目を覚ましたばかりの私に、最初に届いたのは彼の声だった。
「おはよう、レゼ」
声の主を見上げる。
ぼやけた視界の中で、光の粒のように滲んでいた輪郭が、ゆっくりと焦点を結ぶ。
その顔を見た瞬間、胸の奥で何かがきゅっと鳴った。
──デンジ君。
生きて、ここにいる。
「おはよう、デンジ君。起こしてくれてありがとう」
「ん? おお……なぁ、なんで泣いてんだ? 体に痛いところとか、あるか……?」
「あはは、大丈夫だよ。ちょっとあくびが出ちゃっただけ。デンジ君こそ、目が潤んでるよ?」
慌てて目を擦る仕草が、可笑しいほど懐かしかった。思わず笑ってしまう。
頬が自然にゆるむのを感じた。笑うという行為を、久しぶりに思い出した気がした。
視線を巡らせる。
知らない部屋。薄い光がカーテン越しに差し込み、静けさが染みついている。
この世界のどこかで、私はまだ生きている。
「ところでさ……ここ……どこ……?」
声が掠れていた。喉の奥が焼けるように乾いている。
デンジ君が慌てたように立ち上がって、水の入ったコップを持ってきてくれた。
体を起こそうとして、上手く動かない。まるで体の動かし方を忘れてしまったみたいだ。
よろけた私の肩を、デンジ君の腕が支えてくれた。
「体、動かしにくいだろ。1ヶ月も凍ってたんだからよ、無理すんなよな」
その手つきは、不器用で、けれど確かに優しかった。
コップを両手で受け取る。冷たい水が喉を通るたび、現実の温度が少しずつ戻ってくる。
……1ヶ月。
その言葉が頭の奥で響いた。
私が死んでいた間に、そんなに時間が経っていたの?
「……凍ってた? それってどういうこと?」
「そのまんまだぜ。レゼはポチタと戦って死んで、その後氷漬けにされてたんだ。……って言ってもわかんねぇよな」
氷漬け。
つまり私は、死んだあと冷たい時間の中に閉じ込められていた。
1ヶ月も、眠るみたいに。
「ううん、何となくわかるよ。死んだ時の記憶はうっすら残ってるから。……私、あの魔女に──マキマに操られてたんでしょ? マキマはどうなったの?」
その名を出すだけで、空気が冷たく変わった。
デンジ君の顔が一瞬だけ陰を帯びる。けれど、すぐに平然とした口調で言った。
「俺とひとつになった。だから心配しなくていいぜ」
ひとつになった? 理解が追いつかない。
目を瞬かせると、彼は当たり前のように言葉を続けた。
「マキマさんは俺が全部食ったよ」
時間が止まったようだった。
静まり返る部屋。
彼の言葉が、何度も頭の中で反響した。
そして、理解が追いついた瞬間、私は思わず吹き出してしまった。
「……っ、ふふっ、なんじゃそりゃ……! 食べたって……そんなのあり?」
「なかなか美味かったぜ。けど、結構量があってよォ……。毎日腹いっぱいになるまで食ったけど、こんなにかかっちまった。ごめんな」
「そこは謝るところじゃないですよ〜? デンジ君が助けてくれなかったら、私は今もマキマに支配されてた。どれだけ感謝しても足りないくらいだよ?」
本気で、そう思った。
“助けてくれた”なんて言葉じゃ足りない。
“取り戻してくれた”んだ。私の意志も、心も。
「他の人達はどうなったの?」
気になっていたことを、そっと聞く。
あの時、悪魔の心臓を持つ人間が何人も支配されていたはずだ。
彼らは私と同じように危険な人物である筈だ。動向を知っておく必要がある。
場合によっては、今後の障害になる可能性もある。
「知らねぇ。俺が気にしてたのはレゼのことだけだったからよ。けど、まだ凍ったまんまなんじゃねぇかな」
その言葉が胸に刺さった。デンジ君が「私だけを気にしていた」と言う事実。たったそれだけで、胸の内がじんわりと温まっていく。
「そっか。……嬉しいな」
思わず、震える声が漏れた。
