お気に入り登録の数が少しずつ増えてきており、とても励みになっています。
物語が進むにつれて、設定や描写がやや複雑になってきました。
そのため、もし「ここがよく分からない」「この部分はどういう意味か知りたい」と感じた点があれば、遠慮なく感想欄で質問していただけると助かります。
いただいた声を参考にしながら、より読みやすく、楽しんでいただける作品にしていきたいと考えています。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
鏡の海を渡る笑い声が静かに凪いだ頃、アキユキは居住まいを正し、ナキアミへと視線を向けた。その瞳には、再会の喜びとは別の、重く冷徹な現実が宿っていた。
「ナキアミ。君が眠っていたこの千年の間に、世界は……俺たちの想像を絶する形に変貌してしまった」
アキユキの声は低く、けれど明瞭だった。彼はナキアミに、いま外界で何が起きているのか、そして「アニマ=ノア」という名の、救済という名の絶望を撒き散らす教団について語り始めた。
歪んだ教義、死を真理への回帰と謳う狂信。身寄りのない空虚な魂たちを拾い集め、あの「邪悪なる真正ヒルコ」による変異薬で肉体もプラーナも持たぬ黒い影へと変えてしまう、呪われた連鎖。アキユキは言葉を選びながら、自分を導いてくれたナキアミの影を追うかのように自らを偽り、天女を騙る少女、ナクセナについても触れた。
彼女が抱える黄金櫃の中身。人々の積年の怨嗟が煮詰められた、あの悍ましい結晶の正体。ナキアミはアキユキの言葉を一つひとつ、まるで胸の奥に刻みつけるように静かに聞き入っていた。
「……なるほどな。何となくだが、今の状況については理解した。……そうか、あれから千年か……本当に……」
ナキアミは、その数字を舌の上で転がすように、ゆっくりと繰り返した。
ナキアミは呟き、自らの掌を見つめた。その瞳に、深い悲しみの色が差す。
アキユキの話を聞き進めるうちに、彼女の胸を支配したのは、逃れようのない「時間の残酷さ」だった。
彼女は解っていた。
あの日、自らの意志で太母のヒルコに抱かれたとき――いつか再び目覚めることがあるならば、それは遠い遠い未来の話になるであろうことを。
(ああ、本当に……千年も経ってしまったのか……もう、誰にも逢えないのか……)
ただ、どうしても心のどこかで信じれずにいた――いや、信じたくなかったのだ。
何せ、あのアキユキがあの日と変わらぬ姿で自分を迎えに来てくれたのだ。もしかすると、まだこの世界のどこかでヤンゴが自分を待っているのではないか、伊舟たちがどこかで笑っているのではないか……そんな甘い幻想が、胸の片隅に縋り付いていた。
伊舟の豪快な笑い声も、ザンバニ号の賑やかな食卓も、共に空を駆けた戦友たちの温もりも。すべては等しく歴史の砂に埋もれ、いま、この鏡の世界に立っている自分だけが、忘れ去られた過去の遺物として取り残されている。
その事実は、どんな鋭い刃よりも深く、ナキアミの心を抉った。
しかし、ナキアミを最も打ちのめしたのは、自分自身の喪失ではなかった。
(なぜアキユキが千年経っても生き続けているのか……いや、そんなことはどうだっていい)
アキユキが語った千年の孤独な戦い。独りでヒトガタの再来を看取り、独りでワクチンを創り上げ、独りで邪教の軍勢と対峙し続けてきた道のり。
「真なるザムド」へと至った者が、老いることもなく、悠久の時を彷徨い続ける存在になるなど、かつての彼女にとっては知る由もないことだった。
(『魂の導き手』としての使命が、こんなにも残酷なものだったとは……)
「亡念の堕夢人」という、救いようのないほどに崇高で孤独な存在。アキユキをその高みへと導いたのは、他でもないナキアミ自身だった。
