初夏の尖端島。
港の防波堤の向こうでは、潮が満ち始め、波が白く弾けていた。どこまでも青く広がる海を背景に、潮風は生温かく頬を撫でていく。海沿いに伸びる石畳の道には、ゆったりとした昼下がりの時間が流れていた。
その中を、ひとりの女性が歩いていた。
褐色肌で長い白髪を風に遊ばせ、額には特徴的な赤い2本の刺青。穏やかな雰囲気の中に見えるまっすぐ前を見据える瞳は、戦いと流浪の歳月を経た者だけが持つ、静かな強さと影を湛えていた。
――クジレイカ。かつてテシク族の里長として、若くして責務と憎しみを背負い、そしてすべてを失った若き少女。
大人の女性となった彼女が尖端島を訪れるのは、これが初めてだった。
「……のどかな雰囲気ね。それでいて、島の住民には活気がある」
独り言のように呟きながら、港沿いの路地を歩く。島は思いのほか賑やかで、漁師の掛け声や干した網の匂い、焼き魚の香ばしい匂いが漂っている。遠い昔に失われた「日常」というものを、肌で感じさせる空気だった。
悪くない雰囲気の島だ――そう感じた彼女は、島全体を見渡すために、遠くに映る高い丘へ向かった。
彼女が、丘の上で立ち止まり、まばゆい陽射しを浴びながら島全体の雰囲気を体全体で感じていたとき――
「もしかして……君、クジレイカ?」
背後から突然声をかけられた。
その声を聴いた瞬間、喉の奥が、わずかに鳴った。
聞き覚えのある声だった。
「……まさか」
振り返ると、一人の若い男がこちらを見ながら立っていた。
短く刈られた髪、やや背の高い体躯。無駄のない立ち姿。今まで見たことがない顔だったが、声を聴いた瞬間、クジレイカは目の前の存在が何者なのかすぐに理解した。
「……貴方は、あの時の……」
その声は風にかき消されるほど小さかったが、心臓の鼓動ははっきりと聞こえた。
彼女は、あの時聞いた声を忘れたことは一度もなかった。今でも鮮明に覚えている。血と憎しみと怒号が渦巻く中、自分を抱え上げてくれた、あのザムドの声を――。
「……やっぱりそうだ。久しぶり。また元気にしてる姿が見れて、安心したよ」
驚きと、どこか懐かしさの滲んだ声だった。
潮風が二人の間を吹き抜けた。
クジレイカは、まるで何年も胸に溜めていた息を吐き出すように、深く息を吸い込む。
「やっぱり……あのときの貴方だったのね。その声、間違えるわけがない」
「……久しぶり、クジレイカ」
「ええ、そうね。久しぶり」
二人の距離はまだ数メートルほどあった。だが、その間に流れる空気は、どこか不思議な静けさと重みを帯びていた。
彼女はかつて、激しい憎悪を背負い、空に舞い上がり、そして墜ちた女だった。
彼はその時、世界の闇を浄化し、そして戻ってきた青年だった。
長い時間を経て、二人の道が思いがけず交わった――そんな瞬間だった。
日がゆっくりと傾き始め、石畳の道に淡い影が伸びていく。
およそ十年ぶりの再会を果たし、その余韻をまだ胸の奥に残したまま、アキユキとクジレイカは肩を並べて歩いていた。潮風が髪を揺らし、海の匂いが二人のあいだに柔らかく流れ込む。
「……ねぇ、そういえば私、まだ貴方の名前を聞いていないのだけれど」
「あぁ、そういえばまだ教えてなかったっけ。………俺の名前はアキユキ、竹原アキユキだ」
「そう、アキユキ……アキユキ、ね。……素敵な名前」
「えっ、そ、そうかな?今まであんまり名前を褒められたことは無かったんだけど……」
「ちなみに文字に起こしたら『秋幸』って表記になるんだ。春夏秋冬の『秋』に幸福の『幸』でアキユキ」
「えぇ、とっても素敵よ、貴方の名前。特に『幸』の部分なんて、思いやりのある貴方にぴったり」
