男曰く、五億年ボタンを押してその中で練習すれば勝てるようになる。
高校生はその言葉を信じて五億年ボタンを押すのであった
「ゲームセット!!」
審判の声が青空の下響き渡る。
俺の背後でボールの跳ねて行く音がした。
暑い……
真夏がアスファルトを熱し、俺の身体を焼いていた。
「ナイス!」「やるじゃないか雑魚杉!」
相手コートのベンチから次々と声が上がる。
味方コートからも何か声がした気がする。
俺はただ呆然と立っていた。
セミの声が煩わしい。
ラケットを握る手から力が抜けて取り落としそうになったが、少し力を入れて持ち直す。
俺が負けた……絶対負けると思ってなかった奴に……
高校2年、挫折の夏だった。
――――――――――――――
その後の記憶は曖昧だった。
同期と話した気がするけれど、その内容は覚えていない。
1人になりたかった。
その一心で誰よりも早く荷物を纏めて帰路についていた。
でも家には帰らなかった。
このまま家に帰っても良かったけど、何となく嫌だった。
普段は絶対にしないのに、あえて遠まわりしてみたり、公園で座ったり……とにかく1人になりたかった。
夏だから、6時を回っても日差しは高い。
俺を咎めるような人なんていなかった。
だから、その男は怪しかった。
「お疲れ様です高校生さん」
「……誰すかあんた」
6時を回ったとて夏はまだまだ暑い。
そうだというのに、その男はただただ黒かった。
頭から足の先まで黒い髪、黒いスーツ、黒い革靴。更には黒い手袋までつける徹底ぶり。
顔は……どこにでもいそうな男の顔。
無個性であることを印象付けようとしすぎて逆に目立っている、そんな感じだ。
「私はしがないセールスマンです」
「……名前は?」
「……『セールスマン』ですが?」
「名付け親正気か?」
なんだこいつ。
セールスマンっていうのは営業職のことだ(実際には知らないけど違ったとしても似たようなもんだと思っている)決して人の名前に付けるような名前じゃない。
漢字で書くなら『星 留守男』とかか?馬鹿か?
正直、俺は気が立っていたと思う。
絶対こいつにだけは負けないだろ、って奴に負けたんだ。
傲慢かもしれないが、悔しかった。
それをこのセールス男は見抜いたように嘲る。
「おやおやどうやら随分とフラストレーションが溜まっているようで」
「……そうだよ。それがどうしたってんだ」
男は肩をすくめて続けた。
「いえ、良ければなにがあったのか話してもらえませんか、と。人に話せば多少は溜飲が下がると言うもの」
とんでもなく癪だったが一理あるように感じた。
「俺、テニスやっててさ」
俺は気付けば全てを話し始めていた。
自分がテニス部に入ってること、今日大会があったこと、絶対負けないくらい弱いって思ってた奴に負けたこと。
「雑魚杉に負けることだけはないって思ってたのに……!」
「失礼ですがその方の名付け親の正気を疑います」
「あ、これ苗字なんですよ。名前は田玄白っていうやつで」
「……フルネーム雑魚杉田玄白???」
わかる。
名付け親居酒屋で考えたんか?
話を戻して、
「とにかく、俺は悔しかったんだ。傲慢な考えだってのはわかってる。でも思っちまった」
俺があいつ以下?って。
どうしようもなく思ってしまった。
負けた要因を考えてみた。
コートの調子、天候、コンディション、全部関係なかった。ただ、俺が弱かっただけ。
「だから……」
「なるほどなるほど」
俺のその言葉を遮るように男は被せてきた。
「では練習をもっとできればその悩みは解決しますね」
「ばーか」
さも当然のことをいうようにさも当然のことを言ってきた。
それができれば苦労はしない。
俺が練習している間にも当然、他の奴らも練習をする。
これを覆すには何かを犠牲にして時間を生み出すか、練習を効率化するしかない。
そしてそれは勉強と両立することを考えると、とても困難なことなのだ。
そんなことを懇切丁寧にサラリー男に説明した。
「それもそうでしょう」
当たり前のように頷く男。
……分かってて聞いたわけじゃないだろうな?