死にゆく者たちの想いを預かり、生者へと繋ぎ、変わりゆく世界をただ独りで見守り続ける。その永劫の孤独を彼に強いてしまったのだという罪悪感が、ナキアミの胸を締め付けた。
「……すまない、アキユキ。お前には、計り知れないほどに、過酷な運命を背負わせてしまった………」
ナキアミの瞳が、僅かに揺れた。それは単なる驚きではなく、自らが封印に入った後の世界にアキユキを独り取り残してしまったという、深い悔恨と畏怖。
彼女は一度、深く目を閉じ、自らの内側に去来する千年の静寂を反芻した。鏡の海に降り注ぐ流星、空を侵す黒い影、そして何より、自分を導き手に、神話の一部に変えてしまった世界。
その様子を見て、アキユキは激しい後悔に襲われた。
彼女に今の状況を、そして彼女自身が狙われている危険を伝えなければならないという義務感があった。けれど、再会して間もない彼女に、これほどの絶望を突きつけたかったわけではない。
「……謝らないでくれ、ナキアミ。君にそんな顔をして欲しくない。俺はただ……」
アキユキが彼女の手を握り、気を配る言葉を投げかけようとした、その刹那。
「っ……!?」
アキユキの視界が、急激に揺らぎ、輪郭がぼやけ始めた。
静寂に満ちていた鏡の世界が、まるで古い映像が途切れるようにノイズを帯びていく。
「くっ……外界との接続が……思っていたよりも早かったな……」
ナキアミは、消え入りそうな声で、けれど冷静に現状を口にした。
今回の邂逅は、決して自然なものではなかった。胎動窟の扉の前で、アキユキがナキアミを守るためにそのプラーナを最大出力で解放した際、扉の奥に眠るナキアミのプラーナがそれに共鳴したのだ。アキユキという強大な「中継器」を介して、ナキアミの意識が、胎動窟に満ちる自身のプラーナを燃料に、一時的に外界と接続された奇跡。
(……信じられない。本当にそんなことが可能なのか……?)
言語化さえ困難な、奇跡に等しい神業。その説明を聞き、アキユキは彼女の「想い」が起こした所業の凄絶さに、言葉を失い舌を巻いた。
「……意識して出来たわけじゃない。ただ……お前の力になりたくて、扉の向こう側から漏れ出るプラーナへと無我夢中に手を伸ばした……それだけなんだ」
けれど、その命のリンクも、時間の経過と共に摩耗し、断ち切られようとしていた。
「……もう時間がない。アキユキ……先ほどまでの話は、一度落ち着いてからまたゆっくりするとしよう」
「……おそらく、私はこの胎動窟の中心部にいる。まぁ……まだ、私の肉体が残っていればの話だが」
「……ああ、わかってる。必ず会いに行くよ、ナキアミ」
アキユキの身体が、段々と朧気になってきている。
ナキアミは、別れを惜しむように、けれど最後には強気な「巫女」ではなく、ただの「一人の少女」としての瞳をアキユキに向けた。
「お前に……お前ともう一度逢うことができて、本当に嬉しかった……会いに来てくれて、ありがとう。アキユキ」
その言葉は、千年の孤独をすべて洗い流すほどに温かく、アキユキの魂に深く刻まれた。
「……後でもう一度、必ず、今度は本当に迎えに行く。だから……待っててくれ!」
アキユキの叫びが鏡の世界に木霊し、そして――
白銀の光が弾けると共に、二人の手はほどかれた。
鏡の海も、流星も、満月も。
すべてが一点の光へと収束し、アキユキの意識は再び、喧騒と殺意の渦巻く現実世界へと引き戻されていった。
白銀の閃光が網膜から引き、再び現実の重力がその身を捉えたとき、アキユキは胎動窟の扉の前で、完全体ザムドの姿のまま静止していた。
