市が立っていた広場は、一面の灰と炭になっていた。湖畔からの風でも、焼けた木の匂いは去らない。火元は、露店か屋台――恐らく食べ物屋ではないかとアンジュは思うが、今となっては何も分からない。
幸い、死者は少なかった。しかし、立ち並んでいた仮設の商店は一軒も残っていない。広場の周囲を囲む家々は煉瓦づくりだけあって延焼を免れたが、火事の前に起こった揺れで何軒もが崩れている。
「煉瓦の家は火に強いけど、揺れに弱いんだ」
と、アンジュは力なく説明した。焼け残りの木箱に腰かけている。
「あの揺れは一体、なに?」と尋ね、リゼの表情に未知への恐怖が戻ってきた。
「地震っていうんだ」
周囲では、商人たちが力なく廃材を片付け、まだ売り物になる焼け残りを探している。
「なんで地面が揺れなんてするの? 地面なのに」とリゼが尋ねたのは、ヘルエスタ人の正常な感覚ではある。地面と言えば、不動盤石なものの代表。それが揺れるなどとは、正しく驚天動地というわけだった。
アンジュにも驚きはあるが、蓄えた知識で説明を加えた。
「地面のずっと底の方で、物凄い重みがかかって、土と火の元素が自然に錬成されてるんだって言われてる。地下には土の海や火の川があるんだ。それが荒れたり、氾濫したりで揺れるのが地震。今のとこの仮説ではね」
「でも、あんなの初めて」
「ここ何百年かは記録にないけどね。ずっと大昔、伝説の時代には頻繁に……」
その時、悲鳴が響いた。
広場の一隅に人だかりができている。また悲鳴と、何かが倒れる音が聞こえる。
「やめろ、やめてくれ。俺たちじゃない!」
周囲を人間の男たちに囲まれ、魔物の商人たちが弁解している。
犬顔のコボルトは、毛皮で覆われた身体のあちこちを焦がし、見るだに痛々しい。オークやドワーフは全身灰まみれだ。大力を活かし、つい先ほどまで救助に、片づけにと忙しく働いていたからだ。
しかし、取り囲む人間の若者たちの目には、一片の同情もない。その一人が言った。
「うるせえ、見たんだよ。お前らの誰かが火元なんだ」
「ち、違う。私は金物屋だ。こいつらは麦を売ってた。火なんて使ってない」
「燃えだした時、そばにいただろうが」
「何とか消そうとしてたんだ。売り物を守ろうって――」
「嘘をつけ!」
激高は、人から人へ伝染していくようだった。誰もが頼みの商売道具や家財を失い、気が立っている。理不尽への怒りを、誰かに、何かにぶつけたくてたまらないのだ。
「これから、どうしろってんだ」
「なんとか言えよ」
「わざと火をつけたんじゃないだろうな!?」
理不尽に傷ついた人たちの心は、癒しの物語を求めている。詰問は罵倒になり、そこに一人加わり、二人増えするうちに、言いがかりは飛躍する。
「地面の揺れだって、お前らのせいじゃないのか」
はっとして、人間たちは顔を見合わせた。口から出た思い付きが、俄かに真実味を帯びてくる。
「水海が怒ったんだ」
「いや、フジのお怒りだ」
「魔物が街に暮らすようになったから」
そう口々に言い、互いの声を耳に聞くほど、確信の度は深まっていく。ああ、そうだ。俺だって、そう思ってた。そうに違いない。
人か魔物かに関わらず、火元を出した迂闊者は誰かという、元々の話は忘れ去られた。
「おまえら魔物は、水海にお祈りをしないじゃないか」
「あいつら、鳥肉を食べてるらしいぞ」
自然崇拝。伝説の聖鳥に通じる鳥肉食の禁忌。いずれもヘルエスタ人なら当然で、それが信仰だという意識すらない。そのどちらも魔物たちには無縁だと、かねて分かっていたことが、他種族のことだからと目を瞑っていたことが、突然に持ち出された。
「罰が当たったんだ。私達みんなに」
「魔物なんかが街に住むから!」
魔物たちを囲んでいるのは、もう若い男だけではない。女も、老人も、子どもさえも。誰もが多くを失い、その償いを求めている。いま、彼らの真実は怒りだった。
数十人に取り囲まれて、人間よりずっと大柄なオークも、小さいながら頑健なドワーフも、怯え切って縮こまる。知恵のまわるコボルトが必死に抗弁しても、群衆の声にかき消される。
