『世紀の聖女』セオさんが誘拐犯の私をニコニコ振り回していく。 作:てりのとりやき
翌日。正午の頃。
比較的規模の大きな街には『政務分所』という執政機関が存在する。これは教会の一部門だが、信仰とは離れた雑務を扱う。戸籍管理やインフラ修繕など、人間社会の基盤を支える部署だ。
その庁舎は街の規模が大きくなればなるほど巨大になる特徴があり、聖隷指定都市の一つであるその『都市』の『政務分所』もまた、極めて大きい。
連綿と続く歴史の中で増改築を繰り返した複合建築物。赤い屋根が輻輳して重なり合うその全容は一目見ただけでは全体構造を把握しづらい。そんな『政務分所』の隅の方には、普段は使われることのない部屋が幾つかある。
それは雑多で細々とした業務の中でも一際特異なもの。──犯罪者の勾留所である。
灰色をした剥き出しのコンクリートが使われた壁は厚く重い。廊下の窓は最小限に抑えられる質素なもの。規則的に並ぶ扉にはそれぞれネームプレートが付いている。
『独房・一』。
そう記されたネームプレート付きの扉を開け、廊下に出る者がいた。わざわざ背を屈めなければ扉をくぐれないほどに身長が高く、だというのに顔立ちは幼さが残る童顔。丸い垂れ目が印象的なショートカットの女、──漁火は廊下に出てすぐ大きく息を吐いた。
「もうしばらくこの街に残ることになりそうだ」
発言は廊下で待ち構えていた女、金猫に対してのものだった。
漁火は、四半世紀級神事『光桜拝謁』の完了を見届けてから、遥か遠方の“教会”本部へ戻る予定だった。それが延期になったと言っている。理由は言わずもがな、『光桜拝謁』の後に発生した“神の炎”盗難未遂事件によるものだ。
「それで、なんて言ってたの?」
発言に反応を示すことなく、金猫はそう問い質す。拘束済みの、“神の炎”を盗んだ実行犯がどのような供述をしているかについての確認だということは、漁火にも理解できた。事件の関係者として気になるというのも納得がいく。とはいえ“教会”に属していない者に伝えてもいいものかと、漁火は思わず顔をしかめてしまう。
「あんたなぁ……部外者だろ」
「でも知りたいじゃん」
「はあ……。……まあいいか、私もあんたに訊きたいことがあるし」
気を取り直して端的に伝えることにした。
「指示を受けた、だとさ」
「誰の?」
「それをどうやっても思い出せないと供述している。他の捕まった連中も同じ。誰かに荷物を渡され、逃げるよう指示されたが、相手が誰かわからない、覚えていないの一点張りだ」
漁火はため息をついた。
「組織的な犯罪を疑っていたが、どうもそんな単純な話じゃないな」
男からは強い幻覚症状をもたらす薬物が検出された。他にも神経系の強化を誘発する薬物も確認されている。異端審問官……素の肉体で音速の二分の一にまで迫れるほどの身体能力に追従してきた動体視力は、恐らくドーピングによるものだろう。
実行犯であること自体は間違いないが、唆した張本人がまだ居るということ。そしてその張本人に繋がる糸はぷつりと切れている。
不気味な幕引きだ。
分からない事だらけのまま事件は解決しようとしている。後味の悪さばかりを残して。
「……」
漁火は、金猫を見た。俯きがちになって静かに何事かを考えている女の横顔を。
……何年経っても、いつ見ても変わらない顔の形。ほそい顎、すっきりとした線、なめらかな肌理と肌艶、長いまつ毛、精緻な造りの瞳と鼻筋。その造形は十人中十人が綺麗だと思うのだろう。
「かつてダイナマイト爆薬は“神の叫び”と呼ばれた未解析技術だった」
女は顔を上げてこちらに目を向ける。唐突に変わった話題に、思慮を巡らせる瞳。
「それを解明し人の手に与えたのはあんただな、金猫」
ニイナ・漁火=スレイヴイレスパースリーは異端審問官であり神事監察官だ。上位聖職者としての役職を掛け持ちしているから、“教会”の極秘事項に触れる機会も多い。
「あの時男が起爆したもの。爆弾とは、鉱山の発破用ぐらいにしか使われない物資だ。危険が伴うから“教会”が在庫を厳重に管理しているし、製造技術の秘匿は徹底している。……市井に出回るものじゃない」
