眠りの果てに   作:冬獅郎

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すみません。今回はデンジとレゼの解釈違いがあるかもしれません。
感想本当にありがとうございます。泣いて喜んでます。


安らぎの鼓動

 デンジ君が部屋に入ってきた時、私はぼうっと天井を見ていた。静かな夜が肌に貼りつくみたいで、息をするたびに部屋の空気の冷たさが胸に沈んだ。

 ふとベッドの側のサイドテーブルに目をやると、デンジ君がくれた花束が目に入る。

 花瓶なんて洒落たものではなくて、ラベルを剥がした空き瓶に活けられている。窮屈そうに押し込まれているけど、花びらが潰れないように丁寧に整えられているのがわかる。

 机の上の小さな灯りだけがついていて、光は弱いのに目に刺さらない。毛布の重さも、体のだるさも、すべてその光の中に溶けていくようだった。

 

 気配に気づいて横を見ると、デンジ君がゆっくりと近づいてきていた。扉を閉めた後すぐに足音を殺そうとしたのが分かる。歩幅もいつもより短い。気にしてくれているのが伝わる。

 手には湯気の立つコップ。ほんのり白い煙が揺れて、灯りに照らされて消えたり浮かんだりしている。

 

「……レゼ。飯は食えそうか?」

 

 声は低めで、無理に明るくしようとしていない。私が起きているかどうかを確かめるような、そんな声だ。

 私は目をしばたかせて彼の方へ顔を向けた。体はまだじんわり重いけど、彼の姿が見えた瞬間にそんな感覚は消えてしまうようで。

 ゆっくり上半身を起こし、彼を見上げる。

 

「食べれるよ。なんならお腹が空いてるくらい。デンジ君が作ってくれるの?」

 

 声に少しだけ調子を乗せてみる。彼の反応を見るのが楽しかった。

 

「おう。最近は料理も楽しくなってきてよ。作れるモンも増えてきたんだ」

 

 その言い方がなんだか誇らしげで、思わず笑ってしまう。

 

「なら……カレー食べたいな〜」

 

 そう言って上目で見てみると、彼は一瞬だけ目をそらし、それから照れたみたいに口元をゆるめた。

 

「ん……分かった。ならちょっと待っててくれ」

 

 彼は踵を返そうとした。私はその背中を追いかけるように言葉を投げる。

 

「私もお手伝いしちゃおっかな〜」

 

 ベッドから這い出ようとすると、すぐに彼の手が伸びてきた。手のひらは温かくて、私の肩をそっと押さえる。

 

「いや、ちゃんと休んでてくれ。まだキツいだろ?」

 

 本当はもうだいぶ動ける。でも止められた瞬間、胸の内側が静かにあたたまった。心配してくれているという事実が、体のだるさより心地よく響く。でも、何もできない自分が少しだけもどかしい。

 

「……それじゃあ、甘えちゃおっかな」

 

「おう。最高に美味いカレー食わしてやるぜ」

 

 彼は軽く手を挙げ、いつもの調子で部屋を出ていった。扉が閉まるまで、彼の背中を目で追ってしまった。

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

 扉の向こうから、トントンと包丁がまな板を叩く音が聞こえ始めた。

 リズムは一定ではないけれど、それはまるで心休まるメロディのようで。夢中になった私は、ベッドの上でその音に耳を澄ませる。

 ジャー、と何かが炒められる音が響く。しばらくすると、ドアの隙間からスパイスの香りが漂ってきた。いつか二道で嗅いだような、懐かしいカレーの匂いだ。

 その香りが鼻腔をくすぐるだけで、空っぽだった胃袋が急に存在を主張し始める。

 

「出来たぞ〜」

 

 ドアが開くと同時に、一層濃い香りが部屋へ流れ込んできて、私は毛布を押しのけて上体を起こした。立ち上がると足元が少しふらついたけど、今はその揺れさえ心地いい。

 

「大丈夫か?」

 

「うん、ちょっとバランス崩しただけだから大丈夫。心配かけてごめんね」

 

 デンジ君は一瞬だけ安心したように息を吐いた。緊張していた肩の力も少し抜けたようだった。

 

「すっごくいい匂いだね」

 

「だろ? 冷めねぇうちに食っちまおうぜ」

 

