賢者アンジュ・カトリーナの試練   作:芝三十郎

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揺らぐヘルエスタ王国②

 市が立っていた広場は、一面の灰と炭になっていた。湖畔からの風でも、焼けた木の匂いは去らない。火元は、露店か屋台――恐らく食べ物屋ではないかとアンジュは思うが、今となっては何も分からない。

 

 幸い、死者は少なかった。しかし、立ち並んでいた仮設の商店は一軒も残っていない。広場の周囲を囲む家々は煉瓦づくりだけあって延焼を免れたが、火事の前に起こった揺れで何軒もが崩れている。

 

「煉瓦の家は火に強いけど、揺れに弱いんだ」

 

 と、アンジュは力なく説明した。焼け残りの木箱に腰かけている。

 

「あの揺れは一体、なに?」と尋ね、リゼの表情に未知への恐怖が戻ってきた。

 

「地震っていうんだ」

 

 周囲では、商人たちが力なく廃材を片付け、まだ売り物になる焼け残りを探している。

 

「なんで地面が揺れなんてするの? 地面なのに」とリゼが尋ねたのは、ヘルエスタ人の正常な感覚ではある。地面と言えば、不動盤石なものの代表。それが揺れるなどとは、正しく驚天動地というわけだった。

 

 アンジュにも驚きはあるが、蓄えた知識で説明を加えた。

 

「地面のずっと底の方で、物凄い重みがかかって、土と火の元素が自然に錬成されてるんだって言われてる。地下には土の海や火の川があるんだ。それが荒れたり、氾濫したりで揺れるのが地震。今のとこの仮説ではね」

 

「でも、あんなの初めて」

 

「ここ何百年かは記録にないけどね。ずっと大昔、伝説の時代には頻繁に……」

 

 その時、悲鳴が響いた。

 

 広場の一隅に人だかりができている。また悲鳴と、何かが倒れる音が聞こえる。

 

「やめろ、やめてくれ。俺たちじゃない!」

 

 周囲を人間の男たちに囲まれ、魔物の商人たちが弁解している。

 

 犬顔のコボルトは、毛皮で覆われた身体のあちこちを焦がし、見るだに痛々しい。オークやドワーフは全身灰まみれだ。大力を活かし、つい先ほどまで救助に、片づけにと忙しく働いていたからだ。

 

 しかし、取り囲む人間の若者たちの目には、一片の同情もない。その一人が言った。

 

「うるせえ、見たんだよ。お前らの誰かが火元なんだ」

 

「ち、違う。私は金物屋だ。こいつらは麦を売ってた。火なんて使ってない」

 

「燃えだした時、そばにいただろうが」

 

「何とか消そうとしてたんだ。売り物を守ろうって――」

 

「嘘をつけ!」

 

 激高は、人から人へ伝染していくようだった。誰もが頼みの商売道具や家財を失い、気が立っている。理不尽への怒りを、誰かに、何かにぶつけたくてたまらないのだ。

 

「これから、どうしろってんだ」

「なんとか言えよ」

「わざと火をつけたんじゃないだろうな!?」

 

 理不尽に傷ついた人たちの心は、癒しの物語を求めている。詰問は罵倒になり、そこに一人加わり、二人増えするうちに、言いがかりは飛躍する。

 

「地面の揺れだって、お前らのせいじゃないのか」

 

 はっとして、人間たちは顔を見合わせた。口から出た思い付きが、俄かに真実味を帯びてくる。

 

「水海が怒ったんだ」

「いや、フジのお怒りだ」

「魔物が街に暮らすようになったから」

 

 そう口々に言い、互いの声を耳に聞くほど、確信の度は深まっていく。ああ、そうだ。俺だって、そう思ってた。そうに違いない。

 

 人か魔物かに関わらず、火元を出した迂闊者は誰かという、元々の話は忘れ去られた。

 

「おまえら魔物は、水海にお祈りをしないじゃないか」

「あいつら、鳥肉を食べてるらしいぞ」

 

 自然崇拝。伝説の聖鳥に通じる鳥肉食の禁忌。いずれもヘルエスタ人なら当然で、それが信仰だという意識すらない。そのどちらも魔物たちには無縁だと、かねて分かっていたことが、他種族のことだからと目を瞑っていたことが、突然に持ち出された。

 

「罰が当たったんだ。私達みんなに」

「魔物なんかが街に住むから!」

 

 魔物たちを囲んでいるのは、もう若い男だけではない。女も、老人も、子どもさえも。誰もが多くを失い、その償いを求めている。いま、彼らの真実は怒りだった。

 

 数十人に取り囲まれて、人間よりずっと大柄なオークも、小さいながら頑健なドワーフも、怯え切って縮こまる。知恵のまわるコボルトが必死に抗弁しても、群衆の声にかき消される。

 

 そして、来るべき時が来た。

 

「面倒だ、やっちまえ」

 

 拳が、つま先が、人垣から突き出される。

 

 やめて、やめてくれ、という魔物たちの懇願が加虐心を掻き立てる。

 

