けた。

けれど、それ以上に少女の心を締め付けたのは、影たちを焼くことも拒むこともせず、ただ静かに「盾」となって彼らを受け止め続ける一等星の姿だった。

 

一等星は、自らを犠牲にして胎動窟――少女の心の殻――を守り続けている。

押し寄せるドリル状の影の奔流。それを正面から防ぎながら、背後や側面から縋り付く無数の「孤独」を、星はその清澄な光の中に優しく包み込もうとしていた。

 

だが、その代償として、星の輝きは刻一刻と黒い影に覆われ、いまにも消え入りそうに翳り始めている。

 

(だめ……きえないで……おほしさまが……!)

 

そのときだった。

 

――ギギ……、メキメキッ……!

 

鏡の世界の天蓋、外界と内界を隔てていた強固な「殻」に、ついに決定的な亀裂が走った。

先ほど一等星が神話の姿へと至った際に生まれたその罅(ひび)が、外界からの絶大なプラーナの圧力に耐えかね、内側から弾け飛んだのだ。

 

亀裂から、一筋の、けれどあまりにも濃密な蒼い光が溢れ出した。

それはきっと、外界であの一等星たる存在が全開にしている、剥き出しの命の輝き。

 

「……あ……っ」

 

少女の目の前に、その光が届く。

 

互いのプラーナが接触した瞬間、少女の意識は再び、眩暈のするような「記憶」の奔流へと引きずり込まれた。

 

 

――とある郵便船の食堂にて、何やら処置をしている少女とそれを受けている黒髪の少年との、ある日の出来事。

 

『なんかいっつも……君に迷惑かけてばかりだ』

『堕夢人なんだからしょうがない、今は私のそばに居ろ』

 

その後、互いの頭がゴチンと小さくぶつかり、少し気恥ずかしくなりつつも、少年の成長を感じた何だか懐かしい記憶――

 

 

脳裏を掠める断片は、先ほどよりも鮮明で、より深く彼女の胸を打つ。

けれど、それらは一瞬の閃光のように明滅し、核心を掴もうと伸ばした指をすり抜けて、再び忘却の霧の中へと溶けていってしまう。

 

しかし、変化は止まらない。

 

鏡の世界の殻に入った亀裂は、一等星と少女を繋ぐプラーナの供給路となり、さらに大きく、激しく広がっていく。

溢れ出す蒼き光は鏡の海を浄化し、空を覆っていた不気味な暗雲を押し返していく。

 

少女の瞳に、わずかな熱が灯った。

鏡のような水面に映る幼子の姿は、一等星から流れ込む「白き導手」の想いを受け、ほんの僅かに、けれど確実に、本来の自分へと近づこうとしていた。

 

その瞬間だった。

一等星から放たれる、かつてないほど濃密で清澄なプラーナが、少女の全身を突き抜けた。

 

「……っ……ぁ……!」

 

白き光に焼かれた視界の奥。閉ざされていた記憶の堰が、暴力的なまでの衝撃で決壊した。

少女の脳裏に、断片的な、けれどあまりにも鮮烈な色彩を伴った記憶が、一気に雪崩れ込んでくる。

 

 

――『生きたいのなら、そう願え!』

赤く燃える尖端島の空。瓦礫の中で咆哮する白い異形。その仮面のような顔に向かって、一層の覚悟を宣告した、あの邂逅の瞬間――

 

――『”共に生きる”、お前は天心様にそう言っていただろう?』」

空を駆けるビートカヤックの上で、かつて少年が誓った言葉を信じ、共に風を切ったあの激動の日――

 

――『大丈夫、俺を信じて。ちゃんとしたザムドになって、もう一度、君に挨拶に行くから』

故郷の島にて、嫉妬に狂った友と対峙する彼。「自分に任せろ」と心に響いた、あの感涙するほどに逞しくなった背中――

 

――『私は誇りに想う……。亡念の堕夢人よ。その青く穏やかな魂のまま、ずっと世界を見守っていてくれ』

そして共に歩み、共に成長してきた旅路の果てに、誰も辿り着けなかった真理に二人で辿り着いた――

 

 

「…………アキ、ユキ…………?」

 

少女の瞳から、大粒の涙が零れ落ち、鏡の海を静かに揺らした。

 

そうだ。自分は、この名前を知っている。

この光を知っている。

この温かさを、この不器用で、誰よりも直向きだった青年の生き様を。

 

失われていた「ナキアミ」という名のパズルの欠片が、一等星から放たれる愛おしいプラーナによって、ひとつずつ嵌まっていく。自分がなぜここにいるのか。なぜ、この閉じられた世界にいるのか。

 

少女の身体が、淡い光に包まれた。

 

燃えるような、日輪を宿した赤い髪。

どこまでも澄み渡る、青空のような蒼い瞳。

 

やせ細り、震えていた幼子の四肢は、記憶を取り戻すたびに力強く、しなやかに再構成されていった。

 

――ああ、そうだ、思い出した……。私は……私の名前は――

 

 

 

 

 

 

 

石の扉を背にした白き巨人は、いまや黒い泥の海に沈もうとしていた。

 

正面からは数多の影が編み上げられた絶望のドリルが、アキユキの作り出した純白の盾を無慈悲に削り、火花を散らしている。そして側面、背後、頭上からは、救済を渇望する無数の触手が、網のようにアキユキの身体を覆い尽くしていた。

 

(……っく……ダメだ……抑えきれない!)

