『世紀の聖女』セオさんが誘拐犯の私をニコニコ振り回していく。 作:てりのとりやき
「そもそも誰も死んでないよ、人は」
金眼金髪の女、ノヴァクがそう断言すると馬車の中の雰囲気が一変した。
向かい合う形で座る背の高い女、漁火が腕を組む。先のノヴァクの発言を吟味するように二呼吸は間を置くと、
「……人は死んでいない? 人の死体があるのに?」
垂れ目の丸い瞳が、似つかわしくない鋭い視線を帯びる。
「根本的に視点が殺人事件なんだよ、“教会”も漁火も」
「分かるように言え金猫」
「つまりさ、動機の線から考えたんだ。犯人はなんでこんなことをしたんだろうって」
ノヴァクは両手を持ち上げた。お椀の形にした掌それぞれを、天秤をまねた動きで上げ下げする。
「漁火が懸念する通り殺人死体だとするよ。だとしたら死体をあんな形で残す理由は何?」
言いつつ右手を上げ、
「怨恨?」
言い終えると右手を下げ、左手を上げた。
「なにかの計画?」
「それは……」
漁火は言い淀む。目を逸らした時間はさほど長くない。
「……衝動的な行いで、死体の処理まで頭が回らなかったとか」
「それなら防水テープをわざわざ大量に用意して、家中の隙間を塞ぐなんてこと思いつく前に現場から立ち去るんじゃないかな」
恐らく漁火は──というより“教会”は、動機から事件の真相を探ることを早々に放棄したのではないだろうか。
神による殺人行為の禁止。人類が遵守し続けた絶対的なルールを破るほどの理由に怨恨の可能性が浮上しなかった時点で、“教会”は犯人の動機らしい動機が理解できなくなったのだ。
それは先の漁火が、さして躊躇うこともなく発言した点からも明白だった。
「咄嗟の、衝動的な殺人じゃない。相当な計画性を持った事件だよ──でも、だとしたら尚更、死体の隠蔽工作が密室を作ることなんていうのは杜撰だ」
「杜撰かどうかで判断するのも違う気がするんですけど……」
と、ツアワリ。細いあごに手を当てながらつぶやかれた言葉に、女はニコリと笑って反応する。
「もし私なら完璧に殺る」
「……」
──誰一人として、犯罪者の言葉に押し黙った。
「誰にもわからない。誰にも知られない。そういうやり方でやる」
女の経歴を把握している異端審問官も。それを知らないはずの主席司祭も、当の女によって誘拐されている聖女も。
罪を犯せる者。犯罪者という在り方は、躊躇なく踏み越えてはならない一線を飛び越せるのだと、言動だけでノヴァクは証明していた。
「犯人は誰かを殺したことを隠蔽したいがために密室を構築したんじゃなくて……」
「…………殺すこと自体が目的じゃないって言うのか?」
「そう。目的と手段が逆なんだ。人を殺して捜査をかく乱する、逃げおおせるための密室……ではなくて、密室殺人事件を作り上げたいがための死体なんだ」
だからね、
「話がもとに戻るんだけど──あれは人の死体じゃないよ」
漁火が怪訝な目つきをした。妄想を語る相手にするのと同じ表情に、ノヴァクは苦笑交じりになって説明を続ける。
「ほら、庭に牛や豚の生ごみが埋めてあったって言ってたでしょ」
「ああ。まあ……」
「漁火、その男が最近豚とか牛とかをまるっと一頭手に入れたりしてない? もしくはそうだな……墓守の知り合いがいるとか、馴染みの肉屋がいるとか。私の想像する通りならどちらとも付き合いがあるはずだよ」
「……ちょっと待て」
漁火が小脇に置いておいた鞄から書類の束を取り出した。ぺらぺらと紙をめくる音──。ぴたりと女の動きが止まった。
「ある。確かに。人間関係の中に、肉屋も墓守も居る」
「なら死体の材料は都合がつくね」
「……」
