リゼ・ヘルエスタは、雨女だ――とは、かつてのアンジュが頑として認なかったところだ。出会いから八年を経て培った友情のゆえに、ではない。職業柄である。
この世の仕組みを理論と実証で解き明かそうというのが、近代錬金術なのだ。あの人が外に出ると雨が降る、雨乞いで雨を降らせる、などという無知蒙昧な迷信を地下に埋葬し、その上に知性の楼閣を建設せんとするのが、錬金術師に共通の使命感だ。
気象の解明、なかんずく天気予報の実用化は、農業への恩恵が莫大であるから、錬金術にとって大きな課題の一つである。宮廷錬金寮にも気象部があり、専門の術師たちが観測と理論化にと試行錯誤している。
気象は専門外とはいえ、アンジュは自他ともに認める当代一流の術師である。「第二皇女が公式行事に出席すると、よく雨が降る。屋外の行事なら、ほぼ確実に」などという宮廷人の冗談を聞けば鼻で笑い、内心で思い切り馬鹿にしたものだ。
当のリゼ自身に「私が気合を入れた日って、実際、だいたい雨なんだよね……」と暗い顔で申告された時には、皇女ともあろうものが恥ずかしいと腹を立て、学問的態度というものを滔々と説教までした。
「雨女だと思いこむから、雨が降ればやっぱりって、晴れれば珍しいなって気がするだけだよ。ぜんぶ人間のこじつけなんだから。そんな時、嘘をつかないのは数字だよ」
そう断言すると、身分を越えて打ち解けた友人を迷妄から救うべく、一冊のノートを用意した。
そこにカレンダーを書き、リゼの公務日程と天気を、一年に渡って記録したのだ。どころか、錬金寮から過去数年分の天気の記録を取り寄せた。そして、リゼが行事に出るかどうかで雨の確率が変わるものか、季節ごとに引き比べて計算した。
そして頭を抱えた。
厳正な記録と緻密な計算の推すところ、リゼは確実に雨女であった。
「ち、違うんだよ。世界には、そういうことがあるの。十人集めてジャンケンの勝ち抜きをしたら、十連勝する人が絶対に出るけど、何の不思議もないでしょ? そういう稀なクジを引き続ける人って、どっかにはいるんだってば。だから、決して学問が迷信に敗北したわけじゃなくって、単にあなたが、もの凄く運が悪いだけだっていう……あのぅ、リゼ、なに怒ってんの?」
そう論理的に説明しても、その日の皇女は口を聞いてくれなかったものである。
それ以来、アンジュは白旗を掲げ、事実を認めることにした。それはそれで学問的に誠実な態度ではある。遠い将来、気象学と呼ぶべき学問が体系化されたなら、きっとリゼの雨女体質も解明されるだろうと、未来の錬金術師に靴を預けて、現在の彼女は傘を用意することにしている。
当然、今日も持ってきている。油布の蝙蝠傘を広げて、アンジュは王都の軒下を探し回った。ボヤ騒ぎで活躍した謎の少女が去ったという方で、大きな屋根、すなわち長い庇のある商店を虱潰しにした。
やがて見つけた。空き家になった旧家の軒下で、実によい姿勢で背筋を伸ばし、しかし顔は俯ける娘がいる。雨雲よりもどんよりとした風情である。
「よっ」
と、横から声をかけざま、濡れた銀髪に拭き布をかけてやった。驚いて彼女を向いた顔は、果たして長年の友人のものであった。
出会った頃には十歳ほどだったリゼも、今では十七歳になっている。身長も伸び、アンジュと指一本ほどしか変わらない。
「アンジュ...なんで?」
「ちょっと買い出しに来たら、ボヤ騒ぎに行き当たってね。剣もった女の子が子ども助けたらしいじゃん。そんなの絶対リゼだろって思って」
そう言われて、皇女はむっと押し黙った。目立ってしまう自覚はあるらしい。
「やっぱ、またお城抜けてきたんだ? 年に二、三回やるよね」
この第二皇女には、そうしてアンジュの小屋に転がり込み、時には泊まっていくこともあるのだった。騒ぎにはならない。皇女に休暇という制度はないが、事前にあらゆる公務を片付け、予定を空け、誰にも迷惑がかからぬようにしてから城を抜け出すのが、リゼの生真面目さであった。
それに行き先がアンジュの小屋だとは、もはや王城の者なら密かに承知している。長くとも一晩で帰ってくるということも。黙認されての微行なのだ。
いつもの調子で、そう聞こえるように、アンジュは言葉を続ける。
「今夜もうちくる? 片付け、手伝ってもらわなきゃだけど」
いつもなら「行く」と即答するリゼは、しばしの沈黙を挟んでから答えた。水晶のように澄んだ声である。しかし今日は、奇妙に重い。
「行かない。今回は、違うの」
「何が?」
「迷惑になるから」
「そんなことないで。掃除の機会になって……」
