九鬼儚は、報告書の紙面から目を上げた。暗号回線を通じて流れてきたデータには、見慣れぬ波形――呪詛波の異常値が記録されていた。
“HADES BASE”――太平洋、グアム近海。
画面の中で海面が静かに歪む。音はない。だが、海そのものが呻いていた。次元の膜がひび割れるように振動している――それが、後に「アスモダイの眼」と呼ばれる異常点だった。
儚はそのデータを閉じると、背後の通信端末にアクセスをかけた。返ってきたのは冷静すぎる声。しかし長年――おそらくもっとも任務を多く成功させた儚には、その声が僅かに震えている事に気が付いた。
> 「第十八隊長、情報源はどこからだ?」
「アメリカ国防総省地下網を経由。まだ公式記録には記載なし。……これは放置すれば“日本が消える”可能在が有り」
沈黙。
短い間の後、通信の向こうで誰かが息を呑む音がした。
> 「……第十八隊長、私が部隊を編成する時間を待つ気が無いな?」
「調査時間の遅延は致命的」
> 「命令違反になる」
「非常事態。隊としての行動より“これ”の対処は優先順位が高いと判断」
それは冷静な声でありながら、氷の奥に燃えるものを孕んでいた。
烏有は短く笑った。それは誰より自分が望んでいた言葉だったかも知れなかった。
> 「……やはりお前は私の
儚の指が止まる。
その名が示すものを、彼女は知っていた。
混乱と破壊の申し子。制御不能の分裂者。
“生きた災害”。
「……あの男を?」
> 「奴なら壊潰呪詛の汚染も半ば無視できる。お前一人では戻れんだろう」
儚は数秒だけ考えた。
そして、わずかに目を閉じた。
「……了解。作戦名は?」
> 「Code: ASMODAI。目標は呪詛兵器アスモダイの停止と、大統領令嬢の救出。期限は――“壊潰”の波が日本に届く前だ」
通信が切れた。
儚は無言のまま、机の上の鴉神剣を手に取る。
黒鉄の刃に、薄い光が走った。
――夜。雲は鉛のように重く月光すら腐食される。太平洋のど真ん中、廃棄された軍事島〈HADES GATE〉。風が止まり音が消える。代わりに、空間を満たすのは呪詛電磁結界の脈動音――心臓の鼓動にも似た低い震え。その上空二千メートル、夜の闇を切り裂いて二つの影が降下していた。
「――降下開始、時刻二一三〇。高度、二千一〇。風速、南西三・五。異常なし」
儚の報告が通信に乗る。ヘッドセットのノイズの奥で、もう一人の声が笑った。
「いやぁ、異常しかねぇだろこの状況。呪詛の雲の中でスカイダイブとか、普通“死にたい奴”がやる遊びだぜ?」
「遊びではない。任務」
「俺チャン的にはどっちでも変わんねぇよ!」
楓呀 刎々斬。黒のコートが夜を裂き空中で翻る。二人は同時にパラシュートを開かず、符術降下符《羽落》を展開。青い光の符が靴底に走り、速度が滑るように緩やかに落ちると、島の輪郭が視界に現れた。黒い結界の膜がまるで海面を覆うガラスのように輝いている。
「……呪詛電磁結界。対象規模、直径八キロ。内部の電子通信、遮断。界異信号、反転波混入」
儚がの指先から淡い符光が流れ出した。空間に“文字”が浮かび電子の残滓が宙を流れる。
「儚ちゃん、今ハッキング中?」
「肯定、界異干渉術式を逆転させて結界の“基幹句”を奪取する」
「つまり、乗っ取りか」
「……“ハッキング”でも構わない」
「お、ノリがいいじゃん!じゃあ俺チャン、突破口開いたら突っ込む係ね!」
「了解。貴方の“分身”も使用を許可する。本物には通信機を渡しておくわ」
「え?俺チャンのどれが本体かわかんの?」
儚は一瞬だけ彼を見た。
紅紫の瞳が月光を反射する。
「――あなたの分身、どれが本物?」
「全部俺チャン!でも本物は、君の隣がいいなぁ」
儚は静かに息を吐いた。
「……殺す」
「やっべ、殺意高ぇ!」
直後、結界の表面が歪み、波紋のような符文が炸裂した。
儚の手元で鴉神剣の符が反転する。
「――侵入経路確立。行動開始」
光が走った。二人の身体が同時に“空間の裏側”へ滑り込む。
爆ぜた鉄骨や流。れ出すオイルの赤黒い水面を横目に。二人は甲板に直接タクティカルエントリーを敢行。二人は《羽々具》を展開し、静かに甲板へと降り立つ。衝撃は皆無。足音も風の囁きも消えた。完全な奇襲となった事で、呪詛犯罪テロリスト集団“ラミア”のメンバーを鎧袖一触で蹴散らす――語るほども無い一方的な戦闘だった。視界の先で楓呀が薙刀を肩に担ぎながら、死体の列を踏み越える。黒い仮面が光を反射し蛇紋の血を滴らせた。
