白緑の光の底へ、アキユキは落ちていく。
いや、落下というには、あまりに静かだった。
螺旋階段の縁を蹴った瞬間、重力は確かに彼の身体を深奥へと引いた。けれど、背に広げた蒼白い翼が胎動窟の内側を満たすプラーナを受け止めるたび、その落下は次第に滑空へと変わっていった。
上下の感覚が曖昧になる。
黒曜石の壁面が、遠く後ろへ流れていく。
無限に続くはずの螺旋階段が、白緑の光の帯となって視界の端でほどけていく。
本来ならば、何日もかけて下るべき道。
祈り、悔い、己の魂と向き合いながら、一段ずつ降りていくための道。
だが、今のアキユキには、その時間がなかった。
彼の眼下には、羊泉に囲まれた祭壇があった。
かつて世界を産み直す儀の中心であり、無数の命が流転という名のもとに投げ込まれた場所。
そして今は、白緑に発光する大きな繭が、そこに静かに浮かんでいる。
その繭から伸びる無数の糸は、祭壇を越え、羊泉を越え、胎動窟の壁面へ、天井へ、さらに奥深くへと根を張っていた。
それは植物の根にも、血管にも、神経にも見えた。
胎動窟という巨大な身体の隅々にまで行き渡る、太母のヒルコの糸。
アキユキは翼を大きく広げ、落下の勢いを殺した。
白緑の光が翼を撫でる。
まるで、ここまで来たことを知っているかのように。
まるで、もう少しだと囁くように。
「……っ」
祭壇の縁へ降り立った瞬間、羊泉の水面が静かに震えた。
足元から広がる波紋。
けれど、それは水音を立てない。
音ではなく、プラーナの揺れとして空間に広がっていく。
アキユキは、ゆっくりと顔を上げた。
「あれは……確か、太母のヒルコ……だったか?」
眼前に、繭のような、太母のヒルコがあった。
近くで見るそれは、遠目に見たときよりも遥かに巨大だった。
人ひとりを包むだけの殻ではない。
胎動窟の中心に据えられた、もうひとつの心臓。
白緑色の光が、表面の奥を脈打つたびに、胎動窟全体がわずかに呼吸を合わせている。
確信があった。
ナキアミがいる。
この中に。
千年もの間、眠り続けていた彼女が。
アキユキは思わず一歩踏み出した。
腕を伸ばしかける。
だが、その指先は繭に触れる直前で止まった。
「……いや、ダメだ」
小さく、そう呟く。
触れてはならない。
本能が告げていた。
ザムドとしての感覚が、太母のヒルコの構造を読み取っていた。
これは、ただの繭ではない。
ナキアミを閉じ込める殻でもない。
繭の表面から伸びる糸は、胎動窟全体と繋がっている。
壁も、床も、羊泉も、この空間に満ちるプラーナの流れも。
すべてが、この繭を中心に循環している。
――迂闊なことをして、もし万が一があったら……。
ナキアミもただでは済まない。
胎動窟そのものが崩壊しかねない。
アキユキは奥歯を噛みしめた。
ヤンゴから聞いた話を思い出す。
あの日。
ナキアミは、サンノオバのヒルコと共に、太母のヒルコへと包まれた。
そして胎動窟を封じた。
その意味を、アキユキは長い間、ただの犠牲として受け止めていた。
ナキアミが自らを捧げ、世界の闇を払い、胎動窟に封じられたのだと。
けれど今、目の前の光景を見ていると、それだけでは足りないと分かる。
胎動窟は、彼女を封じただけではなかった。
千年という時間の中で、少しずつ彼女に寄り添い、彼女のプラーナを受け入れ、彼女の心の在り様に染まり、自らの核としていった。
あるいは、逆だったのかもしれない。
ナキアミ自身が、胎動窟と融和して、この世界を抱きしめ続けていたのかもしれない。
世界の子宮と呼ばれたもの。
無数の犠牲を吸い上げて呼吸するはずだったもの。
その巨大で無機質な器を、彼女は千年もの間、己の内側に抱え込んだ。
――私は生きていて欲しい。
――穢れた魂でも、迷った魂でも、私はみんなとこの大地で生きていたい。
その願いが、胎動窟を――世界を変えた。
ならば、この繭はもはや牢獄ではない。
ナキアミを守り、胎動窟そのものを繋ぎ止める核。
それを、外から壊すことなどできるはずがなかった。
(くそっ、何て無力なんだ……)
腹の底で燃え上がる。
臓腑を焼くようなもどかしさが、喉まで込み上げてくる。
