『世紀の聖女』セオさんが誘拐犯の私をニコニコ振り回していく。 作:てりのとりやき
数日後のことだ。
昼下がり。『都市』の第四市場付近に店を構える飲食店、『案月食堂』の店前にて。ベンチに座って煙草を吸う男と、そんな男に話しかけている女がいた。金髪金眼をした女、ノヴァク・金猫の言葉は一方的なまくしたて方をしており、男の方は相槌を打ってばかりのようだった。
「私が食べたかったのに食べられたんだ!」
「へェ」
「ひどくない? 楽しみにしてたのに! 頑張って並んだのに!」
「オォ」
「仕返ししてやるつもりなのに何も通じないし!」
「アぁ」
先日起きた饅頭食べられ事件の犯人、ニイナ・漁火=スレイヴイレスパースリーについての愚痴である。
大仰な身振り手振りを多量に交えた感情あふれるノヴァクの喋りに、店主の男、ナルティバティ・
ともすれば睨んでいるようにも見える濁り切った男の目が、頬を膨らませている女を見上げた。
「で、なんで俺に愚痴ンだ?」
「セオさんもツアワリちゃんも私が愚痴るとこの怒りを宥めようとするからね。ナルティバティくらいてきとーに相手してくれる方が愚痴になるんだよ」
「なぁる」
ノヴァクはナルティバティと殊更に仲が良いという訳ではない。友人未満知り合い以上といった具合の、浅い付き合いだ。こうまで慣れ親しんだ様子で会話をしているのもノヴァクが馴れ馴れしい女だから、という以上の理由はない。
「それぁ以前来た大食いの客だろ」
「よく覚えてるね君」
「一度来た客の顔は忘れねぇ」
それはそれでとてつもない記憶力だとノヴァクは感心した。
男は煙草を口に咥え、ゆらゆらと熱い煙を立てながら遠い目をする。しばしの黙考の後に、男は煙草を手に持った。
「……こないだよ、あの客独りで俺ンとこ来て『饅頭作れるか?』ッて聞いてきたが」
「え。そ、そうなの」
「菓子職人じゃねえからなぁ。断ッたら何かトボトボ帰ってッた」
初耳だった。
食いしん坊で食欲に脳を支配されているとしか思えない巨漢ムキムキ女──だとノヴァクは思っている──が、一体どういう理由でわざわざナルティバティを頼ったのか、女は頭を巡らせる。自分の中のどこかで答えが出ている疑問だというのに、あえてそれを考えないようにしながら。
「ちなみに……お饅頭が欲しい理由とか言ってた?」
「さあ? そこまで聞く気はねーな」
誰にでもドライで、誰にでも鷹揚な態度をするのがナルティバティ・優の良い所だ。ノヴァクはそう思う。他者と常に適切な距離感を維持し、分け隔てない。知る人ぞ知る名店と『案月食堂』が呼ばれるのは店主の人柄もあるのだろう。
「ノヴァクよぉ。俺ぁただの料理人だから詳しいことは分かんねーが……」
自前の携帯灰皿に灰を落としながら、ナルティバティの暗い瞳は香る火を映す。
「食いっぷりの良い奴に、悪い奴ぁいねエよ」
「……」
……わかっている。饅頭を食べてしまってからやけにしおらしい態度の漁火が何を考えているのかなんて。
わかってはいるが、それでも納得してしまうのがどうしても悔しい。
◇
『都市』の市場は複数存在する。人口数の多い『都市』には住宅地の密集区画というものがあり、それぞれの密集区画ごとに市場が自然発生した歴史を持つのだ。各々の市場では絶妙に取り扱う品が違うため、観光目的で『都市』を訪れた旅行者などは幾つもある市場を練り歩くだけでも十分に楽しめる。
「そんなのわかってるけどさあ……」
ノヴァクがぼんやりとした顔でぶらついているのは第四市場だった。
第四市場の大きな特徴は露店が多いことだろう。大きな石畳の主道、その両脇に多数並ぶ露店の数々。食糧や嗜好品、本、アクセサリー。色々なものが所狭しと並ぶ露店をぼんやりと眺めながら、女は目的もなく歩いていた。
「むー……」
往来を行く人の数は多い。いつものことだ。今日の料理の献立で悩む主婦や、自作の工芸品を宣伝する学生、店に置かれた古本を前に立ち止まってじっくりと吟味する学者風の男。