目の前にいる女が特異な技術に精通しており、かつて神のものであった神秘を人の手の内に何度も貶めたことを知っている。謎多く、不老であり、超重犯罪者であるということも。
だが。
「教会からの技術流出とは考えにくい。あるとすれば……」
「あれはダイナマイト爆薬じゃないよ。コンポジション爆薬だ」
「……」
──だが、『いつから』『ここ』にいるのかだけは、上位聖職者の立場であろうと知ることが出来なかった。
まるで意図して隠されているかのように、ノヴァク・金猫という存在には封がされている。
「それは何だ」
「教会に伝えてない技術の一つ」
問えば、女は滔々と『答え』を明かす。
いつもそうだ。
この女は、ノヴァク・金猫は昔から、隠し事なんてないかのように正直だ。
「……安定性、可塑性、操作性全てにおいて現代の爆薬に優る、トリメチレントリニトロアミンを主原料とした爆薬」
嘘を吐かない。だけど大量に隠し事をしているし、それを突かれないように
「──フー……ッ」
盛大な吐息が口から洩れた。ため息というには長すぎ、呼気を吐き出すにしては軽すぎる。自然、片手が後頭部を掻いた。
「やれやれ、あんたの言葉は時折難解だな。理解に苦しむ」
「トリメチレントリニトロアミンっていうのは……」
「そうじゃない。そんな事はどうでもいいんだよ犯罪者」
恐らくノヴァク・金猫には隠し事をしている自覚がないのだろう。
その存在をひた隠しにし、人々が真相に辿り着けないよう歴史に意図的な改ざんを加えている者は他に居る。──それが誰であるのか、漁火には見当が付く。
「問題は、核心は、なぜ今そんな事を話すのか? あんたは何者なのか? ……そこなんだよ」
「……」
黎明より寄る辺なき者達を導く立場さえあれば、人類史という長すぎる本の修正など容易だろう。
人体はどうせ百年程度で尽きる矮小なもの。個々の脳が保管する記憶は、土に埋めれば誰にも分からないのだから。
「あんたは──あんたは……」
漁火はもう一度金猫を見た。確かに焦点を合わせて、真正面から。
……真摯な表情だ。
権力にも、暴力にも興味がない純粋な眼つき。
『ンフフ、やあこんにちはお目々がくりくりしたお嬢さん』
思い出す。金猫という女との出会いを。
『私はノヴァク。ノヴァク・金猫。この街の修道士だ!』
『きんねこ?』
『そうとも。そして、しばらく君の身元預かり人なんだ』
『あずかり?』
『ご両親のことは残念だったね。お悔やみを申し上げるよ』
ニイナ・漁火=スレイヴイレスパースリーが、まだニイナ・漁火であった頃。何者でもないただの五歳児の頃。“不慮の事故”から両親を同時に失った子供の前に、ありふれた修道女の恰好をして、その女は現れたのだ。
『もうあえない?』
『うん。ご両親は亡くなった。もう会えない』
『そっかー……』
……ああそうだった。彼女は昔から、忌々しいくらい嘘を吐けない正直者だった。
問いかけに真実を返すこと。そこに躊躇いはないのだろう。人の機微は理解しがたいのだろう。
『君を引き取りたいという優しい夫婦がいるんだ。君に歳の近い女の子もいる家族なんだよ。……あれ、ちょっと歳離れてたか? まあいいや! あのね、まだもうちょっと一緒に暮らすための準備が必要なんだって。そこでこの街の頼れる修道士こと金猫さんの出番ってわけだ!』
『ふーん。そうなんだー』
『……私達は家族ではないし、もちろん血の繋がりなんてものはない赤の他人だよね。けど、私は君に寂しい思いをさせたくないな』
敬虔な信徒だったとは思えない。祈りの言葉はでたらめだったし、後になって同じ立場になってみるとほとんど間違っていた。34年前の当時から神々というものを好いていなかっただろうに、どうして修道士として『聖堂』にいたのか。
『どうして?』
『君のような可愛い目をした女の子は、素敵な人生を送るべきだから』
誰にだって同じようなことを言っているのだろうと、最近になって気付いた。同じ笑みで、同じ調子で、分け隔てなく優しい愛情を振りまく。それを受けた相手がどう思っているかなんて考えてないに決まっているのだ。