ここまで来た。千年という歳月をかけて。
そしてようやく扉が開いた。
目の前に彼女がいる。
それなのに。
ここまで来て、できることは――祈ることだけ。
アキユキは拳を握りしめた。
戦う相手なら、いくらでも撃破できる。
ヒトガタなら、救えるかもしれない。
襲い来る影なら、受け止め、導いてやれる。
だが、目の前の繭には、それができない。
ナキアミを救いたい。
もう二度と閉じ込めたくない。
その願いが強ければ強いほど、手を出せない。
自分が無理に救おうとすることそのものが、彼女の選択を奪うことになるからだ。
「……そういう面倒くさいとこ、本当に君らしいよ」
アキユキは苦く笑った。
ナキアミは、最後まで自分で選ぶ。
誰かに命じられてではなく。
誰かに救われるだけでもなく。
自分の足で、進む。
だから、アキユキにできることはひとつだけだった。
迎えに来たことを伝える。
ここにいると知らせる。
外へ出る道は、もう開いていると示す。
そして、彼女自身が現実世界へ戻るきっかけを作る。
「……分かったよ、ナキアミ」
アキユキは拳を解いた。
翼をたたむ。
肩の力を抜く。
ブレードの気配も、戦闘のために張り詰めたプラーナも、すべて静かに沈めていく。
代わりに、胸の奥へ意識を向けた。
――ウン……じゃあね……またね、アキユキ。……尖端島で……。
――なら、まずは自分の鼓動を聞け。お前の中にも“光”はある。
――背負わせてください……お願いします……。
――自分が犯した全ての罪を償いたい。
――もしアンタの気が向いたんなら――挨拶にでも行ってやりな。
――……ナキアミのこと、どうか頼むよ。
そして――
――考えろ。
――生きたいなら、そう願え。
千年分の声が、そこにあった。
「……俺は、ただ祈るよ」
アキユキは、繭の前に膝をついた。
白きザムドの姿のまま。
導き手としてではなく。
千年を歩いた者としてでもなく。
ただ、彼女を迎えに来た一人の人間として。
両手を、繭の前へかざす。
触れはしない。
けれど、限りなく近く。
「……ふぅーっ……」
覚悟を決めたように、大きく息を吐く。
そして、蒼白いプラーナを静かに溢れ出てきた。
かつて、鏡の世界で一等星として彼女を照らし続けた光。
ただ、温かく、静かに、彼女の眠る繭へと寄り添う。
「……ナキアミ」
声に出した。
胎動窟の中心に、その名が溶けていく。
「俺だよ」
繭が、かすかに震えた。
アキユキは息を止める。
だが、焦ってはいけない。
揺らいだ光へ飛びつきたい衝動を押し殺し、彼は続けた。
「……これは、まぁ、ただの俺の我儘なんだけどさ」
何度も扉の前に立ったこと。
何度も届かない名前を呼んだこと。
それでも忘れなかったこと。
彼女が世界を救ったあとも、その存在が誰かの神話に奪われることを許したくなかったこと。
「……俺は、君を天女として迎えに来たんじゃない」
この言葉に込めたのは、千年の重みだった。
蒼白い光が、繭の表面にそっと広がる。
「救世主としてでもない。巫女としてでもない。世界を救った誰かとしてでもない」
アキユキの声は、少し震えていた。
「俺は、ナキアミに会いに来た」
繭の奥で、白緑の光が強く脈打った。
「……あぁ、そうだ。さっき会ったときは言えなかったんだけどさ」
「外の世界は、もう随分変わったよ」
彼は穏やかに語りかける。
「残念ながら、君が知ってる人たちは、もうほとんどいない。人も、空も、言葉も、跡形もなく変わってしまって、失われたものは幾つもあった」
一度、声が詰まる。
「だけど、それは決して悪いことばかりじゃなかったよ。あのときと比べて、世界は随分と穏やかになった。争いや差別も、ほとんど無くなった」
「……だから、一緒に見に行こう」
蒼白い光が、ゆっくりと白緑の光に混ざる。
「君の目で、君の足で……君が見守ってきた、この新しい世界を……さ」
静寂。
それから――
太母のヒルコの糸が、淡く震えた。
一本、また一本。
祭壇から伸びる糸が、光を伝えるように波打っていく。
アキユキは息を呑んだ。
(……届いたのか?)