そして、来るべき時が来た。
「面倒だ、やっちまえ」
拳が、つま先が、人垣から突き出される。
やめて、やめてくれ、という魔物たちの懇願が加虐心を掻き立てる。
滅多撃ちにされて飛び散る魔物の鮮血は、火に注がれる油である。殴打はさらに度を増す。
「殺せ、殺しちまえ」
その過激さを疑問に思う者は、もういない。
手酷く火傷したらしい男が、黒く焦げた角材を持ってきた。魔物に向けて振り下ろそうとしている。
「やめなさい!」
灰の空気を切り裂いたのは、水晶のように澄み、よく通る娘の声だった。フードで顔を隠したリゼは人垣の中へ飛び込んだ。阻もうとする男どもの手首をひねり、脛に鋭い蹴りを見舞うなど、僅かな動きでたちまち道を切り開く。外海から伝わった体術、アテミの技である。
群衆が反応できずにいる間に人垣の中心まで辿り着くと、リゼは両手を広げ、魔物たちの前で壁となった。
「やめなさい! こんなことをしても、何にもならない!」
商人と立ち話もできなかった娘が、今は凛とした一喝で群衆をたじろがせていた。
――リゼだ。あれがリゼなんだ。
そう感じいったアンジュは、置き去りにされたように遠くで見守ることしかできない。
「な、何だ。邪魔するのか」
「どけ、このちび。こいつらが犯人なんだ」
アンジュは身ぶるいした。やたら、口が乾く。息がうまくできず、浅い呼吸を繰り返す。
といって、離れて留まっている彼女に、男たちは気づいてもいない。男たちが見ているのはリゼだけだ。
しかしリゼに凄んで見せる男たちの低い声、高い背中を見るだけで、アンジュは自分が怒鳴りつけられ、今にも殴られそうな窮地にあるような気がしている。
男女の体格の差は、力の格差だ。上から圧し、遊び半分にでも叩き伏せてしまえるのが男の体躯だ。まして力仕事に慣れた若者たちが凄んでみせれば、それだけで圧倒的な暴力である。
その姿、その声だけでも恐ろしい。その威力が自分に向けられたらと想像するだけで身体が震え、心が冷える。何も考えられなくなる。その恐怖に縛られない女がいるとすれば、よほどの向こう見ずか、女だから無事に済むと思い込める愚か者に違いない。
「下がりなさい。向かってきたら、手加減できない」
リゼは、そのどちらでもない。
「どけ、この馬鹿っ」
大ぶりな拳を踏み込んでかわしたかと思うと、入れ違いの掌底で男の顎に打ち上げている。その一打だけで、大男は呻き声一つとともに昏倒した。
「な、生意気な。やっちまえ」
拳が、蹴りが、角材が襲うが、リゼを捉えることはできない。俊敏な足さばきでかわし、向こう脛をしたたかに蹴り、みぞおちに、顎にと的確な打撃を叩き込んでいく。掴みかかってきた男相手には、姿勢を低くして逆に懐に飛び込むと、殆ど体重移動だけで投げ転ばせる。
「なんだ、こいつ」
「手ごわいぞ」
四人、五人とあっさり打ち減らされて、男たちも異常に気付いた。リゼは上背こそ並みの少女だが、その実は騎士でも音を上げる過酷な訓練をこなし、鍛え抜かれた戦士の技量があるのだ。
リゼは格闘術の構えのまま、また警告を発した。さすがに少しは息が荒い。
「もう、やめなさい。罪もなしにこの人たちを犯人扱いするのは」
その言葉が、かえって反感を再燃させたようだった。
「人だって。そいつらが人なもんか」
「お前も魔物だな!」
「石だ。おい、投げつけるんだ」
たちまち二、三人が崩れた煉瓦や拳ほどの石を拾った。まともに当たれば頭が割れる大きさだ。
リゼは拳の構えを解き、ゆっくりとローブの裾に右手を差し入れようとしている。隠した細剣を抜くつもりなのは明白だった。
殺す気はなく、石を払い落し、刃を見せて脅すだけのつもりだろう。それでも民に武器を向けるなど、リゼの本意であるはずがない。緩慢な動きは、その躊躇のあらわれだ。
そう見て取って、ようやくアンジュは奮い立った。
――駄目だ! そんなこと、させちゃ。私がやらなきゃ。これは、これは戦いじゃない。だから失敗しない。誰も傷つけることはない……!
