陽が傾き、島全体が朱に染まり始めていた。
町に並ぶ電柱の影は長く伸び、風が吹くたび、山と海の匂いが混じり合って鼻をかすめる。子どもたちの笑い声も次第に遠のき、町は夜の支度をはじめていた。
「……綺麗な夕焼け」
クジレイカはぽつりとつぶやいた。
「空が沈んでいくときって、なんだか胸の奥がきゅっとするの」
「うん。俺も、好きな時間だ」
アキユキは空の端に沈む太陽を見上げ、静かに息を吐いた。
夕暮れは、いつも何かを締めくくる合図のようだった。
少しの沈黙。
それは心地よい静けさでもあり、なにかを言い出すために必要な間でもあった。
「ねぇ、アキユキ」
クジレイカがこちらを向く。
彼女の横顔は橙に染まり、まるで夕日の一部のように儚かった。
「……もし、よかったら――この先、私と一緒に旅をしない?」
その言葉は、不思議と柔らかく、風の音に溶けるように響いた。
しかし、そこにこめられた想いは、彼女の声色よりもずっと深く、熱いものだった。
アキユキはすぐには言葉を返せなかった。
――察していた。
その言葉に隠された、彼女の本当の想いを。
「世界は広いわ。私たちが知らない場所も、まだたくさんある。……少なくとも、私は知らなかった。あのテシクの里の外には、美しい世界と、人の営みがあるって」
クジレイカは少しはにかむように笑いながら、夕空を見上げる。
「あのとき私は全てを失った。けど、それと同時に生まれ変わることもできた。……だから、私はもう、何にも縛られてはいないの」
彼女の瞳は、水平線の向こうを見つめていた。
まるで、そこにある未来を真っ直ぐに見ようとしているようだった。
「でもね……本当は、理由はもう一つあるの」
ふと、彼女はアキユキを見つめた。
その瞳は、昔、戦場で見た強さとも違う。
優しさと、どこか覚悟を孕んだ光だった。
「……貴方が、そばにいてくれたら。きっと、どこにだって行ける気がするの」
アキユキの胸の奥が、静かに痛んだ。
その想いの色を、彼は理解していた。
だからこそ、言葉を慎重に選ぶ必要があった。
「……クジレイカ」
名前を呼ぶと、彼女は少しだけ笑った。
「俺には……もう、心に決めた人がいるんだ」
クジレイカは、微笑んだまま目を閉じた。
――やっぱり。
その言葉が、声にならないまま、彼女の胸の奥で溶けていった。
「……そう、それは残念」
ふふっと、クジレイカは笑った。
泣いているようにも、吹っ切れているようにも見える笑顔だった。
「分かってた。たぶん、十年前のあのときから」
その「あのときから」という言葉には、彼女自身の長い時間が滲んでいた。
あの戦いの日、怨敵に敗れ、血に染まって倒れ伏した身体に響いた声――。
その声が、彼女を救った。
だからこそ、その声を、ずっと覚えていた。
「まぁ、当然と言えば当然ね……。だって、こんなにも素敵な殿方なんですもの」
「……過大な評価だよ」
夕陽に照らされたその横顔は、静かで、凛としていた。
「ありがとう、アキユキ」
クジレイカは一歩近づき、真っ直ぐに彼を見つめた。
「私を……あの憎しみの渦から、救ってくれて」
「……そんな大それたことはしてないさ。俺は、ただ――」
「ううん、いいの。言い訳なんて、いらない」
彼女は首を振り、静かに微笑んだ。
「貴方がいてくれたから、私はここにいる。……それだけで、十分」
その後、二人はしばらく言葉を交わさず、海を見つめていた。
空は赤から群青へと変わり、波止場には灯りがひとつ、またひとつと灯り始める。
「貴方のおかげで、この島の魅力をたくさん知ることができたわ。だから――きっと、もう、ここへは来ない」
その声は振り返らずに、潮風に乗って届いた。
「……そっか」
クジレイカは貝串を地面にそっと置き、背を向けた。
その歩みはためらいもなく、海の向こうへ向けられていた。
「……じゃあ、私は行くわ」
「……ああ」
アキユキの声もまた、風に溶けていった。
互いに振り返ることはなかった。
そして、彼女が再び尖端島を訪れることは、その後二度となかった。
それでも――彼女が去ったあとの高台には、不思議と寂しさよりも、静かな温もりが残っていた。
まるで、ひとつの長い旅が終わり、別の旅が始まったかのように。
余談だが、このときアキユキと今生の別れをしたはずのクジレイカは、十数年後に胎動窟にて、ヤンゴと会話をしている彼とバッタリ遭遇したのだった。そして、尖端島で会ったときの姿とまるで変わっていないアキユキを見て度肝を抜かれたのはまた別の話。
クジレイカの背が見えなくなるまで立ち尽くしたあと、アキユキはようやく高台を離れた。
空はすっかり夜の色に染まり、港の灯りがいくつも瞬いている。山風と海風の混じった空気は昼よりも少し冷たく、頬に心地よく当たった。
――戦いでもないのに、胸の奥が重い。
クジレイカの言葉も、あの笑顔も、静かに心に残っている。
家路へと続く坂道を上りながら、アキユキは胸ポケットに手を突っ込んで、ふうっと息を吐いた。
「……まさか、あんな風に想われていたとは」
思い返せば、夕焼けが妙に柔らかくて、あの場の空気はまるで舞台の幕間のようだった。
だが――まさか「旅をしよう」なんて誘われるとは思ってもみなかった。
家が見えてくる。
日が落ちて明かりがついているのは当然のことだったが、今日はなぜかやけににぎやかだ。
(……ん?)
