マジすいません。
――光が、降っていた。
その光は、海のような水面に小さな波紋のように届いていた。
ひとすじ、またひとすじ。まるで失われた記憶が形を取り戻すように、淡く揺らめく光が、静寂のなかで溶け合っていく。
そこは時間の流れさえ存在しない、永遠の狭間――
『……ナ……アミ……』
朧気に聞こえるその声が、遠雷のように呼びかけてくる。
最初は幻聴のようだった。
けれど、何度も何度も、その声がこの世界を震わせる。
閉ざされていたまぶたが、微かに開く。
その瞳は空の色をしていた。
けれど、そこに映るのは、果てしない闇と光の境界――この世界そのものだった。
『………アミ……君は………そこにいるのかな』
声が、さらに近づく。
遠い彼方で、名前を呼ばれた気がした。
誰かの呼ぶ声が、光の粒のように終わりなき夢の底へと届く。
懐かしく、優しく、それでいて胸の奥を締めつけるような響きだった。
(……だれ、……か?)
思考の輪郭が、少しずつ形を取り戻していく。
遠く霞んでいた意識が、水面に浮かぶようにひとつずつ蘇る。
刹那―――
『もうすぐ、胎動窟が開く。俺はもう迷わない。何が為でもなく、ただ――君のもとに行く』
その福音のような呼び声が、この閉ざされた世界を貫いた。
いま、確かに届いた。
まるで深海の底に落とされた光が、水を裂きながら届くように。
「……この……声は………」
――君のもとに行く。
その言葉が、この世界を強く揺らした。
懐かしい痛みと、懐かしい安らぎが混ざり合う。
絞りだした声が、泡のようにこぼれ落ちる。
微細な波紋が鏡の世界の空間を広がり、周囲に淡い光が灯っていく。
しかし、その福音はすぐに霞んでいった。
再び闇が押し寄せ、意識が遠のいていく。
そして再び眠りについた。
唇の端に、かすかな微笑みを残して。
薄い靄が、胎動窟の湖面をゆっくりと這っていく。
夜の空は濁った群青色で、わずかに覗く月光が黒い水面を鈍く照らしていた。
千年前と同じ場所、同じ湖の上。けれど、そこに流れる空気は、かつてのそれとはまるで違っていた。
アキユキは湖を囲む石段の上から、胎動窟を見下ろしていた。
黒曜石のように丸みを帯びたドームの表面は、時間の経過によって幾筋ものヒビが走り、そこから地下の光が脈打つように漏れ出している。まるで、まだ何かがその内部で呼吸しているかのようだった。
かつてと同じように、信徒たちの住居がスラム街のように胎動窟を取り囲むように広がっている。
低く歪んだ家屋が斜面に沿って積み重なるように建ち並び、細い路地を裸足の子どもたちが駆け抜けていく。レンガで組み上げられた家の屋根には、教義の一節を象った旗が翻っている。それはもはや、信仰というより「この街で生きるための証」のようなもので、誰もが当たり前のようにそれを掲げていた。
風が吹く。乾いた砂と松明の匂いが混じり、鼻の奥に重くまとわりつく。
ここが、ひと月後に数十万の信徒が集うことになる場所――
千年ぶりの〈大巡礼〉の中心地だった。
「……ずいぶん賑やかになったな」
アキユキは呟き、視線を湖のほとりへと移した。
そこでは、巡礼の準備に追われる人々が忙しく立ち働いている。
修道服に身を包んだ者、白布で顔を覆った信女、
そして、武装した警護兵までもが見受けられた。
表向きは「平和の祈り」と称される祭典。
だが、アキユキの胸中には、どうしても拭いきれない不安があった。
千年前の惨劇を知る者として。
そして、ナキアミの末路を知る者として。
(……もう、あのときのような悲劇が生まれるのは御免だ)
その予感は、風よりも確かに肌を刺していた。
湖の縁に立ち、アキユキはゆっくりと息を吐く。
眼前には、静かに波紋を広げる水面。
その奥底に、黒きドームの影がゆらりと揺れている。
静寂の中、湖を渡る夜風がアキユキの外套をはためかせる。