 リビングに向かって歩く彼の背中は、どこか弾んで見えた。歩くたびに肩がわずかに揺れている。

 私はその後ろ姿を追いながら、自然と足が速くなるのを感じていた。

 

 

 リビングの照明は少し明るくて、テーブルの上には湯気を上げる二つの皿が向かい合わせに並んでいた。

 ゴロゴロとした大きめの野菜と肉が入ったカレー。ただそれだけの光景なのに、胸がいっぱいになる。

 椅子を引いて、デンジ君の向かいに座った。

 

「美味しそう……。いただきます」

 

 手を合わせると、デンジ君もそれに続くようにして手を合わせた。

 テーブルの向こうで、彼は落ち着かない様子で私の顔を見つめていた。さっきの自信はどこへいったのか、指先でスプーンをいじっている。

 スプーンで掬って、ひと口食べる。熱い塊が喉を通っていく。

 

「……どう? 美味い?」

 

 恐る恐る聞いてくる彼に、私は口の中のカレーを呑み込んでから向き合う。

 味だけで言えば、正直『普通』だ。マスターが作るカレーより、ほんの少し美味しいくらいかもしれない。

 でも、今まで食べてきたどんな食事よりも、一番美味しいと感じた。それは確かだ。

 口の中に広がるのは、単なるカレーの味じゃない。デンジ君が、私のために時間をかけて、火加減を見て、味見をして作ってくれた温かさそのものだ。

 ご飯を食べるだけで、ここまで心が満たされたのは初めてだった。

 だから、とびきりの笑顔で伝える。

 

「美味しいよ。すっごく」

 

 デンジ君は目を丸くし、それから口を半開きにして笑った。嬉しい時だけ見せる、子どもみたいな表情だった。

 

「でも、意外だったな。デンジ君が料理できるなんて」

 

「……アキが教えてくれたんだ。最初はゲロみたいなもんしか作れなかったけど」

 

 その名前が出た瞬間、デンジ君は少しだけ視線を下げた。背筋がわずかに固くなる。思い出すことが多いのだろう。

 私がその痛みを引き受けられたらどれだけいいだろうか。触れられない傷跡を撫でるように、私は努めて明るい声を出した。

 

「そっか……。じゃあ今度は私が作ってあげるね」

 

「そりゃ楽しみだなぁ。けど、料理できんのか?」

 

「失礼だなぁ。これでも手先は器用なんですよ〜?」

 

 おどけて見せると、デンジ君は楽しそうに笑った。

 

「ねぇ、何作って欲しい?」

 

「そうだなぁ……ハンバーグとか食いてぇかな。けど、レゼが作ってくれるモンならなんでも美味く食える自信あるぜ」

 

 サラッと言われた言葉に、私の方が言葉に詰まった。

 デンジ君はたまに、私が一番欲しい言葉を無防備に投げかけてくる。頬が熱くなるのを誤魔化すように、私は水をひと口飲んだ。

 

「ハンバーグ、かぁ。分かった、次は私が世界一美味しいハンバーグを作るから、楽しみにしててね?」

 

 練習しよう。たとえ焦がしたとしても、デンジ君ならきっと笑って食べてくれるだろうけど。今の彼が見せてくれた笑顔以上のものを、私も返したいから。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

「風呂先入っちまってくれ。片付けは俺がしとくからよオ」

 

 空になったお皿を重ねながら彼は言った。食器の扱いこそ雑だが、動きは妙に手馴れている。

 

「そんなの悪いよ、私も何か手伝うから」

 

「気持ちは嬉しいけどさ、今日くらいはゆっくりした方がいいんじゃねーか?」

 

「そんなに気遣われてばっかりじゃ、申し訳なくて休めないよ。……それに、一緒にやった方が早いでしょ?」

 

 私が譲らない姿勢を見せると、デンジ君は少し困ったように頭をかいた。

 

「……しゃあねぇな。じゃあ、俺が洗うからレゼは流してくれねぇか?」

 

「まかせて。お皿洗いなら完璧にこなしてみせるから」

 

 キッチンに二人で並んで立つ。デンジ君がスポンジで洗い、私が受け取って水ですすぐ。

 狭いキッチンで肩が触れ合う距離。水の流れる音だけが心地よく響く。

 ふと、既視感を覚えた。知識として持っていただけの、平凡で、でもずっと憧れていた日常の風景。

 

「新婚さんみたいだね、私たち」

 