「人の死体に似せて動物の骨を削り、死肉と臓物を並べて、誤魔化しきれないところは粉砕するか、既に白骨化した遺体の一部を用意するか、虫に食わせてうやむやにする。……よく考えられた人間もどきの死体だよ」
ノヴァクは、漁火が向ける胡乱げな眼差しを堂々と受け止めた。言っている自分でも分かっていた。証拠をさして用意できる説明ではないと。
肉屋も墓守も、まっとうに生活していれば付き合いがあってもおかしくない者達だ。それにたった今漁火が向ける視線の意味も理解している。
「あんた、見た時点でわかったのか? 人の死体ではないと」
──人の死体を見慣れていない者が真偽を判別できるはずがない。
公的記録上、ノヴァク・金猫は殺人罪を未だに犯していないことになっている。漁火が浮かべる疑惑の表情は、まだ発覚していないだけの罪があるのではないかと、そう語っていた。
「ンフ。黙秘で」
異端審問官としての問いかけを軽く受け流して、ノヴァクは続けた。
「気づく奴は庭に埋められた生ゴミを見て気づくかもしれない。だけどあえて庭に埋めたんだ」
「わざとらしく土が盛られていたのも、完璧に隠す意図がなかったからということでしょうか?」
「うん。良くできた偽装殺人死体を見せびらかしたくてたまらないって言いたげだった」
「じゃ、じゃあ……これを仕出かしたのは一体誰なんですか?」
ツアワリの、半ば確信が混じった疑問。女は三人をそれぞれ見回してから口を開いた。
「あの家に住んでた男だと思う」
つまり、ノヴァク・金猫が導き出した推理の帰結には被害者というものが存在しない。
被害者本人による偽装殺人事件……自作自演だと、ノヴァクはそう言っている。
「それでも密室についての問題が残るぞ。合鍵がないとあんたの話は成立しないじゃないか」
「どの道合鍵無しで成立する密室工作じゃない。合鍵は犯人が作った可能性が高い」
「……そんな加工技術を個人で持てるとは思えないな」
「活版印刷をやってる工房で働いてたんでしょ? 文字の組版を作成、修繕するための加工機械はあるはずだよ。時間をかければ合鍵の作成自体は困難じゃないと思うけど?」
「いや、しかしだな……そんな簡単に作れるものではないだろう」
漁火の言いたい事も分かる。
技術も、経験も、設備も必要とする道具だ。思い付きひとつで簡単に造れてしまっては鍵と錠の存在価値がない。
しかしノヴァク・金猫には確信がある。
何についてかと言えば、
「納得できないならもう少しだけ付け加えるとね、私はこの事件を単独犯によるものだとは思ってないよ」
「────」
漁火が目を瞠った。ノヴァクは女の反応に確信する。やっぱり、と。
この世界の人間には、致命的な視点の欠如がある。
「複数犯……確かにそれなら……」
「複数どころじゃない。家畜の用意、不要物の処理、合鍵の作成、偽装しきれない人骨の調達、偽装死体の作成、用意周到な密室工作……どれも少数の連携で出来ることじゃないと思う」
「──組織的な犯行だと?」
『組織』と呼ばれるものとして真っ先に思い浮かぶのが、人類の99%が所属する“教会”であり──逆に言えば、他に『組織』と呼べるだけのものが思いつかないことだ。
国も、国を運営するための政府も存在しない。行政という概念も非常に曖昧で明確な区分けがされたものでもない。人々は善意を前提になんとなくで文明を維持している──維持できるほどに神々の祝福が強い。それがどれだけイカれた社会構造か、自称宇宙人のノヴァク・金猫には分かる。
「なら歯列はどう説明する? 歯だけは合鍵のように簡単には作れない。あんたの言う通り錠前業者の誰かがグルだったとしても、個人を特定できる手段を……歯を偽造することは出来ないはずだ」
漁火の指摘はもっともだった。
