賢者アンジュ・カトリーナの試練   作:芝三十郎

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揺らぐヘルエスタ王国①

 マナ湖の沿岸には、至る所に小さな拝壇がある。たいていは二、三人が昇れるだけの狭く、低い木造舞台だ。その上に小さな祭壇があり、塩や麦を捧げている。

 

日常の朝夕、収穫の祭りなどに拝壇に昇り、そこから大きな自然物を拝むというのが、ヘルエスタ人のごく素朴な信仰である。そのうち最大の信仰対象が巨山フジ・ダクラーヌであり、マナの水海はそれに次ぐ。

 

 湖東の拝壇に膝をついたアンジュとリゼの視界には、正面に水海が広がり、その向こうにフジの秀峰がそびえて、両方を一度に拝むかっこうだ。

 

アンジュは胸の前で両手を組んで瞑目する。リゼは王族、すなわち祭祀の血統らしく、祈りの言葉を小さく唱える。

 

「父なるフジよ、安らぎ給え。母なるマナよ、潤し給え」

 

 長大な祈りの文句を暗唱できるリゼだが、平素の祈りは簡単なものだ。それに今は長々とは唱えられない。手を解くと、さっとフードを被り、白銀の髪を隠した。腰に下げた細剣も、ローブの裾で隠されている。

 

――心配性だな。もう王都じゃないのに。

 

 というアンジュの心を、リゼは読んだようだった。

 

「まだ直轄領だから。貴族や商家なら儀式に席を与えることもあるの」

 

二人して祭壇を降りると、そこはもう市場の入口である。礼拝所のまわりには市が立つ習いで、朝から大勢の人で賑わっている。確かに、誰がいるやら知れたものではない、とアンジュは思った。王家伝統の見聞修行の旅とはいえ、リゼの身分を知られるわけにはいかないのだ。

 

 石畳こそないが、踏み固められた道に土ぼこりが立つほどの往来である。湖の干し魚、穀倉地帯で採れた小麦、豆に果物、葉物。店先で客を呼び込んでいるのは、八割がたは人間だが、残りは色々な顔立ちの魔物である。

 

 魔物と言っても、人と混じって暮らしているだけあって、みな二足歩行で、人間と似た形の種族ばかりだ。

 

大柄で、豚のような鼻と耳をもつオークが、採れたての果実を売っている。

 

人並みの背丈で、犬のような顔立ちで毛むくじゃらのコボルトは、皿や小物を。

 

 小柄でずんぐりとし、男女を問わず髭を蓄えているドワーフは、鍋釜や包丁を商っている。

 

道行く客にも魔物はいる。人と魔物の境なく、売り買いし、値段交渉や冗談を交わしている。王都近くなら当然の風景だから、アンジュとリゼはその様を珍しがることもない。彼女らが目を惹かれたのは、並べ台に畳んでおかれた、あるいは竿に吊るされた、色とりどりの衣類や敷物である。

 

「リゼ、荷物少ないよね。替えの服、買っとけば?」

 

「でも、節約しないと」

 

「最近は安い服もあるんだよ。機械織の布が増えてきたから」

 

「えーっと、飛び杼っていうんだっけ」

 

「そうそう」

 

 通り過ぎようとした二人に、露天商のダミ声が飛んだ。

 

「そこの別嬪さん! 白いローブの」

 

「はっ、はいっ……」

 

 びくりと応じてリゼが足を止め、律儀に振り向いてしまったので、やむなくアンジュも立ち止まった。

 

にこやかに牙を見せた店主の顔は、黄土色の毛で覆われ、黒い鼻はうっすら濡れている。布地を持つ手には薄い肉球。犬に似た魔物、コボルトの商人である。

 

「お二人で旅行かい。いいねえ。どうだい、この野掛けの敷物は。軽くて丈夫だよ」

 

「あ、あのっ……その……」

 

「王立工房の機械織だからね。刺繍はないけど、手織りの半値には勉強しますよ。しっかりした作りだろう。どうだい?」

 

「そ、そそ、そうですね……」

 

 ガクガクと頷くまま俯き加減になり、蚊の鳴くような声で応じるリゼに、店主の方が戸惑ったようだった。

 

「うちのお嬢様、初めての旅でね」

 

 アンジュは心持ちリゼの前に出て、笑顔で引きとった。

 

「悪いけど、前の街で買っちゃったんだ。出物だと思ったもんだから」

 

