黄金櫃の封印が解けた瞬間、胎動窟の光が死んだ。
白緑に満ちていた空間が、音もなく黒に呑まれる。
それは闇というより、世界を照らす光を食らう、日食だった。
夜でもない。
影でもない。
ただ、祈りが腐り落ち、魂が流れることを忘れ、互いを喰らい合った果てに残った澱み。
それが、黄金櫃の内側から溢れ出した。
「――っ!」
アキユキは反射的に翼を広げた。
腕の中のナキアミを抱き寄せ、全身のプラーナを防壁へと変える。
蒼白い光が彼女を包み込む。
だが、その黒は光に触れた瞬間、弾かれるのではなく――喰らいついた。
「なっ……!」
一瞬だった。
ほんの一瞬、黒い奔流の端がアキユキの防壁を舐めただけ。
それだけで、全身のプラーナがごっそりと削り取られた。
体の奥を直接抉られたような感覚に、アキユキの膝が沈む。
「アキ、ユキ……」
ナキアミの声が掠れた。
彼女の胸元に宿っていた白緑の鼓動が、不規則に乱れている。
胎動窟の意思を抱えたばかりの彼女にとって、黄金櫃から溢れる怨嗟は最悪だった。
それは傷つけるというより、内側から塗り潰そうとしてくる。
ナキアミの顔から、みるみる血の気が引いていく。
「ナキアミ!」
返事はない。
彼女の瞼が重く落ちかける。
アキユキは即座に判断した。
無理だ。
ここにいては、ナキアミが保たない。
自分だけなら耐えられるかもしれない。
だが、今の彼女は千年の眠りから目覚めたばかりだ。
しかも
「くっ……!」
アキユキは歯を食いしばり、ナキアミを胸に抱え直した。
黄金櫃から溢れた黒は、すでに祭壇を覆い始めていた。
羊泉の水面は黒く濁り、白緑の残光は片端から食われていく。
太母のヒルコの残滓も、逃げ場を失った光の粒のように震えながら、闇の中へ吸い込まれていった。
そして、黒い影たちが叫び始めた。
「ア、アアアアアアアアアアッ!」
「違ウ……違ウ……!」
「救イ……救イハ……!」
影たちの身体が、黄金櫃の黒へ引き寄せられていく。
魂だけの存在であった彼らは、その奔流に抗う術を持たなかった。
黒は彼らを抱くのではなく、喰らっていた。
救済でも、流転でもない。
魂の捕食。
その悲鳴が胎動窟の深奥に反響する。
アキユキは翼を広げ、天蓋へ向けて飛翔した。
「離れるぞ、ナキアミ!」
ナキアミは答えられない。
ただ、彼の胸元で浅く息をしている。
アキユキは全力で上昇する。
完全に開放された胎動窟の天蓋へ、蒼白い翼を叩きつけるように羽ばたかせる。
下方では、黒が広がり続けていた。
祭壇も、羊泉も、螺旋階段の根元も、瞬く間に呑まれていく。
そして、その黒の中心で、ナクセナの声が響いた。
「……なぜ拒むのです?」
その声は、悲鳴の中でもはっきりと聞こえた。
冷たく、澄んでいて、残酷だった。
「これが貴方がたが求めていた真理です。嬉しくてたまらないでしょう?」
黒い影たちの悲鳴が、さらに激しくなる。
「ヤメロ……!」
「違ウ……!」
「我ラハ……救イヲ……!」
「救いでしょう?」
ナクセナは笑っていた。
その声だけで分かった。
絶望というものを体現した、どす黒い涙を流しながら。
彼女は、醜悪に笑っていた。
「魂がひとつに融ける。孤独も、名前も、全ては箱舟に還る――貴方がたの願いそのものではありませんか」
アキユキの胸が焼けた。
違う。
彼らが求めていたのは、そんなものではない。
彼らは空虚だった。
だが、無になりたかったわけではない。
名前を持てなかっただけだ。
居場所を見つけられなかっただけだ。
救いの形を知らなかっただけだ。
それを、ナクセナは真理と呼んで喰わせている。
「ナクセナ……!」
アキユキの叫びは、黒い奔流にかき消された。
天蓋が迫る。
彼はナキアミを抱えたまま、全身を蒼白い光で包み、開かれた裂け目へ突き抜けた。
◇
胎動窟の外へ出た瞬間、冷たい夜風が頬を打った。
湖上に飛び出す。
聖地を囲む空には、まだ大巡礼の灯が点々と見える。
だが、その静けさはもう長く保たない。
アキユキは湖畔の岩場へ着地した。
膝をつき、ナキアミをそっと横たえる。