合鍵も、偽装死体も用意が出来たとして。密室工作もそのようにして準備できたとして、“教会”とて無能ではない。殺人事件の可能性があるなら徹底的に調査する──死体が人かそうでないかの判断に確証を持とうとする。歯列という情報は、教会が死体が人間であると断定するに足りた最たる証拠だ。
しかしノヴァク・金猫には、その揺るぎない確証さえも不安定な基軸の上にあるものとしか思えなかった。
「全部抜いたんだろうね。自分の歯を」
「なに?」
ツアワリも、セオも、漁火も。──三人ともが女を見た。
理解できない理屈で動く、自分たちと同じ人の形をした、人のようでいてそうでない犯罪者を。
「だから、自分の歯を全部抜いたんでしょ」
「ちょっと待て! あんたの話はめちゃくちゃだ!」
ついに漁火が声を荒げた。腹部の奥底から鳴り響く明瞭な声音には、分かりやすく困惑が乗っている。
「家畜を使い、それっぽく見せるだけの死体。事件をかく乱するための密室工作。教会を欺くために偽装死体に自分の歯をすべて使う?!」
ノヴァク・金猫の推理は常人の発想からは外れていた。
だからこそ誰もがそもそもの話に立ち戻る。
「そこまでして一体何がしたかったんだ、犯人、いいや犯人達は!」
犯人の動機は結局何なのか──と。
それについても、ノヴァクは一つの結論を得ていた。女は動じることのない静かな面持ちで、はっきりと言った。
「教会の反応と組織力を探りたい、とか」
「──」
言い終えた瞬間、漁火の体が完全に硬直した。動揺、瞬間の思考、駆け巡るこれまでの違和感、『何故』『どうして』……すべてに妥当な理屈が当てはめられる、その可能性。
もしも。
もしも、犯人の目的が単なる殺人ではなく、それを調査する“教会”の能力把握だとしたら。
「…………とにかく、“教会”の方で死体をもう一度確認する。骨や内臓の組成をこうまで人のそれに似せるだけの偽装工作だ、時間は掛かるがそれではっきりするだろう」
「うん。それがいいと思う」
それはつまり、この世界に……神への信仰心と人々の善意によって成立する社会への、何らかの悪意と害意の表われだ。
◇
そして数日後。『都市』の聖堂、管理人宿舎のリビング。主席司祭のツアワリと聖女のセオが礼拝堂でお祈りをしている、昼下がり。ノヴァクは一人、おやつとして鼻歌交じりに饅頭をパクついていた。
そんな女に近寄る人物が一人。
『どすん』と重々しい物音と共に向かい合う形で椅子に腰かけた女の背は高い。──ニイナ・漁火=スレイヴイレスパースリーが、実に不本意そうに目を瞑りながら口を開いた。
「金猫。あんたの読みが当たったぞ。死体の幾つかの部分には家畜のものと思われる組成が確認された。……実に巧妙だったよ。個人を特定しやすい箇所には徹底して死後間もない死体からの継ぎ接ぎで、それらについても
ニコニコ顔で饅頭を食べていたノヴァクは、漁火の話を聞き終えると口に含んでいた饅頭の欠片を咀嚼した。空の湯飲みを持ってきて、湯気を立てている急須から緑茶を注ぐ。
漁火の前に若い香りを放つ湯飲みを差し出しつつ、さして興味もなさそうに相槌を打った。
「ふーん。漁火からしたらよくない展開だね?」
「まったくだ。“教会”の検視官たちは上から下への大騒ぎだよ。対応マニュアルの見直しが近々入るから、まあ、同様の事件でこれ以上騙されることは無いと思うが……」
被害者と目されていた男は未だに行方不明のままだと言う。また、ノヴァク達が現場入りしてからしばらくした後に、『都市』では複数名が突然姿を消したらしい。その者達の職業は肉屋や墓守、錠前業者だったとも漁火は以前言っていた。
つまりノヴァク・金猫の推測は『ほとんど』当たっていたということだ。
