第27話:日食 ー果てなき虚無ー
白緑の光が、二人を包んでいた。
太母のヒルコの残滓は、まだ祭壇の上に漂っている。
それは雪のように静かに舞い、羊泉の水面へ触れては、淡い波紋となって消えていった。
アキユキは、腕の中のナキアミを抱えたまま、しばらく動けずにいた。
千年分の言葉が胸の中にあった。
けれど、それをすべて言葉にしてしまえば、かえってこの瞬間が崩れてしまう気がした。
だから、ただ彼女の体温を確かめていた。
腕の中にある小さな重み。
浅い呼吸。
かすかに震える指先。
まだ十分に力の戻らない身体。
それらすべてが、現実だった。
ナキアミもまた、アキユキの胸元に身を預けたまま、ゆっくりと瞳を閉じていた。
長い眠りから醒めたばかりの身体は、まだ思うようには動かない。
だが、その意識だけは、少しずつ現実の輪郭を取り戻していた。
「……まだ、夢の中にいるようだ」
掠れた声で、ナキアミが呟く。
「夢じゃないよ」
アキユキは静かに答えた。
「……そうか」
その吐息には、安堵と、信じきれない戸惑いが混ざっていた。
アキユキはふと、彼女の胸元に灯る淡い白緑の明滅へ視線を落とした。
先ほどから、そこにはもう一つの鼓動がある。
ナキアミ自身の命の拍動とは別の、胎動窟そのものに似た深い脈動。
彼は少しだけ眉を上げた。
「……さっきから気になってたんだけどさ」
「うん?」
「君、本当に連れてきたんだな。その……胎動窟の意思?みたいなヤツ」
「……ああ」
ナキアミは、わずかに目を伏せ、自身の胸に宿ったプラーナへと目を向ける。
その声音は穏やかだった。
けれど、どこか遠いものを思い出すようでもあった。
「その認識で良い。確かにこれは、胎動窟の意思のようなものだ」
「これは……いや、この子は、鏡の世界にいた私の前に現れた。幼き頃の私と同じ姿をしていた。痩せていて、何か言葉を発するでもなく、ただ私に縋りついていた」
アキユキは黙って耳を傾ける。
「初めは、自分自身の残像かと思った。だが違った。あれは自身だった。ずっと私のプラーナを受け取り続け、私の眠りに同調し、私と共に閉じこもっていた」
ナキアミは胸元に手を当てる。
「胎動窟に自我のようなものが生まれたのは、やはり、ここに満ちていた魂の力と、私のプラーナが長い時間をかけて融和したことが関係しているのかもしれない」
「魂の力と、君のプラーナ……」
アキユキは小さく反芻した。
胎動窟は、もともと世界を産み直すための子宮だった。
無数の魂を受け取り、流転の中へ還すための巨大な器。
そこに、ナキアミという一人のタマヨビの祈りが千年染み込んだ。
突拍子もない話だが、因果が分かった途端、妙に納得できるようになってしまう。
「……そっか」
アキユキは思わず苦笑する。
「君は、
「見捨てられなかった、というより……」
ナキアミは少し考え、それから静かに言った。
「私も、見捨てられたくなかったのだと思う」
アキユキの表情がわずかに揺れた。
ナキアミは、彼の腕の中で小さく目を細める。
「あの場所も、私と同じように怖がっていた。置いていかれるのが怖くて、外へ出ることが怖くて、ただ閉じていた。だから……連れてきた。私の一部として」
「……君らしいよ、そういうとこ」
アキユキは、本当にそう思った。
世界の子宮と呼ばれる巨大な聖域さえも、怯える子供として見つけ、抱いて連れてくる。
それは、ナキアミという少女の根の部分だった。
静かな時間が、二人の間に落ちる。
だが、その穏やかさは長く続かなかった。
アキユキの右腕のヒルコが、低く疼いた。
「……随分早いじゃないか」
彼はナキアミを抱えたまま、ゆっくりと顔を上げた。
祭壇へ通じる奥の通路。
本来なら、この深奥へ到達するには、無限に続く螺旋階段を何日もかけて下らなければならない。
巡礼者が己の魂と向き合いながら進むための道だ。
だが、そこではない。
羊泉の向こう側。
祭壇の外縁に穿たれた、古い地下道のような暗がりから、黒い気配が滲み出していた。
「……あぁ、こいつらは恩魂扉の地下道を通ってきていた」
「しかし、よく見つけたな……プラーナの流れを見れるとは聞いてはいたが……」
ナキアミは目を細める。
胎動窟を囲む湖の下に位置する、古い通路。
千年前、シロザから存在だけは聞いたことがある。
普通なら、外からその位置を探り当てることなどできない。
まして、胎動窟が解放された直後に、先回りするようにここへ辿り着くなど。
(まさか、これほどの感知能力を持ったタマヨビがいたとは……)
答えは、考えるまでもなかった。
ナクセナだ。
彼女のプラーナの流れを探知する力。
あれは、普通のタマヨビの感覚を遥かに超えている。
ナキアミに似せられた器でありながら、ある一点では本物に迫り、あるいは別方向に歪んで突出した能力。
「まったく……厄介な才能だよ」
アキユキは低く呟いた。
黒い影の軍勢が、地下道から次々と姿を現す。
彼らはもう、先ほどまでのように無秩序な暴徒ではなかった。
うねる黒い群れは、静かに、しかし確実に祭壇へと近づいてくる。
その中心に、一体の大きな影がいた。
その背に、少女が乗せられている。
満月のような淡い髪。
黒い儀礼服。
両腕に抱えられた、黄金櫃。
ナクセナだった。
しかし、その様子は明らかにおかしかった。
「……ナクセナ?」
アキユキは眉をひそめる。
彼女は俯いたまま、微動だにしない。
息はしている。
だが、生気がない。
まるで魂だけをどこかに落としてきたように、力なく影の背に身を預けている。
あれほどアキユキに執着し、言葉を尽くし、感情を揺らしていた少女とは思えない。
怒りも、悲しみも、狂気も見えない。
ただ、空っぽだった。
(……なんだ?彼女は一体、どうしたというんだ?)
