「おっと、待っとくれ」と、年老いた守衛は言った。
血管を浮かせ、節くれだった腕が、道に渡した横木に置かれている。
「売り物の持ち込みはないようだから、税金は払わんでいいがね。フードを取って、顔と耳を見せてくれるかい。街に入る決まりなんじゃ」
アンジュとリゼは、老人を日陰にしている粗末な関所小屋を見た。壁に張りだした大きな紙に、品目ごとの税率を書いてある。掲げられた旗は、盾に白薔薇。ヘルエスタ王家ではなく、この地を治める領主の紋章である。この簡易な関所さえ抜ければ、王家の直轄領から脱出できるのだ。
問題は、王家の衛兵が回している手配書が、諸侯領にまで及んでいるかどうかだった。各地の治安を保つ衛兵は、それぞれの領主に属している。ヘルエスタ王家は諸侯の主君だが、実際は束ね役に近い存在。王国全土を直に統治してはいない。
特に、最近の王家と諸侯の関係には緊張したところがある。王家が諸侯の筆頭という本来の地位を脱し、真の意味で王国の支配者たるべく、力を増しつつあるからだ。
そのような背景を思えば、王家の衛兵が諸侯領内に手を伸ばすのは簡単ではない。手配書ひとつ回すにも、煩瑣な手続きと儀礼が要る。
その遅滞こそ、なぜか王家の衛兵に追われ始めたアンジュとリゼの狙いだった。
意を決し、二人はフードを取った。午前の太陽が彼女らを照らす。片や燃えるような赤髪の女、片や水色がかった白銀の少女と、実に目立つ組み合わせだ。守衛が少しでも「おや」という顔を見せれば、直ちに逃げ出すつもりでいる。
「おや......可愛い嬢ちゃんたちだ」
老守衛は二人の頭部をちら、と見た。
「耳も見せてくれるかい」
二人は言われた通り、髪を少しかきあげて片耳を見せた。
「うん、大丈夫じゃ。いま開けるからのう」
老守衛は孫でも愛でるような笑みに変わった。実際、リゼとアンジュの祖父が健在であったなら、似たような年齢だったろう。
「ありがとうよ。実は、魔物の耳がついておらんか、確かめろというお達しでのう」
「魔物は通れないんですか? 住む場所も、移動も、寛容令で自由になったものとばかり」とアンジュが尋ねる。
「うん、よく知っておるな、感心じゃわ」
菓子でもくれそうな雰囲気に、アンジュも警戒を緩める。老守衛は横木を持ち上げて道を開きながら答えた。
「いま、ご領内に流行り病が出ておってな。魔物どもが出どころだそうな。王様の天領は魔物だらけじゃから、人しか通すなという領主さまのお達しなのよ。」
「そうでしたか。ご苦労様です」
愛想よく言って、アンジュとリゼは関を抜けた。先ほどまで横木一本で示していたに過ぎない境だが、そこを越えただけで、逃げ延びたという安心がある。ほっとすると、身体がぐっと重くなった。追跡を撒こうと、道なき道を越え、夜通し歩き詰めだったのだ。
「この村で宿を取りたいんですけど」
「そんなら、ここを真っすぐ行って……」と、守衛は親切なものであった。「そうそう、宿についたら、薬湯を貰いなさい。病を防いでくれる験があるからのう」とまで教えてくれた。
田舎の村にしては良い宿だった。二階には二人で泊まれる部屋があり、寝台が一人一つあるというのだ。棺桶のような木箱ベッドや、壁から壁へ渡した紐ではない。それならリゼを泊めても安心だと、アンジュはすぐに部屋を取った。自分自身にとってはどんな寝所でもどうせ同じことだが、リゼはまともに寝かせてあげねばならない。
酒場を兼ねた一階も、あちこち煤けているが、机と椅子は清潔である。まだ午前だから酔客はいない。あり合わせの食事を注文して腰を下ろすと、アンジュは立ち上がる気が失せた。足が棒のようになっている。
宿の主人に聞こない小声で、アンジュは眠気覚ましを兼ねた相談を始めた。
「とりあえず、落ち着いた、でいいよね。諸侯領には、王様の衛兵は入れないんでしょう」
「うん。近衛隊だって、何日も足止めされるんだから。手続きで二、三日はかかると思う」と答えたリゼも、昨夜は一緒に歩き通しだったのに、なお溌剌としている。
「経験者は語る、か」
リゼは皇女だが、武術の修練のために近衛隊に入っているのだ。従士から始め、実力で騎士叙勲の資格を得た。それで修行としては十分以上だが、この真面目な娘は、並みの近衛隊士同様に、治安任務に精励してきた。