「事件解決の協力者ってことで一応伝えておく。事件の第一発見者である職場の上司。そいつも現在行方知れずだ。“教会”ではそもそも事件発覚のタイミングすら犯人達……“犯罪者達”の思惑通りだったと推測している」
「む。マジか。それはちょっと予想外だな」
始まりからして偶然を装った故意のものとは、ノヴァクも予想できなかった。想った以上に犯人達の規模は大きい。
「しかしよくわからないな。なんであんな凝ったことまでして密室殺人を偽装したんだ? 計画の立案、必要な物資や人手、偽装死体の作成……“教会”の反応を探るにしては手が込みすぎているだろう」
恐らく現在、全力で“犯罪者達”の全容解明に取り組んでいるだろう“教会”は、それでも図りかねているのだろう。漁火はそれを代表するかのようにため息を吐いていた。
「……──やってみたくなったから?」
湯飲みを手に持った漁火に、ノヴァクは自身の推測を口にした。茶を飲みながらも垂れ目の眼差しは続きを促す。
「本がたくさんあったでしょ。それも大半は娯楽小説だった。面白おかしい話ばかり読んで、そのうち同じことをやってみたくなったんじゃない?」
「何を」
「殺人」
「……そいつは、異端審問級だ」
苦々しいものでも口に含んだみたいに、女の眉間に皺が寄る。一口飲んだだけの湯飲みを置くと、台所から砂糖入りの小瓶を持ってきた。──勝手知ったる何とやら、だ。
「漁火なにしてんの?」
「何ってお茶が苦いから甘くしたい」
「おこちゃまな味覚にドン引きだよ……」
「うるさいな。甘いのが好きなんだよ」
そのまま湯飲みの中に砂糖をシャバシャバ入れ出した漁火の落ち着き様、この家での生活の慣れっぷりに、いよいよノヴァクは我慢できなくなった。
「いやていうかさ──漁火はなんでまだ居るわけ?」
数日前、『案月食堂』での邂逅から今日までずっと、漁火はツアワリ達の下で暮らしている。異端審問官であり神事監察官でもあり、何より枢機卿団のメンバーである漁火には“教会”がもっと良い宿を手配していると思うのだが。
「なんだ。いちゃだめなのか? あんただって居候の身だろ」
「まあそうだけど。枢機卿団の上位聖職者サマってそんな暇なの?」
「……実を言うとだな、私は事務作業が苦手なんだ」
「見ればわかるけど」
「あんたしれっと失礼だな」
頬を膨らませて不満をあらわにした漁火は、少しの間静かになった。話す内容をまとめているのだろう。ニイナ・漁火=スレイヴイレスパースリーは実年齢39歳だが、頭の回転はたぶん14歳のツアワリ・桜花より鈍い。
女が顔を横に向けた。視線の先にあるのは庭に繋がる戸。視線はさらにその先へと続いていた。
「今回の事件をなんとかしたかったのもあるし、ツアワリの顔を見たかったのも勿論だ。だけどそれ以上に……」
五月。
春もそろそろ終わろうかという季節。
リビングの窓戸からは雲一つない快晴の空が見え、それを背にそびえたつ立派な聖堂があった。聖堂内部──礼拝堂では今頃セオとツアワリの二人が真摯な祈りを捧げていることだろう。そんな聖堂は複数の塔が組み合わさることで形作られており、その中でも一番高い塔の先端部分には、視力の良い者にならば陽光を受けてキラキラと光り輝く『糸』が見て取れるだろう。
“
軌道エレベーターの主要構造体の遥か天上では、万物創世槌《真理大数
「“神の炎”の降臨が近い」
漁火の一言に、ああ、とノヴァクも合点がいった様子で頷いた。
“神の炎”の降臨。
それは『光桜拝謁』と呼ばれる、四半世紀に一度だけ行われる神事を指す。世界各地に点在する13の“聖隷指定都市”にて同時進行し、終了後は世界規模の祭事が執り行われる大規模な神事だ。