ヒルコの糸を伝って、胎動窟全体に波が走る。
壁が、鼓動のように大きく脈打った。
天蓋がわずかに収縮し、羊泉の水面に幾重もの波紋が重なる。
白緑の光が、空間の奥へ奥へと広がっていく。
アキユキの胸に、熱いものが込み上げた。
ようやく届いたのだと思った。
千年分の呼び声が。
今この瞬間の願いが。
繭の中の彼女へ。
「ナキアミ……!」
思わず一歩踏み出す。
だが、その瞬間、アキユキの感覚が違和感を捉えた。
反応している。
確かに反応している。
しかし、震えているのは目の前の繭そのものではない。
繭の内側ではない。
反応しているのは――
(……これは、まさか)
アキユキはゆっくりと顔を上げた。
壁が脈打っていた。
羊泉がざわめいていた。
天蓋から垂れる光の筋が、不安げに揺れていた。
繭を取り巻く太母のヒルコの糸は、そのすべてを媒介するように、胎動窟全体へアキユキの祈りを伝えている。
ナキアミではない。
いや、ナキアミだけではない。
胎動窟そのものが、聞いている。
「……この空間自体が、反応している?」
思わず口にした言葉に、空間が微かに震えた。
応えはない。
だが、沈黙ではなかった。
(……これは驚いたな。まさか、胎動窟自体が……)
胎動窟が、息をしている。
迷うように。
怯えるように。
それでもアキユキのプラーナへ耳を澄ませるように。
胎動窟が生きていることは知っていた。
この場所がただの建造物ではないことも、千年前から分かっていた。
だが、意志を持っているなどとは思わなかった。
いや、意志と呼べるほど明確なものではないのかもしれない。
もっと幼く、もっと原始的な反応。
母を求める赤子のような、あるいは置き去りにされることを恐れる子供のような。
「……そうか」
アキユキは、深く息を吐いた。
ナキアミが胎動窟と融和したからなのか。
太母のヒルコを介して、彼女の心がこの場所に染み込んだからなのか。
あるいは元よりこの胎動窟に眠っていたものが、千年のあいだ彼女のプラーナに触れ続けたことで、はじめて“心”に似たものを得たのか。
理由は分からない。
だが、今ここにいるのは確かだった。
ナキアミを核として生きてきた胎動窟。
彼女を包み、彼女に包まれ、千年をともに眠ってきたもの。
それが今、彼女を送り出すか、引き留めるかで迷っている。
「……そりゃあ、迷うよな」
アキユキの声が、少しだけ柔らかくなった。
彼は繭から視線を外し、胎動窟全体へ向けるように立った。
まるで、壁や水や光のすべてを相手に語りかけるように。
「お前にとって、ナキアミは核なんだろ。彼女がいなくなれば、自分がどうなるか分からない」
羊泉が、かすかに波立つ。
「千年も一緒にいたんだ。ナキアミの眠りを見守って、彼女の想いを抱えて、今や彼女はお前の心臓そのものだ。そんな相手を外へ送り出せって言われたら……まぁ躊躇って当然だ」
胎動窟の奥から、低い鼓動が響いた。
それは拒絶ではなかった。
悲鳴にも似ていた。
アキユキは拳を解く。
「けど」
ゆっくりと、声を落とす。
「彼女は目覚める」
その言葉に、空間が強く震えた。
太母のヒルコの糸が、一瞬、アキユキを押し返すように張り詰める。
羊泉の水面が高く跳ねた。
壁の白緑が、不安げに明滅する。
アキユキは退かなかった。
「目覚める。外へ出る。もう一度、自分の足で歩く」
一語ずつ、刻み込むように言う。
「けど……それは決して、お前を置き去りにしてじゃない」
震えが止まった。
胎動窟が、耳を澄ませたように静まり返る。
アキユキは、目の前の繭へ視線を戻した。
「ナキアミは、誰であろうと決して見捨てない。そういう"タチ"なんだよ」
その言葉に、アキユキ自身が少し笑った。
「お前だってよく知ってるはずだ。彼女は、穢れた魂だろうが、迷ったヒトガタだろうが、見捨てられない。生きていて欲しいと願ってしまう。……哀れなほど、優しい人だ」
胎動窟の壁に、波紋のような光が広がった。
「だから……そう怯えるなよ。お前は置いていかれはしないさ」
アキユキは、自身のプラーナをさらに広げる。
今度は繭だけではなく、胎動窟全体へ。
蒼白い光が、白緑の光の中へ溶けていく。
一等星の光が、子宮の内側を静かに照らす。