絵に描いたような聖女だと……僅かでもそう認識していた自分を絞め殺したい。
『私と一緒に暮らしてくれるかい? 漁火ちゃん』
──それでも過去は過去で、漁火という女が聖職者の道を志すに至った最たる理由は目の前に居る。
女の形をして。
あの頃見上げていた女を、今は見下ろしている。
「簡単に呪えるならどれだけ楽なんだろうな」
薄暗い廊下に冷たい光が窓から斜めに落ちている。空間を舞う埃が光を反射し、ちりちりと眩い。そんな最中に女の表情は不変だ。凍えた光を受け、その白い肌色は余計に色味を増す。
「──なあ金猫、歴史の重みなのか?」
「なにその言葉」
「私が生まれて39年が経つ。私が物心ついた頃にはあんたは既にその姿だった」
34年前現れた光は、ニイナ・漁火がニイナ・漁火=スレイヴイレスパースリーへと名前を変えた頃には犯罪者として落ちぶれていた。
追いかけ、逃げられ、捕まえたと思ったら脱走されて。それを何年も繰り返すうちに過去はただの過去に変貌し、漁火と金猫という女の間には異端審問官と犯罪者という関係性だけが残った。
……だけど変わらないものもある。
不変であり続ける女の肩書についてだ。
「異端審問官第一席、ノヴァク・金猫=スレイヴイレスパースリー」
世に3人だけ存在する異端審問官。その内の一人でありながら罪を犯し、“教会”から堂々と離反した犯罪者。“教会”が消し去りたい重篤な恥。なるほど、教皇ハイファティがその存在を秘匿したがる理由も分かるというものだ。
神への信仰から団結できている人類に、信仰を捨てて犯罪者に落ちぶれた異端審問官などという醜聞は不要だ。
「あんたがかつて異端審問官だったから、今の私と同じだから、せいぜい百年前ほどから不老なのだろうと……そう思っていたんだ」
不老不死を叶える剣スレイヴイレスをその身に宿すのであれば、永久に生き続けることが可能だった。それは教皇であるハイファティ・
であれば、『いつから』という疑問の終着点も
「だけどそうでなく。あんたが創世の頃から生きているなら」
聖職者の道を志した理由の一つに、否定したくともしきれない存在がある。幼い頃に孤独の傷を癒してくれたいつも笑っている女がいたからだ。その女が修道士だったからだ。
それと同じような出来事が誰しもにあったのだとしたら。
……もし、もしも。
ノヴァク金猫という女が、ありとあらゆる人類にその背を追わせたくなるような性質を持っていたなら。夜の灯火に集る虫のように人類が皆、愚かなのだとしたら。
「あんたの、過去の選択が……今ここに悪意を呼び寄せたのか」
「漁火は何が言いたいの? 言いたいことがあるんでしょ。ならはっきり言って」
迂遠な言葉、問いかけに、女ははっきりと問い質す。常に不変の態度に、ふと考える。
──強烈な光に目と脳を焼かれた虫が集り、壁に頭をぶつけて潰し、頭蓋を失ってもまだ生きていたら何を考えるのだろう? 漁火には分からない。分かるはずがない。
潰れた頭のまま生きる他ない者達自身にもきっと分からないに決まっている。
「“犯罪者達”はあんたの模倣犯か? それとも、あんたが主犯か?」
疑うに足る理由があった。
爆弾の設置場所だ。
逃走中だった男に爆弾を仕込む暇があったようには思えない。起爆装置も、地面に偽装した爆弾の設置方法も、裏路地という人的被害を異端審問官個人に集中させるための環境の用意も、あまりにも用意が周到すぎる。あれはニイナ・漁火=スレイヴイレスパースリーという女の身体能力と、事件発覚からの時間、それぞれに正確な予測が立たない限りは無理な芸当なのだ。
そしてここにはどのような手段でか、逃走犯の居場所を一発で探り当てて見せた女がいる。
多すぎる過去。
封をされたまま開けられない素性。
異端の技術。犯罪者としての経歴。
異端審問官として疑わざるを得ない状況ばかりが積み上がっている。
「私は────」
「なあ金猫、馬鹿なんだ私は。今回みたいな事件は……大事な人が泣くのを見るのは、嫌いだ」
「……うん。だよね。ごめん」