女の口からはつい、愚痴めいた呟きが漏れた。
「貨幣制度もないのによく成立するよ」
……色々な人が、自分の求める物を探して道を行く。その手に財布を持たず、必要なものを見つければ店主から『品を貰い』、『感謝する』。商売という概念のない世界で、商品を購入する対価は『感謝の言葉』や『労働力の提供』程度だ。そういった善意の報酬に、誰もが満足げに頷き、笑い、精神の充足を糧に産業を成り立たせる。
今日も青空を眩く照らす疑似恒星鏡《
貨幣という概念すら持たない人類は、他者からの感謝を、無形の報酬としている。
「おかしいよなあ。はっきりとした形もないものが報酬で良いなんて変だよなあ」
ノヴァク・金猫は、少々苛立っている。自覚があるその感情をどうにも上手くできない状況も含めて、女は自覚していた。
「ムカつくなあ。納得いかないなあ。なんなんだろうなー」
──そんな折である。女の視界に、少しだけ背丈の違う少女二人の後ろ姿が映る。黒い祭服をピンと伸ばした背筋で着こなす黒いポニーテールの少女と、同じく黒を基調とした修道服を着て栗毛を三つ編みにした少女。八百屋の前で佇む二人を目にした途端、女の沈んでいた表情が輝いた。目に見えて活気を取り戻した黄金の瞳が柔らかく緩む。
「おーい! セオさんツアワリちゃーん!」
手を振りながら駆け寄ると、名前を呼ばれた少女たちが振り返った。二対の黒い瞳それぞれに、満面の笑みをした女が浮かぶ。
「あらノバさん。お散歩ですか?」
「そう言う二人は食材が目的かな?」
「今日何を作るか、セオ様と相談していたんです」
「ふーん。私、今日は甘辛い味付けの料理がいいなー」
「構いませんけど……それなら、荷物持ちくらいはしてください」
「うん。いいよ」
既に中身の入った手提げ袋をツアワリから受け取るノヴァク。たったそれだけの事で楽し気に笑い、鼻歌までするものだから、セオもツアワリも不思議そうにしていた。
「なんだかご機嫌ですね……?」
「ンフフそうかな? そうかも!」
「良いことでもあったんですかノヴァクさん」
「そりゃ勿論、セオさんとツアワリちゃんに会えたのが嬉しいんだよ」
当然のことだと言わんばかりに女が笑えば、途端に二人の少女が顔を赤くした。目を丸くしたまま固まるセオに、目を瞑って困り眉をするツアワリ。「こほん」と、眉間に薄く皺を寄せたツアワリが目を瞑ったまま咳払いを一つ。
「……ノヴァクさん。そういうの素面で言うのやめてください」
「なんだか胸がドキドキします……」
「そんなー」
──などと会話をしながら三人で食材探しをしていると。
雑踏の中、人だかりの中でも異様なほど目立つ女をノヴァクは見つけてしまった。
「あ。漁火だ……」
それが誰であるのか瞬時に分かったのは当然のことだった。何せ女の身長は193cmもある。人垣の中にあっても頭二つ高い位置に顔があれば、遠目からでもその童顔垂れ目の顔立ちも分かろうというものだ。
「ほんとだ。ニイナ、一人でどうしたんだろう?」
女の呟きで漁火の姿に気付いたツアワリが、背の高い女を目で追う。ツアワリは物心つく頃からニイナと共に過ごしてきたと言う。そんな彼女からしても一人で出歩く漁火の後ろ姿は少し奇異なものに映ったのかもしれない。
「あれは……お菓子屋さんの露店でしょうか?」
「みたい、だね」
見つめる先。
漁火は焼き菓子を作る店主に、真剣な顔をして何事かを話し込んでいるようだった。身振り手振りで描くのは……『小さな球体』『薄い皮で包む』? 『甘い』、『塩味』、『不思議な味わい』……。
やがて店主が申し訳なさそうに首を横に振ると、漁火は両肩を落として項垂れた。それでも店主に一礼をして、ノヴァク達に背を向ける形で市場の奥へと歩いていく。キョロキョロと辺りを探しまわる仕草まで見え見えだ。しばらくすると別の菓子職人が開いている露店に近寄り、また同じような身振り手振り──。
