リュウゾウが経営している診療所に固有名詞があったこと、令和7年11月まで知りませんでした。
ニワカですいません。
石となって朽ちる寸前だった世界の記憶は、まだ胸奥に影を落としていた。
柔らかな潮の香りと、遠く波の音。
帰ってきた――本当に。
しかし、島の空気はどこか遠く感じられた。
自分が失ってしまった時間と、取り残してきた人々の想いが、胸をざわつかせたのだ。
母フサがその場に崩れ落ちるように抱きしめてきた。
父リュウゾウも、普段は絶対に見せないような顔で、手で目元を覆っていた。
石から目覚めてからすぐ、「身体の調子を診るから」とリュウゾウに呼ばれ、竹原医院へと向かった。
そして診察を終え、
「あの子……ナズナなら、裏の部屋だ。まだ……療養中だがな」
「会ってやってくれ。あの子にも……背負ってきたものがある」
アキユキはしばし黙った後、小さく頷く。
彼女のいる病室の前に立つと、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
あの少女は――ここにいる。
ナズナは竹原医院の裏庭で、車いすに座り、花を見つめていた。
白鷺草。彼女が最初に自分の手で植えた花だという。
アキユキは息をのむ。
本当に、あの時の少女が――大人になって、ここにいる。
「えっ、あっ、アキユキさん……」
ナズナは、彼に気づいた瞬間、胸元で手をぎゅっと握りしめた。
後悔に塗りつぶされた表情。
立ち上がる力もなく、ただ震える視線。
そして、彼女の唇がかすかに動いた。
「……その、わ、私……」
2人が再会するまで、彼女がいくつの夜を泣き明かしていたのか。
アキユキの知らない時間が、あまりにも多すぎた。
アキユキはゆっくりと、彼女の前へ歩み寄った。
「話をしよう、ナズナ。……ちゃんと、面と向き合ってさ」
その言葉に、ナズナは涙をにじませながら小さく頷いた。
お互いに話すべき言葉を胸の奥で探し続けたが、未だにその答えは形にならないまま、静けさだけが二人の間に流れていた。
沈黙を破ったのは、ナズナのか細い声だった。
「……謝って許されるとは、思っておりません。ですが……」
「本当に、申し訳ありませんでした……」
深々と頭を下げる。その白い髪が陽射しを受けて淡く光る。
肩は震えていた。震えを押し殺そうとして、余計に大きく揺れていた。
「全部……全部、私のせいなのです。あの頃の私は……サンノオバ様の言うとおりにすれば、皆が幸せになれると、思っていました。でも……私は……」
言葉が詰まり、息が乱れる。
胸に抱えてきた後悔と罪悪感が、今にも溢れ落ちそうなほどに。
アキユキは、ゆっくりと視線を落とした。
長い間見られなかった顔――九年前、あのバスで、爆発の向こうに立っていた少女。
彼は静かに、言葉を紡ぐ。
「ナズナのせいじゃないよ」
「……そんなこと、ありません。私はアキユキさんを……あんな目にあわせて……」
「確かに、あの頃は自分の運命を呪った。どうして自分がこんな目に、って……どうしてザムドになったんだって……何度も思った」
彼は空を仰ぐ。
目を閉じれば、過ぎ去った旅の景色が胸に蘇る。
ナキアミの笑顔、ハルの涙、父と母の背中。
失ったものと得たものが、複雑に絡まり合って今の自分を形づくっている。
「でも――あの出来事があったから、俺は色んな人たちに出会えた。人間としても、ザムドとしても成長できた。それに……結果しか見えてないけど……俺は、こうして無事に帰ってこれた」
視線を戻す。
ナズナは涙を含んだ瞳で、アキユキを見つめていた。
「だから、恨んでなんかいない。……ありがとう、ナズナ」
その言葉に、彼女は大きく目を揺らした。