自然、近衛隊は挙げて第二皇女の信奉者になっている。王城に賓客を迎えて閲兵式をする時も、第二皇女が列席していると一段と動きにキレがあると噂になって、リゼを閉口させたほどである。
ともあれ実務の経験から、リゼは治安組織の実情に通じているのだ。昔、とある事件解決でリゼを手伝ったことがあるアンジュは、そうと承知している。
「ほな、今夜は休めそうやな。さっさと食べて、ベッドに潜りこみたいわ。すぐ寝れそうな気がする」
リゼは目配せをして、宿の主人が近寄ってきたことをアンジュに教えた。
「はい、お待ちどう」
テーブルに音を立てて置かれた皿には、蕎麦粉のパンケーキが薄っすらと湯気をたて、刻みハーブを入れたオムレツが添えてある。あり合わせの軽食にしては、豪華な方だった。
リゼは妙な顔をして店主に尋ねた。やはり蚊の鳴くような小声だ。
「あの、この玉子焼き、注文してないんですけど……」
「ああ?」と、店主は気難しそうな顔をリゼに向けた。
「あっ…でも大丈夫です。いただきます」
「はは、たまの旅人さんは大事にしたくてね。俺の気持ちだよ。ありあわせで済まんがね」
店主が厳めしげな顔に笑い皺を寄せると、リゼは少しびくりとしたが、やっと微笑んだ。
「ありがとうございます」と言った声は、少しは聞こえるほどの大きさだった。アンジュは密かに微笑んだ。
店主は照れ笑いをしつつ、白いカップを2つ持ってきた。
「あんたたち、この村に来たばっかりだろう。聞いたかも知れんがね、悪い病が流行ってるんだ。一時は領主様まで倒れられてね。この薬湯がよく効くから、飲んでおきなさい。なに、領主さまのお慈悲で配って下さってるものだから、これもお代はとらないよ」
カップの中から湯気が立っている。液体は薄い黒色で、焙煎した茶の色に似ている。甘い香りは果物のようで、不快感はない。
「苦かったりするのかな」
リゼが取ろうとしたカップを、アンジュの手がさらった。
「ちょっと」
目を見張るリゼをよそに、アンジュはカップを唇につけて慎重に啜った。ズズ、と音が立ち、育ちの良いリゼの顔をしかめさせた。
アンジュはコトリとカップを置いた。中身は、ほとんど減っていない。
「あかん、リゼ。飲んだらあかん」
怪訝げなリゼをよそに、アンジュは店主に話しかけた。リゼに証拠を見せるつもりである。
「ずいぶん、たちの悪い病が流行ってるそうですね。罹ると、吐き気がする。酷くお腹も下す。悪化すると、身体の中の水が足りなくなって、干からびたみたいになる」
「なんだ、知ってたのか。守衛さんに聞いたんだね」
店主の相槌に、リゼが顔色を変えて割り込んだ。
「そんな話、聞いてない。どういうこと?」
「我、錬金術師ぞ? 薬学も修めてる。ってことは、なんだけど、毒にだって詳しいってこと」
リゼは更に青ざめた。まだ理解できていないらしい店主に、アンジュは事態の核心を告げた。
「おじさん、この村に病気が流行ってるってんなら、原因は、この薬湯だよ。薬の成分もあるけど、灰色石っていう鉱石が溶けてる。猛毒なんだ。暗殺者が使うやつで、相続の石とも呼ばれる」
「馬鹿なこと言わないでくれ! 薬師様が下さったんだ。毒だなんて……」
アンジュは首飾りをたぐり出し、普段は上衣の内に隠している小さな金属板を見せた。錬金術師の証である。自分の尾を食べる蛇が描かれている。授与されるのは学院の卒業生だけだが、アンジュは持っており、肌身離さず持ち歩いている。
「あんた、錬金術師さま……!」
この上ない知の権威を見せつけられて、店主は圧倒されたようだった。「その旅の薬師、まだこの村に?」というアンジュの問いにも、茫然としつつ答えた。
「ずっと、御領主さまのお屋敷だよ。疫病が収まるまでは逗留して下さるって……」
「会う必要があるわね」と、リゼは言った。表情には決意の色がある。
「リゼ、うちらは、今は……」とアンジュは言いかけたが、それでリゼが翻意するとは思っていない。
「会う必要がある」
皇女は重ねて言った。常に自分よりも他人、民を優先するのがリゼなのだ。勇者の末裔に相応しい。その美点も、欠点も、アンジュはよく知っている。
「しゃあないなぁ。一日か二日で片を付けよう」
「何から始めたらいい?」
「この辺は水海から遠いし、川もない。井戸やな、たぶん」
(次話「毒牙たち②」へ続く)