「私、旅に出るの。ううん、もう出た。見聞修行の旅に。明日になっても、城には帰らない」
「へーえ? 王家にそんな習慣あるんだ」
リゼの突拍子もない行動には慣れているが、さすがに修行の旅とは初めてである。リゼは律儀に説明を返した。
「大昔にはね。王国一の戦士になるために、修行の旅に出た皇子が何人もいるの」
「それ、騎士道の時代じゃん。統一より前の話でしょ」
現在でも騎士はいるが、ほとんど名誉的な呼称である。一人で遍歴の旅に出たり、貴婦人のために戦うような時代ではない。現在の騎士のほとんどは、役所で帳面を武器にしている。鎧や剣を使うのは、ごく一部だけだ。それだけ時代が進み、平和になったということである。
しかしリゼには、幼い頃から神話伝承を読み込んでいるせいか、あるいは生来の生真面目さゆえか、どうにも大時代的なところがある。出会った頃からである。
「立派な王にならないといけないのは一緒でしょう、今も。ううん、今こそ。何もかも、急に変わっていくんだから。錬金術で」
「まあ、それはそう。錬金術の普及だけじゃないな。暮らしも、商売も。魔物が街で暮らしていいぞってなったのも、最近や。だから政事も、変わらなきゃって言うんだ? でも全部、王様の政策じゃん。お父さんの」
王立学院の設立、錬金術の新興、それらの資金を捻出するため、魔物には寛容に接して、共存を進める――と、今上のヘルエスタ王は急進的な改革者である。その甲斐あって国は急速に富み、王家の財政は潤っている。それに反感を持つ者は少なくないが、諸侯と隔絶する財力と技術力を背景に、今の王権には千斤の重みがある。
「陛下には、はっきり見えてるの。国が進むべき道が。私には全然分からない。もし女王になった時に国をどうしたいのか。父上みたいな王になれない。どんなに修行しても」
「リゼは頑張ってるよ。文武両道の皇女って、噂になるくらい」
「だからそれは、申し訳ないことなの」
「誰に?」
「民に。民にも」
意味深長に、リゼは濁した。彼女の願望をよく知るアンジュは、敢えて深くは尋ねない。それは今でなくていい。
「ふーん……それで修行の旅か。思い切ったね。先に言ってくれりゃいいのに」
「言ったら、止めたでしょう?」
「そりゃ、多分ね。正直、私の家に遊びに来るのだって、危ないんだから。今さらだけど、皇女様なんだよ」
「心配で言ってくれてるのは分かってるよ。でも、もう出てきちゃったんだから。今から帰って、顔が立つと思う?」
「思わん。というか、すっげぇ奇遇」
そう言って半身になり、背中に負った大荷物を示した。背負子の上に、毛布、錬金器具、各種の触媒、生活用品まで重ね、布と縄でまとめている。もともと荷物は多い方だが、それにしても異常だった。
リゼは驚いた顔になる。
「何、それ」
「私も旅に出るところだったんよ。その買出し、してたんだけど」
「うそ、アンジュが旅!? 一か月くらい家から出ないのに? もしかして、夜逃げってやつ。悪い借金とかして……」
「違えよ! どこで、そんな言葉覚えてくるねん」
「じゃ、なんで急に旅?」
アンジュは、言葉を選んだ。そうして当然だ。不自然ではない。正直に振舞えばいいだけだ。
「んー、今の暮らし、長いじゃん? それでさ、行き詰まり、ってほどでもないけど……」
とは、大嘘である。完全に行き詰まって久しい。が、リゼならば嘘と察して騙されてくれるに違いない。リゼに心配をかけまいと、自分なら、そう言うはず。そう分かっているから。
「ちょい、修行が要るかなって思って。奇遇だよね。最後はラキミーに行こうと思ってる」
「錬金術師の里ね」
王立学院の学びでも足りないとなれば、後はもう、現代錬金術の発祥の地へ向かうしかない。それは尤もな話だと、リゼも納得したようだった。
「じゃ、西に行くんだ」
「いや、最初は東。せっかくやから、ラキミーの前にあちこち旅してみるつもり」
「どうして?」
雑談めかして、皇女の目は真剣そのものだった。紫の瞳には縋るような色がある。
アンジュは気付かぬふりで、口もとを押さえ、あらぬ方に目を遣った。もう嘘はいらない。正直に、本当のことを言えばいい。その全てを言わなければ、いいだけだ。
「か、彼氏を探しに?」
案の定、皇女は目を丸くした。
「……は? 恋人のこと? 欲しがってるのは知ってるけど、どうしたの、急に」
「そのぅ、友達がぁ、結婚してぇ。同い年の……」
これも本当のことだ。自分でも思ったより衝撃を受けていたと、後で気付いた。自分の職能をもつセティアまで結婚したなら、久しく帰らない故郷の友達は誰も残っていないに違いない。
