千年後まで御機嫌よう   作:エクシーク

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第25話:転生 ー世界の根幹ー

 

胎動窟の扉が、静かに、しかし確かに開かれていた。

 

かつては外界と断絶された、絶対の封印。

千年という歳月のあいだ、誰一人として踏み入ることを許されなかった境界。

その内側へ、アキユキは迷いなく踏み込んだ。

 

――次の瞬間、空気が変わる。

 

足裏に触れた感触は、確かに石だった。

視界に広がるのも、記憶と寸分違わぬ、黒曜石のような曲面で構成された巨大なドーム構造。

だが――

 

「……違う」

 

思わず、そう呟いていた。

形は同じだ。

だが、これはもう、かつての胎動窟ではない。

 

千年前、ここに初めて足を踏み入れたときの感覚が、脳裏に鮮明によみがえる。

 

 

 

あのとき隣にいたのはハルだった。

そして、案内役として静かに先導していたのは、白髪の青年――シロザ。

 

彼に導かれるまま、この奥へと進んだあのとき。

空間はただ、無機質だった。

 

満ちていたのは、ただのプラーナ。

感情も、温度も、意思すらも持たない、均一な“力”。

 

神秘的ではあった。

だがそれは、どこまでも無機的で、どこか死に近い静けさを孕んでいた。

 

――あのときまでは。

 

アキユキの足が、自然と止まる。

胸の奥に、古い記憶が引きずり出される。

 

胎動窟の中心。

祭壇。

その周囲を取り囲むように存在していた、羊泉。

 

そして――

 

水音。

小さな。

あまりにも軽すぎる、落下の音。

白い布に包まれた、小さな体。

 

「やめてぇーっ!」

 

両耳を塞ぎ、ハルの声にならない叫びが木霊する。

 

それを、迷いなく、ためらいなく――

投げ入れた、手。

 

ヨホロギ。敬虔な信者。

信仰の名のもとに、“流転”へと還すための行為。

それが、この場所の本質だった。

 

「……これが世界の仕組みだって?だったら世界がおかしいんだ、誰かに死んで貰って、自分だけ生き残るなんてっ!」

 

当時の自分と、ハルの叫びが、今でも耳の奥に焼き付いている。

 

あの瞬間、初めて理解した。

世界の歪みを。

信仰が、命を踏み潰す瞬間を。

 

魂の流転という美名のもとで、生が軽視されている現実を。

 

 

 

――あれが、胎動窟だった。

世界を“産み直す”ための装置。子宮。

そして、無数の犠牲の上に成り立つ、循環の機構。

だが――

 

「……あのときとは、随分と違う」

 

アキユキは、再び呟いた。

 

今、ここに満ちているものは――

まったく別物だった。

 

空気が、柔らかい。

踏み出すたびに、足元から微かな波紋が広がる。

それは石ではなく、まるで水面を歩いているかのような感覚。

呼吸をするたびに、胸の奥に沁み込んでくるものがある。

 

それは、プラーナ。

 

だが――

温かい。

優しい。

そして、どこまでも“個”としての気配を持っていた。

 

「ナキアミに包まれてるみたいで、何だかむず痒いな……」

 

かつてのように均一なものではない。

ひとつひとつに、揺らぎがある。

感情がある。

記憶がある。

 

この空間そのものが、彼女の呼吸と同期している。

 

壁が、脈打つ。

天井が、ゆっくりと収縮する。

空間そのものが、生きている。

そしてそれは――

 

「……そうだった」

 

アキユキは、走り出した。

確信とともに。

 

かつては世界のための器だった。

魂を吸い上げ、再構築するための装置。

だが今は違う。

 

「もう、かつての“胎動窟”じゃない」

 

彼女が、受け止めた。

あのとき。

千年前。

誰一人として犠牲にしたくないと願い、

すべてを引き受け、

封じた。

 

「ここは……ナキアミの想いそのものだ」

 

だからこそ――

この空間は、彼女の色に染まった。

 

世界を産み直す“子宮”は、

いまや彼女そのものへと変わった。

それは、もはや神話の領域すら越えている。

 

信仰でもない。

象徴でもない。

ただ一人の少女の願いが、

 

世界の構造や定義そのものを書き換えた結果。

 

「はは……随分と遠い存在になっちゃったんだなぁ……」

 

苦笑が漏れた。

 

誇らしさと

呆れと

そして――

どうしようもないほどの、愛しさが混ざる。

 

プラーナの流れが、あの胎動窟の中心にある祭壇に集約している。

 

螺旋階段に辿り着いた。

 

そこから先は、中心へ向かって果てしなく続く道だった。

かつてなら、何日もかけて下りていくべき場所。

巡礼者が己の魂と向き合いながら、時間を捧げて進むための道。

 

アキユキはその縁に立ち、眼下を見下ろした。

ザムドの視力が、常人では捉えられない遥か下方の祭壇を映し出す。

 

あった。中心部。

羊泉に囲まれた祭壇。

 

そのさらに中央に、白緑色に発光する繭のようなものが浮かんでいた。

 

「……あれか」

 