「なんで謝るんだあんた」
「うん……」
金猫の言葉を強引に覆い隠す。あえて答えを求めなかった。今、見つめる女が真剣な顔をして首を横に振ろうとしていたのが見て取れたから。
十分だ。これ以上の『答え』はきっと要らない。
「あんたが撒いた種が萌芽して、何かが起きようとしているなら……私はスレイヴイレスを引き抜き人権という鞘を放棄する。人を殺せる剣になるよ、金猫」
「……」
漁火には直感があった。
何事にも終わりがあるのだと。それがいつ始まるのかはともかく、確実に『ある』と。
「だけど──ありがとう」
「?」
理解不能な動機で活動する“犯罪者達”。その首魁かもしれないノヴァク・金猫。そうでなくともコンポジション爆薬なる未知の技術を通じて関連性を持っている、それを隠すことなく明かしてみせる犯罪者。
何もかもが禄でもない。
それでも。
少なくとも、ツアワリ・桜花が泣き崩れた時、少女を救おうとした女の言葉は真実だと……そう信じたい。
「あの時。あんたがツアワリを想って行動を起こしたことが私にとっての小さな希望だ」
言って、漁火は再び扉を開けた。気の休まらなかった休憩を終えて、職務を全うする。
犯罪者と向き合う事を努力する。
◇
鞘から剣を引き抜くとは、こういう事態を引き起こすということ。猜疑……と言うにはあまりに不公平か。どのみち何もかもを明かすことは出来ないのだし、到底信じてもらえるとも思えない。
「仲良しこよしって関係でもないしなあ……多少は疑われてる方がいいよね、うん」
『政務分所』から『聖堂』への道すがら、そう、考え直す。
半信半疑くらいがきっと丁度いい。
「まあ、うん。仕方がない、仕方がない……」
『今回みたいな事件は……大事な人が泣くのを見るのは、嫌いだ』。そう言った時の女の顔が脳裏を過ぎる。
寂しそうだった。苦しそうだった。
誰かの苦しみを想って苦しみを負うことのできる、優しくて悲しい伏し目がちの表情。
同じ気持ちを持っていて、同じ方向を見ていたはずだ。協力していた。共に一人の少女を救いたいと奮い立てたはずだった。だというのに、こうまで不和の色濃い結末だけが残ってしまった。その理由に納得できても、胸の奥には重苦しさがわだかまる。
「後味が悪いのも仕方ない。何も解決してないんだし」
言いつつ歩く道は曖昧だ。自動的に進む足取りは普段と何ら変わらないというのに、まるで足裏に鉛でも溶け込んでいるように感じた。
なんだろう。
なんだか……少しだけ空しい。
「ただいまー」
──気づけば管理人宿舎の玄関扉を開けていた。昨日の夕刻あたりから漁火ともども忙しかったから、一夜空けての帰宅だ。今くらいの時間、ツアワリもセオも『聖堂』の方にいるのだろう。
誰もいないだろうし昼寝でもして時間を潰そう。
そう思い、二階へ続く階段を上がろうとすると。
「ノヴァクさん!」
「わあ!」
突然の大声と共にリビングに繋がる扉が勢いよく開け放たれた。木製の扉が強く叩かれる快音と共に立っていたのは黒の祭服に身を包む少女だ。黒い髪を今日も几帳面に後ろで一つ結びにした、大ぶりの猫目をした14歳の女の子──ツアワリ・桜花。
ツアワリは肩を強張らせ、落ち着かない様子でノヴァクを見つめていた。
「なになに!? 急に叫んでどうしたの?」
「は、話が、あります……」
よほど緊張していたのか、少し息を切らしながらツアワリはそう言う。彼女の表情は真剣だ。声に微かな震えが混じっている。請われるままにリビングへ移動し、少女がソファに腰を下ろすのでその向かい側に座った。
話があるというツアワリの言葉を待つ。
「……」
「……」
膝と膝をぴったりと並べて俯く少女を静かに見つめる。
「……」
「……」
「お茶淹れよっか?」
「い、いいえ! 私が淹れます!」
のんびりと提案すると、ツアワリは慌てて手を振り立ち上がった。それはもう『シャキっ』という音でも鳴りそうなほど俊敏な動きで。
そのまま司祭の少女はキッチンへ向かう。その背中はどう見ても普段以上に力が込められていて、真っ直ぐすぎる。何を緊張しているのだろう?