玄関に差しかかったときだった。
障子越しに、聞き覚えのある声がいくつも聞こえた。
「……だからね、お姉ちゃん。あれは流石にないと思うのよ」
「そうよ!夕方からず〜っと話題になってるのよ、あの逢い引きしてたとかいうの!」
「まったく……うちの息子は、いつからあんな色男になったのかしらねぇ」
――母の声。
――ミドリの声。
――そしてハルの声。
(……えっ、なに、どういう状況?)
困惑しながらも、そっと家のドアを開けた瞬間。
三人の視線が一斉にこちらへ突き刺さった。
「……ただいま」
「た・だ・い・ま〜?だって、お姉ちゃん」
「おかえり。ねぇ、アキユキ。ちょ〜〜っとだけ聞きたいことがあるんだけど」
まるで獲物を見つけたネコ科のような笑み。
いつもならハキハキとしたハルの声も、今は妙に低く、妙に柔らかい。
この状態のハルを、俺は昔からよく知っている。
――今現在、ハルは猛烈にブチギレている。
…………いや、なんで?
「お義兄ちゃん、今日の夕方〜、あの高台でね〜」
ミドリが満面の笑みで爆弾を投下する。
「“白髪で褐色肌の美女”と、二人で並んで歩いてたって、み〜〜んな言ってたよ!」
「……ミドリちゃん」
「しかもね〜、売店のベンチで話し込んでたんだって〜! な〜んかすっごくいい雰囲気だったって〜!」
「……ミドリちゃん。それ、誰から聞いた?」
「そりゃ、島中みんな知ってるよ〜。島のなかでも有名なお義兄ちゃんが、誰も見たことない褐色肌の美人さんと一緒に歩いてたんでしょ~?」
「……そっかぁ」
アキユキは額に手を当てた。
脳裏に浮かぶのは、潮風の中で微笑んでいたクジレイカの姿――。
……確かになぁ。あれだけ人の目を引くような顔立ちをしてたら、そりゃあ、目立つかぁ。
「……説明してもらおうかしら、アキユキ?」
ハルが、にこぉ……と笑う。
その笑顔が一番怖いと、アキユキは過去の経験からよく知っていた。
「ち、違うんだ。別に、そういうんじゃなくて――」
「“そういうんじゃない”って、じゃあどういうの?」
「だから、ただ島の案内をしてただけで――」
「……へぇ?夕暮れまで一緒に並んで歩いて、売店に寄ったりして、あの高台で夕日を見ながら良い雰囲気で話し込んでたのが、“ただの島の案内”?」
「……い、いや、それは」
「……ふ〜ん?」
ハルは肘をつきながら、ゆっくりと身を乗り出した。
「“ただの島の案内”にしては、見た人、み〜〜んな“逢い引き”って言ってるけど?」
「あ、逢い引き!?いや、誤解だって。ただ、尖端島に初めて来た人だったから、せっかくだしこの島のこと知ってもらおうと思って……」
「誤解ねぇ〜」
フサも腕を組んで、妙に楽しそうにうなずいている。
「息子がモテるのはいいことだけどねぇ。まさか島中の噂になるとは思わなかったわ」
「母さんまで……」
「だって、島の人たちの話を聞いてたら、誰だって“いい雰囲気ねぇ”って思っちゃうわよ?」
「……うっ」
ハルは頬杖をついたまま、じぃっとアキユキを見つめた。
先ほどとは違い、その視線には怒りというよりも――冷たい静けさがあった。
「アキユキ。私、別に束縛したいわけじゃないの。でもね――」
「……」
「“夕暮れの高台での他の女の人と逢い引き”は、ちょ〜〜〜っとだけ、納得いかないの」
「……本当に、そういうのじゃなかったんだって」
「……ふ〜ん」
信じていないというより、“納得はしていない”顔だった。
これが一番面倒くさいやつだ、とアキユキは思った。
「ま、いいけどね」
ハルは立ち上がり、玄関の方へ歩きながら小さく息を吐いた。
「しばらく冷却期間、ってことで」
「……冷却期間?」
何すか冷却期間って
「要は執行猶予よ。その間は島全体でアキユキのこと監視してるから。“ただの島の案内”が本当なら、すぐに元に戻れるでしょう?」
「うん、冷却期間!」
「少しは反省なさい、アキユキ」
ミドリは無邪気に笑いながら、フサは楽しげに茶をすする。
――なんで自分が悪者みたいになってるんだ。
アキユキはその夜、母屋の縁側で一人、ため息をつきながら空を見上げた。
星々が瞬く夜空の下、クジレイカとの逢い引き(※本人は自覚ナシ)が、こんな結末を迎えるとは思ってもみなかった。
(……どうしてこうなった)
冷たい夜風が肩を撫でた。
あの高台で感じた温もりは、もうすっかり風にさらわれていた。