周囲の景色は、鏡の世界へ誘われる直前と何ら変わっていない。ナキアミが放った白銀の慈悲に当てられ、浄化の余韻に呆然と立ち尽くす黒い影たち。彼らが発する不協和音のような呻きさえも、今は遠い出来事のように感じられた。
どうやら、あの鏡のような静寂のなかでナキアミと過ごした時間は、この外界においては瞬きにも満たない刹那の出来事だったらしい。
アキユキは、無意識のうちに己の背後――胎動窟の巨大な扉へと視線を走らせた。
そして、その光景に息を呑んだ。
「………胎動窟の、扉が………」
千年待ち続け、それでもなお開かれることはなく、朝な夕な、どうすればその封印を解けるのかと、彼が焦がれ、悩み、祈り続けてきた強固な石の扉。それが、いまや音もなく、何者をも拒まぬほどに完全に解放されていたのだ。
一瞬の空白ののち、アキユキはようやく理解した。
ナキアミは胎動窟の一部になったのではない。胎動窟そのものが、ナキアミという少女の一部となり、彼女の心の在り様をそのまま映し出す「鏡」となっていたのだ。
――『ここは私の心の内側を映していて、ここから見える景色はきっと外界の様子を映している』――
彼女が漏らしたその言葉こそが、この聖域の正体だった。彼女が再び目覚め、アキユキという光を受け入れて心を開いたからこそ、物理的な「殻」であるこの扉もまた、その役割を終えて開かれたのだ。
(そうか……そういうことだったのか……よし、待っててくれ、ナキアミ。今……!)
ナキアミとの再会の誓いを胸に、アキユキが大地を蹴り、暗い洞の奥へと駆け出そうとしたときだった。
「――待って! 行かないで、竹原様……っ!」
背後から、鼓膜を震わせるほどの切実な叫びが響いた。
足を止めずとも、その声の主は分かっていた。ナクセナ。やはり彼女は、傷を負った身体を無理やり引きずってでも、この場所へ辿り着いていたのだ。
アキユキは走りながら、背後に漂う彼女の歪なプラーナを感じ取っていた。
教団の首魁でありながら情報を売り、重傷を装いながら自分を欺いてまでこの地へ執着する不可解な少女。彼女の真意は、敏いアキユキをもってしても、未だに全貌を掴みきれずにいる。
しかし、彼は決して忘れてはいなかった。あの夕暮れの喫茶店で、震える手で救いを求めた彼女と交わした「誓い」を。
――『たとえ世界中が君を拒んだとしても、俺は何があろうと必ず、君を救い出してみせる』――
その言葉に嘘はない。ナクセナという少女が背負わされてきた孤独も、誰かの代用品でしかないという絶望も、そして「救われたい」と願う魂の叫びも、すべては真実なのだと、アキユキは直感していた。
けれど、アキユキの心に迷いはなかった。
今この瞬間、彼の魂が最優先で求めているのは、扉の向こう側にいる「本物」だった。
(……ごめん、ナクセナ。君のことも、必ず救い出す。だけど……立ち止まるわけにはいかない。今はまだ、彼女のところへ行かせてくれ)
アキユキは心の中で一度だけ深く謝罪し、背後から追い縋るナクセナの懇願を、鉄の意志で振り切った。
彼女の叫びが夜の広場に虚しく消えていく。
白き従者は迷うことなく、千年の眠りが支配する聖域の深奥へと、一筋の蒼い閃光となって消えていった。
目の前で繰り広げられた神話の再演に、私の魂は摩耗し、千切れそうになっていました。
天女が顕現し、白き従者を救い上げたあの瞬間。私の内にあった一縷の望みは、冷酷な現実という名の劇毒に侵されました。どうすればいい。どうすれば、この絶望的な結末を書き換えられる。どれほど思考を巡らせても、導き出される答えは「私は選ばれない」という残酷な一点のみ。それでも私は、自らの爪が掌を突き破るほどに黄金櫃を抱きしめ、あきらめることさえ許されませんでした。
その時――
――ゴンッゴンッゴンッ……ゴゴゴゴッ……
「…………え?」