湯を沸かす間、司祭姿の後ろ姿が唐突に言った。
「……ノヴァクさんが何とかしてくれたんですね」
昨日の盗難未遂事件についてだ。
「いやー私って言うかなんとかしたのは漁火だけど」
「でも、犯人を見つけてくれたのはノヴァクさんだってニイナが」
「見つけただけだよ」
言う頃には湯も沸き立っている。ぽこぽこと湯気を立てるティーポットとカップをソファの間にあるテーブルに置くと、ツアワリは丁寧にお茶を淹れた。
華やかな赤い液体が注がれ、空間に芳しい香りが広がっていく。──ツアワリが機嫌の良い日に使う茶葉だ。
「でも……ほとんどノヴァクさんのおかげなんですよね?」
「うーん。私一人でなんとかなったわけじゃないしなー」
「……」
そんな風に謙遜しなくても……、といった意味合いの込められた猫目がこちらを見つめていた。謙遜のつもりもないのだが。
ノヴァクは肩を竦めてみせた。カップを一つ手に取ってまだ湯気を立てている紅茶を口に含む。そうしている間も少女の視線はじっとこちらを見つめ続けていた。探るように、何かを堪えるように。
やがて……、
「ノヴァクさんは」
「?」
ツアワリは淹れた紅茶に手を付けないまま、少しだけ上ずった声音で言った。
「ノヴァクさんは、ダメダメな大人です」
笑うべきなのか悩んだが、「えへへー」と笑っておいた。ふざけた態度だといつもなら頬くらい膨らませるだろう少女はしかし、俯きがちに瞳を伏せて、指先を軽く握り締めるだけだ。
何というか……今日は随分しおらしい。
「いっつも服装がだらしないし、サボってばかりだし、お祈りはしてくれないし。ニヤニヤしてばかりなのもよくないと思います」
「ンフフ。情けない大人でごめんね」
茶化しても、ツアワリは恨めしそうにこちらを上目遣いに見やるだけだ。
「でも……。頼りがいのないノヴァクさんが、いつもセオ様には真剣に向き合っているのを知っています」
そんなに真剣だったのだろうか。
他人から見た自分というものを正確に理解してはいないから、僅かに思考は自身の内側へと逸れていく。
もしも少女が言うように、誰かに真剣に向き合っていたなら、その信頼は漁火をああも半信半疑にさせただろうか? もう少しは信頼に寄せられはしなかったのか。普段の行い、間違えてしまった過去、歴史の積み重ね……。
『過去の重みなのか?』
この思考の意味はどこにある──湧いた疑問に、即座に『答え』は導き出せる。
分かっているくせに。
「そうかなあ」
多少なりとも信頼関係を築き、協力し合えた相手に疑われたことが虚しくて悲しいのだ。そんな折り目正しい情動が自分にあることに踏ん切りが付けられないだけだ。
人ではないというのに。
人には成れないというのに。
「私はツアワリちゃんが思っているほど、誰かに対して真剣になってないんじゃないかなあ……」
「そんなことはありません」
──その即答は、剣のようにバッサリと言い切った。
思わず、見る。改めて少女の顔を。
赤面し首筋に薄らと汗まで浮かべたツアワリ・桜花は、緊張しつつも真摯な眼をしてこちらを見つめていた。
「私は人に真摯に向き合える人が好きです」
「……」
声音は砂糖をまぶしたように甘かった。少女の瞳には普段は感じ取れない煌めきがあった。
……これは何を言われているのだろう。至極まっとうに整理していくと、『誰かに真剣に向き合える人が好きなツアワリ・桜花』『ノヴァク・金猫は真剣に誰かに向き合っているという主張』という情報が残る。この二つの間には、どうにも単純な結びつきがあるように思える──っていうかそもそも話ってなに?