「ナキアミ……ナキアミッ!」
彼女の呼吸は浅い。
白緑の鼓動はまだある。
だが弱い。
胸元に宿る
アキユキは自分のプラーナを添わせようとした。
しかし、先ほど喰われた分があまりにも大きい。
体の芯が空洞になったような感覚が残っている。
それでも、彼はナキアミの手を握った。
「頼むよ……こんなところで……」
声が震える。
ナキアミを失う恐怖。
胎動窟のプラーナが根こそぎ喰われていく感覚。
ナクセナ。
彼女を救えなかった。
自分は、間違えた。
彼女の言葉を聞いていたつもりで、その奥にあった本当の願いを見ていなかった。
救うと言いながら、ナキアミのもとへ走った。
それが必要な選択だったとしても、彼女にとっては裏切りだった。
自分だけを選んでほしかった少女。
何者でもない空白を、ただ一人に埋めてほしかった少女。
その絶望に、自分は最後まで寄り添えなかった。
「俺は……」
アキユキの手が震える。
「何も、救えない……」
そのとき、胎動窟が鳴動した。
湖面が盛り上がる。
黒い波が、開かれた天蓋の奥から噴き出す。
聖地全体の空気が、一気に重く沈んだ。
アキユキはゆっくりと顔を上げる。
胎動窟の内側で、黒い奔流がすべてを喰らい尽くしていた。
アニマ=ノアの黒い影たちの魂も、胎動窟に満ちていたプラーナも、残されていた祈りの欠片も。
すべてが吸い上げられていく。
そして、闇の中心から、白いものが現れた。
最初は腕だった。
一本。
二本。
三本。
そして、さらに三本。
六本の腕が、胎動窟の天蓋を内側から押し広げる。
黒い奔流を纏いながら、巨大な白い身体が這い上がってくる。
その姿は、ザムドのようだった。
だが、あまりにも巨大だった。
かつてアキユキが相対したヒルケン皇帝を思わせる、数十メートルはあろうかという白き巨体。
六本の腕は祈るようにも、何かを抱き潰すためにも見えた。
背は異様に細く、胸の奥には底なしの空洞があるようだった。
そして額には、巨大なヒルコが宿っていた。
通常ではありえない大きさ。
まるで血のように赤いヒルコ。
その赤が、夜の中で禍々しく脈打つ。
「……ナクセナ」
アキユキは呟いた。
その白い巨体の奥に、彼女の気配があった。
だが、それはもう少女のものではない。
胎動窟の天蓋から姿を現した巨大ザムドは、黒い影たちの魂も、胎動窟のプラーナも喰らい尽くしたはずだった。
それでも、まだ足りないらしい。
赤いヒルコが脈打つたび、周囲のプラーナが吸い寄せられる。
湖面の光が消える。
聖地に灯っていた火が揺らぎ、周囲の木々は枯れ果て、朽ちていき、空気そのものが急速に痩せていく。
遠くで悲鳴が上がっている。
巡礼者たちのものだ。
だが、その声すら赤いヒルコへ引き寄せられるように細くなっていった。
巨大ザムドは、なお成長していた。
心の虚無を埋めるには足りないとでも言うように。
世界のすべてを喰らっても、まだ満たされないと訴えるように。
アキユキは、ナキアミを抱き寄せたまま、その巨体を見上げた。
恐怖よりも先に、痛みが来た。
あれは敵だ。
止めなければならない。
世界を滅ぼしかねない災厄だ。
だが同時に、あれはナクセナだった。
救われなかった少女の、その成れの果てだった。
「…………っあ」
声にならない。
ナキアミを抱く腕に力がこもる。
だが、それは彼女を守ろうとする力というより、崩れ落ちそうな自分を繋ぎ止めるための力だった。
あれを止めなければならない。
今すぐに。
そう分かっているのに、足が動かなかった。
その時だった。
「……ナキ、アミ?」
彼女の瞼は閉じられている。
意識は戻っていないはずだった。
だが、その指先は確かにアキユキへ伸びていた。
次の瞬間。
こつん。
ナキアミの指が、アキユキザムドの額のヒルコを小突いた。
あまりにも弱い衝撃だった。
痛みなどない。
だが、その感触は、アキユキの意識を深く打った。
「……我を……忘れるな……」
掠れた声だった。
ナキアミは、目を開けていなかった。
それでも、その声は確かに彼へ届いた。
