戦闘の終焉から三十分後。〈HADES BASE〉の内部は、まるで呼吸を止めた獣の腹のように静まり返っていた。焼け焦げた鉄の匂い。砕けた甲板の下から、海水と瘴気が交じる湿った蒸気が上がる。儚は装備のセンサーを切り替え、最奥部への経路を走査していた。
「……残留反応、ここから一八〇メートル先。アスモダイの“心臓”――反応、励起状態を維持」
その声を聞きながら楓呀が肩を回す。いつもの調子で、だが声の奥にあるのは緊張だ。
「俺チャンは準備万端。水着に着替えるヒマなかったけど、気分はお祭りだぜ。心臓が励起状態って事は、つまり起動キーが刺しっぱなしって事だよな」
「――アスモダイを起動する事が出来るのはただ一人」
その瞬間、二人の目が合う。どちらも同じ結論に辿り着いていた。
> 「大統領令嬢――ニャルラ・エリシア」
沈黙。船の奥へと続く通路は、すでに構造そのものが有機的な異形へ変質していた。鉄ではなく筋肉のような脈動。壁に走るケーブルは血管のように瘴気を流し、時折鼓動のような音を響かせる。 楓呀は鼻を鳴らした。
「いいねぇ。心臓の中のプリンセス救出とか、完全にB級映画じゃん。タイトルは『蛇神の花嫁を奪還せよ!』とかどうよ?」
「……貴方の台詞はいつも安っぽい」
「それは――誉め言葉だな!」
軽口を交わしながらも、二人の動きは正確だった。罠を踏まず死角を潰し、儚の符で感知した残留結界を逐一解除していく。やがて、通路の先に一際明るい光が見えた。それは太陽ではない――心臓の脈動に呼応する、異様な白金の光だった。
《心臓格納区画》
ドーム状の空間。そこは、まるで神殿と病院が融合したような異様な構造だった。円形の床の中央には巨大な円盤――呪詛炉心《ASMODAI CORE》。その上に浮かんでいたのは一人の少女。海色の瞳――だがその奥には、深海のような闇が宿っていた。
ニャルラ・エリシアの容姿は、どこか非現実的だった。白磁のような肌に、金糸の髪が波打つ。光を受けるたび、髪の先がほんのりと“青白く発光”して見えるのは、彼女の体内に組み込まれた“
「……空気成分、有機呪詛を検出。呼吸五分で幻覚誘発レベル。浄化シーケンスを展開開始」
何時も通り真面目に働く儚を横目に楓呀が鼻を鳴らす。
「なあ儚ちゃん、これ、船じゃなくて臓物ダンジョンだろ。B級ホラーの撮影なら“R指定”確定だぜ?」
「撮影ではなく、記録。――貴方の冗談は、後で削除する」
「おっと怖い。AIみたいなツッコミが一番効くな」
空間は呼吸していた。それも、人間のではなく――巨大な何かの内臓の鼓動だ。金属の床が波打ち、壁面の有機ケーブルが蠢くたび、ぬめるような音が響く。天井の奥には、微細な呪詛粒子が浮かび上がり、星空のように明滅していた。それは美しく、そして致命的に穢れていた。
儚は一歩、足を踏み入れた。鴉神剣の刀身がかすかに唸り、翠の光を宿す。儚の式神呼応型バッテリーユニットのセンサーの表示が警告に染まる。
> 【構文感染濃度:臨界レベル。音声発話、禁止推奨】
それでもリスクを承知で静かに言葉を紡いだ。
「……エリシア・ニャルラ。応答を――」
その名を呼んだ瞬間空気が反転した。少女の睫毛が微かに震え、閉じられた瞳がゆっくりと開く。その瞳の奥、深海色の光が淡く揺らめいた。
「――誰?」
声が、響いた。だがそれは空気を震わせる音ではなかった。思考の言葉。直接、脳に響く呪詛構文のような感覚。儚は眉をひそめ、対呪詛用の加護防壁を起動。脳波防壁を展開する。楓呀が隣で軽く舌打ちした。
「心の声通信とか……恋愛シミュレーターみてぇな展開だな。だが、現実はホラーだ」
エリシアの表情が曇る。その唇がかすかに動くと、空気がざわりと震えた。床を這うケーブルが、蛇のように二人へと伸び始める。
「……来ないで。私は――アスモダイの“鍵”だから。外したら……世界が崩れる」
「世界が壊れる前に、あなたが壊されるわ」
儚の声は冷たく、それでいて優しい。力ある祓魔師の声にエリシアの唇が震える。
「本当に――」