「……ありがとう……?」
信じられない、というように彼女は唇を震わせる。
アキユキは少し照れたように笑った。
「不思議だよな。でも、あの時の選択も、俺の今につながってる。だから、俺は前を見たい。
ナズナも――前を見てほしい」
ナズナの指先が白鷺草をぎゅっと握りしめた。
花弁が震える。彼女の胸奥の痛みと同じように。
「……いつか、償わせてください。アキユキさんのために……できる限りのことを……」
「そんな風に背負わなくてもいいのに」
「背負わせてください……お願いします……。私には、もう……それしか……」
アキユキは言葉に詰まり、そっと膝をついた。
彼女と目線の高さを揃え、優しく声を重ねる。
「なら、一緒に支え合っていこう。償いなんて言葉じゃなくてさ。ただ、同じ場所で前に進めばいい」
ナズナの瞳から、一筋の涙がこぼれた。
それは長い長い昏い夜から解き放たれた証のように、透き通っていた。
「……はい……。ありがとうございます……!」
初めて、彼女の表情に安堵が宿る。
車椅子の足元で、白鷺草が風に揺れ、二人を祝福するかのように輝いていた。
――この日が、ナズナにとって“始まり”となった。
アキユキとの和解を皮切りに、彼女は少しずつ歩みを取り戻し、
やがて車いすを離れ、竹原医院で彼を支える存在となる。
そして――彼が医者として立つ未来を、共に見届けることになる。
その未来に、穏やかな風が吹くのだと信じながら。
アキユキがナズナと和解して数日経ったある日――
竹原医院の前で、ハルは深く息を吸った。
潮風の香りが、緊張を誤魔化すように髪を揺らす。
――許す。
アキユキがそう決めたなら、自分も。
だが、言葉にできたはずのその決意は、病室の前に立つと途端に形を失った。
九年前、自分の世界を壊した少女。
大切な人を奪ったのに、自分の知らない時間の中で生き続けていた少女。
ハルは拳を握った。
爪が掌に食い込む痛みが、かろうじて自分を保たせていた。
扉を開けると、白髪の少女が花瓶を抱えていた。
ナズナは、驚いたように目を丸くする。
「あ……貴女、は……」
――その声が一度、自分からアキユキを引き離した。
胸が熱くなり、何かが逆流しそうになる。
ハルは歯を食いしばった。
「……話があるの」
ナズナは小さく頷き、静かに応じた。
二人きりになった診察室。
窓から差し込む光が、白い髪を透かして淡く輝かせる。
「アキユキを……取り戻したかった。それだけだったの」
自分でも驚くほど声は震えていた。
「私は……あなたを恨んでた。アキユキを失わせたのは、あなたのせいだって。私から彼を奪ったって……そう思ってた」
ナズナはかすかに眉を寄せ、視線を落とした。
「……その通りです。私が……貴女と、あの人を引き離してしまった……」
そして、ナズナは顔を上げた。
怯えではなく――覚悟を宿した瞳で。
「貴女に許されたいと思ってはいません。アキユキさんの苦しみを作ったのは、事実ですから。
……それでも」
ナズナは震える声で続けた。
「あの人が帰ってきてくれた。それだけで……私は……救われたんです」
沈黙。
長い、長い沈黙。
ハルの胸の奥にあった黒い棘が、少しだけ溶けていく。
「それだけじゃ足りないって思ってた。でも……貴女が泣きそうな顔してるの見たら……」
視界が滲む。
頬を伝った涙がぽたりと床に落ちた。
「……もういいの。終わりにしよう。他でもない、アキユキが……あなたを許してるんだから」
その言葉に、ナズナは息を詰まらせ――そして深く頭を下げた。
「……ありがとう、そしてごめんなさい、ハルさん」
和解の握手も、抱きしめ合うこともない。
まだ距離はある。
けれど、確かに一歩前に進んだ。