「もうそんな時期かあ。てことは今回はツアワリちゃんがオペレーター?」
「ああ。『光桜拝謁』が終わるまではここにいるつもりだ」
「神事監察官としてのお仕事ってわけか」
神事監察官というのは文字通り、神事が滞りなく遂行されたかを監理し、“教会”に報告する役目を負っている者達だ。重要な神事に立ち会う神事監察官ほど聖職者としての位は高く、“神の炎”の降臨──25年に一度の『光桜拝謁』ともなれば枢機卿団のメンバーが派遣されてもおかしな話ではない。
「25年前は君がやってたね、漁火」
「あんたはその頃からふざけた奴だったよ金猫」
二人ともが浅く笑った。同じ過去を懐かしむ者たちが見せるささやかな笑い声。ひとしきり笑った後、漁火の丸い瞳はしみじみとノヴァク・金猫の容姿を見つめる。
長い睫毛。滑らかな肌艶。高い鼻梁。
精緻な造りをした顔は、高名な職人が作った人形のように美しい。
だが、非人間的なまでにバランスが整った容姿というのは、どこか不穏だ。
「…………私達は25年前から歳を取らないな」
「そこって普通『歳を取ったな』じゃないの?」
「私達は普通の人間か?」
「ンフ。違うけど」
二十代前半にしか見えない二人は、同じようにまた笑みを浮かべた。
「……今回の件でやはり実感したよ。あんたは犯罪者だが、“教会”に必要な才能の持ち主だ」
憎き異端審問官にしては珍しくストレートな褒め方に、眉を逆立て、ヌハハと口を開けて笑った。
「ンフフ私の有能さに恐れ入ったか! 今度饅頭奢れ!」
「ああ。饅頭か」
「なになに? 饅頭も奢れないって?」
「いや。……そうだな。事件解決の報酬に饅頭をねだる所も含めて、教皇の仰る通りだったなと」
「……教皇? 教皇って、あの教皇?」
急に飛び出たワードに、ノバクの笑みは鳴りを潜める。まるで借りてきた猫みたいに大人しくなってしまった女の態度に、漁火は頷いた。
「ん? ああ、言ってなかったか。行き詰っていた私に、あんたに事件解決を依頼しろとご助言くださったのがハイファティ教皇なんだ」
「へー。そういう話の流れかぁ」
「教皇はあんたの居場所も知ってたぞ」
「ああ、うん、まあそんな気はしてた」
『教皇』。
“教会”における最上位聖職者の肩書き。599億人の信徒を束ねるこの星の、人類の意思、その代弁者。その椅子には1977年前からずっと、同じ人物が座り続けている。
彼女は今も座り心地の悪い教皇専用の椅子に座り、教皇にしか使えない判子と封蝋を押し続けているのだろう。
「教皇ねえ……」
「……なあ金猫。あのさ」
遠い目をしているノヴァクに、漁火が何事かを切り出そうとしたその時。
「お二人ともただいま戻りましたー!」
「お夕飯の準備をしますよー手伝ってくださいねー」
玄関から、元気な二人の少女の声。お、と猫が耳を立てるみたいに表情を明るくしたノヴァクが、敬虔な信徒である少女たちを出迎えようと椅子から立ち上がる──ふいに漁火へと女の金眼が焦点を合わせた。
「漁火、なんか話あった?」
「…………いや。そんな大した話じゃないからな、また気が向いたら話すよ」
「ふーん。ならいいや。ご飯ご飯! 今日は何作るのかな~」
鼻歌交じりにリビングを出ていくノヴァクの背を見つめ、僅かな時間だけ一人になる漁火。
自前のショートヘアーを撫でながら、筋肉質に背の高い女はその童顔を曇らせる。
「教皇。私はどうにも不器用な女です」
はあ、と重いため息を一つ。そして懐から一通の手紙を取り出した。
──ニイナ・漁火=スレイヴイレスパースリーは多忙を極める上位聖職者だ。
今回の密室殺人事件を解決する必要があったし、そうでなくとも日々を実務で忙殺され、それでも日々の隙間を縫って旧知の仲であるツアワリ・桜花の顔を見、数か月後に予定されている『光桜拝謁』の立ち会いもある。