 すすいだ皿をカゴに置きながら、デンジ君の横顔を見上げてそう言った。

 

「シンコンサン……?」

 

「結婚したばっかりの夫婦って意味だよ。こうやって並んで家事してると、そう見えない?」

 

 デンジ君は泡だらけの手のまま動きを止めた。まじまじと私を見て、それから自分の手元に視線を落とす。耳まで一気に赤くなっていくのが分かった。

 

「け、結婚……夫婦……俺らが……?」

 

「あははっ、顔真っ赤だよ。……嫌だった?」

 

「嫌じゃねえ! 全然嫌じゃねぇけど……!」

 

 デンジ君は誤魔化すようにスポンジを強く握って、皿に押し付けていた。

 慌てる彼を見て、私は小さく笑った。

 

 洗った食器をカゴに伏せ終え、手を拭きながらデンジ君に向き直る。

 

「デンジ君、先にお風呂入ってくれない?」

 

「……なんで? レゼの方が疲れてるだろ? 早く風呂入って寝た方がいいぜ」

 

「ううん。とびきりのお礼を用意して待ってるから、先に入ってて欲しいの」

 

 彼は一瞬固まり、眉を上げて訝しむような顔をした。

 

「……お礼って今日のか? そんなの気にしなくてもいいぜ」

 

「私がしたいの。デンジ君になにかしてあげないと、私が満足できないから」

 

 少しだけわがままに言ってみる。

 

「……マジぃ? なんかデザートでも作ってくれんのか?」

 

「いいからいいから! こういうのは分からない方が楽しいでしょ?」

 

 食い下がるデンジ君を、勢いで押し切る。企みに気づかれないように、無邪気な笑顔を作りながら。

 

「お、おう……? よくわかんねぇけど、レゼが言うならスゲェやつなんだろうな。あ、でも俺が風呂入ってる間に外出るのはナシな」

 

「分かってるよ。私もこの家から出たくないし」

 

「なら安心だ。片付けも終わったし、先入ってくるわ」

 

 デンジ君はまだ少し不思議そうな顔をしながらも、脱衣所に向かって行った。

 

「行ってらっしゃ〜い」

 

 パタン、と扉が閉まる音が響く。

 静寂が戻ってきたリビングで、私は小さく息を吐いた。

 デンジ君は私のために色々なことをしてくれた。ご飯を作ってくれただけじゃない。マキマから助けてくれたし、介抱もしてくれた。……何より、私のことを許してくれた。好きなままでいてくれた。

 なら、なにかお返しをしたい。きっとデンジ君は見返りなんて求めてないだろうけど、私の気が収まらないのだ。貰いすぎて溢れそうなこの感情を、どうにかして形にして返したい。

 そこで私は考える。自分に出来るお礼とはなんだろうかと。

 物をプレゼントする?

 考えた。けど、今は簡単に外出が出来ない。祖国から刺客に見つかるかもしれないし、公安に見つかることも考えられる。デンジ君と一緒なら、どこへでも行けるんだけど……。危険を冒してまで買いに行くのは賢くない。だからこれは却下だ。

 ご飯を作ってあげる?

 頭の中でシミュレーションしてみる。けど、これは現実的ではない。私は料理が出来ないからだ。正確に言えば、任務遂行に必要な栄養バランスを意識した『エサ』のようなものは作ることができる。でも、それは味を度外視したものだ。人に振る舞う料理の腕は持ち合わせていない。

 これから練習して、デンジ君を喜ばせてあげたいな……そう未来に思いを馳せつつ、今の選択肢からは外す。これも却下だ。

 じゃあ、何をすればいいだろうか。

 視線が脱衣所のドアに向く。シャワーの音がかすかに聞こえてくる。

 答えはもう出ている。今の自分にできる、精一杯の愛情表現。

 私は深呼吸をひとつして、脱衣所へと向かった。心臓が早鐘を打つのを感じながら。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 

「いい湯だなァ」

 

 湯船に肩まで浸かり、思わず声が漏れる。今までも毎日風呂には入っていたけど、生活に色が無かった。風呂も機械的な作業にしか感じられてなかったが、今日は風呂場を満たす湯気でさえも輝いて見える。

 レゼに会えたからだ。声を聞かせてくれた。話をしてくれた。何よりも。

 

「俺ァフラれた訳じゃなかったんだな……」

 