「ノバさんノバさん」
「……」
隣から名を呼ばれ、応えられない。相槌一つ打てない。
「あれはきっと……」
「……わかってる。わかってるんだ、セオさん」
自然と。
何故か。
どうしてかわからないけれども。
ノヴァク・金猫が歩くのを止めてしまったから、セオもツアワリも立ち止まった。
突然固まったように動かない三人組を、道行く人々が不思議そうに見つめながらも避けていく。善人しかいない世界では、雑踏の中で進まない者達がいても舌打ち一つ鳴ることはない。それどころか、緊張した様子で顔を強張らせている女を心配そうに見る者さえ居る。
「……ノヴァクさん、この間とある女の人が懺悔室を利用したいと相談してきました」
石畳を踏みしめる靴音ばかりが鳴り響く中、司祭を務める少女の声はそれでも明朗にノヴァクの耳に届く。はきはきとした滑舌、無数の人前で喋り慣れているツアワリの言葉には明確な情動が乗っている。
「背が高くて、頑丈で、手先が不器用な、ちょっと抜けたところのある人です」
思いやり。
優しさ。
他者を想うことが出来る者がする声音。
「その人は懺悔室に入るなり、落ち込んだ様子で言いました。『悪気があったわけじゃないがそれでもその人が楽しみにしていたものを奪ってしまった』」
「……」
「『仲直りをするにはどうすればいいんだろう』──悩んでいる様子だったから、私は答えたんです。許してもらえるかはわからなくとも、同じものを返してやるべきでしょう……と」
なるほど。そういう経緯があったから、漁火は『案月食堂』にまで顔を出したわけだ。腑に落ちない女の行動に合点が行く──分かり切った答え合わせだ。
「誰にも過ちはあります。誤りを認め、誠意をもって頭を下げる他に不和を解消する手段はありません」
「それができるからこそ世界は優しい人でいっぱいなのですね」
それまで真剣な顔をしていたツアワリも、微笑むセオの言葉に表情を緩める。矯めた眉根を解した少女が殊更に優しい表情で上目遣いになった。
「ノヴァクさん。誰もが誰しもに優しくなれるなら、それだけでなんだって何とかできると思いませんか?」
…………別に、ノヴァク・金猫とニイナ・漁火=スレイヴイレスパースリーは親しい仲という訳ではない。
かつては異端審問官と犯罪者という立場で命がけの『追いかけっこ』を繰り返し続けた時代もある。そのうち、とある事情から『追いかけっこ』をそれぞれが止めただけで、双方がその気になればいつだって再開するだろうという確信がある程度に仲は良くない。
『追いかけっこ』。
「──ごめんっ。ちょっと用事思い出したから二人は先に帰ってて! ほんとごめんー!」
言って、手提げ袋をツアワリに。少女は何も言わずに受け取ってくれる。
ノヴァクは二人に謝りながらも歩き出した。
足早に、セオとツアワリに向けて振り返ることなく。
「……行っちゃいましたね」
「はい。行ってしまいました」
残された少女二人は、食材探しを再開することにした。
露店に並ぶ野菜や肉を眺め、吟味しつつ、少女達は会話を重ねていく。
「大丈夫かなあ……仲直りできるといいんだけど」
「大丈夫ですよ。ノバさんは素直になれないだけの可愛らしい人ですから」
「か、可愛い……ノヴァクさんが……」
「はい。初めて会った時からずっと、とても可愛らしい人です」
ニコニコ顔の聖女の言葉に、ツアワリは思わず半笑いになってしまった。だらしなくて変な笑い方をするあの女が『可愛らしい人』とは、相変わらずすごい聖女様だな、と。
──だけどまあ、可愛い、か。
身近な大人を、年上の存在を、そうやって形容したくなる気持ち……分からないでもない。
「セオ様。実はですね……ニイナも、不器用なだけの可愛い人なんです」
「まあ。そうなのですか? あのニイナさんが……」
「ええ。垂れ目なところがチャームです。背が高くてがっしりした体つきなのに、本当は気が弱いんですよニイナは」