ヒルコでできた繭。

そう直感した。

柔らかく脈動するその表面からは、無数の糸のようなものが伸びている。

細く、淡く、しかし強靭なヒルコの糸。

それらは祭壇を中心に、胎動窟全体へ根を張るように広がっていた。

 

まるで、この場所そのものが彼女を守っているようだった。

あるいは、彼女がこの場所を繋ぎ止めているようでもあった。

 

繭の奥にいる。

間違いない。

ナキアミが、そこにいる。

アキユキの胸が、痛いほど高鳴った。

 

千年前。

彼女がどこで、どのように眠りについたのかも知らず、ただ伊舟やヤンゴから聞いた言葉だけを頼りに、この場所へ何度も足を運んだ。

 

何百年も。

何度も。

何度も。

 

閉ざされた扉の前で名を呼んだ。

応えはなかった。

それでも呼んだ。

 

いつか届くと信じたからではない。

呼ばなければ、自分が彼女を忘れてしまう気がしたからだ。

 

けれど今は違う。

 

届いた。

彼女は応えた。

そして、扉は開いた。

 

「……永かった。けど、それも全部……」

 

アキユキはこれまでの道のりに想いを馳せながら、静かに息を吸った。

 

本来の道筋を辿っている時間はない。

外ではまだ、ナクセナが動いている。

アニマ=ノアの残した歪みも終わってはいない。

 

アキユキの背から、蒼白い翼が広がった。

胎動窟の光が、その翼に触れる。

ナキアミのプラーナが、彼を包む。

それはまるで、行け、と背中を押しているようだった。

 

そして、彼は足場を蹴った。

無限にも思える螺旋階段を飛び越え、白緑の光が満ちる胎動窟の中心へ向かって、一直線に飛翔する。

 

風はなかった。

それでも、彼の頬を撫でるものがあった。

それはきっと、この場所に満ちた彼女の息吹だった。

 

千年の孤独を裂いて。

千年の祈りを抱いて。

アキユキは、ナキアミの眠る繭へ向かって飛んだ。

 

「……今行くよ、ナキアミ」

 

その言葉は、誰に向けたものでもない。

だが確かに、届いていた。

 

千年分の時間を越えて。

彼は、飛翔する。

彼女のもとへ。

 

 

 

 

 

白銀の光が弾け、アキユキの姿が鏡の海から消えたあと。

世界は、しばらく音を失っていた。

 

鏡の海の空が、微かに揺れた。

それは、外界で胎動窟の扉が開いた余波だった。

閉ざされていた殻に、ようやく細い亀裂が入り、そこから現実の光が流れ込んでくる。

 

ナキアミは、静かな海の中央に立ったまま、顔を上げた。

 

先ほどまで、ここにはアキユキがいた。

彼の手の温もりも、胸に押し当てられた涙の重さも、まだ確かに残っている。

けれど今、彼はこの鏡の世界にはいない。

 

現実の胎動窟へ。

自分の身体が眠る場所へ。

こちらへ迎えに来るために、駆け出している。

 

「……アキユキ」

 

呼びかけると、水面が淡く震えた。

その名を口にすることが、こんなにも胸を温かくするものだったのかと、ナキアミは今さらのように思う。

千年ものあいだ、自分はその名を忘れていた。

自分の名さえ忘れ、ただ何かに怯える幼子のように、殻の奥で震えていた。

 

けれど、もう違う。

 

この身体がまだ夢の底にあるというのに、彼の足音だけは、確かに胸の奥へ響いていた。

ナキアミは静かに息を吸った。

そして、かつてサンノオバが見せた仕草を思い出す。

 

指先を上げる。

空へ向け、くるりと円を描く。

 

鏡の海の上空に、波紋が生まれた。

水面に落ちた滴が逆さまに広がるように、空間が薄く震え、やがて一枚の円い鏡が形を成す。

それは、これまで見ていた一等星や流星のような抽象的な景色ではなかった。

空の鏡には、はっきりとした映像が映っていた。

 

胎動窟の内部。

黒曜石のような曲面を持つ通路。

その中を、白き外殻を纏ったアキユキが駆けている。

 

彼の身体から放たれる蒼白い光が、壁を照らすたびに、胎動窟そのものが嬉しげに脈打った。

いや、嬉しげというより――戸惑い、震え、迎え入れようとしているようにも見えた。

 

『ナキアミに包まれてるみたいで、何だかむず痒いな……』

 

空の鏡越しに、その呟きが届く。

 

ナキアミは、一瞬だけ目を見開いた。

それから、少し困ったように眉を下げる。

 

「……このバカ」

 

言葉ではそう返しながらも、その頬にはごく薄い熱が差していた。

 

アキユキはさらに奥へ進む。

彼の足元でプラーナの流れが道を開き、壁面の光が一斉に彼を導いていく。

 

『はは……何だか随分と遠い存在になっちゃったなぁ……』

 

「ふふっ、まったく……こんなに近くにいるというのに」

 

その声に、ナキアミは思わず小さく笑った。

 

彼は何も分かっていない。

たとえこの胎動窟が自分のプラーナで満ちていようと、世界を産み直す子宮と呼ばれた器が自分の心象と重なっていようと。

 