「そうかい、近ごろは品の回りがいいもんでね。そいじゃ、またの機会に」

 

 店主は会釈を一つすると、また次の客を呼び込み始めた。次の客も人族だが、今度の商談は弾み始めたようだ。

 

 人の波に押されるように歩いたところで、アンジュが小声で囁く。

 

「いちいち、相手しなくてもええんよ」

 

「無視しちゃ、悪い気がして。魔物との共存が陛下の政策なんだし」

 

「ぜんぶ付き合ってたら日が暮れちゃうよ」

 

「それに、その、どうしたらいいのか」

 

「まあ、ゆっくり慣れていこう」

 

「うん」

 

 リゼはやっと肩の力が抜けたようだった。自分で買い物などしたことのない身の上の皇女だが、それだけではなく、見知らぬ相手との会話には過度に固くなる癖があるのだ。

 

「作ってるの、王立工房って言ってたけど、本当?」

 

「どうだかね。その払い下げの織機かも」

 

「あれも錬金術で作ってるってこと?」

 

「導力で動く織機でね。物凄い速さなんだ。だから安い」

 

 アンジュはいくつかの店の軒先を見比べた。同じような衣料品や敷物でも、値段も売れ行きも歴然とした差がある。画一的で安い機械織ばかりが売れている。昔ながらの手織りの店は暇をもてあましているようだ。一つ一つ異なる模様を誇っても、安さには敵わないらしい。

 

「これからは何でもオーブ機関になるんだから。そのうち畑だって――」

 

 解説を加えようとした時、近くの看板の金具が震え、かちり、と鳴った。

 

次の瞬間、アンジュは自分が傾き、転倒しかけているのに気づいた。周囲の人々も次々に転んでいる。何が起こったのか、誰にも分からない。確かなのは、居並ぶ店がどれも揺れているということ。

 

 揺れが更に大きくなり、あちこちで悲鳴があがる。揺れているのは地面だと、アンジュはようやく気がついた。

 

「じ、地震ってやつか。これが」

 

 知識を持ってはいても、生まれて初めて直面する現象である。反応できたのはリゼだけだった。

 

「危ない!」

 

 皇女は揺れをものともせずアンジュに体当たりし、そのまま押し倒した。倒壊した店の柱が、一瞬前までアンジュの頭部があった空間を通り過ぎて、彼女の肝を冷やした。

 

 建物があちこちで崩れ、悲鳴と騒音が市場を満たす。露店は当然、煉瓦や木で建てられた店舗にも倒れたものがあるらしい。何かが砕けるような音もする。

 

 誰にとっても未知の時間が過ぎ、大地が平静を取り戻しても、アンジュはまだ自分が船にでも乗っているように錯覚した。彼女がふらふらと立ち上がる間にも、リゼは機敏に動き回っていたようだ。

 

「大丈夫!?」

 

 水晶のような声が響く。皇女は、路上に散乱した毛織物をひっくり返し、柱を持ち上げている。下敷きになった客や店主を助けているのだ。アンジュも慌てて加勢する。

 

 その様を見て、付近の人々も救助に加わり始めた。めいめいに周囲に散乱した木材や商品の下をさらう。そうしながらも、恐怖と疑問の声は尽きない。

 

「何だったんだ、さっきのは」

「地面が揺れたみたいだったな」

「あんなこと初めて」

 

 リゼが折り重なった敷物の合間から小さな女の子を助け出した。幼女は母親の顔を見ると、わっと声をあげて泣き出して、その胸に飛び込んだ。

 

その景色に誰もが息をつき、リゼとアンジュが視線と微笑を交わし合った時、新たな叫びが空気を裂いて響いた。

 

「火事だ!」

 

 アンジュが声の方に顔を向けると、黒煙があがり、炎がちらつくのが見えた。倒壊した露店に、散乱した布地に、火は乗り移っていく。

 

 わっと声をあげて人々は種族の別なく逃げ惑い、黒煙に追い立てられた。アンジュとリゼもその人波に呑まれ、流れに乗って走るばかりで、ほとんど為す術もなかった。火勢はますます強まり、市場一帯に広まった。

 

 ようやく鎮火したのは数刻後、燃えるべきものが燃え尽きた後のことであった。

 

 地震なる慣れない天変地異と火災が収まった後、人々の心には見えざる火種が宿っていた。

 

 

 

(次話「揺らぐヘルエスタ王国②」へ続く)

 

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