「ナキアミはお前を壊してまで出ていくんじゃない。お前を差し置いて、生き直すんじゃない」
彼は、かつてナキアミから教わったように、言葉ではなく“想い”を流し込む。
「お前も一緒に、外へ行くんだ」
その瞬間、胎動窟の奥底で、何かが大きく揺れた。
ナキアミはすぐに理解した。
これは自分ではない。
少なくとも、ただの記憶ではない。
胎動窟だ。
この場所そのもの。
千年のあいだ自分に寄り添い、自分を閉じ込め、自分に依存してきた巨大な子宮。
その胎動窟が、姿を変えて現れたのだ。
乳飲み子が母を探すように。
自分を置いていかないでと、声なき声で訴えるように。
「……私を、引き留めに来たのか」
幼子は何も言わない。
けれど、その小さな指が、ナキアミの裾をきゅっと掴んだ。
その瞬間、ナキアミの胸の奥に、
言葉ではない。
理屈でもない。
寂しい。
怖い。
行かないで。
あまりにも幼い感情だった。
ナキアミは目を伏せる。
この場所は自我をもって生きていた。
千年前、自分がすべてを抱きしめたその日から、胎動窟はただの装置ではなくなった。
自分のプラーナを吸い、自分の眠りと融和し、自分の心の揺れに合わせて呼吸し続けた。
世界の子宮と呼ばれたものが、今は自分を母のように求めている。
いや。
逆なのかもしれない。
千年のあいだ、自分もまた、この場所に守られていた。
この殻がなければ、黒い影に呑まれていたかもしれない。
この眠りがなければ、千年の孤独に耐えられなかったかもしれない。
「……そうだな。お前も、私を守ってくれていたんだな」
ナキアミは膝をつき、幼子と目線を合わせた。
幼子の手は冷たかった。
けれど、震えていた。
ナキアミはその手をそっと包む。
「ありがとう」
その言葉に、幼子の瞳がわずかに揺れた。
「でも、私は行かなければならない」
幼子の手に力がこもる。
行かないで、と言うように。
ナキアミは、胸が痛んだ。
「私は、もう一度生きる。外の大地で。空の下で。アキユキと一緒に」
幼子は何も言わない。
だが、鏡の海が不安げに揺れた。
ナキアミは空の鏡を見上げる。
そこでは、アキユキが祭壇へ向かって飛んでいる。
その背後から、ナクセナと黒い影の軍勢が胎動窟内部へ入り込んでくる。
黄金櫃の禍々しい光が、白緑の空間を濁らせ始めていた。
時間はない。
だが、ナキアミは急がなかった。
この幼子を振り払って進むことはできない。
それでは、かつて自分が拒んだ世界と同じになってしまう。
犠牲を前提にした活路など、認めない。
誰かを置き去りにして得る自由など、欲しくない。
「……なら、そうだな……お前も一緒に来るか?」
幼子が、初めて瞬きをした。
ナキアミは微笑む。
「世界の霊脈などではなく。私を守る殻としてでもなく。私の一部として、一緒に」
その言葉は、まるで何かの契りのようだった。
この場所を壊して出ていくのではない。
この場所に縛られて残るのでもない。
抱いて、連れていく。
かつて穢れた魂すら大地で生きたいと願ったように。
今度は、千年の眠りそのものを、自分の一部として外へ運ぶ。
幼子の瞳に、淡い光が灯った。
それは、白緑色の小さな光。
ナキアミのプラーナと同じ色。
ナキアミはその小さな身体を、そっと抱きしめた。
ナキアミの腕の中で、幼子は声もなく泣いた。
鏡の海が静かに波打つ。
白緑の光が、波紋となってどこまでも広がっていく。
空の鏡の向こうで、アキユキが待っている。
現実の自分が眠る繭へ。
ナキアミはそれを見つめながら、幼子を抱く腕に力を込めた。
「……随分と待たせてしまった」
その瞳に、もう迷いはなかった。
ナクセナが来る。
アニマ=ノアが来る。
黒い影たちもまた、この胎動窟へ流れ込んでくる。
だが、それでも。
今度は閉じない。
怖くても、拒まない。
自分だけで抱え込みもしない。
鏡の海の底から、光が生まれた。
ナキアミと幼子の足元に、ひとつ。
それが水面に映り、波紋となって広がる。
やがて光は線となり、海の上をまっすぐに伸びていった。
遥か遠くへ。
空の鏡の真下へ。
そして、現実の太母のヒルコの繭へ繋がるように。
白緑の光の道。
鏡の海を割るように、けれど水面を傷つけることなく、その道は静かに浮かび上がった。