ナキアミが、アキユキの腕の中で小さく身じろぎした。
「無理に起きなくていい」
「大丈夫だ。少しなら話せる」
ナキアミはナクセナへ視線を向けた。
「鏡の世界で見ていた。胎動窟へ入ってきた時から、あの様子だった。お前が言っていた、あの黄金櫃といい……何か、嫌な予感がする」
「ああ」
アキユキも同じものを感じていた。
ナクセナ本人の異常。
黄金櫃から滲み出す怨嗟。
まさに、嵐の前の静けさである。
その時だった。
黒い影たちの群れが、ナキアミの姿を認めた。
「テンニョ……」
誰かが、擦れた声を漏らした。
「テンニョサマ……」
「本当二……」
「救イヲ……我ラニ……救イヲ……」
ざわめきが、一気に広がる。
黒い影たちが、祭壇の周囲で揺れ始めた。
彼らの声は言葉になりきっていない。
だが、その中にある感情だけははっきりしていた。
渇望。
飢え。
祈り。
そして、救われたいという底なしの願い。
ナキアミの身体が、かすかに強張った。
アキユキはすぐにそれに気づき、彼女を抱く腕にわずかに力を込めた。
「大丈夫」
「……分かっている」
ナキアミは答えた。
だが、その声は少しだけ硬かった。
怖くないわけではない。
彼らが迷える魂であると理解していても、その渇望が一斉に自分へ向けられる感覚は、決して穏やかなものではなかった。
「天女様……」
「我ラヲ、満タシテ……」
「白キ従者ト共ニ……」
「救イヲ……救イヲ……!」
声は膨れ上がる。
胎動窟の深奥に反響し、羊泉の水面を細かく震わせる。
アキユキは困惑したように黒い群れを見渡した。
(……どうしたものかな)
全てを拒絶すれば、彼らはまた飢えに戻る。
だが、今のナキアミにこの声をすべて受け止めさせるわけにもいかない。
彼女は目覚めたばかりだ。
身体も、心も、まだ現実に馴染みきっていない。
アキユキが一歩前に出ようとした、その時――
「――黙りなさい」
声が響いた。
決して大きな声ではなかった。
だが、不思議なことに、その一言は、黒い影たちの喧騒を容易く貫いた。
羊泉の水音も、胎動窟の鼓動も、影たちの呻きも、その瞬間すべてが押し黙る。
凍えるほど低く、冷ややかな声。
その声は、祭壇だけでなく、胎動窟全体に染み渡るように響いた。
黒い影たちが、一斉に沈黙する。
先ほどまで救いを求めて騒ぎ立てていた群れが、まるで糸を引かれた人形のように静止した。
アキユキは、ゆっくりと視線を向ける。
声の主は、ナクセナだった。
生気を失ったように俯いたままの少女。
その顔は、まだ髪に隠れて見えない。
だが、彼女の唇だけが、わずかに動いていた。
ナキアミが、アキユキの腕の中で息を呑む。
アキユキもまた、即座に理解した。
これは、先ほどまでのナクセナではない。
救われたいと泣いた少女でもない。
自分の空虚に震えていた少女でもない。
アキユキを求め、ナキアミを憎んだ、剥き出しの感情の持ち主でもない。
もっと深いものが、彼女の底から顔を出している。
黄金櫃が、低く黒い光を放った。
その光が、ナクセナの足元の影へ滲み、さらに黒い軍勢全体へと広がっていく。
ナクセナは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、底のない夜のように暗かった。
「――耳が腐る」
静かな声だった。
だが、その静けさの中に、怒りよりも冷たい何かがあった。
アキユキはナキアミを抱えたまま、身構える。
ナクセナの視線は、真っ直ぐナキアミへ向いていた。
そして、微笑んだ。
その笑みは、いつか喫茶店で見せた儚い微笑みとは明らかに違っていた。
貼り付けた仮面でもない。
空虚が、形を得たような笑みだった。
「御機嫌よう」
ナクセナは言った。
「天女様」
胎動窟の深奥に、冷たい静寂が降りた。
千年ぶりの再会の余韻は、完全に断ち切られていた。
アキユキは、腕の中のナキアミを守るように抱え直す。
ナキアミはまだ立てない。