男は指をピンと立てて話を続けた。
「そこで素晴らしい提案がございます」
「猗窩座かよ」
男はどこからともなくクイズ番組で見るような赤いボタンを取り出した。
「あなたは五億年ボタンはご存知ですか?」
「ああ、あの」
五億年ボタン。
ネットで有名な話だってクラスメイトが話してくれた。
押すと100万円貰える代わりに何もない空間に5億年飛ばされるボタン。その空間では死ぬことはないし発狂することもないという。
「まさか、それが?」
「ええ、これがその五億年ボタンですよ」
「確かにその中なら練習する時間はあるかもしんないけど……」
ただそれには一つ問題がある。
それは……
「でも五億年ボタンって終わったら記憶消えるんだろ?意味ねーじゃん」
「ご安心を、今回は特別に記憶が消えないよう設定しました」
「それ設定で変えれるんだ」
「あとそれによって起こる諸々の不都合も何とかしました」
「逆に怖いんだけど」
「その代わりに」
「その代わりに?」
「贈呈額が100万円から66万円になります」
「いや変わらんて」
「5億年が34万円で手に入ると考えると?」
「……」
……。
怪しい。いくら何でも30万円ちょい上は安い。流石の俺でもそれはわかる。
そこで俺はガツンと言ってやった。
「買いで」
「ありがとうございます。ではこちらを押してください」
「ほいよ」
そのまま俺はボタンを押した。
――――――――――――――――
で、気づいたら何もない空間にいたってわけだ。
「本当に何もないな」
床は白い煉瓦みたいなのがびっしり敷き詰められていて、それらには傷一つない。
そらは真っ暗で星のない夜のようだ。でも、周りが見えないわけじゃない、むしろ地平線の彼方まで見渡せる。
不思議な場所だ。
「よっし、じゃあ早速練習してみるか」
俺は鞄からラケットとボールを取り出し(俺の荷物も一緒にここに来た。気が利くな)軽く振ってみる。
「まず、そうだな……ランニングからやってみるか」
とりあえず少し疲れるまでランニングをした。
「じゃあ次はボールを打ってみるか」
ボールをラケットで連続して打ち上げてみた(お手玉みたいな感じ)
「じゃあ次はもう一回走り込みするか」
俺は常闇に向かってもう一度走り込んだ。
――――――――――――――――――
それからどれくらい経ったか……
俺は5体を地面に投げ出していた。
「これは休憩……流石に休憩は取らないと死ぬから」
誰に言うわけでもないでもないけど、声にだす。
この世界ではあまり疲れることもなかったので、そこまで休憩の必要はない……かもしれない。
でも誰もいない空間で1人ずっと同じことを繰り返していると、どうにも頭がおかしくなりそうだった。
ラケットやボールは一纏めにして適当な場所に置いておいた。何となく視界に入れたくなかった。
こうして何もしないでいると自然と普段意識しないようなものも感じとれるようになる。
血液が巡る脈拍、ひんやりとした床の温度、どこまでも暗い空に俺の息遣いだけが聞こえる空間。
深呼吸をし息を整えてみると、次第に唯一の音すらなくなって静かになっていく。
「……なんつーか、本当に何もないんだな」
声はどこかに響くことなく暗闇に吸い込まれる。
その様子が面白くて、どこか恐ろしくて、でもついつい声を出してしまう。
「せめて何か持ってくるべきだったかなぁ……流石にこのまま過ごすのはしんどいぞ?」
ここに来てからかなり運動したはずなのにお腹が空いた感じはない。
つまり何もしなくてもこのままここで生きていけるはずなのだがしかし、何もしないまま長い時間を過ごすというのは本当に生きているということなのか。
五億年。
途方もない時間だ。
自分はまだ16歳だから大体……人生三千万回分になる。
実感が湧かない。
永遠と何が違うのだろう。
ここから出る時自分はどうなっているのだろう。
分からない。
何故か、両親にテニスプレイヤーを目指すと宣言したことを思い出した。
昔から俺はテニスが好きでそれで練習し始めたんだ。
好きこそものの何とやら、中学校になった頃には俺は市内でも上位のプレイヤーになれたんだ。
中学の大会では惜しくも入賞できなかったが、もっと上手くなればきっと優勝できると思った。
だから、強豪テニス部を持つ高校に進学した。
親の反対もあったけどなんとかなる、なんとかするなんて言って押し切ったっけ。
その結果は……
「いやいやいや、まだやれるはずだ!まだ俺には時間がある!」
そうだ。俺には五億年という途方もない時間がある。
俺の人生の約三千万回分。
絶対に上手くなれる。なれない訳ない!
「よし、もうちょっと頑張る。練習するぞ」
俺は起き上がってもう一度ラケットを取った。
――――――――――――――――――――
それから多分……5ヶ月くらい経っただろうか。分からない。もうスマホの充電も無くなった。
俺は練習相手も何もないなりに頑張った。
ランニング、筋トレ、球上げ……
はっきり言って部活のそれよりも薄味な練習だったが、チリも積もればなんとやらだ。
少しずつレベルアップしているはず。
はず……はず、なんだ。
でもそれが正しいのか俺には分からない。
比較対象がないから。
数ヶ月前の自分よりもより長く走れて、より上手く球の軌道をコントロールできるようになったことはわかる。
でもそれが試合に繋がっているか確信が持てない。
「誰かとやりてぇ……」
とにかく、俺は薄味な練習を地道に積み重ねていた。
上達している自信はある。
でも本当に成果に繋がっているのかが分からない。
例えるなら……暗闇の中ただひたすら歩き続けるような感覚。
歩いていることは分かる。進んでいることは分かる。
でもそれがゴールに進んでいるのかは分からない。
明後日の方向に進んでいたとしても何も不思議じゃない。
こういう時はどうすれば良いんだろうか。
やっぱり一度立ち止まって自分がどこにいるか考えた方がいいのではないか?