「ははは。ありがとう、嬉しいよ。名前を教えただけなのに、そんなこと言ってくれるなんて」
「そういう君の名前だって、俺はとても素敵だと思うな。どういう表記なのかは知らないけど、『レイカ』の部分なんて優雅で美しい響きをしてるし、君にぴったりだ」
「あら、お上手。私も自分の名前をそんな風に言われたのは初めて。ふふ、ありがとう」
誰がどう聞いても逢い引きをしているとしか思えない会話をしつつ、二人は港沿いの道を抜けると、小さな露店や軽食の屋台が並ぶ広場に出た。島の住民たちが日用品を並べ、観光客向けに焼き魚や果実水を売っている。
「……活気があるのね」
クジレイカが足を止め、少し驚いたように声を漏らす。
「少し前までは、こんなに人がいなかったんだ。……南北での対立が落ち着いてから、少しずつ戻ってきた。いまじゃ、休日になると結構な人が集まる」
アキユキは懐かしそうに辺りを見回した。港の潮風に混じって、焼き立ての魚の香ばしい匂いが漂ってくる。
「……そうだ。よかったら、何か食べていこうか。奢るからさ」
「いいの?」
「せっかくだし、島の名物もあるんだ。君もこういうの、今まであんまりしてこなかっただろ?」
クジレイカは少しだけ目を丸くし、頷いた。
「ええ、そうね。なら……お言葉に甘えてみようかしら」
二人は港近くの露店のひとつに立ち寄った。店先には串に刺さった魚と貝、焼き立てのパンのようなものまで並んでいる。老齢の店主が笑顔で声をかけてきた。
「おぉ、リュウゾウんとこの坊ちゃんじゃないか。おや、そんな別嬪さんを引き連れて……。せっかくだ、仲のいいお二人さん、ちょいと寄っていきな!」
店主からの言葉にクジレイカは一瞬だけ戸惑い、アキユキを見た。
「……仲がいい、ですって。もしかして私たち、そんな風に見えていたのかしら」
「はは、真に受けなくていいよ。ここの人たち、事ある毎にああいうこと言ってくるんだ」
「ふふ……ずいぶん、賑やかな場所なのね」
「うん、そうだね。俺もそう思うよ。……おっちゃん、貝串2本ちょうだい」
「あいよっ!」
焼き貝の串を手に取り、クジレイカは恐る恐るかじった。熱気が唇をかすめ、少し驚いた顔をする。
「……おいしい」
「だろ? 俺も子どもの頃からこれ、よく食べてたんだ」
アキユキの笑みを見て、クジレイカの表情もわずかに柔らぐ。ほんの十年前まで血と戦いの渦にいた二人が、こんな穏やかな昼下がりを共有するとは、誰が想像できただろうか。
道の脇には、昔ながらの玩具を並べた売店もあり、子どもたちが走り回っている。
「……こんな光景を見るの、いつ以来かしら」
クジレイカは焼き貝の串を見つめ、静かに息を吐いた。
「あの頃、私にとって世界は憎しみと闇で満ちていた。人々の笑い声なんて、夢の中でしか知らなかった」
彼女の声は穏やかだったが、その奥には確かな痛みが宿っていた。
「でも――貴方に出会って、お姉様の心に触れて、初めて知ったの。……世界って、こんなに穏やかなんだって」
アキユキは言葉を挟まず、ただその横顔を見つめた。褐色の肌に初夏の陽射しがきらめき、白い髪が風に揺れている。
強さと脆さを併せ持つその姿に、かつて戦場で見た少女の面影が重なった。
「お姉様も、こんな風景を見ていたのかしら……」
その呟きには、ほんの少しの切なさが混ざっていた。
「……君が思っている通り、きっと彼女の目にもこんな風景が映っていた。けど、そんな風景が見れるようになったのは、他でもない、君自身が変わったからさ」
「……私が?」