だが、その蒼い瞳だけは、はっきりとナクセナを見据えていた。
黒い影の軍勢は沈黙している。
黄金櫃は黒く脈打っている。
黒い影の軍勢は、呼吸すら忘れたように沈黙していた。
先ほどまで、天女の名を呼び、救いを求め、胎動窟の深奥を揺らしていた無数の声が、嘘のように消えている。
その中心で、ナクセナだけが微笑んでいた。
いつもの笑みだった。
穏やかで、儚げで、どこか壊れそうなほど美しい。
喫茶店でアキユキに向けたものと、形だけならば同じだった。
だが、違う。
そこに宿るものが、あまりにも違っていた。
瞳の奥に光がない。
怒りも、悲しみも、すでに燃え尽きている。
ただ、底のない黒だけがあった。
「アノ……教祖、様……?」
黒い影の一体が、たじろぎながら声をかけた。
それはアニマ=ノアの残滓だった。
肉体もプラーナも失い、魂だけの影となってなお、ナクセナを教祖として仰ぎ続けている存在。
だが、その声には明らかな怯えが混じっていた。
彼らでさえ、気づいているのだ。
今のナクセナが、ただならぬ状態にあることを。
ナクセナは、ゆっくりと視線だけを動かした。
「黙れ」
短い一言だった。
それだけだった。
だが、その声は刃より鋭く、黒い影の言葉を切り捨てた。
影は、びくりと震えた。
周囲の空気が、絶対零度のように凍りつく。
アキユキは眉をひそめた。
ナクセナは、これまでどれほど歪んだ言葉を吐いても、どこか丁寧だった。
義務的で、作り物めいていて、仮面のようではあったが、それでも物腰だけは崩さなかった。
だが今の声には、その残骸すらない。
剥き出しだった。
命令というより、存在そのものを拒絶する響きだった。
ナクセナは、影たちとのやり取りなど最初からなかったかのように、再びアキユキへ視線を戻した。
「なぜですか」
静かな声だった。
「白き従者様」
その呼び名に、アキユキの胸がわずかに軋む。
「私を救ってくれると、約束したじゃないですか」
黄金櫃が、黒く脈打った。
隙間から滲み出す邪気が、ゆっくりと濃くなっていく。
まるで、ナクセナの感情に反応しているかのようだった。
いや、違う。
反応しているのではない。
共鳴している。
彼女の内側に沈んでいた空虚と、黄金櫃の中に凝り固まった怨嗟が、互いを呼び合っている。
「私は聞きました。そして貴方は答えました」
ナクセナの声は震えていなかった。
涙もなかった。
だからこそ、痛ましかった。
「たとえ世界中が拒んでも、救ってくれると――」
アキユキは言葉を探した。
ナキアミを抱える腕に、自然と力が入る。
ナキアミもまた、彼の胸元でナクセナを見つめていた。
まだ立ち上がる力は戻っていない。
だが、その瞳は逃げていない。
ナクセナの視線が、そのナキアミへ向いた。
瞬間、胎動窟の空気がさらに重く沈む。
それは、これまでナクセナがナキアミへ向けていた嫉妬とは違った。
羨望でも、憎悪でもない。
もっと深く、もっと冷たいもの。
だが、次にナクセナの瞳がアキユキへ戻ったとき、アキユキは気づいた。
今、彼女が本当に憎んでいるのは、天女たるナキアミではなく――
白き従者たる自分だ。
「……ナクセナ」
アキユキはようやく名を呼んだ。
その瞬間、ナクセナの瞳がわずかに揺れる。
しかし、それは救いを見た者の反応ではなかった。
傷口を抉られたような揺れだった。
「なぜ、その名で呼ぶのですか」
「君の名前だからだ」
「違う」
即答だった。
ナクセナの声に、初めて感情が混じった。
「その名は、誰かが私に貼りつけた空白の札です。私はずっと、何者でもなかった。貴方だけが、それを埋めてくれるはずだった」
黄金櫃から、黒い霧が噴き出す。
羊泉の水面が濁り、白緑の光が押し返される。
ナキアミの胸元に宿る胎動窟の鼓動が、怯えるように小さく震えた。
「貴方が私を救うと言ったから、私はここまで来れた」
ナクセナは一歩も動かない。
それなのに、彼女の言葉だけが、ゆっくりとアキユキの喉元へ迫ってくる。