感情が溢れるのを、どうにか押さえ込んだ。
“嬉しい”という気持ちを、抱くことができている。その奇跡が、今はただ恐ろしいほど幸せだった。
「傷口も手当されてるし、服も変わってるよね? デンジ君が看病してくれたの?」
自分の体を見下ろすと、大きめのパーカーの下に白い包帯が丁寧に巻かれていた。包帯の一本一本が、彼の不器用な指の跡のようで、胸が締め付けられる。
「あ〜……。まぁ、そうだな。他にやることもなかったしよォ……」
頬をかきながら、目を逸らす。
その照れくさそうな仕草に、かすかな笑いがこぼれた。
こういう時の彼は、まっすぐすぎて、眩しい。
「ふ〜ん。……デンジ君のエッチ」
「ンなっ……!」
真っ赤になる彼の顔が可笑しくて、笑いを堪える。こんな何気ないやりとりができること自体が、奇跡に思えた。
「そりゃ、ちょっとは見ちまったけどよォ……。なるべく見ないようにして頑張ったんだぜ……」
その声に滲む照れと誠実さ。
人を殺すことにも殺されることにも慣れたこの世界で、彼だけはまだ“恥ずかしさ”を知っている。
それが、何よりも優しかった。
「わかってるよ、心配してくれてたの。じゃなきゃ、こんな手当なんて……意味ないことしないもん」
私たちは、痛みを治せる。死んでも、また生き返る。それでも、彼は私に治療をしてくれた。
ほんとは、意味なんていくらでもある。
でもそう言わないのは、たぶん私の最後の意地だった。
「……意味なくはねぇよ。俺がレゼの傷見んの嫌だったんだ」
心臓がひとつ、強く鳴った。
彼の言葉は、あまりに正直すぎて、痛かった。
嬉しくて、苦しくて、どちらも息を奪うほどだった。
「そっか。やっぱり君は優しいね。……だけどね、デンジ君……。君の好きだった『レゼ』はどこにも居ないんだよ。私が作り出したニセモノ……だから、そんなに優しくしないで」
空気が変わった。
自分の声で、部屋の温度が数度下がった気がした。
ほんとは、言いたくなかった。
けど、言わなきゃいけない。
ここで線を引かなきゃ、もう戻れなくなる。
マキマが死んでも、私が生き返っても、世界は元に戻らない。
ソ連には帰れない。命を狙われ続ける。
そして、彼をまた血の中に巻き込む未来が見える。
だから、突き放すしかなかった。
彼を、守るために。
「ニセモノだって言うけどよ……俺にとっちゃレゼと過ごした時間は、ぜんぶホンモノだぜ。夜の学校を探検したことも、祭りに行ったことも、戦い方を教えてくれたことも──全部な。俺が今、生きてんのは、レゼがいろんなことを教えてくれたからだ。それがなきゃ、どっかで死んでたし、ポチタも奪われてたと思う。だからさ、俺にとっては、あの時のレゼも、今ここにいるレゼも、どっちもホンモノなんだよ」
その声が、静かに部屋を満たした。まっすぐで、痛いほど真剣な響きだった。私は俯いたまま、指をぎゅっと握る。震えが止まらなかった。
沈黙が落ちる。息の音だけが響く。
「……それは、任務のために必要だったこと。私にとっては、あの時間はホンモノなんかじゃないの」
自分の口から出た瞬間、胸が裂けそうになった。本当は違う。
本当は、あの時間こそが今も私の中で一番輝いている。それでも言葉にしてしまえば、もう戻れない。
彼が何かを言いかけて、また黙る。カーテンの隙間から射す朝の光が、彼の頬を照らした。
「……じゃあなんで、あの時、カフェに来てくれたんだよ」
息が止まった。どうして、それを──。
「え……? なんで、知ってるの……?」
声が震えた。あの日の記憶が蘇る。君と未来を生きたくて、二道へ向かった。手を取って逃げたかった。けれど、叶わなかった。
デンジ君が知っているはずがない。
「来なかった」と思ってほしかった。それが、彼を巻き込まない唯一の方法だった。