ツアワリは少しだけ得意げな顔になって、隣のセオに人差し指を立てて見せた。くすくすとセオが口元に手を当てて品良く笑う。修道服のベールの奥から、光の粒を散りばめたかのように煌めく黒の瞳がこちらを見つめる。
「もし差し支えなければ、ツアワリさんとニイナさんのお話を聞かせていただけませんか?」
「いいですよ。もちろん」
食材をある程度集め終えた二人は、聖堂への帰路をゆっくりと歩いていった。市場から少しずつ離れていくことで人々の数も徐々に減り、逆に聖堂が近づいてくる事で周囲の雰囲気も厳粛なものへと変わっていく。
「そうですね……ニイナは、私の育ての親でもあるんです」
「まあ。なんと」
「実は私、実の両親が物心つく前に亡くなっていて……両親の親戚だったニイナが引き取ったって昔本人が言ってました」
「奇遇ですね。私も、生まれた頃には両親ともに死んでおります」
それは確かに奇遇だとツアワリも頷いた。
プライベートな事情を深く突っ込んで聞くことは出来ないが、『世紀の聖女』との意外な共通点にツアワリは少しだけ気持ちが浮かれる。以前一緒に入浴した時伝えたように、アルマツァーレ・
「昔からニイナはとにかく何をやらせても不器用で、料理も掃除も裁縫も洗濯も……何もかもすぐに物を壊してばかりだったんです」
過去を懐かしむと、いつもの口調が剝がれていく感覚があった。若干14歳で司祭になったツアワリには年の近い同性の知り合いが数少ない。
こうして気を緩めて喋っていると、ツアワリはつい思い出してしまう。
「だからニイナは私の育ての親ではあるけど、親というよりは年の離れた放っておけない姉……というより妹……? のようなもので」
物心つく頃には一緒に暮らしていた、背が高くて料理が壊滅的に下手な女のことを。エプロンの紐を結ぶのさえ難儀するような彼女が作るオムレツは、オムレツというより炒り卵だった。
毎日何かしら壊れたし、毎日彼女はそのことで落ち込んでいたのだ。
「だけど、ニイナがいたから」
落ち込む女の頭を撫でて慰めるのは幼いツアワリの役目だった。一人では難しいことなら二人でやればいいと、だから料理も、聖職者としての手伝いもツアワリは率先して行った。何か出来るたびに、女の節くれだった硬い掌が頭を撫でてくれるのが嬉しかった。
気づけばツアワリ・桜花は主席司祭になっていた。今の自分が持つ自信を形作ってくれたのは、まず間違いなく不器用な母親兼、姉妹兼、幼馴染の漁火がいたからに他ならない。
「今の私がいるのはニイナのおかげなんです」
◇
漁火は気落ちした様子で市場を歩いていた。角ばった両肩も今は筋肉が弛みきって丸みを帯びている。
「はあ。ここでもないのか……」
饅頭のことだ。女は、饅頭を作れる菓子職人を探していた。それも数日前に食べてしまった饅頭と同じものを作れる菓子職人をだ。菓子を並べる露店がないかあちこち探し回っていると、突然横から声を掛けられた。
「何探してんの?」
「饅頭を作ってくれる菓子職人だ」
ふーん、と相槌を打つ声の主。親切な他人が、明らかに探しものがある漁火を気にかけてくれたのだろう。この世には親切な人がたくさんいるなあ。
「どんなお饅頭?」
「えっと、餡子と、なんか変な味の……──」
そこまで言ってようやく漁火は声の主へと目を向けた。見下ろす先には女が居て、思わずぎょっとした。
凄まじく精緻な顔立ち、高い鼻梁、剝きたてのゆで卵のような肌。肩からずり落ちたビッグサイズパーカーが晒す、首筋から肩、鎖骨までの滑らかなライン。
一度見れば決して忘れることなどできない、線の細い女……。
「金猫、あんた……」
ノヴァク・金猫だった。
楽しみにしていた饅頭を食べられたことで不仲に拍車が掛かり続けていた同居人が、無愛想な顔をして突っ立っている。
「漁火なにしてんの」
「い、いや、そのこれはそのだな」
硬い響きを持った質問に、しどろもどろになりながら応える──答えられていない!