「――それなのに、貴方は去った」
アキユキの表情が強張った。
「私の声が届いていながら」
ナクセナの瞳に、黒い光が宿る。
「私は行かないでと言ったのに――」
アキユキは、何も言えなかった。
あの瞬間。
胎動窟の扉が開き、ナキアミのもとへ走り出したとき。
背後からナクセナが叫んだ。
行かないで、と。
それを、彼は振り切った。
間違っていたとは思わない。
あの時、ナキアミのもとへ向かうことは必要だった。
彼女を迎えに行かなければならなかった。
それでも、ナクセナの叫びを置いてきた事実は消えない。
「……約束を違えるつもりはない」
アキユキは、どうにか絞り出した。
「君を救う。今でも、そのつもりd――」
「――では」
間髪入れず、ナクセナが言った。
「そこにいる天女様と私。どちらかを選ばなければならないとしても」
胎動窟の光が、ぴたりと止まったように感じられた。
ナクセナは微笑んでいる。
「貴方はその天女様を排除して、私を選んでくれますか?」
問いは、静かだった。
あまりにも静かだった。
だからこそ、残酷だった。
アキユキの喉が詰まる。
「それは……」
答えられなかった。
ナキアミを排除することなど、できるはずがない。
だが、そう答えれば、ナクセナは救われない。
ナクセナを選ぶと言えば、それはナキアミを否定することになる。
そして何より、自分自身の千年を否定することになる。
どちらも選ばない。
どちらも救う。
そう言いたかった。
けれど、その言葉が今のナクセナに届くとは思えなかった。
彼女が求めているのは救済ではない。
選択だった。
自分だけを選ぶという、証明だった。
アキユキの沈黙が、答えになった。
ナクセナの笑みが、静かに崩れる。
「……ああ」
彼女は、ひどく小さく呟いた。
「やはり、そうなのですね……」
その目から、涙が零れた。
だが、それは透明ではなかった。
真っ黒な涙だった。
頬を伝い、顎から滴り落ちる。
落ちた雫が、影の背に触れ、じゅ、と音を立てて黒い煙へ変わった。
「ナクセナ……!」
アキユキが一歩踏み出そうとする。
だが、腕の中のナキアミが小さく呻いた。
「……っ」
黄金櫃から漏れ出す邪気が、一気に濃くなる。
それはナキアミの目覚めたばかりの身体を直撃した。
ナキアミの顔から血の気が引き、彼女は胸を押さえる。
「ナキアミ!」
「……大、丈夫……」
そう言いながらも、彼女の呼吸は荒い。
流れ損ねた魂の怨嗟。
閉じ込められた祈りの腐敗。
それは、彼女がようやく統合した
アキユキは彼女を支えながら、ナクセナを見た。
黄金櫃の封印は、もはや風前の灯火だった。
表面に刻まれた紋様が黒く焼け落ち、金色の装飾の隙間から、夥しい邪気が溢れ出している。
まだ完全には開いていない。
それなのに、この圧力。
もし封印が解ければ――
「ナクセナ、やめるんだ!」
アキユキの叫びが響く。
ナクセナは、その声を聞いていた。
聞いていたはずだった。
だが、もう届いていなかった。
「もう、いい……」
彼女は黒い涙を流しながら、微笑んだ。
「私は選ばれなかった」
黒い影たちが、ざわりと震えた。
それは歓喜ではない。
恐怖だった。
影たちでさえ、黄金櫃の奥にあるものを本能的に恐れている。
「――今こそ」
ナクセナの声が、胎動窟の深奥に響く。
「――真理へと還るとき」
アキユキの腕に抱かれていたナキアミは、苦しげに息をしながらも、ナクセナを見つめている。
その瞳には、敵意などはなく、哀しみにも似た、痛みがあった。
「――全てを無に帰せ」
ナクセナは、黄金櫃をそっと抱き寄せた。
まるで、長いあいだ自分を支えてくれた唯一のものへ別れを告げるように。
「――
その瞬間。
黄金櫃の封印が、完全に解けた。
音はなかった。
ただ、胎動窟の光が消えた。
白緑の世界が、一瞬にして黒へ塗り潰される。
羊泉が逆巻き、祭壇の床が軋む。
太母のヒルコの残光が悲鳴のように震え、胎動窟の奥底で、幾万の怨嗟が目を覚ました。