千年後まで御機嫌よう   作:エクシーク

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第23話:再逢 ー少年と少女ー

 

白銀の閃光が静寂へと溶け落ち、視界が再び意味を取り戻したとき、そこにはただ、音のない鏡の世界が広がっていた。

 

アキユキは、己の手を見つめた。

 

数多の魂を導くために纏っていた峻厳な外殻は消え、幾千万の祈りを背負った光の翼も、今はもうない。そこにあるのは、微かな震えを隠しきれない一人の青年の剥き出しの掌と、それを導くように繋がれた一人の少女の細くしなやかな指先だった。

 

零れ落ちた独白は、波紋ひとつない群青の海へと吸い込まれていく。

そして、その凪いだ世界の中心に、彼女はいた。

 

燃え盛る日輪をその身に宿したような、鮮やかな赤。

どこまでも澄み渡る、あの青空の記憶を湛えた蒼い瞳。

 

悠久の時を越え、夢の深淵で幾度となぞり続けた少女――ナキアミが、かつてと変わらぬ穏やかな慈愛を浮かべて、そこに立っていた。

 

「……あ……」

 

アキユキの喉が、熱い塊に塞がれたように震えた。

 

この千年という果てしない旅路のなかで、彼は幾度となくこの瞬間を想起し、己に誓い続けてきた。

 

もしも、いつの日か彼女に手が届く日が来たならば。

たとえその時、世界がどのような地獄に塗り潰されていようとも。

かつての仲間も、親も、友も、すべてが歴史の塵と消えた孤独の果てであっても。

 

自分だけはもう一度彼女を、千年かけて自分たちの理想へと至った世界へ、「おかえり」と迎え入れよう。

 

独りで再臨したヒトガタの救済へと挑み、独りでワクチンという名の希望を紡ぎ、アニマ=ノアという名の巨大な虚無と対峙し続けてきた二百年。

ナクセナという名の「ナキアミの影」に惑わされ、本物の天女がまだこの世のどこかで息をしているのかさえ分からぬまま、ただ一筋のプラーナの糸を命綱にして歩き続けた、出口のない迷宮。

 

その重圧は、積み重なれば山を穿ち、冷え固まれば海を凍らせるほどに重く、鋭利なものだった。

 

けれど、アキユキは一度として、その膝を折ることはなかった。

それは「巫女としてではなく、一人の少女として貴女に生きてほしい」という、魂の深層に刻まれた一筋の祈りだけが、彼の命を繋ぎ止める楔となっていたからだ。

 

だからこそ、笑顔で出迎えるのだ。

長い旅を終えた旅人が、ようやく我が家に辿り着いたときのように。

 

「………ナキ、アミ……本当に……」

 

けれど、目の前で微笑む彼女の、あの遠き日々より変わらぬ姿。その眼差しに、千年前のあの日と同じ、自分を信じ、導いてくれた光を見つけた瞬間――

 

鋼のように鍛え上げ、凍てつかせていたその理性は、脆くも崩れ去った。

 

「やっと……やっと、君に手が届いた…………っ!」

 

堪えようとした唇は子供のように歪み、視界は瞬く間に溢れ出す熱に覆われた。

 

千年という歳月のなかで、心の最も暗い場所に押し込めてきた分厚く重い孤独が、堰を切った濁流となって溢れ出し、もはや「導き手」としての虚飾を許さなかった。

 

足元がほどけたように動けないまま、胸の奥で何かが崩れ、音もなく広がっていく。

こらえようとするほどに、その隙間から透明なものがあふれ出し、頬を伝っては、静かに落ちていく。拭うことも忘れて、ただそこに在るしかなく、流れ続けるそれは、言葉にならない思いのかたち。

 

とめどなく涙を溢れさせ、立ち尽くすその姿は、救世主でも魂の導き手でもない、ただ一人の少女を想い続けた一人の少年の真実だった。

 

ナキアミは、そんな彼を困ったような、けれどこれ以上なく慈しげな眼差しで見つめていた。

そして、鏡の海に微かな波紋を刻みながら近づくと、その細い腕を、迷うことなく広げた。

 

「まったく……知らない間に、随分と泣き虫になってしまったみたいだな」

 

冗談めかした、懐かしい声の響き。

ナキアミはアキユキを、その小さな身体のすべてをもって、優しく、そして力強く抱きしめた。

 

「っ……!」

 