 天井の水滴を見つめながら呟く。

 レゼはあの時カフェに来てくれていた。直前でマキマさんにやられちまったみたいで、あの時気づかなかった自分に腹が立つ。もし気づいていれば、もっと早くレゼの手を取れていたかもしれないのに。

 ……いや、昔のことを考えんのはナンセンスだ。いくら考えたって、時間が戻る訳じゃねぇ。

 大事なのは、レゼは来てくれてたって事だ。それも命懸けで、俺が勝手にした約束を守ろうとしてくれた。

 大好きだって言ってくれた。キスもされたし。つまりよぉ……。

 

「結婚するしか、ねぇよなぁ……」

 

 言葉にしてみると、その言葉の重みと甘さに脳が揺れた。

 結婚。彼女もいたことがなかったのに、急に。

 最近まで絶望のどん底にいたってのに、今は幸せの絶頂だ。ジェットコースターみてぇな人生だな、とぼんやり思う。

 と同時に、不安が足元を掠める。

 

 ───俺が本当に幸せになれるのか?

 

 大事な人は俺の前から居なくなる。ポチタも、アキも、パワーも。レゼもいつかそうなっちまうんじゃねぇかと思うと、熱いお湯に浸かっているハズなのに背筋が寒くなる。

 

「……そうならねぇように、俺がしっかりしねぇとな」

 

 独り言がこぼれる。

 換気扇の回る低い音が響く中、天井からポタリと水滴が落ちた。湯気が視界を白く滲ませていて、自分の手足の輪郭さえぼんやりとしている。

 ゆったりと湯船に浸かり、天井の水滴を数えているときだった。

 

 カチャリ。

 

 鍵が開く音がして、唐突に風呂場のドアが開いた。

 湿った空気が外へ流れ、代わりに冷たい空気が入り込む。

 

「……え?」

 

 驚いて扉の方を見てみるが、湯気で白く煙っていてよく見えない。

 だが、その白い靄の向こうに、誰かが立っていた。

 

「……し、失礼します……」

 

 消え入りそうな程に小さな声。

 なんでここに、という言葉は喉で詰まって出てこなかった。あまりの衝撃に思考が停止する。

 湯気の流れが変わり、其の姿が露わになる。

 レゼだった。

 バスタオル一枚を体に巻き、胸の前でぎゅっと強く押さえている。白い肌が湯気に濡れて艶めき、鎖骨のラインが露になっている。

 前にプールで裸になって入った時とは、纏う空気がまるで違った。あの時の余裕たっぷりで挑発的な態度はどこにもない。

 今は足取りがおそるおそるで、目が合いそうになるとすぐにパッと逸らす。足の指先がモジモジと床のタイルを踏んでいる。

 

 ───超クソかわいい。

 

 もちろんいつもかわいいんだけど、今は百倍増しになったみてぇだ。恥ずかしがってるってだけで、こんなにも破壊力があるモンなのか。

 レゼの頬は熟れた果実のように赤い。きっと湯気のせいではないだろう。タオルを押さえる指先は白くなるほど力が入っていて、わずかに震えているのが分かった。いつも堂々としているのに、今は見る影もない。そのギャップが俺の心臓を鷲掴みにしてくる。

 レゼはゆっくりと息を吸い、決心したように顔を上げた。その翡翠の瞳が俺の理性を貫く。

 

「……で、デンジ君。背中……流してあげるね……」

 

 いつものハッキリとした声は微塵も感じられなくて、湿気に溶けてしまいそうな、消え入りそうな声だった。

 きっと相当恥ずかしいんだろう。顔を真っ赤にして、それでも俺のためにここに来てくれた。レゼに背中を流してもらえるなんて、これ以上ない幸せだ。夢なら醒めないで欲しい。

 でも、レゼが無理してんのを見るのはいい気分じゃねぇ。震える肩を見て、沸騰しそうな頭が少しだけ冷えた。

 

「さっきのお礼って、 ……これのこと?」

 

「うん……。ガッカリした……?」

 

 不安げに揺れる瞳が俺を見る。

 

「超うれしい! けど……けどよ、レゼが無理してんならそれはダメだ」

 

「……無理なんて、してない。私がこうしたいと思ったの。……ダメ?」

 