身を切った甲斐はあった。リゼは、下手な慰めにならぬようにと、言葉を選ぶ顔になっている。
「あー……。でも、旅に出たって仕方なくない?」
アンジュは憤って捲し立てた。いつもの自分なら、そうするに違いないから。
「だって友達に言われたんやもん! 小屋に引っ篭ってるから、二十六にもなって出会いがねーんだって。出会いさえありゃ、こんな美少女、いい男どもが絶対に放っとかんのにって! 『アンジュ、アンジュが欲しい!』『彼女にするならアンジュさんっすかね』『アンジュ...家、行っていいか』つって取り合いになるって」
「なんでだろう。たぶん、そこまでは言ってなさそうな気がする」
「言われたもん!」
「ほんとかなあ」
「ほんまに、ほんま。ちな、具体的に言うとね、寄ってくる男ってのは、ちょっと悪ぶって、美形なんだけど面白い感じで、背丈はどうでもよくて、あたしの言うこと何でも笑ってくれて、たまに素っ気ない時もあるけど、ほんとはあたしがいないと寂して堪らん感じで、アンジュ今日も可愛いなーって毎日思ってんのね。そんで……」
これも概ね本気だ。以前から言っている妄想、ではない、理想の条件である。
リゼは当然のように聞き流した。良かった、いつものアンジュだ、とその笑顔に書いてある。
「分かった分かった。とりあえず、ぶらっと旅してみたいわけだ」
「まあ、そういうこと」
「一人で」
「今んとこ、隣は空いとるな」
「当分、だいじょぶそうね」
「なんでや!」
「一緒に行かない? 彼氏が見つかるまで、でいいから」
アンジュは笑顔を見せた。自分の勝ちだと思う。どちらから先に言いだすか、お互いに伺っていたのだから。
同じ日に、別の理由で旅に出て、王都で鉢合わせ。普段のリゼなら疑うに決まっている。稀な偶然だったのだと、幸運な巡りあわせで良かったと、これで安心して出発できると、そう喜んで貰わねばならない。
だから、リゼから先に言わせる必要があった。後は、もったいぶってやればいい。それが自然な反応だ。
「えー、一緒にかあ。気ままな一人旅のつもりやったのになあ。男の人が声掛けにくくなったらどうしよ……」
リゼは無言で立ち上がり、出発のそぶりを見せる。
「ああ! 嘘、嘘。行く、一緒に行くっ。お供する、させて下さいっ」
そう言って縋るアンジュを、じとりと見返して、リゼは拗ねたような口をきく。
「お供が欲しいんじゃないし」
得たりとばかりに、アンジュは応じてやった。
「分かってるって。身分隠しての旅なんでしょ。そんなら、本当に皇女も平民もないよ。ただの友達として、一緒に行こう」
「そんなら、許してあげましょう」
「いつか約束したしね」
「そうだっけ?」
いつかに世界を見に行く。飛行船でした約束を、片時も忘れたことはないのだと、言葉ではとぼけてみせながら、リゼは心からの笑みで告げていた。
軒下を出て、二人して見上げれば、雨雲はすっかり去ってた。リゼは意気揚々と言った。
「それじゃ、いざ、見聞修行の旅。とりあえず東の、えーと、とにかく、ここではない、どこかへ!」
颯爽と市門に向かおうとする裾を、アンジュが引いた。
「何で歩くんよ。駅馬車、使おうで」
「馬車?」
「見聞を広めるんなら、王都の近く見ても仕方ないじゃん。それに女の二人旅って物騒でしょ。もう午後や。日のある内に次の街に着かんと。んで、馬車溜りは、あっち」
「な、なるほど……」
「途中で、旅向きのマントか何か買っていこうで。剣なんてぶら下げてちゃ、何かと思われる」
「うーん......」
「ほんま、世間知らずのお姫――ええと、お嬢様なんやからな、リゼちゃんは。うちがおらんかったら、どうにもならんでぇ。まったく、まったく……」
腕を振り上げて怒るリゼを更にからかいながら、アンジュは先導して歩き出した。まずは郊外で駅馬車に乗る。そして王都から離れるつもりである。
――これでいい。まずは東へ。東部は港が多い。どこかで船を捕まえる。
そして、国を出るのだ。行先は、成り行きでいい。南の内海、フジの海を越えたオヴィクス帝国でも、外海を越えてコーヴァス帝国や、他の名も知らぬ国だって構わない。
どこであれ、こちとら痩せても枯れても錬金術師だ。リゼ一人を食べさせるくらい、何とでもしてみせる。
できるだけ急ごう。急いでいると、リゼには気づかれないように。
とにかく、ここではない、どこかへ。
この子は、第二皇女リゼ・ヘルエスタは、これ以上、この国に居てはならないのだ。
(次話「揺らぐヘルエスタ王国」に続く)