「知らなかったよ。でも、今レゼが教えてくれた。今までが嘘だったって言うなら、これでチャラだな」
──騙された。
でも、それでも良かったのかもしれない。
君に会いに行ったんだって、ホントは言いたかったから。
「……私もバカだよね。そんなわけないって、気づけたはずなのに」
笑おうとしたけれど、うまく笑えなかった。
頬の筋肉が動かない。代わりに、視界が滲む。
散々嘘をついてきた私を、彼はたった一つの嘘で許してくれる。
そんなの、ずるいよ。
私が何をしてきたか、全部知っているくせに。
「デンジ君……?」
彼が唐突に立ち上がったので、思わず声をかけた。デンジ君が離れてしまうと考えるだけで、酷く心が冷たくなっていく。
「ちょっと待っててくれ。見せたいモンがあるからよ」
軽く手を上げ、デンジ君は部屋を出ていった。
その背中を見送りながら、胸の奥に小さな穴が空いたような感覚が残る。
見せたいものって……何だろう。
わからないまま、私は膝の上で手を握りしめた。
——ずっと矛盾を抱えている。
彼と一緒にいたい。けれど、離れなければいけない。
今は、あの駅での間違いを正すチャンスなんだ。だから、今度こそ正しい選択をしないと──。
隣の部屋でなにかやっているのか、微かな物音がした。しばらくして、部屋に戻って来てくれた。体の後ろに何かを隠しているのがバレバレだ。
「タラーン」
子どもみたいな声と一緒に、それは現れた。
彼の顔が隠れるほどの大きな花束。
色鮮やかな花がいくつも重なって、包み紙のすき間からほのかに香りが漂う。
それを見た瞬間、胸がきゅっと縮まった。
——思い出す。
あの時は一本の白いガーベラだった。
でも、今ここにあるのは、不器用で、まっすぐで、それでもちゃんと“想い”の形をしている贈り物。
「花束……?」
思わずつぶやいた。
デンジ君は少し照れくさそうに頭をかきながら、花束をこちらへ差し出す。
その仕草があまりにも不器用で、でも、それがたまらなく彼らしかった。
「これを持って待ってたんだよ、あの時も」
その言葉で、視界が滲んだ。
あの時も、デンジ君は私を待っていてくれたんだ。
こんな大きな花束を抱えて……まるで、プロポーズみたいに。
「……ありがとう。すごく、きれい」
私はそっと花束を受け取った。
茎のひとつひとつが、まだ冷たい朝の空気をまとっている。
「手、握ってもいい……?」
「あ……お、おぉ……」
デンジ君の手が、私の指を包んでくれた。
その手は少し荒れていて、でも、あたたかかった。
胸の奥がじんわりと溶けていく。
「ねぇ、デンジ君。ホントはね、私も学校行ったことなかったの」
ようやく、本当の言葉が出た。
長い間、喉の奥で錆びついていた言葉。
彼にだけは、嘘をつきたくなかった。
「ふーん……ならよ、一緒に学校行かねぇか?」
軽い調子の声が、胸に刺さる。冗談みたいなのに、目だけは真剣だった。
「夜の学校? 今は寒いですよ〜」
「ちげぇよ。……俺、公安辞めて学校行こうと思ってんだ。けど、一人じゃつまんなそうだし。……だからさ、レゼも一緒に行こうぜ」
“学校”。その言葉がやけに遠く聞こえた。
あの夜、二人で忍び込んだ学校の教室。笑いながら、授業の真似事もした。プールでかけがえのない時間を過ごした。
あれはほんの数時間の夢だった。もう二度と経験することは無いと思っていた時間。
それを、今また彼が差し出してくれている。
「……ダメだよ。私は行けない。行っちゃダメなの」
言葉にした瞬間、胸が痛んだ。本当は行きたい。制服を着て、教室で笑ってみたい。昼休みに窓から空を見上げて、ただ“生きてる”だけの時間を過ごしてみたい。
でも、それを望んだら、今まで殺した人たちを裏切る気がした。“幸せになってはいけない”と、自分に言い聞かせてきた。