「誰かに優しくできる人が、私は好きです……」
「え、ええと……」
陶然とした呟きに何を返せばいいか迷っていると、ツアワリはこほんと咳ばらいを一つする。
「あなたのことを理解できるのはこの世界でセオ様と私くらいですね」
赤い顔のまま、得意げにそうまで言った。
これはいよいよ話の方向性がよく分からなくなってきた。──とりあえずなんか喋るか!
大げさに身をのけ反らせ、手で顔を覆う仕草をする。
「な、なんかまぶしいね。ツアワリちゃん今日は眩しいよ!」
「すぐそうやってはぐらかすのは照れ隠しなんですか?」
ツアワリはくすりと口端を緩め、仕方ない人だなあと物語る優しい表情になった。
わざとらしい仕草をやめて、改めて14歳の少女を見つめ直す。
「なんか……なんかちょっと大人びたね? ツアワリちゃん」
「人は泣くと成長するものなんです」
「なるほど、新事実だ」
少女が小首を傾げるのに合わせて一つ結びの黒髪が軽く揺れた。夢見心地のような声音で続ける。
「たまにはお祈りしましょうね。……ううん、お祈りしなくてもいいです。一緒にお料理を作りましょう」
言葉に、ツアワリの声に、一緒に過ごす時間を心から楽しみにしている想いが込められているようだった。緊張はもう解けたのか、柔らかな笑みが自然に浮かぶ。
「あなたと一緒に作った料理はいつも美味しいから」
その笑みが、言葉が、悪意に崩れ落ちた昨日の涙を余計に強く想起させた。
何が何だかよくわからない。だけどとにかく、あれほどに泣いていた少女が、今日はこんなにも素敵な笑顔を見せてくれている。それはきっと何よりも価値があり、何よりも意味のある瞬間だ。ノヴァク・金猫が求めた『今』は、『答え』以上の明確な形としてここに存在している。
これ以上の報酬なんてきっと無い。
何の不満がある?
疑われる悲しさ虚しさがこびりついていた精神を簡単に取り戻せる、ツアワリ・桜花の素敵な笑顔以上の何が!
「ねえツアワリちゃん。今この都市には何らかの思惑が渦巻いてるみたいだ」
……とても不思議だ、生き物は。
よく泣くし、よく笑うし、よく動く。なのにすぐ怪我をして、治りは遅く、ちょっとのことで簡単に死んでしまう。100年も生きられない。そのくせ、生まれたてから20年弱は未成熟なまま生きなければならない。未成熟なまま死ぬことが時折起こるし、それを時折回避できないことがある。
不完全だ。
「昨日あったことが、似たようなことが、もしかしたらまたあるかもしれない」
完成されきっていないしあなた達には柔らかい所がたくさんある。丸い所も角ばった所も。だけどそんなあなた達だから3つの神は庇護下に置くのかもしれない。もしそうなら神様とやらをもう少しは好きになれる。
愛してやまない、柔らかくて不思議な人類たち。
彼ら彼女らが今日を笑って過ごせる世界にできたのなら、見守り続けてよかったのだと。間違いなど何一つなかったのだと……そう思える。
「私はその時、ツアワリちゃんには理解できない手段で事態を解決させるかもしれない」
遠まわしで曖昧な物言いにも関わらず、ツアワリは丁寧に頷いてくれた。
信ずるに値すると思われる幸福。たったそれだけで沈んでいた心には喜びが満ちる。
「私が何をしても、それは必ず君を救うための行いだから」
ツアワリを真っ直ぐに捉えると、少女もまた離れることのない視線をよこした。
「私を、信じてくれる……?」
「はい。もちろんです」
ツアワリの返事は即答だった。少女の目には揺るぎない信頼が宿っていた。聖堂管理人宿舎のリビングに、静かな絆が満ちる。
少し冷めてしまったが、一緒に飲んだ紅茶はとても甘い味がした。二人して笑い合えるこの時間こそ、事件の余波を乗り越える小さな希望だ。