 

全身を駆け巡るプラーナが、影たちの抱える「空虚」に直接触れ、アキユキの精神を内側から蝕んでいく。彼らの伸ばす手は、もはや攻撃ではない。暗い井戸の底から、たったひとつの光に縋り付こうとする、数千、数万の「孤独」そのものだった。

 

反撃はできない。

この影たちを焼き払えば、彼らの切なる願いを、そしてナキアミが愛そうとしたこの世界の「哀しみ」を、自らの手で否定することになる。

 

アキユキは全霊を込めて盾を維持し、影たちの重みに耐え続けた。だが、無尽蔵に思えたザムドの力も、果てしない「執着」の波に呑まれ、次第に輝きを翳らせていく。

 

(救世主と呼ばれておきながら、不甲斐ない……!けど、一体どうすれば………)

 

どれほど思考を巡らせても、妙案は浮かばない。

どれほど力を振り絞っても、この「祈り」という名の濁流を止める術は見当たらない。

 

千年の旅路の果てに、ようやく辿り着いた扉の前で、アキユキの意識は急速に混濁し、その思考は停止の淵へと追い込まれていった。

 

「……ごめん、ナキアミ……やっぱり、俺は……」

 

万策尽きたと、目を伏せたその刹那――

 

 

 

 

 

 

――考えろ、アキユキ!――

 

 

 

 

 

 

背後から、雷鳴のように、そして誰よりも慈愛に満ちた叫びが響いた。

 

それは、以前胎動窟のほとりで風に聞いた幻聴ではない。

この千年の間、アキユキがひとときも忘れることなく、魂に刻み込み続けてきた、あの少女の切なる叫びだった。

 

「…………え?」

 

声が響いた瞬間、アキユキの視界を支配していた暗雲が、内側から弾け飛んだ。

 

正面で盾を削っていた巨大なドリルが、そしてアキユキの身体に縋り付いていた無数の影たちが、まるで見えない浄化の風に煽られたかのように、一斉に光の粒となって霧散していったのだ。

 

石畳に膝をつき、荒い息を吐きながらアキユキは顔を上げた。

そこで目にしたのは、神話の再演ですら追いつかないほどに、美しく、そして切実な光景だった。

 

アキユキと、救いを求めて殺到する影たちの間に、一人の少女が立っていた。

 

 

――あの特徴的なテシクの装束。

――どこまでも澄み渡る、青空を宿した蒼い瞳。

――頬に刻まれた紫色の刺青。

――そして世界を照らす日輪のような赤い髪。

 

 

それは、アキユキ、伊舟らザンバニ号の仲間たち、ヤンゴやクジレイカ、そしてこの世界が千年間待ち焦がれ、祈り続けてきた、あの少女の姿。

 

「………ナキアミ………?」

 

その姿は実体を持たず、胎動窟から溢れ出した純真無垢なプラーナが一時的に形を成したもののようだった。けれど、その背中は、どんな物理的な壁よりも強固にアキユキを守り、影たちを優しく退けていた。

 

アキユキが呆然と立ち尽くしていると、プラーナで模られた少女はゆっくりと彼の方へ振り返った。

その表情には、千年前と変わらない、ぶっきらぼうで、けれど心からの慈愛が込められた微笑みが浮かんでいた。

 

彼女は何も言わず、ただ静かに右手をアキユキへと差し出してきた。

戸惑い、震える手で、アキユキはその細い指先を包み込む。

 

ギュッ、と。

確かな魂の重みを感じた瞬間。

 

二人の手を起点に、白銀の光の円環が広がった。

光の波は広場を、アニマ=ノアの構成員を、そして月夜の景色を瞬く間に呑み込み、世界を真っ白に塗り潰していく。

 

やがて光が引いたとき。

そこには、戦場の喧騒も、黒い影の呻きも、凍てつく夜風も存在しなかった。

 

頭上には、終わりなき流星が降り注ぐ、闇よりも深い群青の天蓋。

足元には、波ひとつ立たず、流星の輝きをどこまでも映し出す鏡のような海。

失われた記憶が形を取り戻すように、淡く揺らめく光の粒が静寂のなかで溶け合い、満ちていく。

 

時間の流れさえ存在しない、永遠の狭間。

 

――「魂の導き手」となり、悠久の時を生きた青年。

――悠久の眠りの果て、名前を取り戻した一人の少女。

 

千年という長い時を経て、彼らは鏡の世界の波紋のなかで、静かに向き合っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

肺が焼けるような喘鳴(ぜんめい)さえ、今の私にとっては至上の悦びへの代償でしかありませんでした。

 