 レゼはタオルをぎゅっと握りしめたまま、上目遣いで俺を見た。なんでそんな目をしてるのかはわかんねぇけど、守りたくなるような儚さがあって。

 それでいて、俺を真っ直ぐに見つめる瞳の奥には、強い意志があった。

 

「……お、お願いしまぁす」

 

 俺がそう言うと、レゼはホッとしたように小さく微笑んだ。

 レゼが体を隠してるから、俺もタオルを巻いて湯船から出て、洗い場の椅子に座る。

 背中に、温かく柔らかい感触が触れる。

 泡立てたタオルが背中を滑る音と、レゼの僅かな息遣いだけが響く狭い空間。

 レゼの手は丁寧だった。時折、指先が背骨に触れる。その度に、電気が走ったように体が強ばるのが、少し恥ずかしい。

 

「どうかな……上手く、できてる?」

 

 耳もとで囁くように、レゼが自信なさげに聞いてきた。

 

「くすぐってぇ。……けど、すげぇ幸せだ」

 

「ふふっ……私も幸せ」

 

 背中に額を押し付けるような感触がした。レゼの体温が直に伝わってくるようで、俺の体温まで上がりそうだ。

 

「ねぇ、一緒にお風呂入ってもいい?」

 

 断る理由なんて、あるわけがなかった。

 俺が先に入り、浴槽の壁に背中を預けてスペースを作る。レゼは遠慮がちに、けれども迷いなく俺の足の間に体を滑り込ませてきた。

 ザブァ、と盛大にお湯が溢れる音が、静かな浴室に響き渡る。

 俺の胸元に、レゼの華奢な背中がピタリと重なった。

 俺の両腕の中にレゼがすっぽりと収まっている。頭は沸騰してどうにかなりそうだし、心臓は口から飛び出しちまいそうだ。

 

「……あったかいね」

 

 レゼがほう、と息を吐いて呟く。

 後頭部が俺の肩に預けられ、視線だけが天井を向いているのが分かった。彼女の手が俺の手を探り、指を絡めてくる。俺もその手を握り返した。

 

「デンジ君の心臓、すごい音」

 

 レゼは俺の胸に後頭部をぐりぐりと押し付け、その鼓動を確かめるように目を閉じた。

 

「そりゃ、こんな状況じゃバクバクすんだろ……」

 

「私もだよ。……ねぇ、あの時は、冷たかったよね。学校のプール」

 

 レゼがポツリと漏らす。夜の学校で泳いだ、あの日のことだ。

 

「そういや、そうだったよな。最初は水が冷たくて、寒くて震えてた気がする」

 

「デンジ君の唇も紫になってたもん。でも、こうしてくっついていると、あの時の寒さが嘘みたいだね」

 

 レゼの体が少しだけ寄りかかってきて、重みが増す。思い出の中の冷たい水温が、今ここにある温かさで上書きされていくみたいだ。

 

「今日は、泳げないね」

 

 レゼが少し残念そうに言う。確かにこの狭い浴槽じゃ、泳ぐどころか足を伸ばすのもやっとだ。でも、不思議と窮屈には感じない。

 

「学校行けば、また泳げるよな。今度は昼間に、堂々とさ」

 

「……うん。楽しみだね」

 

 レゼの手に少し力がこもる。

 狭い浴槽で二人きり。肌と肌が触れ合って、体温が混じり合っていく。こんなに狭いのに、世界のどこよりも広い自由を手に入れたような気分だった。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

「ごめんな、ちょうどいい服が無くて。俺のシャツだけど、我慢してくれ」

 

 風呂から上がり、タンスから引っ張り出したシャツを渡した。

 レゼが着ると、やっぱりサイズがデカい。袖から指先がちょこんと出ていて、裾は太ももの中ほどまで隠している。

 

「私はデンジ君の服、嬉しいよ? なんか安心するっていうか……デンジ君に包まれてるみたいで」

 

 袖の匂いを嗅ぐようにして、レゼが恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑う。

 その破壊力バツグンの姿に、俺は今日何度目か分からない『結婚』の二文字を脳裏に刻み込んだ。

 

 ヤベェ。このままだと理性が吹っ飛んじまいそうだ。心臓がうるさすぎて、そのうち口から飛び出てくるんじゃねぇか?