「……」
「ええ、と、だから……その……」
どうしよう。
漁火は悩んだ。
正直に白状してしまえばいいのだろうか。言ったところで金猫がどう反応するのか分からない。それが分かるほど漁火と金猫という女の間に、友情や親愛は、無い。
「ふーん。漁火はお饅頭を探してるんだー。へー、ほー、はー、ひーふへほ」
「あ、ああ。……『ひーふへほ』?」
「じゃあこれあげる」
平淡な言葉と共に金猫が小さな紙袋を差し出した。思わず受取り、訳も分からないまま紙袋の口を開く。
……饅頭があった。
数は二つ。茶色と白色が一つずつ。──紙袋から視線がずり落ちる。金猫の目を、そこにある真意を見定めようと。
「え、でも」
「……ん」
「……。……いいのか?」
「ん!」
「わかった、わかったから」
言葉には出さなくとも、金猫が何を言いたいのかは漁火にも分かった。
やけに押しの強い金猫に気圧されるまま漁火は茶色い方の饅頭を手に取り、一口かじ
「まッッッッッず!!!!」
ヴォエ! あまりに酷い味に漁火は呑みこんだことを後悔しながら舌を出した。目を白黒させて齧った跡のある饅頭を見ると、そこには餡子の黒とはかけ離れた赤と紅とピンクの入り混じる謎の物体が包まれている。
「なんだこりゃ?!」
「……京谷堂新作フレーバーの激辛唐辛子とイチゴジャム酒盗饅頭だけど?」
「意味がわからん。本当に人の食い物か?」
「はあ……やれやれ、これだから素人は」
『分かってねえなあ』みたいなムカつく顔で肩にかかる髪を払った金猫が、漁火が持つ紙袋に躊躇なく手を突っ込む。白い方の饅頭を恐れることなくパクついた。
「ふむ。チョコミントはちみつ味か……悪くないね」
「そっちの方が甘くて美味しそうだな」
「あげないからね」
「む……」
いまいち良くわからない展開に、食べかけの饅頭を持ったまま身動きができない。そんなこちらを放っておいて金猫が歩き出してしまうから、慌てて後を追った。
背中を向けたまま、歩きながら女が言う。
「私はお饅頭が好きで大福も好き。京谷堂の新作フレーバーが日々の楽しみで……あとはそうだな」
なんの話なのか漁火にはおおよそ見当が付いた。
だから口を挟まず聴くことにした。
「──今は、セオさんが毎日笑っていられるこの世界が好きなんだ」
振り向くことはなかったが、空を仰ぎ見る女の仕草から笑っているんだろうなと予想がついた。
金猫の足が動きを止める。
振り向き、少しだけ微笑みながら、腰を屈めた女は上目遣いにこちらを見上げた。自重に従った女の髪がさらさらと肩から流れ落ちていく。
「漁火は?」
たった今女が語った内容を漁火は今まで何一つ知らなかった。知らなくても済む関係だったからだ。
これからは、……どうだろう。
違うかもしれない。
結局これまで通りに終わるかもしれない。
「君の好きなものは何?」
考える。目を瞑る。少しだけ、黙る。
好きなもの……。
生きている理由に通じること。
「…………おいしい料理が好きだな」
瞼を押し上げ、気づけば小さく笑っていた。
「あ、いや。これが美味しくないとかじゃなくてだな、その、だから……」
──守りたいものがある。
丸くて小さな両手で、たどたどしく作られた目玉焼きの味。今でも忘れていない。焦げ、黄身は潰れていたが、あれは世界で一番美味い目玉焼きだったのだ。
あの頃よりも大きくなった手で、真面目な少女がミサで振る舞った香ばしい料理もまた……世界で一番美味かった。
「前のミサで食べたピザというやつ。焼きたてのもちもちのサクサク。あれはよかったな……」
「ふーん。あっそ! そんなに美味しかったなら漁火もミサ手伝えば! ツアワリちゃんも喜ぶと思うし!」
どの道いつまでも同じ方角を向いて進んでいくような関係ではない。漁火には『都市』に留まる理由が……“神の炎”の降臨、四半世紀級神事『光桜拝謁』の監督業務がある。それさえ終われば、『都市』を離れる予定なのだ。
それでも“神の炎”降臨までまだ一か月近く待つことになる。ノヴァク・金猫という女との縁はきっとそれ以降も続く。
「な、なあ金猫」
「なに」
「すまん。先日のことは私が悪かった」
腰を折り、深く頭を下げた。どのような間柄で、相手がどのような罪を犯してきたかを知っていても、驚くほど素直に頭を下げることが出来た。