アキユキは、息が止まるのを感じた。

 

思えば、共に空を駆け、共に世界の理に触れたあの激動の旅路のなかでさえ、二人がこうして互いの鼓動を分かち合うほどに触れ合ったことはなかった。

 

テシクの装束の少し硬い腹部の感触――その奥から伝わってくる、穏やかで絶対的な母性。

それは、どんな処置よりも深く、彼が千年間抱え込んできた魂の摩耗を癒やし、計り知れない安心感で彼を包み込んでいった。

 

不思議なほどに、暴れていた心が静まっていく。

彼女からの抱擁のなかで、ようやくこれまでの、果てしなく長かった艱難辛苦が報われたという実感が、アキユキの全身に、静かな熱として浸透していった。

 

やがて、アキユキは彼女の肩に顔を埋めたまま、グスッと鼻をすすって小さく笑みをこぼした。

 

「………ははっ。てっきり『泣き止め』とでも言われるのかと思ってたよ」

 

ナキアミは、アキユキを抱きしめる力を少しだけ強め、クスりと笑った。

 

「なんだ。本当は、そう言ってほしかったのか?」

 

「まぁ、それも悪くはないけど………でも、今は少しだけ、このままでいさせてほしいな」

 

「……そうか。なら、気の済むまで、こうしておいてやろう」

 

かつての二人であれば、こんな冗談を交わす余白さえ持ち合わせてはいなかった。

未熟なまま宿命に弄ばれ、ただ生きることに必死だったあの頃とは違う。

 

数多の別れを看取り、悠久の時間を経て、魂を磨き上げてきた今の二人だからこそ、言葉の裏側にある果てしない情愛を、静かに、豊かに分かち合うことができる。

 

流星が天蓋を飾り、海が静寂を映す永遠の狭間。

再会した二人の鼓動はひとつに重なり、千年の空白を、穏やかな熱で満たしていった。

 

 

 

 

 

抱擁の熱が名残惜しげに静まり、二人の間に再び鏡の海の静寂が戻ってきた。

 

アキユキは潤んだ瞳を拭い、改めてこの閉ざされた世界の天蓋を仰ぎ見る。闇よりも深い群青の空、絶え間なく降り注ぐ流星、そして遠く彼方で冷ややかな執着を放つあの満月。

 

「……ナキアミ。ここは、一体どこなんだ? この鏡のような海も、空に流れる無数の光も……俺たちの知っている景色とは、どこか決定的に違って見える。それに、あの不気味なほど綺麗な月と、その周囲に漂っている無数の黒い塊は……」

 

アキユキの問いに、ナキアミは視線を足元の波紋へと落とした。彼女の青空を宿した瞳には、千年の歳月が編み上げた、捉えどころのない夢の残滓が映っている。

 

「正直言うと……私もよく分からないんだ。ただ……恐らくここは私の心の内側を映していて、ここから見える景色は外界の様子を映している……ような気がする」

 

「……外界の景色……か……」

 

アキユキはその言葉を反芻し、空に浮かぶ天体をなぞるように見つめた。

 

あの無数の黒い塊が、アニマ=ノアの黒い影を反映したものだとしたら。その場合、それらが纏わりついている、まばゆい一等星が象っているのはアキユキ自身か。

そして、そのすぐ近くで、不気味なほどの執着を持って星を見つめているあの満月は――。

 

(あの月は、まさか……いや、けど……)

 

満月によって象られている存在に、アキユキは心当たりがあった。しかしそれは、あの満月を想起させる少女――ナクセナが今、この胎動窟のすぐ近くまで来ていることを意味する。

しかし、アキユキが胎動窟に急行する直前、彼女は教団の暴走に巻き込まれ、深い傷を負っていたはずである。

 

(……あの限られた時間で、胎動窟まで移動できる状態には見えなかったが……)

 

拭いきれない違和感が胸を掠める。しかし、今はまだ推測の域を出ない。アキユキは疑念を心の隅に追いやり、再びナキアミへと向き直った。

 

そして、ナキアミはゆっくりと、自分の記憶を手繰り寄せ始めた。それは凍りついた湖の底から、壊れやすい氷の破片を拾い上げるような、朧げで危うい作業だった。

 