「さてさて……地獄の観光ガイドさん、今夜もご案内よろしく!」
「……案内してる暇はない。奥の反応、異常に強い」
儚の眼が、鋭い眼で計測器を睨む。解析が完了し、結界構造が浮かび上がっていた。それはまるで、海底神殿を模した呪詛電磁の迷宮。
「この船……海に沈んでるのに“呼吸”してる。ラミアの儀式装置が、船体ごとアスモダイの神経になってる」
「つまり、俺チャンたち今……神様の胃袋の中ってわけ?」
「……ええ、喉奥の方ね」
楓呀は肩をすくめて笑う。
「そりゃ吐かれる前に暴れなきゃ、消化されちまうな」
足元には、焦げた人影が転がる。もはや人ではない、蛇の殻を纏った“ラミア”のメンバーたち。
彼らの向こうから、ずるり――と鎖のような音がした。霧の中から巨大な影が歩いてくる。筋肉。鱗。金属と瘴気が融合した皮膚。蛇の顎が割れ、黒い舌が床を舐める。背中に巻かれた違法祭具鎖《アスピス・バイト》が金属音を立て、蛇の舌のように床を舐めた。鎖の武具を引きずりながら、無言で歩く異形の男。肩から生えた二対の蛇腕がゆらりと揺れ、鱗が金属のように軋む。そして顔の中央が裂けた――口腔は人ではなく、獣の顎。その舌が冷たい空気を舐め取る。
「ハルド・ヴァスカ。元海兵隊、現“預言者直属”武装隊長を確認――コードネーム《HALD-V》。グアム実験施設《Cobalt Vein》にて死亡報告。……穢装波長が記録と一致」
ハルドの喉が鳴る。笑いだった。
「ニホンゴ、境界対策課という訳でもなさそうだな。ああ、記録なんざどうでもいい。俺は今、“蛇”として生きてる。それで充分だ……祓魔師。俺に祓えるか?人をやめた奴を」
その声は鉄と硫黄の混ざる音だった。背の鎖《アスピス・バイト》が床を叩くたび、金属が悲鳴を上げる。 儚は返さない。ただ《鴉神剣》のコアが低く唸り、シアンの光が灯る。楓呀がヒュウっと口笛を吹きながら上機嫌に言った。
「おっとぉ、ヘビ野郎のお出迎えか?今夜はアメリカンバーベキューだなァ」
機械の鬼面がカチリと閉じる。その声は軽い。だが目の奥は――完全に壊れている。
鎖が走った。風を切る音の直後に、金属の衝撃が空気を割る。蛇の腕が振るうたび、鋼線が蛇腹のように伸縮し、音速を超える。その一閃が空間を切り裂いた。儚の黒髪が風圧で弾けるが、ほんの一歩――風のようなずれだけで、鎖が通り過ぎた。
「外した……?」
「いいえ、“視えた”だけ」
異形の鴉神剣の機関部が駆動、エメラルドタブレットが演算を開始。
「――穿て」
空気が裂けた。刃先から黒緑の光条が迸る。それは銃撃ではない――常世の穢れを凝縮した破滅の光。蛇の腕を一つ貫き、海面の向こうに穴を穿った。ハルドが呻くが、急速に肉体が再生を始める。鱗が滲み蛇が這い出る。攻性御社の砲撃並みの穢れの圧縮エネルギーが貫通したというのに、明らかに異常な再生速度だった。
「再生、早い……瘴気躯体にしても」
「不死の人蛇、伊達ではないっ!」
鎖が唸る。儚は鴉神剣を逆手に持ち、再び沈黙した。
呼吸が合わさる。次の瞬間――両者が同時に動いた。
ハルドの顎が割れ、不可視のエネルギー波が放たれる。空気の膜が弾け、目に見えない衝撃波が一直線に走るが、既に読んでいた儚は跳躍して回避。一瞬遅れて衝撃波が甲板を砕き、鉄片が嵐のように舞う。その破片に紛れる様にして、楓呀が飛び込んでいく。顔の仮面が組み上がり、鬼の形を成す。
「よう蛇野郎!実は、俺チャンたちも国には捨てられちまってさ、似た者同士仲良くしようぜ?」
制空圏に入ったため超反応でハルド・ヴァスカが機会攻撃、《アスピス・バイト》の鎖が迎撃に繰り出される。鬼面の薙刀が一閃――鎖と衝突、火花が散り衝撃波が再び爆ぜる。楓呀が笑いながら吹き飛び、すぐに立ち上がる。
「……ッはは!今のいい筋トレ!もっかいやってくれよ!」
ハルド・ヴァスカは人を辞めて、初めて痺れを覚えた鱗に覆われる手を振りながら毒づいた。
「化け物め……!」
「お互い様ッ!」
楓呀が再び前へ。その背後を、儚の残影が通り抜ける。甲板を削りながら、アスピス・バイトの鎖が獣のようにのたうつ。風が裂け鋼が悲鳴を上げる中、儚は一連の攻防で敵の能力分析を終えていた。