「…………目立ってるからさ、頭、上げてよね」
頭上から降りかかる金猫の声音は平淡だったが、どこか角が取れた柔らかさがあった。
ゆっくりと顔を上げると、微かに頬を赤くした女が腕組をしてあらぬ方に顔を逸らしている。
「もういいよ別に。残念だったけど、別に、そんな怒ってなんかなかったし」
「そうか。……ありがとう」
「はー? 感謝されるようなことはしてないけどー?」
ほら帰るよ! と女が帰路を促してくる。
頷き、並んで歩いていると、金猫がぶっきらぼうに呟いた。
「それ、ちゃんと食べてよ」
「ああ。うん。……まッずいなあこれ。最悪だぞ本当に」
「そう? 私は好きだけどなこういうのも」
こいつ味覚壊れてるだろ。
などと漁火は思ったが。
──まあ、いいか。
口には出さないでおいた。
◇
その週の日曜日。ミサでの出来事だ。
「ちがーう! 小麦粉300グラムって言ったじゃん! なんで分量測らずにドバーっといれるの?!」
「なんだ金猫、あんた細かいやつだな……。いいじゃないか分量なんてだいたいおおよそで」
「そのだいたいおおよそが料理の味を悪くするんだよッ!」
「多少悪くても私は平気だから構わないぞ。次は塩を小さじ1か……小さじ1ぃ? 面倒だな、えいっ」
「?!?!?!?!?!?! 漁火今なにしたの?!」
「なにって、塩をひと掴してポイ」
「あがががががががが」
「うーむ。もうちょっと塩気が強くてもいいと思うんだよな……ポイっ、ポイっ、そいそいそいっ」
「おごごごごごごごご」
「ノバさんが壊れました!」
「ニイナに料理を教えるのはノヴァクさんでも無理だったようですね……」
『私もピザ焼き、手伝ってもいいか……?』と緊張した様子でそう言った漁火の、圧倒的に圧倒的な料理センスに、ノヴァクが白目を剥き、ツアワリはやれやれと諦め混じりにため息を吐いていた。
それからも……。
「──うん! 結構うまい! なんだ私でも料理できるじゃないか! ありがとう金猫。あんたのおかげで自分でもけっこう料理が作れるってわかったぞ!」
「フーッ、フーッ、フーッ」
「ノバさんが怒りを抑え込もうと過呼吸になってます!」
「一応袋探しておきましょうか」
窯で焼き上がった自作のピザをワクワクしながら一口食べた漁火が満面の笑みを浮かべたり。
「バカ舌! あほまぬけアホアホアホ!」
「ノヴァクさん、ボキャブラリーがカスみたいなことになってますよ」
「タッパあるだけおばさん!」
「おばさんじゃないぞ」
「ナス生で食え!」
「食べれるぞ」
「?! 皿食って寝ろ!」
「食えなくはないぞ」
「?!?! れ、レンガ齧ってうんちしろー!」
「うんちは誰もがするぞ」
「キー!」
「鶏の鳴きまね上手いなあ」
最近悩み事がないのか煽られても乗ってこない漁火に、ノヴァクが顔を真っ赤にしたり。
「金猫、これ。京谷堂の1日限定100個のこしあん饅頭。……こないだの詫びの品だ」
「む。む、む、む。グググ……」
「ノバさん怒りと感謝の狭間で顔がすごいことになってます!」
「実は私も最近饅頭の奥深さに気付いてしまってな」
「……なんだって?」
「饅頭って意外と種類もあってうまいんだなあ。特に京谷堂の品ぞろえは群を抜いていると言わざるを得ないな。……ありがとう金猫。私もなんだか饅頭のことが好きになってしまったよ」
「むがーッ!」
「ノバさん人がしてはいけない顔をしています!!!!」
「これは憎い相手が自分と同じ趣味に目覚めてしまい喜びたくても喜べない人がする顔ですね」
凄まじい形相で眦を吊り上げたノヴァクに、各々穏やかな顔をしていたり。
「饅頭はなあ……饅頭はなあ……っ!」
今日だけで数十年分は怒り散らかし心が限界を迎えたノヴァクが、首まで真っ赤にしながらも漁火を指差したり。
「──私のほうが饅頭を愛してるんだよーッッッ!!!!」
負け犬の遠吠えよろしく叫びながらミサから逃げ出すなどしていた。
「なんなんだあいつ。意味が分からんぞ」
「……これに関してはニイナが悪いと思うよ」
──その日のミサで振る舞われたピザはたいそう塩気が濃く、評判もイマイチだったらしいが、余ったピザをすべて一人の女がうまそうに平らげてしまったらしい。