朝靄のかかる街は、どこか湿った静けさに包まれていた。
遠征先の仮設診療所。まだ患者が訪れる前のわずかな休憩時間、アキユキは簡素な椅子に腰掛け、一通の新聞を手に取った。
島とは違い、ここへは毎朝新聞が届く。だが、こうしたニュースに触れるたびに、どこか胸の奥がざらつくのを覚えるのだ。
紙面の大きな見出しが、否応なしに視界へ飛び込んでくる。
"『聖地近くの街中で爆破事件、死傷者多数』"
爆炎に包まれ崩れた建物。
路上に散らばる破片と、人々の逃げ惑う姿。少し焦げた紙面越しに見ても、惨状が脳裏に突き刺さる写真だった。
――また、だ
彼は息を細く吐き出した。最近はこの言葉ばかりが喉元に居座っている。
記事は続く。
"乗客による犯行とみられる"
"犯人の意図や動機は不明"
"周辺地域では警戒態勢が続く"
「動機不明」――その言葉が、アキユキの視線を数秒止めた。
世間には伝わっていない。いや、伝えられていないのだ。
ページをめくると、今度は別の見出しが目に留まった。
『爆破現場周辺で例の巨大生物、複数目撃』
それは人工ヒルコに侵された肉体が生む、歪んだ影。
だが記事では、まるで単なる怪奇現象のように扱われていた。
"「紫色の化け物が人を襲った」"
"目撃者の証言は錯綜"
"当局は動物の変異体との見解も示す"
アキユキの眉がわずかに寄った。
世間が知らないのは当然だ。ヒルコも、ヒトガタも、本来は歴史の底に沈んでいるはずの存在。
だが――事件は増え続けている。
大巡礼を目前に、アニマ=ノアの暴挙は明らかに激化してきている。
新聞がかすかに震えた。握る手に余計な力が入っていた。
彼はゆっくりと手を離し、記事を見下ろしたまま息を飲む。
新聞を閉じると、紙がわずかにきしむ音がした。
診療所の窓から差し込む朝日が、まだ明るさを増しきれずに、机の上で淡く揺れている。
アキユキは指先で眉間を押さえ、静かに目を閉じた。
アキユキがアニマ=ノアの存在を知ったのは、今から約200年ほど前のこと。
きっかけは、南大陸にある繁華街で起こった、とある爆破事件のニュースだった。
どこにでもある、ありふれた政治的衝突。
アキユキも最初は大して気に留めてはいなかった。
「またどこぞの過激派が暴れたのだろう」
そんな程度の理解で、淡々と続報を待つのみだった。
――本来なら、それで終わるはずだった。
しかし、その直後の特集で、わずか数行しか扱われていなかった別のニュースが、アキユキの視界を捉えた。
“未確認生物、各地で目撃される”
その表現に、血の気が引いた。
未確認生物――
だが、問題なのはその見た目と特徴。
「特徴的な紋様」「大小不揃い」「異様な再生力」。
それらを読み進めるにつれて、アキユキの頭の奥底に沈んでいた最悪の記憶が浮上する。
ヒトガタ――
かつて、人工ヒルコを埋め込むことで造られた忌まわしき生命体。
人にも獣にも属さない、歪な存在。
自然発生など、ありえない。
そもそもヒルコという遺物自体、とうの昔に途絶えたはずだ。
その技術は廃れ、二度と取り戻されるべきではないものだった。
それからというもの、アキユキはヒトガタの出現について調べ始めた。
調べている間にも、ヒトガタの目撃情報と例のような爆破事件は増加していった。
そしてこれまでのヒトガタの目撃情報を地図に落とし込んだ結果、
ヒトガタが目撃された地域と爆破事件の発生した場所が、ピタリと一致した。
偶然とは言わせない。
関連性を疑う段階ではない。
確信だった。
「一体誰が?……いやそもそも、何のために?」
長い年月を経ても忘れることができなかった深い傷跡が、胸裏に疼く。
世界がようやく平穏を手にし始めていた矢先。
誰かがそれを壊そうとしている。
その全貌を掴む必要があるのは、火を見るより明らかだった。
それからというもの、アキユキは「例の爆破事件」と「ヒトガタの出現」、これら2つの出来事についての調査を本格的に始めた。
そしてとある街での調査にて、雑踏の中、遠い昔に置いてきたはずのあの感覚が、再びアキユキを襲った。
――ヒルコの気配。
それは本来、自然界に存在するはずのない、禍々しい脈動。
人混みの中に紛れた、フードを深くかぶった男が発していた。
アキユキが視線を向けると、男は肩を震わせ、小刻みに笑っている。
その不穏な様子に、アキユキの警戒心は一気に跳ね上がった。
逃がさない。
瞬間、影のような速さで背後に回り込み、男の腕をねじり上げる。
人気の少ない路地へと引きずり込むと、押し倒した。
「いったい何者だ?」