 俺は熱くなった頬を誤魔化すように、わざとらしく視線を天井に向け、大きく深呼吸をした。

 今はレゼを休ませるのが一番だ。変な気起こすなよ、俺。

 

「俺はあっちの部屋で寝るよ。レゼはそのままさっきの部屋使っていいから」

 

 そう言って冷静にリビングを出ようとすると、服の裾をくい、と引っ張られた。

 振り返ると、レゼが不安そうな瞳で俺を見上げている。

 

「……一緒に、寝ちゃダメ?」

 

 断れるはずもなかった。

 俺の心臓はもう、爆発寸前だった。

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 

 パチン、とスイッチの切れる音がして、部屋は闇に包まれた。

 窓の外にある街灯の光が、薄いカーテン越しにぼんやりとした影を床に落としているだけだ。

 その闇は、私にとって最も慣れ親しんだ時間であり、同時に最も恐ろしい時間でもあった。

 

 ──眠っちゃダメだ。

 

 訓練された兵士としての本能が、頭の奥で警鐘を鳴らす。眠りは最大の隙だ。瞼を閉じれば、闇の向こうから過去の亡霊たちが這い出し、冷たい命令の声が響く。いつだってそうだった。

 けれど、今夜の闇には、今までと決定的に違うものがあった。

 すぐ隣に、デンジ君の体温がある。

 デンジ君は私に気を遣ってか、背中を向けて少し距離をとってくれている。でも、その背中の膨らみが闇の中に浮かんでいるだけで、ひどく安心する自分がいる。

 この温もりが遠ざかるのが怖くて、私はそっと、震える指先を伸ばした。

 指に触れたのは、着古したTシャツの柔らかい感触。その裾を弱々しく掴む。もしここで彼が離れてしまったら、自分はまた氷の中に閉じ込められてしまう気がした。

 

「……デンジ君。起きてる……?」

 

 闇に溶けてしまいそうな小さな声で呼ぶ。

 

 「……起きてるよ」

 

 彼の声は、手を伸ばせばすぐに届く場所にあった。それだけで、胸の奥に灯りがともったようにじんわりと温かくなる。

 

「……ねぇ、こっち向いてくれない?」

 

 私のわがままな要求に、デンジ君の体がピクリと反応したのが伝わってきた。少しの沈黙。Tシャツの擦れる音がして、彼はゆっくりと寝返りを打ち、私のほうへ向き直ってくれた。

 暗闇の中、彼の輪郭だけがぼんやりと見える。表情までは見えないけれど、その気配だけで彼が真剣なのが分かった。

 

「どうした? なんか痛いとこでもあるか?」

 

 少し上ずった声。その不器用な優しさが、張り詰めていた私の不安を溶かしていく。

 私は何も言わず、シーツの上を滑るようにして彼の胸元へ顔を近づけた。デンジ君は一瞬息を呑んだようだったが、私を拒まなかった。

 彼の体温が、私の頬に直に伝わる。それは誰かから奪うための熱ではなく、ただ彼がそこに生きているという、純粋な『存在』の証明だった。

 

 トクン、トクン。

 

 心臓の音が聞こえる。力強くて、少し早いリズム。

 この音を聞いていると、どうしても聞きたかったことが口をついて出た。

 

「……ねぇ、デンジ君。マキマのことはまだ好き?」

 

 デンジ君の心臓の音が、一瞬だけドクンと大きく跳ねた気がした。

 シャツを掴む私の手に力が入る。

 暗闇の中で、デンジ君は天井を見つめながら少しだけ沈黙し、嘘のない声で答えた。

 

「……好きだぜ」

 

 胸がチクリと痛む。でも、それは予想していた答えだったし、私に嘘をつかない彼だからこそ信じられる。

 

「そっか……そうだよね」

 

「けどよ……なんかちょっと、違うんだよな」

 

 意外な言葉に、私は思わず顔を上げて彼を見た。

 

「何が違うの?」

 

「上手く言えねぇけど……マキマさんは、すげぇ完璧で、優しくて……。なんか、褒めてもらいたいっていうか、頭撫でてほしいっていうか……。俺がガキの頃に欲しかったモンを全部持ってる気がすんだ」

 

 デンジ君は言葉を探すように、宙に視線を彷徨わせた。きっと彼自身も気づいていない。それが恋というよりは、幼子が母親に求めるような、絶対的な庇護への憧れなのだということに。

 

「じゃあ……私は?」

 