「……それが良い!そうしよう。ちょうど最近はずっと頑張ってばかりで、そろそろ休むべきだったし」
俺はそこらにごろんと寝転がって、最近の練習メニューを考え直し始めた。
自分に足りないものを数えて、それを補うのに何が必要で……
そんなことを考えている間に疲れて眠ってしまったのだった。
――――――――――――――――――――――――
……今はここに入って、大体、50年以上は過ぎたのだろうか。
分からない。
この昼も夜も暗い場所では1日経っても知り得ない。
最近私は趣味を見つけた。
物語を考えるのだ。
すでに私の物語は30作を越えている。
そのどれもが素晴らしい。
今日は囚われの姫様を私が救いに行く日のはずだ。
王道な筋道だがそれで良い。王道には王道の良さがある。
ふと、目の端に古びたボールを見つけた。
「……チッ」
俺はそれを手に取って振りかぶって、遠くの空まで投げはなった。
冒険によって鍛えられた筋肉は裏切らない。
ボールは空高くまで飛んでいって、すぐに見えなくなった。
私はそれを確認すると振り向いて自分の物語と向き合うことにした。
「………………………………」
だが、できなかった。
何故だか分からないがそれをしている場合ではないような気がしたのだ。
胸の中から何かが迫り上がってくる感覚がする。
そうだ、私は暇を潰すためにここにいるのではない。
テニスをするためにここにいるのだ。
「私は、俺はなんてことをしてしまったんだ……」
そのまま急いでボールを投げた方に走り出した。
だが、ボールはどこにも見つからない。
どこまで飛ばしてしまったのだろう。
未だに未練がましく続けていた筋トレの成果を実感している場合ではない。
俺はボールを探し始めた。
――――――――――――――――――――
当て所なく空間を歩き回って……分からない。
この空間には際限、というものがない。
どこまでもボールを探して歩いていると、気づけば自分すらどこにいるのか分からなくなってしまった。
文字通り果てしなく続く地平線は俺を囲ってしまい、俺は何もかもなくしてしまった。
持ってきた道具も、居場所も、ボールも、そして自分の記憶にいたるまで。
この空間に入ってもう100年は過ぎた。とっくのとうに記憶なんて薄れている。
それでも記憶が残っていたのは自分のボールが、ラケットが、持ち込んだ物があったから。
「もう、疲れた……」
俺は歩く。歩き続けてきた。
その結果が、これだ。
「休もう……そして待とう」
俺はすでに頑張った。
充分頑張った。
最早覚えてすらいない家に帰ればきっとテニスが上手くなっているはずだ。
だから、もうあと4億9999万9900年を待とう。
現状維持で、十分だ。
――――――――――――――――――
多分、ここに来て1000年。
俺は機械的に筋トレをしている。
筋トレはしないと筋肉が衰える。
それに、自分がどのくらいここで過ごしているのか分からなくなるから。
――――――――――――――――――
1万年後。
歩く。歩く。歩き続ける。
もしかしたら何かあるかもしれない。
少なくとも何もしないより暇じゃない。
歩く。歩く。歩き続ける。
――――――――――――――――――
10万年……経ってるといいな。
もう、一歩も動いてない。
全てが無駄に感じた。
やめだ。
寝よう。
――――――――――――――――――
ああああああ!
また起きた!また起きた!また眠くなくなった!
あああああ!くそ!
またこれだ!寝ることすらできない!
――――――――――――――――――
……もう何も考えたくない。
全てが苦痛だ。
――――――――――――――――――
――――――――――――――――――
「……」
「……」
「……?」
何か、ある。
「……」
それを近づけて、見る。
「あ、」
ボロボロの、ボール。
「……」
涙が溢れた。
「……俺、何してんだろ」
何しに来たんだろ。
――――――――――――――――――
「おめでとうございます!さぁ!こちらが66万円でございます!」
「さてあなたは5億年、練習することができました。しかしもしかすると物足りない、と感じているのではないでしょうか?」
「そんなあなたに!もう一度5億年ボタンを押す権利を差し上げましょう!如何しますか?」
「ええ、ええ。なるほどなるほど。分かりました。それでは私はこれにて」
「では、この度のご利用ありがとうございました」
――――――――――――――――――
冷房の効いた部屋に男が死んだように眠っている。
心電図は規則正しいリズムを刻み、蝉はただ自分のために鳴いていた。
病室の窓からは夏の強い光が差し込んでくるので、ついさっき看護師がカーテンを閉めてしまった。
にわかに、外が騒がしくなった。
近くの高校の学生だろうか。高校生ぐらいの青少年達が掛け声をあげながら走っていた。
その時だった。
男の石のような目蓋がゆっくりと開いた。
「……ゲームセット」