「”憎しみは誰も幸せにしない”……あのとき君に贈った言葉だ。まぁ、これ自体はナキアミからの受け売りなんだけど」
「どうして君に対して、あの言葉を贈ったか……。それはね、君の憎しみによって幸福を奪われていたのが、他でもない君自身だったからさ」
「けど、君は変わった。今の君からはかつての憎しみを感じない。だから、今見ている風景が穏やかに見えるのは、きっと君自身が穏やかになったからだと思うよ」
「……そう、ね。そうかもしれない」
クジレイカは視線を落とし、手にした貝串を見つめながら小さく笑った。
「かつての私だったら、この風景を『無意味だ』って言い放っていたかもしれない。……でも今は――ただ、綺麗だって思えるの」
アキユキはその横顔を静かに見つめた。十年前、暗雲の空の下でぶつかり合った少女の姿はもうそこにはない。目の前にいるのは、あの頃とは違う時間を生き、苦しみと赦しを知った一人の女性だった。
「君がそう感じてくれて、俺は……なんだか嬉しいよ」
穏やかな声だった。港に打ち寄せる波の音と、カモメの鳴き声がその言葉をやわらかく包み込む。
少し先の広場では、子どもたちが縄跳びをして遊んでいた。彼らの笑い声が海風に乗って響き、焼き魚の香ばしい匂いと混ざって、どこか懐かしい空気を漂わせる。
「……アキユキ」
「ん?」
「貴方たちが戦ったあの頃、この光景を……この穏やかさを、誰もが夢見ていたのね」
クジレイカの言葉には、感慨と少しの寂しさが入り混じっていた。
「お姉様も……きっと、こんな日を願っていた。そうでしょう?」
「そうだね」
アキユキは空を見上げた。日差しは傾き、海面が金色に染まりはじめている。
「俺も……彼女も、君も。きっと誰もが――この光景を見たかったんだと思う」
クジレイカは目を細め、その景色を胸に刻み込むように見つめた。
彼女は生まれてこの方、戦と憎しみの中で育った。誰かを信じることも、誰かと笑い合うことも、知らなかった。
けれど――あの少女の声と、この青年の手が、そんな世界の外を教えてくれた。
「ねぇ、アキユキ」
「ん?」
「お姉様のことを、今でも想っているのね」
不意にそう言われて、アキユキは言葉に詰まった。クジレイカはからかうでもなく、まっすぐな瞳で彼を見ていた。
「……君には、全部お見通しってわけか」
「ええ。だって……貴方、あの人の話をしているときの雰囲気が、あの時と変わっていないもの」
彼女の声音は、柔らかくもどこか切なげだった。
「お姉様は、貴方にとって……とても大きな存在だったのね」
「うん。俺にとって――いや、きっと誰にとっても、彼女は特別な人だった」
「そうね。あの方は……光みたいな人だった。私が憎しみに囚われていたとき、その光がまぶしくて、怖くて、羨ましくて……」
クジレイカはふっと遠い目をした。
「でも、あの人は私を拒まなかった。憎しみにまみれた私を、見捨てなかった」
アキユキは黙って耳を傾けた。彼の胸にも、ナキアミの声と姿が鮮明に浮かび上がっていた。
――強く、まっすぐな瞳。
――手を差し伸べてくれた背中。
「……俺も、同じ気持ちだったよ」
「え?」
「俺だって、ナキアミに何度も救われた。彼女は、ずっと俺の道標だった」
ふたりの視線が、ほんの一瞬だけ交錯した。
波の音と夕暮れの風だけが、二人の間を穏やかに満たす。
「ねぇ……アキユキ」
クジレイカは小さな声で言った。
「もし、あの人がこの景色を見たら……きっと、微笑んでくれるわよね」
「……ああ。きっと、そうだ」
クジレイカは小さく息をつき、空を仰いだ。
初夏の空はまだ高く、まるで遠い日の記憶のように澄みきっている。