広場の隅で、私はただ、その神々しき光景に魂を焼かれていました。視界を埋め尽くすのは、あまりにも峻厳で、あまりにも美しい「白き従者」のお姿。アニマ=ノアの構成員たちが、恐怖と絶望に顔を歪め、膝を折って震えているのが手に取るようにわかります。

 

当然です。自分たちが「異端」と蔑んでいた男が、数百年追い求めてきた神話そのものへと変貌したのですから。これ以上の真理がどこにあるというのでしょう。

 

「ああ……」

 

熱い吐息が零れました。

目の前で、竹原様――わたしの白き従者様が、醜悪な影をその腕に抱き、静かに魂を浄化していく。その慈悲深さ。抱擁によって禍々しい闇が、透き通った光へと還っていく。ああ、なんて神秘的で、狂おしいほどに尊いのでしょうか。

 

私は、病的なまでの熱に浮かされていました。心臓は早鐘を打ち、視界は快楽に近い恍惚感で震える。伝承の挿絵を指先でなぞり続けていたあの日々が、いま、最高の解像度をもって現実として立ち現れているのです。

 

けれど、その直後でした。

 

救済を求めて胎動窟の扉へと殺到する影たちの動きに、竹原様が反応なさいました。あの方は私という存在さえ忘れたかのように、あの忌まわしい扉を背にして立ちはだかったのです。

 

――なぜ。なぜ、私以外のために、貴方はそこまで傷つくのですか。

 

一瞬、胸を鋭い刃で刺されたような痛みが走りました。

けれど、無数の触手に覆い隠されながらも身を挺して扉を守るそのお姿に、私の歪んだ熱はさらに高まっていく。これこそが私の求めた騎士。これこそが、すべてを救わんとする献身の極致。

 

敗れてほしい。

このまま彼を独占するために、その翼を折ってほしい。

けれど、何者にも屈しない最強の神話であってほしい。

 

頭と心が、相反する欲望に引き裂かれるようでした。触手に押し潰されようとしているあの御方を見て、私は自らの爪が掌に食い込むのも気づかぬほど、激しい葛藤に身をよじらせていました。

 

しかしその瞬間、私はこの世で最も見たくない光景を目にしました。

 

「……え?」

 

あの御方が放出していた膨大なプラーナが弱まり、闇に呑まれかけた、その刹那。

広場に、凍てつくような、けれどあまりにも清澄な白銀の衝撃が吹き抜けました。あの御方に縋り付いていた影たちが、まるで最初から存在しなかったかのように、一瞬で消滅していったのです。

 

そして、跪く竹原様の前に、それは現れました。

 

プラーナを感知できる私の瞳には、それが何であるかが、吐き気がするほど鮮明に「視えて」しまった。

燃えるような日輪の髪。どこまでも透き通った、憎たらしいほどに綺麗な青空の瞳。

私が鏡の前で、千度、万度と模倣し、自らの頬に刻み続けてきた、あの紫の紋様。

 

――……あ、ああ……嘘……そんな……

 

胎動窟から溢れ出したプラーナが形を成した、一人の少女。

黒い影たちには見えていないはずのその姿が、あの御方を救い、その手を引いている。

 

伝承は、嘘ではなかった。

本物の天女は、あの扉の向こう側に、今も、生きて、存在していたのです。

 

「あああああああああああああああああああッ!!」

 

気づけば、私は叫んでいました。

これまで竹原様の戦い振りに酔いしれ、恍惚としていた心に、氷の刃のような現実が突き立てられたのです。

 

「……ああ、なぜ……どうして……。あと……あと、もう少しだったのに……」

 

本物の天女がいる。

その事実が判明した以上、あの御方が「偽物」である自分ではなく、あの赤い髪の少女を選ぶことは明白でした。あの御方が少女の本体と合流したが最後、その瞬間から、この「ナクセナ」という代用品の存在意義は完全に無くなります。

 

頭に冷や水を浴びせられたような感覚が、私の狂気を一段と深い場所へと突き落とします。

 

あの女を殺さなければ……。

あの御方が彼女の本体と合流する前に、その存在をこの世から完全に消し去らなければ……。

私は、永劫に救われず、この魂はずっと虚ろなまま……。

 

(……こうなった以上……他に道はない。たとえそれが、どれだけ無謀であっても……)

 

控えめに言って、状況は最低最悪でした。

組織の戦力の大半はあの御方の降臨によって無力化され、成仏すら始めている。手元に残っているのは、まだ狂信を捨てきれずに立ち尽くす数少ない影たちのみ。

 

あの御方たちが共に手を取り合う様を見た私には、黄金櫃を骨が軋むほど強く抱きしめ、嫉妬と憎悪に狂った瞳で睨みつける事しかできませんでした。

 

――けれど……それでも、やり遂げるしかない

 

私は、自身の安寧への唯一の道が「オリジナルの排除」であることを確信し、冷たい絶望の淵から、最後にして最悪の反撃へとその一歩を踏み出しました。

 

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