だから、首を振るしかなかった。
「なんでだよ。この歳で学校行ってねぇのはおかしいって言ったの、レゼだろ?」
その言葉が、まるで刃のように胸に刺さった。
そう言ったのは私だ。普通に憧れていた、あの日の私。
「普通の人ならね。……私はたくさんの人を殺したよ。デンジ君のことだって何回も……。私には、デンジ君と一緒にいる資格なんてないよ」
言いながら、喉が焼けるように痛かった。本当は、資格なんてどうでもいい。
ただ“彼の隣にいたい”──それだけなのに。
「……俺もよォ、戦う時は全然関係ない人を何人も殺したぜ。……仲良くなった友達も……殺しちまったし、自分の父親も自殺に見せかけて殺した。……仕方なくねぇけど、仕方ねぇよ。……そうするしかなかったんだ。レゼも一緒なんじゃねぇの?」
静かな声だった。
けれど、その言葉の一つひとつが、まるで心臓の奥に触れてくるみたいだった。
デンジ君は、きっとあの後も色々辛い目にあってきたんだ。
友達を殺したって言った時の、一瞬の表情。それだけで、彼がどれだけの痛みを背負っているかが分かった。
それでも、デンジ君は前を向いている。
仕方なくないけど、仕方ない。あの砂浜で聞いた言葉が、今また胸に甦る。
「……そうするしか、なかった……」
かすかに、声が漏れた。自分でも驚くほど小さくて、壊れそうな声だった。否定しようとしても、できなかった。あの頃の自分を、完全に憎むことも、赦すこともできないまま、今まで生きてきた。
──それでも、許されてもいいのだろうか。
「ねぇ、デンジ君。私といると、色んな人に命を狙われちゃうよ? それでもいいの?」
聞きながら、胸の奥が痛んだ。
脅すつもりなんかない。ただ、どうしても確かめたかった。
デンジ君は、それでも私の隣にいてくれるのか。
「そんなもん、今さら気になんねぇよ。それに、レゼが一緒に居てくれるなら絶対負けねぇし」
まるで、当たり前のことを言うみたいに、彼は笑った。
その笑顔が、どうしようもなく優しかった。
「そっか……そうだよね。うん、私たちならどんな敵が来てもきっと大丈夫だよね」
気づけば、自然と笑っていた。
涙で滲んだ視界の向こうに、彼の姿がまっすぐに見えた。
心の奥の氷が、少しずつ溶けていくのがわかる。
「あ、でもレゼは戦わなくていいぜ」
「え? 私も戦えるよ?」
「そうだけどよォ……。レゼの変身ってめっちゃ痛そうだし……好きな人が傷つくのは見たくねぇっつーか」
“好きな人”。
その言葉が、胸の奥で弾けた。
思わず息が止まる。
こんなにも不器用で、まっすぐで、嘘がない言葉を、私は一度でも言えたことがあっただろうか。
「ねぇ、デンジ君……」
気づけば、彼の胸に顔をうずめていた。
彼の体温が伝わってくる。その温もりは、もう奪うためのものじゃない。
そっと顔を上げて、彼の瞳を見た。
まっすぐで、少し不器用で、優しい光。
もう、我慢しなくていいよね?
「──大好き」
そのまま、唇を重ねた。
あの日と同じ形で──でも、もう血の味はしなかった。
奪うためのキスじゃない。
生きて、ここにいることを確かめるキス。
触れた唇の熱が、静かに心の奥を溶かしていく。
離れた瞬間、デンジ君の顔が真っ赤になっていた。
その表情が可愛くて、思わず笑ってしまう。
「え……えっちすぎじゃあないっすか」
「ふふ……覚悟してね? デンジ君。私はもう、自分を抑えないから」
もう、嘘はつかない。
誰かの命令で動くモルモットでも、嘘で塗り固めた『レゼ』でもない。
ただの私として、今この瞬間を生きている。
そう思えたら、自然と笑顔がこぼれた。
キャラ崩壊してないといいなぁ…
レゼは死ぬ間際にデンジのことを見ていたと思いますが、この話ではその記憶がないということで…。