いまのナキアミが見ているのは、神話でも伝承でもない。

ただ、千年経っても変わらず、少し照れたように笑いながら、自分のもとへ駆けてくる一人の青年だった。

 

それが、たまらなく愛おしかった。

胸の奥が温かくなる。

鏡の海が淡く揺れ、空に浮かぶ円鏡の縁が柔らかな青に染まる。

 

しかし、その安らぎは長く続かなかった。

空の鏡の端に、黒い染みが滲んだ。

 

「む……来たか」

 

ナキアミの表情が静かに引き締まる。

 

胎動窟の入口付近。

そこへ、黒い影の軍勢が流れ込んでくる。

 

それはかつて彼女を怯えさせ、記憶を閉ざさせたものと同じ気配を持っていた。

肉体を失い、プラーナさえも剥ぎ取られ、魂だけの飢えとなって彷徨う存在。

 

だが、不思議と、以前ほどの恐怖はなかった。

黒い影たちは、確かに禍々しい。

だが、今のナキアミには見えていた。

 

彼らの内側にある、底なしの孤独。

名を持てず、居場所を持てず、ただ何かに縋りたかっただけの魂の震え。

 

かつてのヒトガタと同じだった。

形を歪められ、道を失い、誰かに導かれることだけを待っていた迷い子たち。

 

「……お前たちも、苦しんでいたんだな」

 

ナキアミは静かに目を細めた。

 

彼らはもう、自分を脅かすだけの存在ではない。

救われるべきもの。

流魂の大きな流れへ還されるべきもの。

 

アキユキがそうしようとしたように、自分もまた、そう見なければならない。

 

しかし――

ナキアミの視線は、すぐに影たちの中心へ吸い寄せられた。

 

黒い軍勢の上に、ひとつの影が乗せられている。

 

満月のような淡い髪。

力なく俯いた細い身体。

両腕に抱えられた、黄金の櫃。

 

その少女は、まるで自分の意思で立っているのではなく、黒い波に運ばれる人形のようだった。

 

微動だにしない。

顔は髪に隠れて見えない。

けれど、その存在だけが、奇妙な重さをもって空の鏡に映り込んでいた。

 

「……あれが、ナクセナ」

 

アキユキから聞いた名を、ナキアミは静かに口にした。

 

自分を模した少女。

天女を騙る少女。

空虚な器として育てられ、救われるために世界を壊そうとしている少女。

 

不思議だった。

怒りは、湧かなかった。

嫌悪も、思ったほどなかった。

ただ、胸の奥に、重たい痛みが沈んでいく。

 

あの少女は、自分に似ている。

姿や刺青のことではない。

きっと、もっと深いところで。

名もなく、意味もなく、ただ器として扱われていた頃の自分と、どこかで重なっている。

 

だからこそ、痛ましい。

けれど、それだけでは済まないものが、彼女の腕の中にあった。

 

黄金櫃。

その隙間から滲む黒は、影たちのそれとは違っていた。

 

影が迷い子の悲鳴であるならば、あれは――積み上がった怨嗟そのものだった。

憎悪。

絶望。

捨てられた魂たちの腐り落ちた祈り。

 

この世の穢れを何百年も煮詰め、なお流れることを許されなかったもの。

それが、櫃の内側で息をしている。

 

ナキアミの背筋に、冷たいものが走った。

 

「アレのことか……しかし、なぜあんなものが……」

 

黒い影たちは救える。

迷える魂なら、導く道がある。

 

だが、あの黄金櫃は違う。

あれは、魂の流れそのものを腐らせる。

受け止めれば救えるものではなく、触れたものを内側から書き換えてしまう毒。

 

ナキアミの胸に、とてつもなく嫌な予感がよぎった。

ナクセナは、まだ顔を上げない。

力なく俯いたまま、櫃を抱いている。

 

「杞憂であればいいが……」

 

その姿は、救いを求めているようにも見えた。

けれど同時に、何かを終わらせに来た者の静けさも帯びていた。

 

ナキアミは思わず空の鏡に手を伸ばした。

だが、指先は映像に触れるだけで、現実へ届かない。

もどかしさに唇を噛む。

 

そのときだった。

 

鏡の海が、不意に震えた。

風もないのに、水面が逆立つ。

空の鏡に亀裂が走り、淡い映像がわずかに乱れる。

 

「……?」

 

ナキアミは振り返った。

 

鏡の海の向こう。

何もなかったはずの静寂の中に、小さな影が立っていた。

 

それは、幼子だった。

痩せ細った手足。

汚れに塗れた粗末な衣。

大きすぎる瞳だけが、夜の底で濡れたように光っている。

 

ナキアミは息を呑んだ。

それは、つい先ほどまで自分がなっていた姿だった。

記憶を失い、名前を失い、世界の過酷さに震えていただけの、名もなき幼子。

 

だが、今そこに立つそれは、ナキアミ自身ではない。

鏡の海が、その小さな身体の周囲で脈打っている。

天蓋も、海も、足元の波紋も、その子供の呼吸に合わせるように震えていた。

 

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