(距離――十五。反応速度――三〇〇超。再生まで一・二秒……解析終了)
「――楓呀、援護」
短い声に、闇の中から笑い声が返る。
「りょーかい!俺チャン、十字に咲くぜ!」
甲板上に、二つ、三つ、四つ――楓呀の影が立つ。物陰から物陰へ、光と煙の中を走り抜け、ガトリングの閃光が十字砲火を形成した。黒の嵐が、蛇の軍団を抉る。弾丸が鱗を砕き火花が夜を貫いた。黒不浄弾を使うと儚が五月蠅いが、今回は他でもない本人からの要請、遠慮なく鋼の嵐を降らす。
常人なら即座に挽肉になる殺戮の嵐の中、ハルドは再生を破壊と拮抗させながら強引に行動。蛇の腕がしなり、音速の鎖が風を断ち切る。鋼線が光を裂き、分身の一つを叩き潰す――影が爆ぜ黒煙と化す。見られた瞬間に分身は崩壊して大変な事になるが、その前に死ぬのなら分身の術式自体は維持できる。楓呀は笑っていた。
「はっはぁ!バレるまでは俺チャンは生きてる!なら充分だろ!?」
紅の残光を引きながら、儚が甲板を一直線に機動。更に彼女の身体が残像のように分かれ、《羽蝶舞》を展開、複数の実体のある残像が同時に疾駆する。疾走に合わせ黒い鴉の羽が舞い上がる。このままでは常世ビームとガトリングの集中砲火を受けるハルドが咆哮。顎が裂け、音速の振動波――《咬霊撃》を発射。空気が爆ぜ鉄板が砕けるが、しかし儚の姿はそこにない。
「――遅い」
声と同時に、背後から光が伸びる。鴉神剣の刃先が緑に輝き、光条が蛇の肩を貫く。閃光が骨を焼き、鱗が蒸発した。だがハルドの口が喜悦に歪み。肉が裂け、蛇が零れ再生が始まる。
「貫かれた分だけ、俺は強くなるんだよ……祓魔師!」
鎖が一斉に跳ねる。儚を中心に、十本の鋼線が輪を描くように襲いかかる。自らの身体を囮に回避不能の罠を仕掛けていたのだ。しかし――その瞬間、横合いから弾丸の雨が割り込んだ。
「はいはい、こっちは俺チャン特製“業禍ガトリング”!蛇焼きモードだぜぇ!」
遮蔽の影で笑う楓呀の声。分身たちが死角から一斉に射撃。十字の弾道が、儚を中心に保護するように交差する。弾丸が鎖を弾き、儚の動線を切り開いた。儚は弾丸の驟雨の中、低く構える。背後に冥府の門――黒い石柱が浮かび、シアン色の光が縦に走った。空間が裂け、無数の刃光が飛び出す。
「――熊野鴉神流、常世千刃斬」
閃光が咲いた。斬撃が鞭のようにしなり空を裂く。ハルドの周囲を何百という光条が取り囲み、蛇の群れごとミキサーのように切り刻んだ。断末魔の声は出ない。瘴気と血潮が光に変わって霧散した。しかしその中心で、まだ立っている影があった。ハルド・ヴァスカ――肉体が蛇群に分裂し、再び集まり始めていた。
「……悪いな。俺の信仰は、死んでも解けねぇんだ」
再生完了――三秒。
儚は剣を構え直す。だがその前に、黒い影が飛び込んだ。
「儚ちゃん、ちょい休憩!ここは“俺チャンのショータイム”だ!」
楓呀が笑いながら鎖の中に突っ込む。
鬼面が割れ、火花を散らし、薙刀の刃が蛇腕を一閃した。
「“バーベキューには串刺しが似合う”だろッ!」
反撃の鎖が彼を薙ぐ。楓呀が吹き飛ぶ――だが、壁を突き破って影がもう一体現れる。
「外したな、そいつは俺チャン“その2”だぜ!」
――そしてまた一体、別角度からガトリングを撃ち込む。たった一人の十字砲火の支援を受け、儚が一歩踏み込みながら跳躍。“はらり”と別たれた彼女の分身が輪を描き、敵を中心に包囲する。
「熊野鴉神流――」
空気が震えた。八条もの常世の凝縮穢装による超エネルギービームを照射。ハルトが串刺しになる姿が甲板に浮かび上がる。更に儚が紅を描きながら滑り、鴉神剣のエネルギー刃が蛇の胴を通過。朱の軌跡が一瞬で花弁を描く。
「――
――その声と同時に、常世の光が炸裂した。
内部に打ち込まれた八条の凝縮穢装光が異形の鴉神剣をキーとして起爆。爆光が夜を焼く。蛇の鱗が剥がれ、瘴気が消える。ハルドの叫びが虚空に溶ける。その肉体が、光の中で砂のように崩れていく。
沈黙。
風が戻り波の音が微かに聞こえる。儚は静かに剣を納めた。楓呀が、爆煙の中から出てきて頭をかく。
「ったくよぉ……俺チャンの影が三人も死んだぞ。慰労金出る?」
「申請しても、誰も存在確認できない」
「ははっ、そりゃそーだ。だって“いなかった”んだもんな」
儚は珍しく呆れた表情を浮かべて見せた。
それは戦場の中で、祓魔師がほんの一瞬だけ見せた人間の顔だった。