彼女の言葉は中断される、床が赤く染まる。アスモダイ・コアが低く唸り、金属の膜が解かれていく。その中心――人影が現れた。
「……やはり来ましたか」
声を聞いた者は、自我の“内語”を奪われる――つまり、思考そのものが侵食されていく。楓呀が慌てて叫ぶ。
「やっべ!耳、閉じ――!」
だが、その言葉が終わる前に、世界が回転した。音が“裏返る”。艦内の反響音が、全て“声”に変わる。「黙れ」「黙れ」「黙れ」――壁が、床が、金属が、同じ言葉を繰り返す。祈りのように、呪詛のように。儚は即座に遮断結界を展開。祓文が音の位相の侵蝕を打ち消す。
「音は封じた……けれど、“言葉”がまだ残っている。」
“敵”は静かに微笑んだ。
「言葉とは、音ではないの。――概念よ」
その瞳孔が縦に裂け、無数の“蛇の影”が床を這い始めた。
「お出迎えやるじゃない、歓迎ムードは百点満点」
楓呀の軽口が乾いていた。
衣は黒。
皮膚は灰銀。
頭部には金属と鱗の冠が絡みついていた。
ラミア教団第七派首座、蛇眼の予言者。
その微笑みは、まるで母が子を抱くように穏やかで――放射される呪詛出力は圧倒的だった。
「ようこそ、“門”へ。祓魔師たち」
儚は即座に構える。彼女の存在波形は、完全に人のものではなかった。半ば“蛇神の影”と同調した巫女――いや、“媒介体”そのもの。
「……儚ちゃんちょっと、あいつ有名人じゃない?俺チャン十世紀あたりの資料で見たことあるんだけど……」
「イグ=ナフ=スススハー教団第七派系統《ラミア》首魁“蛇眼の予言者”。貴女がアスモダイを起動させたのね」
千年以上も人類の追撃を受けて、なお生き残った大魔女は微笑む。
「起動ではなく――誕生よ。これは、星々の記憶を取り戻す儀式。そしてその器が――」
女の視線が、宙に浮かぶ少女へと向かう。
「彼女。ニャルラ・エリシア。蛇神の血の末」
エリシアの表情が苦しげに歪む。
拘束具が鳴り、光が脈打つたびに悲鳴が漏れた。
儚は一歩前へ。その動きを察して、楓呀がすぐに横へと回り込む。
「来るぞ、儚ちゃん。相手は半分以上“神”だ」
「……旧き時代、我ら鴉の祖先たちは神と呼ばれた昏き大霊たちと戦っていたわ」
臆せず先手を取ったのはミワシ隊、踏み込みと同時に床が爆ぜた。無数の蛇の腕――黒い触手が、杭のように突き上がる。それは金属を食い、空間を裂いた。蛇眼の予言者の声が響く。
「アスモダイよ、胎動を――」
蛇の瞳が瞬くたび、空間の座標が変動する。足場は消え、祈祷文の断片が浮遊。“上”も“下”も意味を失う、螺旋構造の戦場。楓呀の分身が斜め下から突入、同時に本体は逆位相で真上からの降下斬りを敢行。
「《千変万化・双薙》ッ!」
儚に影響されたのか、適当に思いついた技名と叫びながら、伸びた錫杖薙刀が蛇のようにうねり、預言者の体を切り裂く――が、切り口からあふれたのは血ではなく、数千の小蛇。獲物を追い詰める蛇眼が細められる。
「“死”の定義が違うのよ」
蛇群が壁面を這い、瞬時に再形成。同一空間に蛇眼の予言者が四体出現。その全てが異なる位置で呪詛文を詠唱していた。
「右上二体を牽制。反転領域を私が潰す」
「任せロッテ明治ブルガリアヨーグルト!」
「それは流行らない」
銃声と縮穢エネルギー光が交錯する。牽制射撃を終えた儚は刃を逆手に構え、地面に光の線を走らせた。
「ゲマトリア誤差修正、演算開始――」
牽制中に展開していた注連鋼と黒い祓符が連鎖し、蛇眼の予言者の結界に強引なクラッキングを仕掛ける。祓魔師の最適な演算手段選択により防衛式を突破、反転していた重力軸が一瞬正位相に戻る。楓呀の分身がその隙を逃さず上方から一斉射撃。平時なら儚から怒りの常世ビームが飛んでくるほどの黒不浄弾が爆ぜ、蛇眼の予言者たちの身体が崩壊する。
「一丁上がり――って顔してねぇな、儚ちゃん?」
「まだ、言葉が残ってる」
崩れたはずの肉塊が、形を取り戻しに喋り出した。
『蛇は環を閉じる。肉は器。神は記号』
船体全域が鳴動。
祈祷文が連鎖し、空気が“語”で満たされる。
そして――彼女の背中が開いた。
