「――つまり、我が領内の水が汚れているせいで、病が流行っているというのか?」
「仰る通りです、伯爵閣下。正確には病ではなく、中毒症状なのですが」
応答したアンジュは、直立してはいても、跪きはしない。王家に認められた正式な錬金術師には、それ程の権威がある。
伯爵に驚いた様子はない。応答はしても、どこか茫漠として掴みどころのない表情である。
「旅の錬金術師どの、王立学院の出と聞いたが」
「畏れながら、正式な証を授かっています」
今日だけは見えるように首から下げた錬金術師の証を、手に持って示す。
伯爵は眉をしかめ、傍らに目をやった。時代がかった全身鎧の衛兵よりも側で侍っているのは、黒いローブをまとった薬師である。目深に被ったフードの下から覗く整った鼻梁で、意外にも若い女だと分かる。
女が発したヘルエスタ語は、一語一語を区切るような発音だった。
「さても、異なことを。腹を下して水の気を欠くのは、枯れ水の病。不潔な魔物どもの間で流行るものだ。現に、私の薬湯は効いておりましょう」
そう来たか、とアンジュは内心で己を鼓舞した。
「ええ、薬師どの。よく効く薬を選んだものです。効きすぎる奴を。何が薬湯だ。あれは
喋るうち、沸々と怒りが湧いてくる。領民たちは皆顔色が悪かった。罌粟の実は人を酩酊させる狂い薬の材料だが、鎮静作用もある。その成分を高純度の酒精に抽出した鎮静剤が
王立学院が営む施療院でも稀に使う。ただし、死を目前にした重篤患者から苦痛を取り除く時に。
「あれで症状が止まるのは、胃腸が麻痺するからだ。それが予防にも効くだって? 領民たちは真に受けて、あんなのを毎日飲んでるんだぞ。みんな痩せて、弱っていってる。赤ちゃんにまで飲ませてるんだ。息が止まりかけで、もうちょっとで死んじゃうところだった!」
衰弱しきって骸骨のように痩せ、乳を飲むこともできなくなった赤子を回復させようと、母親が懸命に罌粟酒を含ませようとしていた。衰弱の原因はその薬にあり、自分が赤子を殺しかけているとも知らずに。
その光景が脳裏に焼き付いて離れない。怒りにまかせて罵倒を始めかけたのを自覚し、アンジュは一度息をついてから続けた。
「……けれど、それが狙いなんだろう? 魔物由来の流行り病だといって、領民を怖がらせ、薬漬けにする。誰も、罌粟酒なしじゃいられなくなるまで。本当に病が収まっちゃ、あなたは用済みだからね」
「何を言う」
「病を流行らせたのは、あなた。治したように見せているのも、あなた――そう言っているんです」
「たわごとを」
アンジュは口角を上げた。余裕の笑みを見せたつもりである。領主館に乗り込む前に、苦労して証拠を取り出してきたのだ。
「伯爵、ご覧ください。証拠はここに」
アンジュの後ろに控えていた従者が袋から拳大の石を取り出した。従者はフードを被り、アンジュの背負子を負っている。錬金術師が伸ばした手に石が乗せられる。
「猛毒を持つ灰色石。水に触れると毒気が染み出します。主だった井戸の全てに沈んでいました。偶然では有り得ない。病は、わざと起こされたんです。そこの、薬師が現れる、ほんの少し前に」
怒りを制御し、アンジュは流れるように語った。討論ならば学院で鍛えられている。
「五年前にも似たような事件があった。狂い薬を流行らせて、人と魔物の仲を裂こうとした奴がいたんだ。そいつも諸侯に取りいって、利用してた」
語気を強め、伯爵に畳みかける。
「伯爵、あなたは騙されているんです。その薬師を逮捕し、王城に突き出されませ。王国を蝕む陰謀を掴んだといって、裏に何者がいるのか探るように、そう……」
言葉は尻すぼみになった。伯爵には何の動揺も無かった。無さ過ぎた。
「王立学院の術師をお疑いですか? 私の鑑識は確かです。この恩賜の指輪にかけて!」
右手の甲を伯爵に向け、指輪の刻印を示した。三角に一対の翼、ヘルエスタ王家の紋章である。
不動であった伯爵の目の色が変わる。嘲るように言った。
「王家の紋章……さもあろう。王家に訴えでよとな。見え透いている。この件を統治の不始末として、我が領土をも召し上げようとしておるのだな」
「……は?」
薬師が哄笑を発した。
「その通りです、伯爵。魔物への寛容令で肥え太るのは王家のみ。魔物をばらまいて諸侯の土地を奪い、皇子や皇女に与えている。王国を我が物にする気なのです」
「ちょ、ちょっと待て。何を言って」
異常な成り行きであった。薬師が領主を騙し、取り入っているものとアンジュは思っていた。伯爵の言行はあまりに異様だ。
薬師は言い放った。
「王城に口実を与えてはいけませぬ。さもなくば、もう薬湯を召せなくなりますぞ。密告される前に、その者を殺すのです」
もはや言葉を失ったアンジュを、小さな手が制した。彼女の従者が前に出る。
「待って。あなたは下がってなきゃ――」
従者はフードを払った。白銀のように髪が室内光を弾く。
「伯爵、世迷言に耳を貸すな!」
リゼはローブを脱ぎ捨てた。流麗な拵えの剣の柄に、小さな左手をかけている。
伯爵の表情に、はじめて驚きがあらわれた。
「まさか……!」
「久しいな、伯爵。そいつの企みは、この耳で全て聞いた」
堂々と立つ皇女は鋭気をあらわに語った。宿屋の主人と話すにもおずおずとしていた小娘の面影は、欠片もない。伯爵、薬師、衛兵たちの全ての目が集中する。
「いま観念すれば、悪いようにはしないわ。さっきの世迷言は、聞かなかったことにしてあげる。あなたはその薬師に騙されて、薬で操られているの。
その薬師を捕縛し、魔物たちが病の原因だという流言を直ちに止めなさい。それとも、私まで口封じできると思うか。第二皇女リゼ・ヘルエスタを!」
その大喝で、大柄な衛兵さえ圧されたように震えた。王国を継ぐかもしれぬ使命と幼い頃から向き合い、ひたむきに自らを鍛えてきた少女には、それだけの威があった。
アンジュの心にも勇気が湧く。そうだ、リゼがいれば負けない。私も――。
しかし伯爵と薬師の反応は、明敏な錬金術師の想像を超えた。
「第二皇女殿下。まぎれもない。それは……」
伯爵はリゼではなく、その腰の剣を見ていた。
「そうか。お前だったか。よく、よくも隠しおおせたもの」
伯爵は立ち上がり、熱に浮かされたように言った。
「やがて女王たるべき内の姫御子。臨御の栄を賜り、まこと光栄の極み……」
リゼが鋭く睨みつけても、熱に浮かされたような中年男は意に介さない。宙を掴むようにした手は頻りと震え、あご髭に涎が垂れている。
「くく、よく自ら飛び込んできた。お前さえ捕えれば、今の王は要らぬ」
「伯爵、乱心したか」
なおも何事かを口走る伯爵をよそに、命じたのは薬師だった。
「衛兵ども、伯爵の命である。その皇女を捕えよ。小娘と甘く見るな。骨の一本や二本、折ってしまって構わぬ!」
(次話「毒牙たち③」へ続く)