ナキアミは息を呑む。
閉ざされていたものが、開いていく。
自分の内側で、固く結ばれていた糸がほどけていく。
それは出口だった。
しかし、脱出口ではない。
帰り道だった。
「……そうか」
ナキアミは、胸の奥で理解する。
これは胎動窟から解放される道ではない。
胎動窟を捨てて逃げる道でもない。
過去を切り捨てるのではなく。
眠りを否定するのではなく。
痛みを忘れるのでもなく。
全部を連れて、現実へ出ていくための道。
腕の中の幼子が、淡く光り始めた。
白緑の粒子となって、その小さな身体が少しずつほどけていく。
幼子は、最後まで言葉を発しなかった。
けれど、その大きな瞳が、ナキアミを見つめている。
まだ少し怖い。
けれど、もう離れたくないという不安ではない。
一緒に行けるのかと、確かめる目だった。
ナキアミは微笑んだ。
「心配するな」
幼子の額に、自分の額をそっと重ねる。
「一緒に行こう」
その言葉とともに、幼子の姿が光へと変わった。
白緑の粒子が、ナキアミの胸へ吸い込まれていく。
痛みはなかった。
むしろ、胸の奥が温かく満たされていく。
とくん。とくん。
現実の繭で響き始めた目覚めの鼓動が、鏡の世界にも届いている。
ナキアミは胸に手を当てた。
そこに、もう一つの小さな鼓動があった。
千年の眠りの音。
そして、外へ向かう命の音。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
幼い自分へ。
そして、ここまで祈り続けてきた者すべてへ。
ナキアミは光の道へ足を向けた。
(閉じたままではなく。捨てるのでもなく。すべてを抱いて、外へ)
光の道が、まっすぐ現実へ伸びていく。
遠く、出口の向こうに蒼白い光が見えた。
シリウスの光。
千年のあいだ、自分を呼び続けてくれた光。
ナキアミは、その光へ向かって歩いた。
(……今までずっと待たせてごめん。伊舟、ヤンゴ、クジレイカ、ザンバニ号の皆、そして……アキユキ)
恐怖は消えていない。
痛みも消えていない。
千年の隔たりも、喪われた人々の記憶も、胸の奥に残ったままだ。
けれど、それでよかった。
消さなくていい。
忘れなくていい。
置いていかなくていい。
それら全てを抱えて、歩いていけばいい。
そのことを、ようやく彼女は知った。
鏡の海の果てで、光の道が大きく開いた。
ナキアミは深く息を吸う。
(……今、そっちへ行くから)
そして、初めて自分の意志で、この鏡の世界から現実世界へ向かって歩き出した。
太母のヒルコが、静かにほどけはじめた。
それは殻が割れる音ではなかった。長いあいだ固く結ばれていた糸が、ようやく役目を終えたように、一本ずつ緩んでいく。
白緑の光を宿した繭の表面に、細い亀裂のような輝きが走る。だがそれは崩壊ではない。内側にあるものと融和し、形を譲るような、穏やかな変化だった。
「……ナキアミ」
アキユキは、声を漏らした。
動けなかった。
ここまで来たのは自分だ。だが、ここから出てくることを選んだのは彼女だ。自分が無理に手を伸ばしてはいけない。
だから、ただ待った。
太母のヒルコから伸びていた無数の糸が、胎動窟の壁や羊泉、天蓋から少しずつ離れていく。だが、それは断ち切られるのではなく、光となって胎動窟全体へ還っていった。
胎動窟は、ナキアミを手放そうとしている。
いや、送り出そうとしている。
少なくとも、アキユキには、そう感じられた。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。ナキアミへか、太母のヒルコへか、それとも千年ものあいだ彼女を守り続けてきた胎動窟そのものへか。
繭の鼓動が強くなる。
とくん。
とくん。
その音が、アキユキの胸にも響いた。失われたと思いながら、それでも諦めきれなかった命の音だった。
やがて、繭の中心に人の輪郭が浮かび上がった。
白緑の光の向こうに、ひとりの少女が眠っている。
赤い髪。閉じられた瞼。千年前と変わらない、小さな身体。
けれどそこにいるのは、伝承の天女でも、世界を救った救世主でもない。
間違いなく、かつての皆が待ち望んだ、あの赤い髪の少女だった。