隠しポケットからオーブを取り出す。右手には緑、風のオーブ。左手には赤、火のオーブ。両の親指でピンを緩め、思念は細く集中する。
空中に錬成陣の大枠を想像し、さらに細かく書き込んでいく。オーブに籠められた触媒は直ちに反応を始めた。錬成された風と火の元素、見た目には緑と赤の光の粒が生じる。そしてアンジュの眼前で合流すると、赤茶色に輝く
「息を止めて!」
リゼは叫びに即応した。剣を持ちかけた右手を返し、口と鼻を覆っている。
「寝てろ!」
アンジュの叫びとともに、ヒヤリと冷たい突風が生じ、群衆の合間を駆け巡った。きん、と耳鳴りがする。それが収まった時、男たちは全員が力なく倒れた。ふらりと地面に転がり、あるいはしゃがみ込み、眠ったように動かない。
それを見届けて、アンジュはようやく深く息を吸った。
「……うまくいった! リゼ、怪我はしとらん!?」
「大丈夫! この人たちは?」
「
空気中には色々な気体が溶けている。そのうち生命と燃焼を支えるのが
リゼが背後の魔物たちを振り返ると、確かに彼らは意識を保っているようだった。ただ、あまりの出来事に驚き、傷を庇うのも忘れて呆然としている。
「魔物の皆さん、大丈夫ですか。申し訳ないことをしました。この場は私が預かります」
そう言うと、リゼは遠巻きに見守っていた人々に呼びかけた。
「皆さん、聞いてください。この人たちが言っていたのは、何の証もない言い掛かりです。誤解しないで。魔物たちもヘルエスタの国民です。思い出しなさい。国王陛下は寛容を旨とせよ、そうお命じになったはずです。見た目や、習慣の違いで、罪があると決めつけてはいけません――」
「何事だ!」
リゼの教説を断ち切った叫びの主は、鎖帷子をまとう衛兵だった。その後に二、三人と同じ格好が続いている。騒擾を聞きつけてか、火事の様子見か、ともかくも治安の守護役がようやく姿を見せたわけだった。
アンジュは、ほっと息をついた。リゼは沈黙し、僅かに俯いて、フードの影に顔を隠した。
槍の石突で地面を打つ音をわざと響かせ、衛兵たちは倒れ伏す男どもの方へ歩み寄った。その容態を確かめる。
「死んではいないな。どういうことだ。そこのお前」
「こ、これは……」
と、アンジュは説明を試みようとしたが、衛兵の隊長らしい男が話しかけているのはリゼの方だった。
「そっちのお前だ。まず、顔を見せろ。フードを取れ」
リゼは一瞬だけ躊躇ったが、被りを払った。傾きかけた陽光を白銀の髪が反射する。
「………………」
衛兵はリゼの顔をあらためた。顎に手をやって持ち上げ、じろじろと見回す。あまりの無礼に、リゼの紫の瞳に怒りが宿るが、言葉は一言も発しない。
「第二皇女さまに似ているな」
「……ただの旅人」
リゼの日頃の澄んだ声ではなく、絞るように言った。衛兵は一歩離れ、固い声で言った。
「ローブの裾をめくれ。帯の左右をみせろ」
リゼは、その通りにした。右の裾で、鞘に収まった細剣が光を返した。その螺旋状に拵えた鍔の細工だけでも、尋常の剣ではないと察せられたはずだ。
衛兵の長は目を細め、さっと左手を掲げた。部下の兵たちがリゼを囲むように移動する。
「間違いない。手配書の偽皇女だ! 王城から剣を盗んだ不逞の輩めが。おとなしく縛に就け!」
「え?」
リゼの表情が怒りを忘れ、驚きに満ちた。
「盗賊どもを捕らえよ!」
左右から殺到する衛兵たちを、リゼはかわす。伸びてきた籠手を掴み、ねじりながら投げ飛ばす。ほとんど反射というべき反応だった。
「暴れると、ためにならんぞ!」
「違う、何かの間違いよ」
「ええい、抵抗するかっ」
「待ちなさい。落ち着いて、私は、その……」
衛兵たちが剣を抜いても、リゼは剣に手をかけない。説得の言葉を必死に探しているようだ。
今度は、動いたのはアンジュだった。
「逃げるよ!」
黄色に光る土のオーブを掲げ、煙幕がわりの土埃を即座に錬成した。衛兵たちの顔に向けて指向して目つぶしにしてやる。
「今のうちに!」
リゼの手を取り、引きずるように駆けだした。
「追え、追えっ。抵抗するなら斬れ!」
その怒声を背中で聞き、灰を蹴たてながら、アンジュとリゼは必死に駆けた。
陽光は家々の屋根に残るのみで、路地には暗がりが落ちている。二つの影は、その闇の中へ溶けていった。
(次話「毒牙たち」に続く)