 滅多撃ちにされて飛び散る魔物の鮮血は、火に注がれる油である。殴打はさらに度を増す。

 

「殺せ、殺しちまえ」

 

 その過激さを疑問に思う者は、もういない。

 

 手酷く火傷したらしい男が、黒く焦げた角材を持ってきた。魔物に向けて振り下ろそうとしている。

 

「やめなさい!」

 

 灰の空気を切り裂いたのは、水晶のように澄み、よく通る娘の声だった。フードで顔を隠したリゼは人垣の中へ飛び込んだ。阻もうとする男どもの手首をひねり、脛に鋭い蹴りを見舞うなど、僅かな動きでたちまち道を切り開く。外海から伝わった体術、アテミの技である。

 

 群衆が反応できずにいる間に人垣の中心まで辿り着くと、リゼは両手を広げ、魔物たちの前で壁となった。

 

「やめなさい! こんなことをしても、何にもならない!」

 

 商人と立ち話もできなかった娘が、今は凛とした一喝で群衆をたじろがせていた。

 

――リゼだ。あれがリゼなんだ。

 

 そう感じいったアンジュは、置き去りにされたように遠くで見守ることしかできない。

 

「な、何だ。邪魔するのか」

「どけ、このちび。こいつらが犯人なんだ」

 

 アンジュは身ぶるいした。やたら、口が乾く。息がうまくできず、浅い呼吸を繰り返す。

 

 といって、離れて留まっている彼女に、男たちは気づいてもいない。男たちが見ているのはリゼだけだ。

 

 しかしリゼに凄んで見せる男たちの低い声、高い背中を見るだけで、アンジュは自分が怒鳴りつけられ、今にも殴られそうな窮地にあるような気がしている。

 

 男女の体格の差は、力の格差だ。上から圧し、遊び半分にでも叩き伏せてしまえるのが男の体躯だ。まして力仕事に慣れた若者たちが凄んでみせれば、それだけで圧倒的な暴力である。

 

 その姿、その声だけでも恐ろしい。その威力が自分に向けられたらと想像するだけで身体が震え、心が冷える。何も考えられなくなる。その恐怖に縛られない女がいるとすれば、よほどの向こう見ずか、女だから無事に済むと思い込める愚か者に違いない。

 

「下がりなさい。向かってきたら、手加減できない」

 

 リゼは、そのどちらでもない。

 

「どけ、この馬鹿っ」

 

 大ぶりな拳を踏み込んでかわしたかと思うと、入れ違いの掌底で男の顎に打ち上げている。その一打だけで、大男は呻き声一つとともに昏倒した。

 

「な、生意気な。やっちまえ」

 

 拳が、蹴りが、角材が襲うが、リゼを捉えることはできない。俊敏な足さばきでかわし、向こう脛をしたたかに蹴り、みぞおちに、顎にと的確な打撃を叩き込んでいく。掴みかかってきた男相手には、姿勢を低くして逆に懐に飛び込むと、殆ど体重移動だけで投げ転ばせる。

 

「なんだ、こいつ」

「手ごわいぞ」

 

 四人、五人とあっさり打ち減らされて、男たちも異常に気付いた。リゼは上背こそ並みの少女だが、その実は騎士でも音を上げる過酷な訓練をこなし、鍛え抜かれた戦士の技量があるのだ。

 

 リゼは格闘術の構えのまま、また警告を発した。さすがに少しは息が荒い。

 

「もう、やめなさい。罪もなしにこの人たちを犯人扱いするのは」

 

 その言葉が、かえって反感を再燃させたようだった。

 

「人だって。そいつらが人なもんか」

「お前も魔物だな!」

「石だ。おい、投げつけるんだ」

 

 たちまち二、三人が崩れた煉瓦や拳ほどの石を拾った。まともに当たれば頭が割れる大きさだ。

 

 リゼは拳の構えを解き、ゆっくりとローブの裾に右手を差し入れようとしている。隠した細剣を抜くつもりなのは明白だった。

 

 殺す気はなく、石を払い落し、刃を見せて脅すだけのつもりだろう。それでも民に武器を向けるなど、リゼの本意であるはずがない。緩慢な動きは、その躊躇のあらわれだ。

 

 そう見て取って、ようやくアンジュは奮い立った。

 

――駄目だ! そんなこと、させちゃ。私がやらなきゃ。これは、これは戦いじゃない。だから失敗しない。誰も傷つけることはない……!