 私の問いかけに、彼は視線を戻し、真っ直ぐに私を見た気がした。

 

「好きだぜ」

 

 即答だった。迷いなんて欠片も無かった。

 

「……それ、どういう意味で?」

 

 重ねて聞くと、デンジ君は少し照れたように視線を泳がせた。

 

「マキマさんみてぇに『いい子』にしてなくていいっつーか……。レゼとなら、なんでもねぇことでも楽しいし、一緒に学校行きてぇし、美味いもん食いてぇし……。なんて言えばいいんだ?」

 

 彼は頭をガシガシとかいて、困ったように笑った。

 

「俺は馬鹿だから難しいことはわかんねぇけどよ。……マキマさんには『飼われたい』けど、レゼとは『一緒にいたい』って思う」

 

 その言葉が、私の心の奥底にこびりついていた『道具』としての自分を溶かしていく。

 私は誰かの所有物でも、武器でもない。ただの女の子として、彼と同じ目線で隣にいていいのだと、そう言われている気がした。

 安心感が胸を満たすと、ふと昔、夜の学校の会話を思い出した。

 

「……ネズミの話、覚えてる?」

 

「……なんだっけ。都会のネズミか田舎のネズミ、どっちがいいかってヤツか?」

 

「うん。覚えててくれたんだ。……ねぇ、今でも都会のネズミが好き?」

 

 あの時、デンジ君は即答で都会のネズミを選んだ。美味しいものが食べられるから、楽しそうだからと。

 私は、田舎のネズミが好きだって言って欲しかった。穏やかな田舎で、デンジ君と一緒に過ごしたかったから。

 

「……昔はさ、雨風しのげる寝床があって、ジャム塗ったトーストとか美味いモンを三食食えれば、それが最強だと思ってた。だから都会のネズミがいいって言ったんだ」

 

 デンジ君は天井を見上げたまま、ぽつりとこぼした。

 

「けどよ、最近わかんなくなってきたんだ。毎朝すげぇ美味いパン食ってるはずなのに……なんか、味があんましねぇんだよ」

 

 懐かしむような声音で、デンジ君は語り続ける。

 

「ポチタと半分こして食ってたゴミ箱のパンの耳の方が美味かった気がするし……アキとパワーがギャーギャーうるせぇ中で食ってた飯も、なんか良かったんだ」

 

 彼の声が少し低くなる。理屈ではなく、ただ体が覚えている寂しさを吐き出すように。

 

「一人はつまんねぇよ。どんなにいいベッドで寝ても、寒くて目が覚める」

 

 彼は私の方を向き直し、暗闇の中でしっかりと目を合わせた。彼の吐息が私の鼻先にかかる距離。

 

「だからよ……どっちのネズミとか、もうどうでもいい。俺は、レゼがいる方がいい」

 

 その言葉は、どんな甘い愛の言葉よりも深く、私の心を満たした。

 都会か田舎か、生活水準なんてどうでもいい。彼が選んでくれたのは、ただ『私と一緒にいること』だった。

 視界が滲む。もう我慢できなかった。

 

「……それじゃあ……」

 

 私は彼の胸に顔を埋め、涙が溢れるのを隠した。Tシャツが濡れていくのがわかるけれど、彼は嫌がる素振りも見せない。

 

「ここが、私の幸せな場所だね」

 

 デンジ君は何も言わず、ただ強く私を抱きしめ返してくれた。その腕の力強さが、全ての不安から私を守る檻のようだった。

 

「悪魔が来ても、変な奴が来ても、俺がぶっ飛ばしてやるよ。だからレゼはなんも考えないで寝ろ。……おやすみ」

 

「うん……おやすみ、デンジ君」

 

 耳元で、トクン、トクンと彼の心臓の音が響く。

 力強く、規則正しく脈打つその音こそが、私たちが今ここで「生きている」という、何よりも確かな証拠だった。

 

───もう、大丈夫なんだ……。

 

 そう思った瞬間、私の心の中から、過去の冷たさや恐怖が洗い流されていくのを感じた。

 意識が泥の中に沈んでいくような感覚。けれどそれは恐ろしい沼ではなく、温かい毛布のようなまどろみだった。

 次の瞬間、私は深い眠りに落ちていた。

 それは、何かに怯えることなく、誰かの腕の中で得た、人生で初めての安らかな眠りだった。

 

 

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