不意に、背後で重厚な石の軋む音が響きました。
(……ああ、ああ……そんな……嘘……あれだけ今まで開かなかったのに……)
千年のあいだ、世界の誰一人として動かすことのできなかった胎動窟の扉。それが、彼女が微笑んだだけで、まるで主を迎え入れるかのように静かに、そして完全に解放されたのでしょう。その原因が彼女のプラーナにあることは、感知するまでもなく明白でした。けれど、今の私にとって、そんな神秘の理など泥水ほどの価値もありません。
私の目に映っていたのは、開かれた闇の奥へと今にも駆けだそうとする、白き従者の背中だけでした。
「――待って! 行かないで、竹原様……っ!」
気づけば、私は叫んでいました。
喉が裂け、血の味が口内に広がるほどの絶念を込めた叫び。それは、教祖としての虚飾でも、彼を繋ぎ止めるための狡猾な罠でもありませんでした。ただ、この広い世界のどこにも居場所のない、空っぽな少女が放った、たった一度きりの本心の産声。
お願い。私を見捨てないで。私を一人にしないで。
貴方の光がなければ、私はまた、あの暗くて寒い北の空の下に放り出されてしまう。
しかし――
あの方は、立ち止まってはくれませんでした。
一瞬だけこちらを振り返ったその瞳には、私への憐れみと、それ以上に強い、扉の向こう側にいる「彼女」への決意が宿っていました。あの方は私の懇願を、その魂の叫びを、非情なほど鮮やかに振り切り、一筋の蒼い閃光となって消えていきました。
その瞬間、私の世界の灯が、ぷつりと音を立てて消えました。
(……ああ。終わった。すべて、無くなった。私は……最初から、何処にもいなかった……)
膝から崩れ落ち、呆然と虚空を見つめる私。
――脳裏に浮かぶのは、あの夕暮れの喫茶店。コーヒーの香りと、窓から差し込む柔らかな光。震える手で救いを求めた私に、あの方がくれたあの言葉。
――『もし……もしも私が、何者でもない空虚な存在だとしたら。取り返しのつかない過ちを犯した、救いようのない人間で……ただの誰かの代用品に過ぎないのだとしても……貴方は、私を救い出してくれますか?』
『たとえ世界中が君を拒んだとしても、俺は何があろうと必ず、君を救い出してみせる』――
「……なぜ。なぜですか……」
嗚咽さえ出ないほどに、胸の奥が凍りついていきます。
「私を救ってくれると……約束したじゃないですか……ねえ、竹原様……」
私を救い出すといったあの言葉も、あの手の温もりも、すべては「彼女」を救うために用意された余興に過ぎなかったのか。
私が私として救われる道など、最初からこの世界のどこにも用意されていなかった。
あの御方が追いかけていったのは、偽物の私の魂などではなく、扉の向こうにある神話の影。
怒り? 憎しみ? いいえ、そんな鮮やかな感情さえ、今の私には過分すぎました。
ただ、どこまでも深い穴に落ちていくような、底知れない喪失感。
自分が「代用品」であることさえ許されず、ただの無価値な空白として捨て去られた事実。
千切れた修道服も、泥に汚れた肌も、もう、全てが、どうでもいい……。
「教祖様……我ラハ、イカガイタシマショウ?」
足元で、黒い影が何かを囁いています。
その醜悪なノイズさえ、今の私には心地よい弔いの歌に聞こえました。
力なく、死人のような声で命じました。
指先ひとつ動かす気力もありません。けれど、この黄金櫃の重みだけが、私の存在を唯一繋ぎ止めている。
「私を乗せて……あの女の元へ……天女の元へと向かいなさい。残っている者も、すべて。一人残らず……」
黒い影の背に、崩れ落ちるようにその身を預けます。
開かれた暗闇の奥へ、あの天女の力で満ちた、月光も届かぬ地の底へ、私は吸い込まれていきました。