呻く男の口元が、薄気味悪く吊り上がった。
「……アニマ=ノアの名のもとに」
その言葉に、胸が強く脈打つ。
初めて耳にする名称――しかし、その響きには、何か禍根めいた重みがあった。
「目的は何だ。何のためにそれを所持している」
沈黙――
だが、次の瞬間、男は恍惚とした表情で口を開いた。
「世界中の人間が……世の真理たるヒルコを宿した従者と成り……新たなる高みに至ることこそ……我ら人類が目指す場所……!」
陶酔の色を浮かべたその声は、狂信者特有の響きを持っていた。
アキユキは顔に青筋を浮かべながらも、さらなる尋問のため腕に力を込める。
「チッ……まぁいい、では次の質問だ。誰がそれを……ヒルコを作っている?」
だが男は、ぴたりと口を閉ざした。
その目が、どこか遠くを見つめるように虚ろになる。
「……おい、どうした。早く答えろ」
焦燥が滲んだ声。
だが――
突然、男が叫び声を上げ、体をのたうたせた。
泡を吹き、まるで脳が焼かれるかのようにもがき始める。
「っぐ……!ぐわあああああぁぁぁぁ!!!!」
骨が軋む音。
皮膚が裂け、内側から異形が膨れ上がる。
「なっ……。こ、これは……!?」
――ヒトガタ化。
制御不能。
尋問どころではない。
アキユキは奥歯を噛みしめ、懐から小型のカプセルを取り出した。
迎現種――ウツツダネ。
ヒトガタを元の姿に戻してやるには、それに適した純度が求められるが、これは粗悪な代物。
あくまでお守り代わりに所持していたものだ。
「まさか、またこれを使う機会に出くわすとは……ねっ!」
だが、躊躇っている時間はない。
刹那、膨れ上がった腕を避けながら、アキユキは確実に胸部へとそれを突き立てた。
「――眠れ」
光が弾ける。
ヒトガタは一瞬の咆哮を残し、霧散した。
静寂。
跡形を残すこともなく消え去った肉体――
そして、浄化されてしまった魂。
「くそっ、まさかこうなるとは……」
「まぁテロ行為は未然に防げたし、収穫もあったから別に悪くはない……か」
――アニマ=ノア――
そう名乗る謎の存在――
世界を書き換えようとする狂気じみた理想。
そして、時を超えて再び世に出てきた過去の遺物、ヒトガタの存在。
――どうして、また人は間違えてしまうのだろう。
――どうして忌まわしい歴史に限って、こうも繰り返されてしまうんだろう
塵となった何かの残滓を見つめながら、アキユキは深い悲しみに苛まれる。
そして胸の奥の痛みの中で、脳裏に蘇ったある一人の少女の面影。
かつて、彼女はサンノオバの指示で爆破事件を引き起こし、アキユキたちの人生を破壊した。
憎しみ、悲しみ、怒り――すべてを背負いながら、なおも彼女は自分を責め続けた。
――それでも
彼女は、立ち上がった。
罪と向き合い、涙をこぼしながら、それでも生きる道を選んだ。
水やりしかできなかった彼女が、
白鷺草の小さな蕾が初めて開いた日、震える手で涙を拭って笑ったことを、
アキユキは昨日のことのように思い出せた。
穢れを祓うように、懸命に――
間違いから目を逸らさず、償いながら生きてきた。
彼女は変われた。
人は変われる。
そして世界も変えれる。
そう信じたからこそ――これらの事件は許せない。
(彼女が流した涙を、何も知らない奴らが踏みにじっている)
彼女の涙を、努力を、後悔を――
踏みにじるような暴挙。
彼女が必死に止めようとしてきたものが、また形を変え、牙を剥いている。
彼女は――あんな思いをしたのに
(どうして……止まらないんだよ……)
過去は静かで、今が騒がしい。
あれほど痛みを抱えた彼女の生き方は、世界に届いていなかったのか。
いや、届いたはずだ。
彼女の笑う顔は、その証拠だ。
救われた世界の、ひとつの形だ。
だが、別の場所で――
誰かが同じ道を踏み外し、同じ愚行を繰り返してしまった。
「俺たちの願いなんて、何ひとつ届いていないのか……?」
声が震えた。
誰に届くでもない独り言。
怒りよりも、悲しみが勝った。
悔しさよりも、虚しさが滲んだ。
心の奥で、言葉にならない影が膨らんでいく。
自分は何かを守れたのか?
自分たちは本当に世界を変えれたのか?
今でもそれは分からない。
ただ、それでも、ハッキリと断言できることがある。
彼女のあの懺悔は、決して無意味なんかじゃない。
しかし、同じ過ちを繰り返す世界は――残酷すぎたのだ。
静かに拳を握りしめる。
その手には、決意と、悔しみと、祈りが宿っていた。
――守らなければ
――止めなければ
――もう二度と、誰も苦しまないように
そうだろう?
――ナズナ