「……考えろ、アキユキ……」
それだけ言うと、彼女の手は力を失い、再び彼の腕の中へ落ちた。
「……っ」
アキユキは息を呑んだ。
考えろ。
千年前から、何度も聞いた言葉。
迷い、暴走し、名を失いかけた自分を、人へ引き戻してくれた言葉。
今また、彼女はそれを言った。
自分を責めるためではない。
諦めるためでもない。
絶望に沈むためでもない。
考えろ。
まだ、終わっていないのだから。
アキユキは、歯を食いしばった。
巨大なナクセナザムドは、なお成長を続けている。
六本の腕が夜空へ伸び、赤いヒルコが周囲のプラーナを吸い上げていく。
このまま放置すれば、聖地どころではない。
近隣の街まで呑まれるのも時間の問題だ。
だが、今ここで戦えば、ナキアミは助からない。
それだけは駄目だ。
「……一度、離脱する」
アキユキは決断した。
せめてナキアミを安全な場所へ。
胎動窟近くの拠点は駄目だ。
すでに侵食の圏内に入っている。
ならば、聖地から最も離れた近郊の街。
自分が医者として使っていた拠点なら、最低限の薬と設備がある。
「少しだけ我慢してくれ」
アキユキはナキアミを抱え直し、蒼白い翼を広げた。
次の瞬間、夜空へ飛び上がる。
背後では、巨大なナクセナザムドがゆっくりと首を上げていた。
だが、追ってくる気配はない。
いや、追う必要がないのだ。
ただそこにいるだけで、周囲のプラーナと魂を吸い上げ続けている。
アキユキは歯を食いしばり、聖地から離れるように飛んだ。
風が耳元で唸る。
ナキアミの身体は軽く、熱を失いかけている。
アキユキは彼女を抱く腕に力を込めた。
「死なせない……絶対に」
◇
やがて、聖地の黒い気配が少しだけ遠のき、近郊の街の灯りが見えてきた。
街は眠っていなかった。
人々が通りに出て、遠く聖地の方角を見上げている。
空には黒い雲のようなものが広がり、街の灯りさえ鈍く揺れていた。
ここは聖地からかなり離れている。
それでも、
アキユキは人気の少ない路地へ降り、ザムド化を解いた。
白い外殻が光となってほどけ、青年の姿へ戻る。
その瞬間、膝が崩れかけた。
プラーナを食われすぎている。
身体が重い。
視界の端がちらつく。
それでもナキアミを抱え、拠点へ向かって歩き出す。
「先生……?」
通りの角から、中年の男が駆け寄ってきた。
この街で何度か診療をした相手だった。
「先生、一体何が起こってるんですか? 聖地の方が……空が黒く……それに、さっきから胸が変に苦しくて……」
アキユキは足を止めなかった。
説明している時間はない。
だが、何も言わないわけにもいかなかった。
「聖地には近づかないでください」
「え……?」
「絶対に。誰も行かせないでください。灯りが消えても、音が聞こえても、聖地付近へは決して近づかないように」
男はアキユキの表情を見て、息を呑んだ。
「分かり……ました」
アキユキは短く頷き、拠点の扉を押し開けた。
中は簡素な診療所だった。
薬品の匂いと、煎じた薬草の苦い香りが混じっている。
奥の部屋から、妙齢の女性が顔を出した。
以前、アキユキがヒトガタから元の姿へ戻した女性だった。
今はかなり回復し、経過観察のためこの拠点に滞在している。
人工ヒルコを体内から少しずつ除くため、彼女は今も奇魂湯を飲み続けていた。
最初はあまりの悪臭に涙目で拒んでいたが、今では作り方まで覚えている。
「先生? その人は……」
「説明は後で」
アキユキはナキアミを病室の寝台へ寝かせた。
脈を測る。
弱いが、ある。
すぐに棚からウツツダネのワクチンを取り出す。
効く保証はない。
邪悪なる真正ヒルコの浸食に、これがどれだけ作用するか分からない。
それでも、何もしないよりはいい。
「少しだけ、我慢してくれ」
アキユキはナキアミの腕に針を入れた。
淡緑色の薬液が、ゆっくりと流れ込む。
ナキアミの眉がわずかに寄った。
胸元の白緑の鼓動が、ほんの少しだけ安定する。
アキユキは息を吐き、女性へ振り返った。
「彼女が目を覚ましたら、奇魂湯を作って飲ませてやってほしいんだ」