部屋を出ようとしたハルに、ナズナが小さく声をかけた。
「あの……私、もっと強くなります。いつか胸を張って、貴女がたを支えていけるように」
ハルは振り返らずに答えた。
「……ええ、期待して待っているわ」
その口元には、微かに笑みが浮かんでいた。
あれから2年ほど経ち――
竹原医院の待合室は、朝から混み合っていた。
ここ最近になって尖端島の人々は、些細なことでもこの竹原医院へ駆け込むようになった。
「おはようございます、アキユキさん」
「おはよう、ナズナ。今日もよろしく」
何気ないやり取りなのに、妙に柔らかい空気が流れる。
白い医療衣を身にまとい、白髪を後ろで束ねたナズナ。
大人びた穏やかさと、ふとした瞬間に覗く幼さが同居する。
島の誰が見ても――美しい。
竹原医院の扉が開く音。
漁師の青年が、頬を赤く染めながら入ってきた。
「ナ、ナズナさん……腕をちょっと切ったっす……」
見ると、取るに足らないような小さな傷。
だが青年はちらりとナズナを盗み見ている。
「ちょっとでも怪我したら行けって、仲間に言われて……」
隣の子どもが「おっちゃん、昨日まで平気だったやん」と暴露した。
「だ、だまっとれ!」
周囲がクスクスと笑う中、ナズナが優しく手当てする。
青年は治療中ずっと目を泳がせ、顔を真っ赤にしていた。
(……なんか賑わってるなぁ)
アキユキは苦笑い。
しかし本人はまったく気づいていない。
島内にはすでに噂がある。
──曰く竹原医院には、アキユキと共に白衣を着た美女がいる。
──曰くアキユキは先日、島内で褐色肌の美女と逢い引きしてたらしい。
その噂を、誰より気にしている人物がいた。
「……お邪魔します」
竹原医院の扉が開き、ハルが姿を現す。
学校で講師をしている彼女は、今から学校へ向かうようで、紙袋を抱えていたが――
その表情は、どこか曇っていた。
「ハル?どうしたんだ?」
「別に。ただの差し入れよ」
言いながら、アキユキの腕に手を添える。
ナズナが一瞬だけ、驚いたように目を瞬く。
「……ありがとうございます、ハルさん。アキユキさんも、嬉しそう」
「そ、そうかな?ありがとう、ハル」
その自然な笑顔が――ハルには癪だった。
(なんであんな自然に笑えるのよ……!一方的にドキドキしてるのは、こっちだけじゃない!)
ハルは内心で荒ぶりながら、あくまで平静を装う。
「ところで、その……最近忙しそうね。ナズナと二人で、ずいぶん頑張ってるって聞いたわ」
「えっ……そ、そうかな」
まったく悪意のない笑顔。
それが余計にじれったい。
ナズナが慌てたように言葉を重ねた。
「そんな、私なんてまだまだで……!でも、アキユキさんが隣にいてくれると……頑張れるというか……」
その照れた声音。
島民の誰もが恋心だと誤解するような、それは――
少なくともハルの胸をぎゅっと掴んだ。
「……そっ、そう。よ、良かったわね」
(違う。絶対違う!あの子はただの同僚。でも……周りはそう思わない……!)
自信を支えていた根っこが、少しだけ揺れる。
帰ろうとしたハルを、ふいにアキユキが呼び止めた。
「今日の夜、迎えに行くよ。一緒に帰ろう、ハル」
瞬間、世界が静かになった。
ナズナが優しく微笑み、ハルに向かって小さく頭を下げる。
「……行ってらっしゃいませ、ハルさん」
その笑顔に――敵意はない。
だからこそ、焦る。
(……負けてたまるか。アキユキを守れるのは、私だけなんだから)
ハルは小さく息を吐き、口元を引き締めた。
「………若いって、いいなァ」
朝っぱらから、竹原医院内で巻き起こる三角関係(?)を目にし、リュウゾウは何を思ったのか。
竹原医院の隅でボヤく中年医師のその背中は、妙に寂しそうであった。