「覚えているのは、千年前のあの日……太母のヒルコに抱かれ、すべてを封印に捧げたのが最後。それからは、ただ終わりのないまどろみのなかにいた気がする。……暗くて、静かで、時間の感覚さえ失った、深い深い夢のなかにいたような感覚だ。けれど、時折……本当に稀に、この闇夜を一際強い光が通り過ぎることがあった。その光は、まるで私を呼ぶような、切ない響きを帯びていて……」

 

ナキアミは空を見上げた。流星の数が増えるほどに、彼女の主観的な「夢」は、より鮮明な形を成していったという。

 

「……深い夢のなかで、時折、眩しい光が私のすぐ側を通り過ぎていくのを感じたことがあった。……見えるか、アキユキ。あのひときわ輝いている一等星だ。アレから時折放たれる光が通るたび、どこか遠くで、誰かが私を呼んでいるような……とても懐かしい声が聞こえた気がして……。意識さえ持てない暗闇のなかで、あの一等星だけが、私が『私』であることをかろうじて繋ぎ止めてくれていた……」

 

彼女の瞳に、僅かな翳りが差す。

 

「けど………その最中、泥のように澱んだ1体の影が、流星に紛れて落ちてきたんだ。水面から這い上がって私を飲み込もうとする、あの底知れない虚無。………怖かったんだよ、アキユキ。自分に這い寄ってくるあの悍ましさに耐えられなくて、私は無意識のうちに心を閉じてしまった。『ナキアミ』として過ごした大切な記憶をすべて捨て、外の世界を拒絶してしまった」

 

ナキアミは自分の細い肩を抱くようにして、声を潜めた。

 

「そうして、これ以上傷つかないように自分を守ろうとして……気が付けば、何者でもなく、ただ世界の過酷さに震えていただけの、痩せ細った幼子に戻ってしまっていた。……皮肉な話だな。お前に『考えろ』『自分を見失うな』と何度も言っておきながら、まさか私自身が自分を見失っていたとは……」

 

自責の念を滲ませるナキアミ。彼女の気高い精神をもってしても、千年の孤独とアニマ=ノアの怨嗟はそれほどまでに鋭く彼女を削り、追い詰めていたのだ。

アキユキはどこか照れ臭そうに、けれど万感の思いを込めて首を振った。

 

「そんな私を呼び戻してくれたのは……他でもない、お前だ。あの一等星から放たれた輝きが……あの鮮烈でありながらも穏やかで、懐かしいプラーナが……閉ざされていた私の扉を無理やりこじ開けてくれた。あの一等星は……アキユキ、お前だったんだな」

「だから……ありがとう、私を救ってくれて……ずっと私を見守ってくれていて」

 

照れ臭そうに、けれど真っ直ぐに向けられた感謝。アキユキは一瞬言葉に詰まり、やがて困ったような、けれどこれ以上なく柔らかな笑みを浮かべた。

 

「……俺だって、あの影たちに呑み込まれそうになって、俺だって、あの影たちの執念に呑まれかけて、もう心が折れそうだった。そんなとき、ずっと聞きたかった君のあの言葉に、俺はまたしても助けられた。……だから、俺がこうしてまた君に逢えたのは、他でもない君のおかげさ。……まぁ、だから、その……なんというか……」

 

アキユキは、鏡の海を渡る微かな風を感じながら、独白するように続けた。

 

「……やっぱり俺は、君がいないと駄目なんだよ」

 

それは、慰めでも憐れみでもなかった。千年の孤独を潜り抜け、ただ一人の少女を想い続けてきた男の、飾りのない本音だった。あまりにも無自覚で、あまりにも切実なその言葉は、静まり返った鏡の世界に告白のような重みを持って響いた。

 

「……っ……」

 

ナキアミは一瞬、呆気に取られたようにアキユキを見つめていた。しかし、やがて呆れたように、けれどどこか満足そうに目を細めた。

 

「……はぁ、一体何を言い出すのかと思えば……。ふふっ……まったく……本当にしょうがないやつだな、お前は」

 

「ははっ……面目もないよ」

 

ナキアミが少し救われたように柔らかく笑うと、アキユキもまた、ようやく心の底から安堵したような笑みを浮かべた。

 

かつてザンバニ号の甲板で、青臭い意地を張り合っていたあの日々。心身ともに傷だらけで、それでも未来を信じていたあの頃。

千年の時を越え、数多の傷を負い、成熟した今の二人であっても、魂の根源にある『互いの欠落を埋め合う』という絆だけは、何一つ変わることはなかった。

 

 

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