 

 隠しポケットからオーブを取り出す。右手には緑、風のオーブ。左手には赤、火のオーブ。両の親指でピンを緩め、思念は細く集中する。

 

 空中に錬成陣の大枠を想像し、さらに細かく書き込んでいく。オーブに籠められた触媒は直ちに反応を始めた。錬成された風と火の元素、見た目には緑と赤の光の粒が生じる。そしてアンジュの眼前で合流すると、赤茶色に輝く活素(カロリック)の光になる。そこへ周囲の空気が引き付けられ、変成していく。彼女が編んだ術式の通りに。

 

「息を止めて!」

 

 リゼは叫びに即応した。剣を持ちかけた右手を返し、口と鼻を覆っている。

 

「寝てろ!」

 

 アンジュの叫びとともに、ヒヤリと冷たい突風が生じ、群衆の合間を駆け巡った。きん、と耳鳴りがする。それが収まった時、男たちは全員が力なく倒れた。ふらりと地面に転がり、あるいはしゃがみ込み、眠ったように動かない。

 

 それを見届けて、アンジュはようやく深く息を吸った。

 

「……うまくいった! リゼ、怪我はしとらん!?」

 

「大丈夫! この人たちは?」

 

活素(カロリック)の濃度を下げて――ああと、ちょっと眠ってもらっただけや。じきに目ぇ覚ますよ。魔物の人らは頑丈やから、たぶん平気やと思う」

 

 空気中には色々な気体が溶けている。そのうち生命と燃焼を支えるのが活素(カロリック)で、人や動物はこれを吸って生きている。欠乏すると死ぬが、少々の不足なら気絶する。高山などで起こる現象を、アンジュが錬金術で起こしたというわけだった。

 

 リゼが背後の魔物たちを振り返ると、確かに彼らは意識を保っているようだった。ただ、あまりの出来事に驚き、傷を庇うのも忘れて呆然としている。

 

「魔物の皆さん、大丈夫ですか。申し訳ないことをしました。この場は私が預かります」

 

 そう言うと、リゼは遠巻きに見守っていた人々に呼びかけた。

 

「皆さん、聞いてください。この人たちが言っていたのは、何の証もない言い掛かりです。誤解しないで。魔物たちもヘルエスタの国民です。思い出しなさい。国王陛下は寛容を旨とせよ、そうお命じになったはずです。見た目や、習慣の違いで、罪があると決めつけてはいけません――」

 

「何事だ!」

 

 リゼの教説を断ち切った叫びの主は、鎖帷子をまとう衛兵だった。その後に二、三人と同じ格好が続いている。騒擾を聞きつけてか、火事の様子見か、ともかくも治安の守護役がようやく姿を見せたわけだった。

 

 アンジュは、ほっと息をついた。リゼは沈黙し、僅かに俯いて、フードの影に顔を隠した。

 

 槍の石突で地面を打つ音をわざと響かせ、衛兵たちは倒れ伏す男どもの方へ歩み寄った。その容態を確かめる。

 

「死んではいないな。どういうことだ。そこのお前」

 

「こ、これは……」

 

 と、アンジュは説明を試みようとしたが、衛兵の隊長らしい男が話しかけているのはリゼの方だった。

 

「そっちのお前だ。まず、顔を見せろ。フードを取れ」

 

 リゼは一瞬だけ躊躇ったが、被りを払った。傾きかけた陽光を白銀の髪が反射する。

 

「………………」

 

 衛兵はリゼの顔をあらためた。顎に手をやって持ち上げ、じろじろと見回す。あまりの無礼に、リゼの紫の瞳に怒りが宿るが、言葉は一言も発しない。

 

「第二皇女さまに似ているな」

 

「……ただの旅人」

 

 リゼの日頃の澄んだ声ではなく、絞るように言った。衛兵は一歩離れ、固い声で言った。

 

「ローブの裾をめくれ。帯の左右をみせろ」

 

 リゼは、その通りにした。右の裾で、鞘に収まった細剣が光を返した。その螺旋状に拵えた鍔の細工だけでも、尋常の剣ではないと察せられたはずだ。

 

 衛兵の長は目を細め、さっと左手を掲げた。部下の兵たちがリゼを囲むように移動する。

 

「間違いない。手配書の偽皇女だ! 王城から剣を盗んだ不逞の輩めが。おとなしく縛に就け!」

 

「え?」

 

 リゼの表情が怒りを忘れ、驚きに満ちた。

 

「盗賊どもを捕らえよ!」

 

 左右から殺到する衛兵たちを、リゼはかわす。伸びてきた籠手を掴み、ねじりながら投げ飛ばす。ほとんど反射というべき反応だった。

 

「暴れると、ためにならんぞ!」

 

「違う、何かの間違いよ」

 

「ええい、抵抗するかっ」

 

「待ちなさい。落ち着いて、私は、その……」

 

 衛兵たちが剣を抜いても、リゼは剣に手をかけない。説得の言葉を必死に探しているようだ。

 

 今度は、動いたのはアンジュだった。

 

「逃げるよ!」

 

 黄色に光る土のオーブを掲げ、煙幕がわりの土埃を即座に錬成した。衛兵たちの顔に向けて指向して目つぶしにしてやる。

 

「今のうちに!」

 

 リゼの手を取り、引きずるように駆けだした。

 

「追え、追えっ。抵抗するなら斬れ!」

 

 その怒声を背中で聞き、灰を蹴たてながら、アンジュとリゼは必死に駆けた。

 

 陽光は家々の屋根に残るのみで、路地には暗がりが落ちている。二つの影は、その闇の中へ溶けていった。

 

 

(次話「毒牙たち」に続く)

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