霧が舞い、灯籠の光がぼやける。その光の揺らぎを見つめながら、彼はゆっくりと息を吐いた。
千年という時間を超えてなお、ここに立つと胸の奥がざわつく。それは恐怖ではなく、焦がれるような痛みだった。
——君は、今もこの奥にいるのか。
声にならない独白が、湖面に溶けていく。
彼にとって、ここへ来るのはこれで何度目になるだろうか。
千年の時を生きながら、何度もこの場所を訪れ、
何度も“彼女”に呼びかけてきた。
最初の百年は、焦燥だった。
次の百年は、祈り。
それからの時代は、ただ静かに、
彼女の選んだ結末を見届けるための旅だった。
アキユキの本懐は、単なる再会ではない。
かつて世界を救った“巫女”としてではなく、一人の少女として——―ナキアミに、もう一度、生きてほしい。
彼は知っている。ナキアミは、何も望んでなどいなかった。
巫女であることも、神格化されることも、そして救世主と呼ばれることすらも。
それなのに、あの日、彼女はすべてを捧げてしまった。
生ける全ての者の未来を、世界の明日を、たったひとりの祈りに託して。
だからこそ、アキユキは思う。
もし彼女が今もこの胎動窟の深奥に眠っているのなら——今度こそ、彼女を“救世主”などではなく、“一人の少女”としてこの世界に迎え入れたい。
それこそ、彼が果てしなく長い旅路の果てに辿り着いた、たった一つの願いだった。
湖畔から少し離れた高台に、古びた祠がある。そこには、無数の巡礼者が捧げた祈りの札や供物が積み上げられていた。
札に刻まれているのは、ナキアミの名ではない。
——“天女”。
それが、彼女が千年の時を経て背負わされた、もう一つの名。
ルイコン教は、かつての狂信を脱したと表向きには語る。
だがその内実は、穏やかであると同時に、不穏でもある。
胎動窟を信仰の象徴とし、共同体として生きる人々の多くは、ただ祈りを捧げ、平穏を求めるだけの者たちだ。
だが、その陰で、ナキアミを“天女”として崇め、再度かつての狂信をこの世に降ろそうとする者たちが存在している。
それはかつて、北政府がヒルケン皇帝を利用していたのと同質のものだ。
今度は国家ではなく、信仰そのものがそれを求めているという違いだけである。
彼らはすでに動き始めている。
一か月後に迫った大巡礼——千年ぶりに胎動窟の封印が解かれる日。
そのときこそ、彼らが動く。
「君を、また“天女”にしようとする連中がいる……」
アキユキは静かに目を閉じた。
狂信者の存在は、ただの信仰の暴走ではない。
それはナキアミの在り方そのものを踏みにじることだ。
世界を救済した天女としてではなく、ただ一人の少女として、彼女の人生を取り戻したいと願い続けてきたアキユキにとって、それは決して容認できるものではなかった。
彼の懸念は、狂信者たちの暴走だけではない。
——胎動窟の奥に、果たして本当にナキアミがいるのかどうか。
胎動窟に封じられた彼女の姿を見たことがある者はいない。
ナキアミが、太母のヒルコに抱かれる直前まで接触していたテシク族の少年、ヤンゴでさえもあの後ナキアミがどうなったのかについては分かっていない。
伝承にある“天女は胎動窟で太母のヒルコに抱かれながら眠り続けている”という言葉は、信仰の柱ではあっても、その中身は何の根拠も持たない空虚なものだ。
ナキアミはもう既に何処にもいないのかもしれない。
けれど、それでも、アキユキは確かめなければならないと思っていた。
千年もの時間をかけて、ようやく導き出した願いのために。
かつて彼女と関わってきた、多くの者の祈りのために。
「——君を、もう二度と縛らせはしない」
湖面に灯籠の光が滲み、霧の向こうに黒いドームがぼんやりと浮かび上がる。
静けさの底には、蠢く影の気配。
表向きの穏やかさと、裏でうごめく狂信の胎動。
この地は、千年を経てもなお、「終わりの地」であり続けていた。