「蛇は皮を捨てて生まれ変わる――私達こそ永遠。エリシアを贄にすることは叶わずとも、この身を我が神に捧げましょう」
蛇眼の予言者から黒い液体が滲み出す。それは液体ではなく――影そのものだった。それは脱皮の如く蛇眼の予言者の身体を脱ぎ捨てて“形”を持たないまま、存在していた。黒というよりも光の不在。周囲の明度・思考・時間をすべて吸い込み、そこに“見えてはいけない何か”を形成していく。視た瞬間、脳が理解を拒絶する。拒絶が恐怖を生み、恐怖が“質量”を与える影が、ゆっくりと天井へ伸び、そこに星の眼が開いた。無数の瞳孔が回転し空間を観測する。見られた瞬間時間が揺らぐ。“此処”はもはや“船”という構造体ではなかった。壁面は血のように脈動し、床は波のように呼吸している。鉄骨が呻き、パイプが低く唸り、内部を流れる冷却水が――音ではなく、声になっていた。
『回れ。解け。結べ。祈れ』
その囁きはスピーカーからでも通信機からでもない。
空間そのものが喋っている。 儚は静かに鴉神剣を抜き、刃先をわずかに傾けた。
微光が刃を走り、周囲の呪詛構文を照らし出す。
その一瞬、壁に刻まれた祈祷文が蠢いた。床がところどころ崩れていく。
熱でも圧力でもなく、言語の崩壊音。
歴戦のミワシ隊の部隊長が揃って息を殺していた。圧倒的と言う言葉では表現できない。儚の喉が鳴る、彼女の声は震えていた――恐怖ではない。世界そのものが、彼女の言語構造を侵食しているのだ。彼女は目の前の存在が何なのか正確に理解していた。
「呪詛密度 11.2、空間安定指数 −23。特殊界異存在 Ω-SS-040 ― “蛇神の影”確認」
「俺チャンアスモダイがそもそも次元の穴を開ける呪詛だって、忘れたい情報を思い出しちゃったぞ……ラミアの奴等、神を呼ぶ手段にするためにアメリカに技術を流しやがったな?」
――世界が、軋んでいた。
空間の亀裂からは、闇と光が交互に滲み出し、
重力が螺旋を描いて歪んでいる。
呪詛炉心《アスモダイ・コア》は断末魔のように唸りを上げ、
その上空に、蛇神の影の断片が滲んでいた。
星の瞳が、音のない咆哮と共に二人を見下ろしている。
儚は崩壊しかけた床の中央に立ち、静かに鴉神剣を構えた。刀身を包むシアンの光が、まるで世界の“修正線”のように波打つ。
「――楓呀、エリシアを連れ出して。私は門の向こう側へ神を返すわ」
その声は、“命令”というより、“願い”のように冷たく澄んでいた。楓呀は、吹き荒れる風の中で足を止めた。爆ぜる瓦礫。逆流する重力。世界が崩壊するというのに、彼の仮面の奥で笑みが浮かべた。
「は?またそういうカッコイイとこ独占すんなよ」
異形の鴉神剣、その機関部に収められたエメラルドタブレット原典、世界のひと欠片が完全に解放され、神の影響力を遠ざける――
「命令よ」
何時も通りの淡々とした声。揺るがない祓魔師の声。
だが、楓呀はそこに確かな覚悟を感じた。
いつか自分も、この女のように全てを賭ける事が出来るだろうか――
そんな場違いな考えが、一瞬だけ彼の胸をよぎる。
「ちっ……わかったよ」
彼は肩を竦め、ニャルラ・エリシアの身体を抱き上げた。少女の髪からは淡い青白い光が滲み、彼の手袋越しに微かな震えが伝わる。まだ彼女は生きている。彼女の生存はイコールでアスモダイの発動阻止となり、最悪の事態は避けられる。
「でも帰ってきたら、アイス奢れ。バニラ三段重ねのやつな」
崩壊していく音の中でも、その声は確かに届いた。儚は一瞬だけ、刃先を下げる。
そして、微笑んだ。それは――祓魔師としてではなく、人として初めて彼が見た“やわらかな微笑”だった。
「……約束する」
その言葉が、音ではなく光となって届く。楓呀は一瞬、息を呑んだ――。
「了解、“十八番隊長”!」
彼は踵を返し、崩れゆく回廊へと跳び込んだ。背後で“門”が軋む音がした。常世と現世を繋ぐ裂け目が、儚の剣に呼応して開き始める。光が、彼女を包み込む。蛇神の影が伸ばした因果が逆転した“命中した”という後付けから発生する“絶対命中”の触肢を、
あの微笑が、
静かに世界の終わりを照らしていた。