「奇魂湯って、あの……とんでもなく臭いやつですよね?」
「そう、それ。何処まで効き目があるかは分からないけど……でも、今はそれが最善だ」
女性は一瞬怯んだが、すぐに真剣な顔で頷いた。
「……分かりました。作れます。何度も教わりましたから」
「ありがとう」
アキユキは、もう一度ナキアミを見た。
「彼女のことは、どうか頼む」
その言葉に、女性は息を詰めた。
「先生は……どこへ?」
アキユキは答えなかった。
ただ、外へ向かおうとした。
そのとき。
震える手が、彼の袖を掴んだ。
アキユキは足を止める。
踵を返そうとした、その時。
袖を掴まれた。
弱々しい力だった。
けれど、アキユキは動きを止めた。
振り返る。
ナキアミが、震える手で彼の袖を掴んでいた。
「……行くな……」
掠れた声。
「ナキアミ……」
「今の……お前では……どうにもならない……」
その言葉に、アキユキは目を伏せた。
分かっている。
誰よりも、自分が分かっている。
あの巨大ザムドの前に、今の自分がどれほど消耗しているか。
ナキアミを庇いながらではなくとも、勝てる保証などない。
いや、それどころか、勝てない可能性の方が遥かに高い。
「分かってる」
「なら……」
「それでも、行かなきゃならない」
ナキアミの指に力がこもる。
「ダメだ……」
その声は、ほとんど懇願だった。
「アキユキ……お前は……」
アキユキは、彼女の手にそっと自分の手を重ねた。
「ごめん」
その一言に、ナキアミの瞳が揺れた。
「また、君を独りにさせてしまう……本当に、ごめん」
「違う……そうではない……」
「でも、責任は負わなきゃならない」
「違う……!アキユキ……それは、お前の責任ではない……!」
ナキアミは必死に首を振ろうとした。
だが身体は動かない。
「違わないよ」
アキユキの声は穏やかだった。
穏やかすぎた。
「全部を救えるなんて、思い上がりだったのかもしれない。それでも、俺は行かなきゃならない」
アキユキの声は静かだった。
静かすぎた。
その目を見た瞬間、ナキアミは理解した。
彼は勝ちに行こうとしているのではない。
生きて帰るつもりで行くのではない。
自分を差し出しに行くのだ。
ナクセナを止めるために。
自分が救えなかった責任を負うために。
命を投げ出す覚悟で。
「……やめろ」
ナキアミは必死に身体を起こそうとした。
だが、腕に力が入らない。
肩が震え、すぐに寝台へ沈み込む。
それでも袖を離さない。
「アキユキ……行くな……!」
アキユキは、痛みに耐えるように顔を歪めた。
そして、彼女の指を一本ずつ、優しく外していく。
「ごめん」
「やめろ……!」
「必ず、戻るなんて言えない」
「言え!」
ナキアミの声が、初めて少しだけ強くなった。
「『戻ってくる』と……そう、言ってくれ……アキユキ……!」
アキユキは答えられなかった。
それが、何よりの答えだった。
ナキアミの瞳に、絶望が広がる。
「……ナキアミ」
彼は彼女の手を布団の上へ戻し、そっと包むように置いた。
「……覚えてる?俺をザンバニ号へ拾ってきたときのこと。目が覚めたばっかりの俺に、君はこの奇魂湯を無理矢理飲ませようとしてきたんだよ。いやぁ、アレはキツかったなぁ……」
「やめろ……」
冗談めかした声だった。
だが、少しも笑えていなかった。
「まさか、今度は俺が君に飲ませることになるとは……ハハッ、人生分からないもんだね、ホント」
「聞きたくない……!」
アキユキは一瞬だけ目を閉じた。
そして、何かを振り切るように立ち上がる。
女性が、涙を堪えるように口元を押さえていた。
「……奇魂湯、ちゃんと飲むんだぞ。臭いけど、たぶん効くからさ」
扉が開く。
夜風が吹き込む。
アキユキの背中が、外の闇へ消えていく。
「アキユキ……!」
叫ぼうとして、声が掠れる。
身体が動かない。
追えない。
届かない。
ナキアミの瞳から、涙が溢れた。
「行ってしまう……」
胸の奥の
「アキユキが……死んでしまう……」
その言葉は、誰にも届かないまま、病室の白い天井に吸い込まれていった。