太母のヒルコが最後の形を解いていく。
白緑の膜が水に溶けるように薄くなり、彼女の身体を包んでいた光が粒子となって融和していった。
やがて、ナキアミの身体が現れた。
支えるものを失ったその身が、重力に従って静かに傾く。
「っ!」
アキユキは反射的に立ち上がり、その身体を受け止めた。
腕の中のナキアミは、あまりにも軽かった。
長い眠りのせいか、身体にはほとんど力が入っていない。瞼は閉じられたまま、呼吸も浅い。
それでも、彼女は確かにそこにいた。
とこしえの夢の中ではない。
流星の降り注いでいた、あの鏡の世界の中でもない。
現実の重さを持ったナキアミが、アキユキの腕の中にいる。
「ナキアミ……ナキアミ?」
アキユキは彼女を抱き寄せ、自分のプラーナをそっと添わせた。流し込むのではない。ただ、冷えた手を温めるように寄り添わせる。
(……ん?これは……)
ナキアミの胸元で、淡い白緑の光が小さく明滅した。
それは
「……本当に、引き連れてきたのか」
彼女にとっては、この世界の霊脈ともいえる胎動窟でさえ、我が子同然のようなのだろうか。
妙に子どもに好かれるタチなのは知っていたが、まさかここまでとは——
「……くふっ、はははっ。相変わらず、欲張りさんだな」
その尋常ならざる彼女の価値観に、アキユキはつい可笑しくなってしまった。
そして、ナキアミの睫毛がわずかに震えた。
「ナキアミ……?」
細い指がかすかに動く。何かを探すように伸ばされたその手を、アキユキはそっと握った。
「……ほら、ここだよ」
ナキアミの指が、弱々しく握り返す。
それだけで、アキユキの視界が滲んだ。
何度も想像した。
彼女が目覚める瞬間を。何を言うべきか、どう迎えるべきか、千年のあいだ何度も考えた。
けれど実際には、何も言葉にならなかった。
ナキアミの瞼が、ゆっくりと開く。
蒼い瞳。
千年の夜を越えて、ようやく現実の光を映した瞳だった。
最初、その視線は定まらなかった。胎動窟の光を映し、アキユキの白い外殻を映し、最後に彼の顔へ辿り着く。
しばらく、二人は何も言わなかった。
ナキアミは、自分の身体がうまく動かないことに気づいたようだった。起き上がろうとして力が入らず、またアキユキの腕の中へ沈む。
「大丈夫だよ、そのままで」
アキユキは静かに言った。
「……ははっ、久方ぶりなんだ。身体が驚いて当然だろ」
その言い方が、あまりにも普段通りだったからか、ナキアミの口元がわずかに緩んだ。
「……アキユキ」
掠れた声が、かすかに響く。
ナキアミは、視線だけで周囲を見た。祭壇、羊泉、消えかけた太母のヒルコ。そして、自分を抱きとめるアキユキの腕。
「……戻って、きたのか」
「うん」
アキユキは頷く。
「帰ってきた」
その言葉を聞いた瞬間、ナキアミの瞳が揺れた。
帰ってきた。
連れ戻されたのではない。救い出されただけでもない。
自分で選び、
ナキアミは震える指を伸ばし、アキユキの額の蒼いヒルコへ触れようとした。アキユキはその身体を支え、自分の額へ導いた。
白い外殻から、人の温度が伝わる。
「……本当に、いる」
「いるよ」
アキユキは答えた。
「ずっといた」
ナキアミの瞳に、涙が溜まる。
「……知ってる。……今までずっと、聞こえてた」
小さな声だった。
千年。
扉の前で呼び続けた声。
届かないと思っていた。けれど、それでも呼ばずにはいられなかった声。
それが、届いていた。
完全ではなくとも。言葉としてではなくとも。
一等星の光として、彼女の眠りの底へ。
「……そうか」
アキユキは、それだけを絞り出した。
ナキアミは、彼の額に触れたまま、微かに笑った。
「……今までずっと届いてた、アキユキの声」
ザムドの仮面の裏にある、アキユキの顔がくしゃりと歪んだ。
千年分の言葉があった。
謝りたいことも、聞きたいことも、伝えたいことも、山ほどあった。
けれど今、この瞬間に必要な言葉はひとつだけだった。
2人は互いに頬を寄せる。
そして、震える声で答えた。
——……ただいま……アキユキ。
——……おかえり……ナキアミ。
いつもご愛読いただき誠にありがとうございます。
これにて第2章は完結となります。
次回から新章に入リます。お楽しみに。