そしてもう一つ、ノヴァク・金猫に会う用事というものがあった。
「……どうやって渡せばいいんだ、こんな書簡」
便箋に入った書簡は薄く、だが上質な紙と封蝋によって構成されていた。
封蝋のデザインは中々お目にかかれない複雑なもの。それは桜色の蝋燭で象られた花びらの欠片と、それを囲う繋がっていない鎖でデザインされている。
欠けた花と鎖、瑕疵の紋──それを扱える者は、この世に一人しか存在しないとされている。
◇
『都市』の、どこにでもある通路の脇。
日中だというのに家屋の陰に紛れ、ほの暗い裏道の奥。
一組の男女が言葉を交わしている。
「それで?」
「“教会”の動きは迅速だな。現場の保存、検証結果の整理、情報規制の決定から徹底……2000年の歴史を持つ組織はハリボテじゃない」
女の問いかけに、男がてきぱきと答えていた。
「それで?」
「解せないのは、一度は殺人事件と判断していたのをひっくり返したところだ。誰かしらの協力者がいたとみるべきじゃないか」
「それで?」
「関連が疑われるものとして、現場付近の監視役が報告を上げている。数日前に現場に立ち入った四人組がいるとな。身元が割れてるのは三人で、主席司祭のツアワリ・桜花、異端審問官のニイナ・漁火=スレイヴイレスパースリー、アルマツァーレ・聖桜=インペリアル」
「それで?」
「もう1人の女は身元特定中だ。どうもアルマツァーレ・聖桜と共に聖堂宿舎で暮らしているらしい」
「それで?」
「教会が殺人事件非認定の判断を下した時期と、この四人組が現地入りした時期が一致している」
「それで?」
「恐らく身元の割れないその女は犯罪者だな。思考回路が俺達寄りなんだろう」
「それで?」
「女は
「それで?」
何度も続いた定型の問いに、しばし男は口を噤む。
……やがて言葉を選ぶようにして言った。
「近いぞ。もしかしたら、その女がそうかもしれん」
「……」
今度は女が黙った。何事かを考え込むような沈黙──二人はそれぞれ目線を合わせることなく、ただ裏道の奥から出口を見つめている。
陽の当たる通路を。そこを行く、日々を生きる人々を。暗がりの奥底から。静かに。無機質に。
「大変結構」
女は静かにそう言った。
「可能性を探りましょう。場当たり次第に騒ぎましょう。粛々と罪を犯しましょう。確証が得られるまで無限に試行を刻みましょう。そうすれば、いつかは我らが主は降臨なさる」
女がそっと、手で払う仕草をする。男は小さく頭を下げると裏道から通路へと去っていった。
独りになった女は、未だ日陰の中から出ることもせず、両手を組み合わせる。
何者かへの祈りを捧げるように。
「ああ……。我らの神、人のための真なる神、恋してやまない私の神」
声は先ほど男に向けて発していたものとは打って変わって、陶酔の響きが入り混じる艶めかしいもの。
「どうか見守りください。どうかお待ちください。そこにいるのでしょう? 天には居ないのでしょう? もうすぐ、ようやく、たどり着けるかもしれない……あなたに近づいている気がするのです」
女の瞳は爛々と輝いている。
女の口は優美な弧を描いている。
「私達はあなたが求めるままに、人が人を殺せる、罪を犯せる正しい世紀を築いてみせます」
女は──女が浮かべるその表情は、恋と愛と情が幾つも混ざりあった複雑なもの。
真実誰かを愛している者が浮かべる、恍惚とした表情だった。
「あなたを──愛しています」
やがて女は声を無くして笑い、……気付けば裏道の奥には誰も居ない。
物質として神が存在し、人を祝福する世界で、誰一人として日陰の中には存在しない。